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<数息観瞑想 日誌>2025年度版(29)

<数息観瞑想 日誌>2025年度版(29)

動画版 https://youtu.be/Ol2PcA9vqB4

~瞑想と般若心経の日々~

2025-9-22(土)晴天、朝の室温25度、涼しい。スウェットを上下着る。六月半ばからの猛暑が、やっとおさまった。

自宅瞑想、6:30-7:05、(椅子)端座位数息150回、般若心経2回、ストレッチはさぼる。メモ書き。

寝起きに、通常の便が出た。そのせいか、気持ちが安定している。始めから終わりまで、数を数え続けた。

途中、100回目前後で、<数息>が、やや退屈になった。とはいえ、100回で、やめるわけにもいかないだろう。あと、50回、数えた。

背景に、<雑念>も出ていた。おもには、日常生活関連のことで、きょうあしたの予定などを考えていた。

ここ何日か、血便が出ていたので、安静を心掛けていた。とはいえ、無事に、血便も止まったし、また、日常生活に戻れそうだ。掃除や買い物、ストレッチや散歩、温泉や車の運転、などなど、当たり前のことが再開できる。

と、ふと思った。普段、健康なときには、<当たり前>とさえ思わない、これらの活動は、そんなに<当たり前>のことではないのかもしれない。

ひとたび、病気で寝込むようなことがあれば、すぐに、日常的活動ができなくなる。病気が、今回のように、三、四日で、治るのならいい。しかし、長く続いたり、恒常的になれば、人の力に頼らざるを得ない。若い時には、考えもしなかったことだが、その可能性が、年齢に比例して、幾何級数的に、増してきたような気がする。

まず、長期の車中泊旅を断念し、そのつぎには、短期の車中泊旅すら、封印してしまった。車中泊旅どころか、<旅>を諦めてしまった。そのうち、きっと、日常的な活動もできなくなり、最後には、食事や排せつも、人の手を借りるようになるのだろう。

いや、<だろう>などと、のんきなことは言っていられない。ある日突然、死んでしまうことよりは、ある日突然、寝込んでしまうことの方が、確率としては高いような気がする。<当たり前>の、いまやれている日常的な活動を、もっと大切にすべきだ、と心底思う。

150回目を数え終えた。座面の圧迫感は、ほとんど気にならなかった。痔が、このまま、完治してくれるのを、願うばかりだ。が、<だれに>願っているのかは、自分でも、定かでない。

2025-9-23(火)朝の室温25度。少し、肌寒いくらいだ。

自宅瞑想、6:10-6:40、(椅子)端座位数息100回、立位数息50回、般若心経2回、深呼吸10回、メモ書き。

<雑念>が優勢だった。はじめは、高校の同級生、SS君のことが思い浮かんでいた。繁華街に近かった彼の家や、出来事などのイメージが、はっきり見えた。そのあと、彼の出身中学を思い出したのを機に、当時、市内にあった中学校の名前を、思い出そうとした。たしか、11校あったはずだ。

この間、幾度となく、数を失念して、数えなおした。

100回目で立ち上がった。座面の圧迫感が、ほんのすこし、気になったのだ。今度は、立位で、数を数えた。すると、<雑念>は、見事なまでに霧散していった。

掌がジーンとしている、足裏に全体重がかかっている、肩の力が徐々に抜けていく。<体感>に注意が向かったのだ。<雑念>よりは、<体感>の方が、多少いい、と思った。数を、忘れることがないからだ。

150回を数え終えた。窓は閉めてあるので、締めの心経は、始めの心経と同様、小声ながら、心おきなく読んだ。

心経は、読み始めると、一気に、<その世界>に没入する。<数息>も<雑念>も<体感>も、どこかへ吹き飛んでしまい、ほぼ自動的に、言葉が、声となって出てくる。それを聞きながら、鑑賞している自分もいる。おっと、ここで、<離見の見>という概念を持ち出すのは、<世阿弥>に失礼すぎるだろう。

心経を読み終えた。ポリープ切除の傷口をおもんばかって、ここのところ、ストレッチは自重している。そのかわりに、今朝は、気まぐれだ、深呼吸を10回やった。両腕を広げたり、すぼめたりしながら、息を、めいっぱい吸って、めいっぱい吐く。これはこれで、また、気持ちのいいものだ。寝起きに想起した、身も蓋もない<感情>が、どこかへ消えて行った。

80歳まで、生きられるのか?生きたいと、痛切に思っている。だが、90歳までは、どう考えても、無理だろう。85歳くらいが、やはり、限度なのか?はたして、<Xデー>はいつなのか!

