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感情に奴隷な理性 理性の背景にある情念

皆さんは、日常において感情で動いていますか?私は理性的に物事を考え行動するようにしています。これは理性によって感情を支配し、演澤的論理によれば、殆どの事象に対する評価に間違いは生まれないはずだという考えが元となっています。しかし、前提として、理性というのは実は感情の奴隷であったという話をここではしたいと思います。

ヒュームの法則

ここで、ヒュームの法則を紹介します。ヒュームの法則とは、「〜である」(事実)という記述から、「〜すべきである」(価値判断や規範)という記述を論理的に導き出すことはできないという主張です。

具体例で考えてみましょう
・事実「私は男性である」
・価値判断「私は女性を好きになるべきである」
もう一つ挙げてみましょう
・事実「私は学生である」
・価値判断「私は勉強(座学)するべきである」

この二つの例は、いづれも一見すると関係性があるように思えるものです。しかしヒュームの法則によれば、事実から価値判断を「論理的に」導くことができません。「〜である」という事実から「〜すべきである」と考えるとき、そこには必ず論理的な飛躍があります。この飛躍は、個人の思い込みや固定観念、あるいは暗黙の前提に基づいていることが多いのです。よって、事実という情報に客観的間違いはあっても、それに対する価値判断に客観的間違いを誰も論理的に証明することはできないのです。即ち、全ての人の事実に対する価値判断は、真となり得ます。ヒュームの法則は、私たちが倫理や道徳について考える際に、事実と規範を明確に区別することの重要性を示しています。私たちが「〜すべきだ」と主張するとき、その背後にある隠された前提や価値観を明らかにすることが求められる、という教えでもあります。

つまり、冒頭の私の考えを当てはめるとこうなります。
事実「演澤的推論は、論理的な評価方法だ」
価値判断「演澤的推論は、感情に支配されない評価方法であるべきだ」

皆さんは、冒頭でこれを意識して区別しましたでしょうか。普段の私たちの思想というものは、このように常に論理の飛躍があり、前提を真として考えてしまうのです。これによって理性とは、「~したい」という感情による背景が必ず存在する事の裏付けとなります。

例えば、このような例が挙げられます。
感情「夜食を食べたい」
理性「夜食は我慢するべきだ」
理性の背景「痩せたい」

このように価値判断「~するべきだ」は背景には情念「~したい」があることが分かると思います。

別の例を挙げてみましょう。
感情「寝る前にスマホで動画をみたい」
理性「寝る前はスマホをみるべきではない」
理性の背景「健康的でいたい」「早起きしたい」

やはり、この場合でも理性の背景には情念があることが確認できます。

つまりまとめとして、事実に対する価値判断には論理の飛躍があり、その背景には情念があるという主張でした。

このことから私は、事実として間違った情報はあっても、事実に対する認知とか、思想とかに客観的間違いは無いと予想しています。神も悪魔も可能性のひとつに過ぎないのです。そこにある人の価値判断に誰もが客観的評価を下すことができないからこそ、誰しもが誰かを否定することは、実はできないということになります。しかし、法治国家で、道徳を善とした現代ひいては人間という生き物では、それに反する行為は、裁かれる対象になりますので、従ってそれは間違いだと説きます。結果として、私は神道や仏教的なポジティブシンキングを愛するし、神様もきっといるだろうと信じるに至ります。(無信教ですが) それは妄信的というよりも、1つの迷いの中にある信じたいという情念によるもの。ただそれが唯一解だとも思いません。

この考えに行き着くまで私は、理性で感情を支配するのは、最適解を選択できる最良の手段であり、理性を獲得した人間が理性を放棄するのは、愚かなことだと思っていました。 しかし、理性の背景には情念があり、理性は感情の奴隷だった事に気付きます。つまり理性=感情であり、矛盾です。しかし矛盾は真理であり、迷いは倫理を生みます。獲得した理性による、合理的な生き方と、社会(人間関係)との折り合い。その答えは誰も知らずして、誰もが問います。 前提はやがて権威となり、哲学はその前提を問うものであり、そこに信念が宿ります。

私にこの考えを与えてくれたのが『チ。~地球の運動について~』です。

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