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知的持久力のための「試創(しそう)読書会」<その10>「演技する精神/変身の美学」(山崎正和)

未読本をAIと一緒に読んでいく試創読書会も10冊目。


・「試創読書会」とは、未読本(みどくぼん)を読書会形式でAIと一緒に読み込んでいく活動です。基本は本人とAIのペア・ワーク


・「試創読書会」は、「試す+創る」のペア・ワークを通じて、知的瞬発力に偏りやすい生活を防ぎ、知的持久力(AI共創力)を鍛錬する場です。


・未読本が提示する内容だけでなく、著者の世界観、価値観を拡張しながら、新たな知見を自分ごとに繋げていきます。それは、「未読本」と「読み手の生活」の知の文脈での接続です。

試創読書会とは?



父「未読本をAIと読み込んでいく形式もこなれてきました」

娘「何回もやってるとAIも先を読んでくるでしょ? だからだよ」

父「確かに、AIは読書会の常連だからな。会の雰囲気は完全に掴んでそう」

娘「だんだん、トーチャンも楽してきてるんじゃないの?」

父「いえいえ、AIが先回りしてきた分、今度は、トーチャンが後ずさりして、あっちこっちと本の読みどころを散らかしていくんだ」

娘「会の雰囲気を壊す側に回るんだな」

父「そう、壊し方にも慣れてきたよ」



では、10回目の試創読書会。未読本の紹介からスタートします。

山崎正和著作の「演技する精神/変身の美学」(2026年:中央公論新社)を試創していきます。テーマは演劇です。


1、準備

自我とはまぎれもなく芝居の役である――

自由意志の観念を批判し、能楽の大成者・世阿弥の美学を鍵として、演技が人生のなかに果たす役割を探究した画期的大著。
根源的な不自由さを背負いながら、人間がどこまで自由でありうるかを追求した世阿弥の革新性を紐解く「変身の美学」を増補。

映画監督・濱口竜介氏による解説「演技は一人ではできない」を収録。

「心を隠すことはできても、心身の分裂そのものを隠すことはできない――
山崎の指摘が、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンの言葉とほとんど一致することに驚いた。」
(濱口竜介 解説より)

Amazon解説より


まずは山崎正和って知ってましたか? 小生は名前だけ知っておりました。なんかの文化人っていうぐらいのイメージで、それ以上の手持ちの知見はありませんでした。この本も図書館で「目と目があってw」手に取るわけですが、演劇の人なのだった。山崎正和ファンの皆さん、ごめんなさい。

山崎 正和(やまざき まさかず、英語: Masakazu Yamazaki、1934年〈昭和9年〉3月26日 - 2020年〈令和2年〉8月19日)は、日本の劇作家、評論家、演劇研究者。

 文化功労者、文化勲章受章者。 関西大学文学部教授、大阪大学文学部教授、東亜大学学長、文部科学省中央教育審議会会長、LCA大学院大学学長、サントリー文化財団副理事長、大阪大学名誉教授、経済産業省参与、日本芸術院会員などを歴任した。

Wikipedia参照

いや、バリバリの文化人と言ってよろしいでしょう。むしろ、文化人として有名な人の度合いが高すぎるが故に、「何やっているお方なのか分からんけど、きっと、すごい人」ってことになってたのか。

まずは、イントロとして、演劇と小生の接点について

 小生は月に一回程度ですけど、松本市内の小劇場で芝居を見るようにしてます。松本市は小さな街の割に演劇が盛んで、いつもどこかの劇団が何かを上演しています。小生は演目もあまりチェックしないで見にいくんですね。お目当ては「生の人の声」を浴びること・・・らしい。

 執筆中心に生活してるのでPCに向き合い、AIと応答してばかりいるからね。きっと、ライブに飢えているのだろう。そんな生活なので、図書館で本書を手に取った時は「おお、今度は演劇を試創しろ!って、未読本様(みどくぼんさま)からお呼びがかかったんだな」、幸福な勘違いをさせていただいた次第です。

 とはいえ、今回の本。演劇の本というよりは、山崎正和の思想書です。パラパラめくっても「うひゃー難しそう」という感想です。演劇の娯楽性なんぞはすっ飛んでます。ええ、大丈夫です。「読むのは無理っぽい」というのは試創読書会に相応しいという賞賛の呟きなのです。