余命宣告を受けたわけでもないのに、自分の寿命を、くよくよ、思い悩んでいる。この期に及んで、まだ、じたばたしている。生き物は、いずれ死ぬ。いつ死ぬのか、それは、<神のみぞ知る>だ。

<死>が、<生>を飲みこんでしまう、と考えるより、<死>は、<生>に含みこまれている、と考える方が、気楽だ。<死>は<生>であり、<生>は<死>である。

<ないし~む~ろうし~ やく む~ろう し~じん>=<乃至無老死 亦無老死尽>。合掌。

2025-9-24(水)朝の室温、24度。すこし、肌寒い。

自宅瞑想、6:10-6:45、(椅子)端座位数息150回、立位数息50回、般若心経2回、深呼吸5回、メモ書き。

100回目までは、ほぼ、間違えずに、数を数え続けた。<雑念>も出ていたが、日常生活関連のことで、とりとめない。

100回目で立ち上がった。今度は、立位で、数を数えた。ほんの少し、座面の圧迫感が気になったのと、やや、退屈したのだ。気分転換だね。掌、足裏、肩、腰などに、注意が向かった。

とくに、左腰のあたりが気になった。痛いというほどではない。が、ピリピリする。痛みが出る、一歩手前という感じだ。腰に負担をかけるような立ち方はしてないはずなのに、やはり、持病になっている。足裏への重心のかけ方を、少し変えることで対処した。

立位で、50回、数えて、また座った。<数息>への熱意、集中力が、やや、薄れている。気持ちが、どうも、うわの空だ。ふと、昨年の<カテーテル手術>を思い出した。

病室は、四人部屋で、隣に<心臓バイパス手術>を受ける爺がいた。80歳はとうに越えていて、耳が遠い。そのため、看護師との意思疎通がうまくいなくて、多少、トラブルになっていた。俺も、そのうち、名前からして、おっかない、<バイパス手術>を受けることになるかもしれない。いやな予感がする。

200回を数え終えた。締めの心経も、気合いが、あまり入らない。暑さから、やっと解放されて、すこし、気が抜けている。もっと、楽しいことをやろうぜ!と思ったりもした。

2025-9-25(木)晴天、朝の室温、25度、過ごしやすい。

自宅瞑想、5:50-6:30、(椅子)端座位数息150回、立位数息50回、般若心経2回、深呼吸10回、メモ書き。

背景に<雑念>が、流れていたが、まずまず、ちゃんと数を数え続けた。<雑念>は、日常生活関連のことで、きょうあしたの予定などが、思い浮かんでいた。

100回目で立ち上がった。座面の圧迫感が、少し気になったのだ。臀部左側が、しびれているような感じだ。ここ何日かは、注入剤は入れてないが、昨晩、寝しなに、患部が少しうずいた。痔は、一進一退で、なかなかよくならない。

立位で、数え始めた。肩や腕の力が抜けていくのが、よくわかった。腿に、微妙に力が入っているのも、感じた。姿勢を保つには、必須の緊張なのだろう、と思った。

150回目を数えて、また、座った。腰のあたりに違和感を感じたのだ。それに、少し疲れた。と、腰回りの筋肉が、ほぐれていくのを感じた。立っている時には、ほとんど感じなかったが、微妙に緊張していたわけだ。

端座位で、数を数え始めた。ふと、子供のころに見たアメリカのTVドラマを思い出した。<ララミー牧場><ローハイド><コンバット>、そして、連想が、さらに広がっていった。

<ペリーメイソン><ヒッチコック劇場><世にも不思議な物語><ベンケーシー><逃亡者><ナポレオンソロ><スパイ大作戦><名犬ラッシー><奥様は魔女><ちびっこギャング><三バカ大将>、などなど、小学生時代の、夕方から夜にかけての楽しみだった。懐かしかった。

200回を数え終えた。今朝は、気持ちが安定していて、<数息>を楽しもうという余裕があった。ここのところ、雑事や、病気、検診などで、気持ちが散漫で、イライラしていた。久しぶりに、<瞑想>の入口まで、たどり着けたような気がした。

