知的持久力のための「試創(しそう)読書会」<その2>「文芸地図」
1人読書会の実践をしております。今回も、前回に引き続き、体験してきたストックの中から一冊を選んでみました。AIと一緒に未読の本をそのままで探訪していく読書会形式の読書です。そこでの試考の繰り返しが、小生の、つまり読者の知的持久力を鍛えてくれることを期待しています。知的持久力については、前回をご参照下さいな。
この試創読書会の現場の様子を描く<シーズン18>の第二回目だよ。
父「未読の読書会も、それなりに成り立っていると思いませんか?」
娘「まあね、でも、誰もができるとわ思えないな。読んでない本に話しかけるようなトーチャンのような人だからできるんじゃね?」
父「ふむ、実はさ。本の表紙から視線が送られてくるんだよ。だから、なんですか?、って尋ねたくなるんだな」
娘「本には口だけでなく目もあるのかい・・・妖怪ミドクボンじゃん」
父「じゃあ、俺は鬼太郎ってところか」
娘「いや、目玉オヤジ」
◼️<試創読書 事例その2>
・1)準備
第二回目の本の選択から。「文学地図:大江と村上と二十年」(加藤典洋)を試創(しそう)します。
加藤典洋って知ってます? 文芸評論家です。
加藤典洋(1948–2019)は、戦後日本を問い直した稀代の批評家です。
最大の功績は、著書『敗戦後論』において、日本の戦後は「死者との対話」を欠いたまま始まったと指摘し、右派・左派の硬直した議論に風穴を開けたことです。自らの「ねじれ」を直視するその姿勢は、講談社から刊行された『日本という身体』などでも一貫していました。
また、村上春樹研究の第一人者としても知られ、文学、政治、歴史を横断する緻密な論考で多くの読者を魅了しました。早稲田大学教授として後進の育成にも尽力。その思索は、今なお日本の「ありかた」を考える上での重要な指針となっています。
まず、正直に告白しますね。小生は加藤典洋を知りませんでした。図書館で出会ったのが本書ですが、これで初めて氏の存在をしったぐらいの文芸音痴です。文芸音痴とは我ながら強いレッテルですけど、全然卑下して言ってません。むしろ、開き直ってますw
そもそも小生は小説をほとんど読まないのです。マーケティング・コンサルとかしてたから、巷で噂の小説があれば本屋でチラチラ眺める程度でした。 必然的に、「小説を考察することを生業」にする文芸評論家・加藤典洋との接点は皆無なのでした。
ということで、「最も我が知的興味から遠いであろう」文芸評論家・加藤典洋の仕事をまとめた本書で、どこまで1人読書会ができるかを試すのであったw
参照として、アマゾンの書籍説明を載せます。
バブル景気の全盛期(1989~90年)、湾岸戦争の戦後期(93~95年)、ゼロ年代後半の景気後退からリーマン・ショックに至る時期(2006~08年)の三度、新聞の文芸時評を担当した経験。文芸時評担当以前から念頭にあり、時評執筆に並行して深まった思考をあらためて展開した三篇の文芸評論。
ポスト昭和期の、大江健三郎、村上春樹、阿部和重、保坂和志、高橋源一郎、沢木耕太郎らの小説や岩明均の漫画『寄生獣』を論じることで、自身が同時代的に接してきた文芸の世界の「地図」を描き、さらにその「地図」を深く掘り進めることで見えてきた、小説という表現に起きている変化を捕らえようとする、意欲的な力作文芸評論集。
この「文学地図」は文庫ものなのだが、価格がやや高くて・・・、まあ、小説を読み慣れてないわけですからね。文芸評論はもっと疎遠な小生が購入に至ることは、まずない。
ですから、小生の興味は、この「あえて」の選択が試創読書が標榜する「試す+創る」でどうなるのか?、にあります。
・2)本の「地形」を作る
加藤典洋という人物が書いてきた文芸評論、それも新聞の文芸欄に連載していたものを集めた本です。毎月出てくる文芸誌を氏が読み込んで、アンテナに引っかかるものを書評していくスタイルです。すでに加藤氏がサマリーして論評を加えたものですから、もうひとつそこからAIにサマリーしてもらっても、読書会の素材は薄いものになりそうです。少なくとも、知的持久力を鍛える土台としては浅いだろう。