 内容について話を進めます。

 本書は、大きく2つの内容でできています。完全に山崎正和の演劇思想をグイグイ語る前半「演技する美学」。そして、後半は山崎正和の世阿弥論となる「変身の美学」です。今回は演劇思想家「山崎正和」として、両編をまとめて読書会にかけていきます。

本の準備ができたところで、中身がどのような地形なのかを覗きにいきます。



2、「演技する精神/変身する美学」、本の地形

本書の内容を生成AIにサマリーしてもらいました。

山崎正和の『演技する精神』と『変身の美学』は、単なる演劇論ではありません。

むしろ、人間は「本当の自分」を持っているのか?
自我とは固定された実体なのか?
なぜ人は役割を演じ、変身したがるのか?
芸術は人生に何をしているのか?


を、「演技」と「変身」という切り口から問い直した、人間論・文明論です。特に、世阿弥を近代以前の思想家としてではなく、「近代的自我」を超える思想家として読んだ点が非常に独創的です。



Ⅰ. 『演技する精神』の核心

一言でいうと、人間とは、まず「役割を演じる存在」であり、
自我とは演技の結果として成立する。という思想です。

山崎正和は、「本心→行動」ではなく、他者との関係の中で役割を演じることで、はじめて“私”が成立すると考えます。



Ⅱ. 近代的人間観への批判


山崎が批判しているのは、近代の典型的な自我観です。近代的人間観では、人間には内面的本質がある自由意志が先にある行動は内面の表現である、と考えられてきました。

つまり、本当の自分」がまず存在し、その表現として行動があるというモデルです。
山崎は逆に、行動・演技・関係性が先にあり、そこから自我が形成されると考える。つまり、

父親を演じる
教師を演じる
優しい人を演じる
強い人を演じる

そうした反復の中で、「自分」が作られていく。ここでは、「演技」は嘘ではありません。むしろ、人間存在そのものが演技的なのです。



Ⅲ. 「演技」はなぜ重要か

演技=社会を成立させる技術。山崎にとって演技とは、他者との距離を調整する文明的技術です。もし人間が、常に本音だけで生きれば、

怒り
欲望
恐怖
支配欲

がむき出しになり、社会は維持できません。だから人は、

礼儀
作法
会話
微笑み
儀式

を使って、感情を形式化する。つまり文明とは、演技によって感情を整流化したものなのです。これは後年の『柔らかい個人主義』にもつながる発想です。



Ⅳ. 世阿弥の再評価

山崎の最大の特徴は、
世阿弥を「演技論の天才」として再解釈したことです。

世阿弥の重要概念=離見の見:自分を外から見る視点

これは単なる自己客観視ではなく、演じながら、自分を観察する二重意識
です。山崎はここに、近代心理学、実存哲学、メルロ=ポンティ、サルトル
を超える深さを見る。



Ⅴ. 『変身の美学』の核心

人間は「別の存在になりたい」という欲望を持つ。これが「変身」の思想です。人間は固定的自我に耐えられない、と考える。
だから人は、別人になりたい。違う役割を生きたい。仮面を持ちたい、という欲望を持つ。安全な変身空間です。

演劇や芸能は、現実を壊さず、社会を破壊せず、別の存在を試せる文明装置なのです。
だから能楽では、老人が鬼になる。男が女になる。生者が死者になる、などの変身が起こる。これは単なる物語ではなく、「自我の境界」を揺らす体験なのです。



Ⅵ. 山崎正和の本当の主題

この二冊の根底には、「人間は本当に自由なのか?」という問いがあります。

山崎は、身体・社会・言語・関係性・役割に人間が拘束されていることを認める。

 しかしその中でも、演技によって、人は自分を少しずつ変形できると考える。つまり自由とは、完全自由ではなく、“演じなおす自由”なのです。

生成Ai

歯応え十分な内容でございます。軽い気持ちで山崎正和の演劇論を語るのは無理だな。ということで、視点を変えて試創していきます。生成AIからの地形を眺め、かつ、手元に借りてきた本書をめくりながら浮かんできた問いは2つ。