<生><老><病><死>、くよくよ、考えている自分が、自分の中から抜け出して、遠くの方に見える。そんなイメージを、ふと想った。

2025-9-26(金)晴天、朝の室温26度、涼しい。過ごしやすい。

自宅瞑想、5:55-6:40、(椅子)端座位数息180回、立位数息20回、般若心経2回、ストレッチ10分、メモ書き。

気持ちが落ち着いている。順調に数を数え続けた。<雑念>も出ていたが、散発的で、脈絡がない。これと言って、おぼえているものはない。

100回目を過ぎても、座面の圧迫感もなく、端座位を堅持した。イメージらしきものが、見えたような気もする。明らかに、普段の意識状態ではない。なにか、考えているような、考えていないような感じで、ぼうっとしている。が、ほとんど、努力しないで、自動的に、数を数えている。<瞑想状態>に近づきつつある。

180回目で、ほんの少し、座面の圧迫感が気になった。それに、不動の姿勢を保つのが、ちょっと、大儀だ。立ち上がった。立位で、残りの20回を数えた。

立位になっても、意識状態は、さほど、変わらなかった。ただ、腕や肩、腰回りの筋肉を弛緩させようとしたので、注意が<数息>からそれた。その間、瞬間的に、数を忘れた。何回か、数え直した覚えがある。

200回を数え終えた。締めの心経は、立位で、しっかり読んだ。人に聞かれても恥ずかしくないような読みかたになっている。<人>というのは、具体的な他人ではなくて、自分の中にいる<人>だ。自分を見ている自分が、たしかに、いる。

人間は、<存在>していることを、自覚できる<存在>だ。自分の理解が間違っていなければ、<現存在>とは、かようなものだ。とはいえ、自分で自分の終末をさえ見ることができる、というのは、ある意味、不幸なことであり、かなり辛いことだ。

いまの自分には、この<不幸>に耐え、この<辛さ>を踏破していく勇気など、ありはしない。弱虫なのだ。もっとも、<勇気>があろうがなかろうが、<死>は、すぐそこまで来ている。これは、確定事項だろう。

2025-9-27(土)曇り、朝の室温28度、過ごしやすい。

自宅瞑想、6:10-7:05、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

数を数えることに集中しようとした。息の出入りに合わせて、数を数えるのは、それほど、難しいことじゃない。<努力>しなくてもできる。

途中で、<雑念>が出て来た。これまでの人生で、出会った女性たちだ。おおむね、性的関係を持った女性たちには、いやな思いをさせられた。とはいえ、一人だけ例外がいる。KMさんだ。

短い期間だったが、始まりから終わりまで、別れ際にも、いやな思いをしなかった。それどころか、こちらのほうが、すまないような気持ちになった。どうしているだろう?その後、だれかと結婚して、幸せになったのだろうか?それとも、もう死んでしまったのだろうか?ふと、気になった。

200回を数え終えた。締めの心経も、しっかり読んだ。そのあと、全裸になって、ストレッチをした。

全裸になることは、最近では、風呂に入るときくらいだった。だが、この夏、あまりにも暑いので、自宅では、パンツ一丁で過ごした。が、体操などをすると、パンツをはいている部分が、もあっと、暑くなり、不快だ。

試しに、パンツを脱いで、<フルチン>で、体を動かしてみた。生まれて初めての体験である。これが、意外に新鮮で、気持ちよかった。開放感を感じた。以来、体操、ストレッチの際には、全裸になった。

毎朝、自分の、老いさらばえた肉体と、<息子>に対面するのは、けっこう、乙なものだ。

2025-9-28(日)曇り、朝の室温25度、過ごしやすい。

自宅瞑想、6:50-7:30、(椅子)端座位数息150回、立位数息50回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

はじめは順調だった。息の出入りに合わせて、数を数え続けた。だが、80回目くらいで、一瞬、われを忘れた。体が、ぐらっとした。いきなりだったので、自分でも驚いた。が、すぐに体勢を立て直し、数を数え続けた。

100回目を過ぎたあたりで、先が長いな、と思った。じつは、今朝は、どうもやる気が出ない。寝起き後に、再三、<数息>を、さぼろうと思ったほどだ。ま、一種の誘惑だ。その、悪魔のささやきが、また聞こえそうだ。気を紛らわそうとして、立ち上がった。