 一つ目は、前半の「演技する精神」に関する問い。人間行動の全ては演技で説明できる(かもしれない)という思想家の視点です。「人間原理=演技」という山崎正和の主張は、結構、挑戦的であり、ユニークだなって思います。

もう一つは、世阿弥。いやー、まさかここで小生が世阿弥に向き合うのかっていう感じです。能です。門外漢のそのまた外枠にいる私。では、せっかくなので世阿弥が今の小生の生活に接続できるのか? ええ、試してみましょうw



読書会の試創(試す+創る)の演目です。

図表757



3、本の地形から地図①を取り出すー「演技する精神」


山崎正和の演技する精神は超ディープです。全ては演技でできている。人は複数の役割で構成されており、親・子・父・母・友人・知人・社員・管理職・国民・市民・・・・通りすがり、などなど。それぞれに役割に沿った、または、役割に応答した演技をしている。つまり、人間世界は演技単位で構成されているっていう、そうだな、強いていうなら唯演技論(ゆいえんぎろん)。

小生が思いつく「・・・単位で世界を再構成する」って、松岡正剛の編集とアーサー・ケストラーのホロンです。山崎の演技と並列にして生成AIに投げてみたよ。

世界を最小構成単位で読み替える思想形式です。

これは、

山崎正和 → 演技
松岡正剛 → 編集
アーサー・ケストラー → ホロン

のように、“世界を理解するための生成単位”を一つ設定し、そこから文明・社会・身体・知性を横断的に解釈する方法です。

これはかなり強力な思考様式で、20世紀後半以降に特に増えました。


Ⅰ. まず、この形式に名前はあるのか?

完全に統一された名称はありません。ただし近い概念はあります。意味世界の理解の根底に置かれる比喩。

例えば:
世界=機械
世界=劇場
世界=ネットワーク
など。


Ⅱ. 実はこれは20世紀思想の特徴

ここが重要。古典哲学は、神、真理、理性、存在など、巨大普遍概念を扱った。しかし20世紀以降は、むしろ、「世界をどう切るか」が重要になった。

つまり、「何が真理か」より、「どの単位で見ると、世界に見通しが出るか」へ移行した。

生成AI



◼️松岡正剛の編集という概念の扱いについてのAIの解説。

松岡正剛は「編集」を本や雑誌の制作に限定せず、人間のあらゆる認知や文化的営みの根底にある思考技術と広義に定義しました。

料理やビジネス、生命現象までを対象とし、既存の「情報の特徴を読み解き、新たな関係性を発見して再構築する行為」と捉える点が特徴です。彼はこれを「編集工学」という独自の学問へ発展させ、世界と自己をつなぐ普遍的な知の作法として提示しました。

生成AI



◼️アーサー・ケストラーのホロンという概念の扱いについてのAIの解説。

アーサー・ケスタラーの「ホロン(Holon)」とは、ギリシア語の「全体(holos)」と「部分(on)」を組み合わせた造語です。

絶対的な全体や部分は存在せず、あらゆる存在は「部分でありながら、同時にそれ自体が全体としての構造を持つ」という、階層的な多層システム論を提示しました。たとえば、人体を構成する細胞は、体の一部(部分)でありながら、独立した生命(全体)でもあるという二面性(ヤヌスの双面)を持ちます。

生成AI


意味世界を理解するための根底に置かれる単位の比喩ね。名前がいるので、基底メタファーっていう名称にしました。小生のオリジナルなので汎用性はゼロです。ご注意ください。

話を進めます。

ちなみに、基底メタファーに区分できそうなものはまだまだあって、マルセル・モースの「贈与」福岡伸一「動的平衡」とかね。グレゴリー・ベイトソンの「関係と差異」の2語も基底メタファーと言えそう。

さて、基底メタファー群で地図を描くと下記のような図解になります。これって、個人の世界観を語ろうとする時、どうしてもこういった基底メタファーに沿って見てしまう、という意味に解釈してみます。


図表758




4、本の見え方をずらす 地図①ー「お金」を背理法で試す


基底メタファーの地図を援用して、もっと私たちの生活に寄ってみます。(本への視点から、生活への視点をずらす展開です。

 基底メタファーが根源的な要素であり、世界を広く説明できるものだとしたら、生活の中では「お金」も基底メタファーなのか? 実感として感じる切実な問いというか叫びを試創してみます。

 まず大前提。ほとんどの人が「お金」は大切だけど、それが全てではないっていうことには同意するでしょう。それでも、「お金はすべてではない。だけど、すべてにお金が必要だ。」(真鍋昌平『闇金ウシジマくん』より)はほとんどの人が否定し難い。

っていうことで、こんな試創実験(思考実験をもじってます)をしてみます。

「もし、お金が基底メタファーなら、世界をうまく説明できるはず。もし、うまく説明できないなら、お金は基底メタファーではない」、ちょっとした背理法です。

背理法とは「あまのじゃくな証明法」です。

正しいと証明したいことの「逆(ウソ)」をあえて正しいと仮定して話を進めます。すると途中で「1+1=3」のようなおかしな矛盾(無理)が生まれます。

「逆が正しいと考えると矛盾する。だから、元の主張が正しいに決まっている!」と間接的に結論づけるテクニックです。探偵が「犯人が彼でないとすると、このアリバイはおかしい。だから彼が犯人だ」と推理するのと同じ仕組みです。

背理法とは、証明したいことの逆を仮定して矛盾を導くことで、元の主張が正しいと証明する数学の手法です。

生成AI


この話をAIに投げて、矛盾を出してもらったよ。主要な矛盾は5つ。

図表759


・矛盾1:休むほど価値が下がる=「休み」をうまく説明できないんだな。まあ、休みをお金で買うというのはできるが、あくまでも消費という扱いになる


・矛盾2:家族がコスト化する=「家族」をうまく説明できない、つまり自分の存在が家族にあったことも否定せざるを得ない。

・矛盾3:成功するほど不安になる=これはお金だけが持つストックの魔術、金利が背景にあります。お金の世界では、そのままでいるのは悪に見えてしまいす。常に成長が前提になっているのがお金(正確には資本主義文脈でのお金)です。

・矛盾4:老いが価値減少になる=老後には二千万円必要っていう言説が流布したのも記憶に新しいです。これって完全にお金を基底メタファー扱いにしてるね(笑いなし)

・矛盾5:感情が効率の敵になる=ちょっとわかりにくいが、お金のパートナーは理性であって、感情ではないってことです。でも、生活思創活動の中心テーマが「見通しの良人生の基本は、健全な感情エネルギーの生活での復権」なのです。感情を敵に回すと、生活の見通しは悪くなる一方なのです。


こうやって矛盾を可視化すると、やっぱりお金が唯一の基底メタファーになり切れない様子が実感できます。でも、あくまでも唯一のものではないってことなので、全面否定はできてないよ。ここは重要。

 また、意味的にも付け加えておかねばいけないのが、矛盾が多いからと言っても、お金は悪ではないのです。それなりに世界を交換によって成立させているのは、やはり、大したもんなのです。

 この背理法的な思考実験で言いたいのは「お金は基底メタファーには成りきれない。世界を部分的に説明できるもの」ってことなのです。




5、「自分ごと」の地図①に転換する


基底メタファーの話を「自分ごと」にまで引っ張ってきます。

小生も「お金」を基底メタファーのように扱う場面が多々あります。値札を見て、収入を眺めて、貯金を数えて、そして、生活での行動選択を判断するのは普通にやってます。普通どころか、ほとんどの消費生活がそうかもしれない。でも、先の矛盾で見たように、それだけじゃあ生活の「見通しが良い」とは言えない。

 どうも生活において「見通しの良さ」を生成していくためには、基底メタファーは複数あった方が良さそうだと感じております。それが演技でも編集でもホロンでもいいんだけどさ。生活思創は、新たな基底メタファーを至る所から見つけてきては、状況に応答した組み合わせで、その場・その場の「見通しの良さ」を創っていく作業とさえ言える。

たとえば、演技は、世界の構成を人の役割に置き換えて世界を眺め直す。編集は、世界を言葉の組み合わせで世界を眺め直す。ホロンは、世界をレゴブロックのように物質単位の組み立てで世界を眺め直す。で、お金は、世界を価値と交換に置き換えて世界を眺め直すもの。