立位になると、自然に、体感へと注意が向かうので、<悪魔>は退散したようだ。50回、数えて、また座った。

今度は、目の前の暗い空間に、注意が向かった。不定形の、<斑>模様が、うごめいている。ぼうっと、ながめていると、イメージらしきものが、現れた。が、なんだかよくわからない。

そのうち、目の前に、<すだれ>が、はっきり見えてきた。実際に、窓には、<すだれ>がかかっている。たしか、<数息>をやる前にも見た覚えがある。網膜の残像だと思った。

200回を数え終えた。窓は開けてあったので、やや小声で心経を読んだ。とはいえ、始めの心経と同様、しっかり読めた。一言一句、間違えず、アクセントをつけながら、流れるようなスピードで、一気に読み終えた。

おもえば、不思議なものだ。276文字の、般若心経が、思い出すという努力なしに、自然に出て来るのだ。頭のどこかに、格納されているのだろうが、その自覚が、まったくない。芝居の台詞もそうだったが、言葉や動作は、反芻、反復することで、寸分の狂いもなく、自動化できる。これもまた、<いのち>のなせる業なのだろう。

2025-9-29(月)朝の室温28度、雲が多い、すこし蒸し暑い。

自宅瞑想、6:30-7:00、(椅子)端座位数息180回、立位数息20回、般若心経2回、ストレッチ10分、メモ書き。

数を数えているうちに、いつのまにか、<雑念>のイメージを見ている。それに気づいて、また、しっかり、数を数える。その繰り返しだった。

<雑念>は、最近よく見ているユーチューブの<江川チャンネル>が思い浮かんでいた。TVで見たことのある、元プロ野球選手たちとの対談が、面白い。

そのあとは、不謹慎だが、AVビデオのよからぬシーンが、思い浮かんできた。大腸検診のダメージから、やっと回復して、<元気>になったのだろう、と思った。あえて、消し去ることはしなかった。

150回目あたりで、座面の圧迫感が、少し気になった。200回まで、座り続けることもできそうだが、180回目で立ちあがった。残りの20回を、立位で数えた。

200回を数え終え、そのまま、立位の姿勢で、合掌し、心経を読んだ。ちょっと前には、性的妄想が思い浮かんでいたのに、今は、高潔な気分だ。この落差の大きさに、なんの齟齬も、疑問も感じない。自分のことを、偽善者だとも思わない。

自分の中の<不謹慎>な部分を、否認しないで認めること、抑圧しないで開放することで、妄想は、根拠なき妄想となって霧散していくだろう。

<受容>すると、<理性>が発動する。やっていいことと、悪いこととの判断は<理性>にゆだねよう。この<理性>というやつも、やはり<いのち>に内在しているのだと思う。

屋外数息、温浴施設、湯船数息、断続的に150回。

頭と体をごしごし洗った後、露天風呂へ行った。ドアを開けて、テラスに入る。外気が、ちょうどいい感じだ。寒くもなければ、暑くもない。湯船のヘリに腰かけて、半身浴で、数を数え始めた。30回目くらいで、熱くなったので、こんどは、足湯状態で、100回目くらいまで数えた。空いていて、静かだ。

100回目で、目を開けた。備え付けの椅子があいているので、持参した<サウナマット>を敷いて、腰かけた。座面の圧迫感もなくなり、季節もよくなったので、快適だった。

150回くらいで、一瞬、ウトウトっとした。体が、ガクッと、前へ、のめった。我ながら、少し驚いた。気持ちが<素>に戻ってしまったが、居眠りできたことが、愉快だった。

2025-9-30(火)朝の室温27度、過ごしやすい。

自宅瞑想、6:05-6:50、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ10分、メモ書き。

コオロギの鳴き声が聞こえる。ここ二、三日、聞こえなかったのは、すこし暑かったからかもしれない。

150回目前後までは、しっかり、数を数えた。<雑念>も出ていたが、気を取られて、数を忘れることはなかった。

<雑念>は、昨晩、ユーチューブで見た、イチロー選手と松井選手との対談が、思い浮かんでいた。それと、今後に控えている、<ポリープ切除>や<カテーテル手術>のことも思い出した。気が重い。あとは、<秩父巡礼行>のことだ。十月になったら、天気のいい日に、また出かけよう。武甲山や札所の写真を撮る、という楽しみもある。