 基底メタファーとしては、それぞれ射程距離が異なります(これら4つではホロンが最も遠く、お金が至近距離)。遠い方が世界のカバー率は高いが私たちの行動への影響力は弱い。近いとその逆で、世界のカバー率は低いが私たちの行動への影響力は強い。

 また、どれもが矛盾を起こしやすい穴や、説明できない盲点を持っています。あくまでもメタファーでしかないのだ。さすれば、基底メタファーはあればあるほど世界の解釈に貢献できると言えます。


図表760

もっと突っ込まさせていただくと、小生の推し進めている生活思創は、いろいろな基底メタファーを使いながら、「見通しのよくない」生活状態に「見通しの良さ」を生成する行為だと規定できます。 「おおー。こういうふうに世界を眺めると生活が良さげに見える」ってね。

 ただし、その都度ごとに生成しないといけません。なぜなら、常に世界は変わっていくからです。

図表761

ふむ。

 AIが拡散した情報で世界に「見通し」を作るなら、 人間は基底メタファーで世界を圧縮しながら「見通し」を作っていくのだろうか? 

生活思創ラボの探求テーマの一つですな。




6、本の地形から地図②を取り出すー「変身の美学」


「変身の美学」で中心テーマとなっているのが世阿弥。古典音痴な小生が、世阿弥を自分の生活に接続できるのかを試します。

 山崎正和が人生をかけて探求した世阿弥について、「風姿花伝」も読むことなく語るのは危険を超えてます。


ということで、すこし迂回しながら試創していきます。まず押さえたいのは「演技ってなんですか?」という素朴な問いです。演じる技っていうのはもう少し類型化できるのかな? そんな演技論の実演について解像度を上げていきます。

 演出家、劇作家、俳優たちにとって「良い演技」は異なるはずです。芝居も色々あるからね。商業演劇のような楽しさ優先から、小劇団の実験的で見るものの理解を拒絶するようなものまで。

まあ、演劇論を経由して地図を創りたいだけなので、AIに大まかに演技手法を類型化してもらいました。

でてきた型は4つ。

図表762

なるほどね、

感情投入型っていうのが商業演劇のパターンなんだね。ハリウッド的なメインストリームっていうのが分かりやすいか。その分、あまり演技論が意味を持たない気がする。だって、それは当然あって然るべきだから。むしろ、演者である俳優ごとに感情投入の表現の仕方があって、そこが演技的な見どころを作っている

距離化型っていうのは、見る側に考えさせることが演技の目的になるんですな。これは芝居なんだっていうのはかなり演出家の主張が含まれてます。

身体儀式型は、身体性を全面に出す演技らしい。唐十郎がわかりやすい代表例ですね(ほとんどの人が知らないかw)でも、ネット世界とAI映像普及へのカウンターになるのは身体だから、この演技パターンは重視されていくだろう

存在論型はどうなんだろう。果たして演技手法に入れられるのかな。もちろん、劇作家の視点が大きいだろう。人間の存在みたいな「答えのないものを観客に感じさせる」わけだから、舞台全体が演技装置なのだろう。

さすがに、このレベルだと小生の記号接地も限界があります。なんらかの補助線が必要です。そこで、戦後の日本の有名な小劇団の演出家(主宰が演出家ってことになります)を何人か出し、彼らの目指す演技スタイルについて、4類型の視点で再プロットしてみます。

時系列に、別役実、寺山修司、唐十郎、つかこうへい、野田秀樹、鴻上尚史、平田オリザ、いのうえひでのり、岡田利規の9名。

生成AIには、それぞれの演劇家が4型のどこに重心を置いていたかを出してもらってます。それらをマトリックスにしたのが下図です。

図表763

ちょっとマトリックスを眺め直してください。気がつく人は気がつくだろうけど、ほとんどの人が◎の場所に「感情ー距離のどちらか」または「身体ー存在のどちらか」が見えます。もちろん、全員ではない。

 ただ、大まかにはそういう傾向がありそうです。この応答は小生の直感でしかないけど、これを試してみる。すると2軸の4象限図になります。でもって、9人をプロットしてみます。一応、小生のプロットをAIにも見てもらっています。最終形にしたのが図表です。


図表764

2軸4象限にできるだけ全員をカバーするような地(四角いグレー)を敷いてみました。大きく左上から右下に向かっています。9人中の8人はこの中にいます。これは昭和戦後から今に至る小劇場の芝居の演技スタイルの分布であり、範囲ってことになります。

 まあ、留意していただきたいのは、もっと劇団を入れると地図は変わってくること、そして、あくまでも有名どころだけで(それも東京中心だし)作った見取り図だということです。

とはいえ、こんな地図でも語りのきっかけをつくってくれます。

 まずは、つかこうへい。多くな括りから逸脱しているのが「らしさ」です。いやー、やっぱりエポックメイキングな演劇の人なのだろうな。小生もつかこうへいのファンだったのだ。芝居は一回ぐらいしかみてないが、彼の本はかなりの冊数を読んだ記憶があるよ。大学選びの一因にもなっているのです。

話を地図に戻します。 気になるのが左下と右上の空白ですよね。ええ、試創しながら作成した地図の良さは、創った本人も気が付かなかった新たな謎が立ち上がってくるところです。

2つの空白地帯をAIとやり取りしながら試創してみました。

・左下の空白地帯:商業演劇の進化。テレビ番組に代表される演劇です。より都市型のエンタメになっていく中で求められる感情投入です。ドラマ向きの演技ってことですな。そう。なので三谷幸喜や宮藤官九郎が代表例なんだな。ただし、デジタル時代を象徴するYouTubeやAIによる動画制作の普及で、「感情ー存在」系の演技は平坦なものになっていくだろうな。平坦とは、どれ見ても没入の前に既視感を感じてしまうってことです。ライブへ回帰して、熱量不足を生の人間で補っていくことになりそう。

・右上の空白地帯:ここは芝居ではなく舞踏やダンスの領域と推測できます。土方巽とか大野一郎とか例示してるけど、やや古いか。ここのゾーンは言葉に頼らない演技の型とも言えます。小生も最近、地元のまつもと市民芸術館の監督の1人である倉田翠が演じるダンス・パフォーマンスを初めて見ました。未体験のインパクトがありました。ダンスという身体表現でここまで観る人に没入感を与えることができるんだって。これからは、この非言語ゾーンには未知の演技がまだまだありそう。ライブ回帰と相まって、人々は流れていくやもしれん。

図表765




7、本の見え方をずらす 地図②ー世阿弥を生活に重ねる


二つ目の問いに入っていきます。先に創った2軸4象限の図を使って、世阿弥を眺めてみます。

世阿弥の演技論の中心になるキーワードが4つ。中心にあるものが「離見の見」となっています。生成AIからの解説は以下の通り。

離見の見(りけんのけん)

自分の姿を客観的に見る意識のことです。役者は舞台上で演技に没頭するだけでなく、客席から自分がどう見えているかを常に意識せねばなりません。自分の「我見(がけん)」を離れ、観客の目で自分を俯瞰することで、独りよがりではない美しい所作が生み出されます。現代のビジネスや日常の自己客観視にも通じる教えです。


拍子(ひょうし)

舞台のテンポやリズム、そして演者と囃子方(楽器隊)との呼吸の同期を指します。世阿弥はただ音に合わせるだけでなく、身体の動きやセリフの抑揚が音楽と完璧に調和した状態を重視しました。この心地よいリズムのうねりが舞台に一体感を生み出し、観客の心を自然と劇中の世界へ引き込む原動力となります。


花(はな)

観客を魅了する珍しさや、舞台から溢れ出る魅力のことです。若さゆえの一時的な美しさである「時分の花」と、厳しい修行を経て生涯枯れることのない本物の魅力「まことの花」があります。世阿弥は、観客の予測を裏切る新鮮な驚きを仕掛け続けることこそが、芸術における「花」の本質であると説きました。


間(ま)

動作と動作、またはセリフとセリフの「あいだ」にある静寂や余白のことです。何もしていない時間ではなく、次の展開に向けて極限まで緊張感を高める重要な瞬間を指します。世阿弥は「せぬ所の極意」とも表現し、音や動きを止めた瞬間にこそ、役者の内なる精神性や深い表現力が試されると考えました。