座面の圧迫感は気にならなかったが、150回目を過ぎたあたりから、端座位の保持が、やや、大儀に感じられた。それでも、我慢して座っていると、イライラしてきた。170回目過ぎからは、何度もやめようかと思った。だが、どこまで我慢できるのか、だれかに試されているような気がした。衝動的に、やめるわけにもいかなかった。

200回を数え終えた。窓を閉めていたので、すこし、声を出した。そして、一気に読み切った。体の中の悪いものを吐き出したような爽快感があった。

そうそう、朝方見た夢が、頭に残っていた。イメージだけでも書き残しておこう。

その前に、ひとこと、言い訳をしておこう。毎晩、夢は見ているし、気になる夢もあった。が、最近は、それを記述するのが、億劫になっていた。頭が、働かないのだ。

夢の記述は、<瞑想>と、無関係ではない。自分という、<名づけえぬもの>にアプローチする、数少ない方法のひとつだ。頭の働くときには、書き留めておくべきだろう。

ひとつ目。大きな配送工場。仕事のことで、係の職員に、苦情を言っている。煮え切らない態度に、そのうち、激高して、上司を呼んで来い、と怒鳴っている。と、年配の背広姿の<社長>が、低姿勢で、謝りに来た。<社長>が出て来るとは思わなかったので、すこし、恐縮している。

ふたつ目。ポマードをつけた、<白洲次郎>のような美男子が出てくる。どうやら、自分の<親父>らしい。廊下で、なにか、買い物を頼まれる。<ハンペン>のような形状のものだ。名前が思い出せず、しかも、どこで売っているのかも、わかない。当惑している。

みっつ目。ホテルの部屋。大きなベッドが、二つ置いてある。劇団DのOG君が、自分に、頼み事をしている。すでに、示談になった交通事故の件で、一日だけ、休業補償をつけてほしいというのだ。その交通事故は、自分の<親父>が起こしたものらしい。保険会社にかけあうのが、面倒に感じる。と、部屋には、赤と黒の、小判型のシールのようなものが、散らばっている。不吉な感じがする。

夢は、みっつとも、なんのことなのか、さっぱりわからない。了解できない。ただ、現実感があり、目覚めた後にも、頭の中に残っていた。そっちが、現実だよ、と誰かに言われれば、たしかに、そうかもしれない、と納得しかねない。

夢と現実の境は、自分が考えているほど、確固たるものではないのかもしれない。もっとも、それが、あやふやになれば、<病者>として、社会からは<隔離>されるのだろう。

はたして、俺は、<正気>なのか?むろん<正気>だ。しかし、<正気>だという保証は、誰がしてくれるのだろう。誰もしてくれないのなら、自分で証明するしかない。しかし、それこそが、<正気>を失った証なのだ。

屋外瞑想、散歩、般若心経1 回、深呼吸。

久しぶりの散歩だ。六月半ばから、暑くなったので、それ以来だ。ユニクロジャージーと、ロンTシャツで、ちょうどいい。いつものように、公園内の護岸沿いに、撮り歩きしながら、水管橋まで行った。そのあと、まだ、歩けそうなので、八瀬大橋の付近まで行った。曜日の関係か、時間帯なのか、散歩人も、サイクリング車も少ない。静かだ。

東側の空に、浮雲が流れている。不定形の雲もある。青空に、いたずら書きをしたようで、面白い。地上部分を極力少なくして、画面いっぱいに、空を撮った。

帰路は、公園内の芝生広場を縦断した。置き石に腰かけ、一息入れた。座るつもりがなかったので、クッションは持ってこなかった。<数息>は無理だとしても、心経だけなら読めそうだ。周囲に人の気配はない。

置き石にじかに座った。端座位になり、合掌して、心経を読んだ。自宅と、さして変わらない声の大きさだったが、自分の耳への聞こえ方が違う。なんというか、周りが開けているからだろう、立体的に聞こえた。久しぶりの、野外心経だ。気持ちが清々した。

そのあと、立ち上がり、深呼吸を二回した。そして最後にまた、合掌した。心経も合掌も、だいぶ<板>についてきた。誰に憚ることなく、衒いなくできるようになった。人間の中身が、少し変わってきたのだろう。これはこれで、<よし>としよう。















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