生成AI


4つという数をマジックナンバーにしてみるよ。意味のある数字が4つなら、2軸4象限にプロットできるだろうという試みです。

地図のフィールドは演劇を離れて、家庭になります。生活を舞台としたら、人間関係が表出する空間っていう意味です。


・拍子:
ここが家庭生活でのリズムを示しています。家族の気配って身体の気配であり、家族との関係は感情の起伏によってテンションが変わります。「おはよう」から始まるとしても、その声量や質、タイミングやその次に言いたくなる言葉とか、家庭に向かってメンバーの情報が場のリウム(拍子)をつくります。これが「いつもの」だと安心感があり、「ズレ」があると何かあるのかもしれないという空気が流れます。

・間:家族全員が同じのリズムでいることはないので、それぞれに異なった拍子でありながら、同期することで家庭が調律されます。「なんかあったのか?」、「今日の気分はゆっくり」といった、間が新しい情報を生み出すわけです。身体はここにありながら、心的な距離はいつものより離れています。もちろん、たまにですけど、甘えてくるという距離を縮めるというのもあり得ます。


・花:メンバーが意図的に同期しようするのが花になります。お互いの存在があることで感情が高まる。記念日や誰かの喜ぶ出来事など、他のメンバーが積極的に「盛り上げたい」気分を作っていきます。

離見の見:家族の一員として家庭内にリズムを作り、同期していくのと同時に、全体のズレの様子も見ている状態です。「機嫌の悪いメンバーの機嫌を早く治したいと思っている自分がいるが、はたして、それは良いことなのか?」みたいな、感情と理性のバランスでズレを眺めます。

図表766

一応、それなりの説明になっていそうです。今度は反対側から見てみましょう。4つの状態の喪失がどんな状況なのかを、AIに言葉にしてもらいました。

図表767

怒り、早口、無感情、焦り、呼吸の浅さ、反応の鈍さ、心ここに在らず、虚しさ感、といった「ありがちな逸脱」をAIに出してもらって、4領域にプロットしてみました。家庭内でメンバー同士が、お互いのズレたリズムに同期しながら拍子を取り戻すきっかけ群です。これもまた、他にもたくさんあるでしょう。あくまでも代表的な症状としてあげています。



8、「自分ごと」の地図②に転換する

もし、世阿弥的な「見通しの立て方」が家庭内でもあるとしたら、その中心は「離見の見ー拍子」のラインになるでしょう。「間と花」のラインは家庭の日常からのメンバーが逸脱しているサイン(ズレ)であり、集合のためのシンボル(ハレ)になります。

 これは小劇場の演技の類型化をプロットした形(四角いグレー)と同じに見えます。ああ、これは偶然ではないな。山崎正和が言う「演技=関係で世界を説明できる」の家庭版なんだなって思います。


図表768

  親子、夫婦、それぞれに役割を意識することで、そこからお互いが心地の良い拍子にしていこうとしているのだ。間(同期のズレ)は役どころに応じた演技開始のサインだし、花(高い同期。また稀ではあるけど、喪のような低い同期もある)は家族全員が目指したい演技のピークを示している。

 ははーん、これは「家庭=小劇場」説とも言えるなw  じゃあ、我が家の中で演出家は誰かな? 相方か?、長女か? 少なくとも「離見の見」が伴ってない小生ではなさそうだ。





◼️今回の試創読書会のフローです。

2つの大きな分岐があって、それぞれの地形(AI担当)に地図(小生担当)を創りました。次に、本の見え方をずらして(方法は小生、抽出はAI)、新たな試創の切り口(候補はAI、選択は小生)を探します。そして最後は、自分ごととして引き取り(小生担当)、未読本ごととの接続(整理はAI)を試みたのでした。

図表769




娘「家族全員がご機嫌って、あまりないよね」

父「そうでもないよ。誰かがご機嫌だったら『おお、いいね』みたいな感じで盛り上げていくでしょ。不思議と、こちらも気分が上がってくる」

娘「喜んでる人に相乗りするのは大切」

父「親やっていると、子供が喜んでいる姿を見るのは、親やってて良かったって思えるチャンスでもあるからね。むしろ、相乗りさせて欲しい」

娘「そうか、トーチャンは誰か1人がご機嫌なら十分なんだ」

父「ええ、きっと親子って『離見の見』がインストール済みなのです」






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