そこで・・・。
本自体からズームアウトして、本「文学地図・大江と村上の二十年」の「地形」ではなく、加藤典洋の職業・文芸評論家の「地形」から入ってみます。なんてたって、著者の名前も知らなかった訳ですからね。鮮度100%w
小生は一度たりとも、文芸評論家という職業の方々にじっくり向き合ったことはありません。なので、まずは文芸評論家って、どのような世界なのかをAIに大まかに描いてもらいます。
一工夫したのは、加藤典洋という職業人をもわかりやすくするために、他の有名な文芸評論家との立ち位置の違いで初心者用の見取り図を作成してもらいます。本の内容ではなく、人物ベースの「地形」を眺めることから始めてみたのです。
AIにやってもらったものを以下抜粋。
他の批評家との比較
一般読者にもわかるよう、軸を明確にします。
A. 小林秀雄 との比較
小林秀雄
→ 感性の強度、直観の鋭さ
加藤典洋
→ 逡巡、ためらい、位置の不確かさ
小林は「断言の批評」。
加藤は「揺らぎの批評」。
B. 柄谷行人 との比較
柄谷
→ 理論構築型(マルクス・構造主義など)
加藤
→ 倫理的・内面的葛藤型
柄谷は「理論で切る」。
加藤は「自分も切られる」。
C. 江藤淳 との比較
江藤
→ 国家・伝統を強く意識
加藤
→ 国家を引き受けつつ距離を取る
江藤は「帰属の強さ」。
加藤は「帰属の不安定さ」。
これらの情報を元に、自分なりに整理してみたものが、下記の図表656です。現代史っぽく並べて可視化してみたのだった。それにしても、まさかここで自分が小林秀雄を図解するとは思わなかったよw 小生が大学受験のころに出てきた大御所の名前なのだ。

こうやってみると、明らかに加藤典洋の活躍の時期(1985年以降)は、文芸が力を喪失しつつあるころと重なります。対比すると、1980年以前は、有名な文芸評論家たちの骨太な主張が社会的な意味を持っていて、巷でそれなりの「大きな話」ができた時代です。
加藤典洋の活躍時期はバブル、バブル崩壊、ネット社会まで、経済的・文明的な激動の中です。とてもじゃないけど「大きな話」が成り立つような世界ではありませんね。「大きな話(戦争とは、日本とは、美とは、社会構造とは、などなど)への人々の関心の熱量は、経済成長やグローバル化で冷めていき、ネット世界の登場が情報爆発で「大きな話」をバラバラにしてしまいました。そんな境遇の中で文芸を評価していた人なのだな、と読み取りました。
・3)自分の生活と触れる場面を探す
さて、大まかに加藤典洋の位置付けを確認して、今度は、その中身に移っていきます。前回は、ここでは「本の見え方を揺らす」のが手順でした。今回は、加藤典洋を読書会の参加者(オイラのことね)に近づけることを先にしました。理由は後ほど
小生との接点が全くなかったジャンルですから、これだけ離れ過ぎた存在なら、小生用に新たな見え方がいりますね。今回は、「見通し」というキーワードで、小生と加藤典洋に渡りをつけてみます。この無関心であった大物を自分の関心の範囲までへ強引に関係性を創ってしまえるのが、この試創読書会のいいところです。
普通の読書会だと・・・
・参加者が複数なので、「私」だけのために話を持ってくるのは憚れる。(小生も気が小さいのです)
・相手が大物であればあるほど、「私」となんか関わってもらえるようなところがあるのかな、といった気後れがする。(小生も、先生と生徒の関係に漂う空気のような、権威勾配らしきものに弱いのです)
そこいくとAIはいいです。「誰も気に留めてないよ、そんなこと。言っちゃいな、やっちゃいな!」てな気分にさせてくれます。
話を本題に戻します。
文芸評論は、多種多様な小説への読後の感想では終わらずに、むしろ、それを起点にして、作者や社会や文化といった諸関係に「見通し」を付け、第三者が受け取れるように伝える活動です。
では、加藤典洋の「見通し」とは何か?
氏の文芸評論スタイルを「見通し」というフィルターで、生成AIに並べ直してもらいます。
下図657の左側(黄色の地)はAIから。これを受けて自分の「見通し」の作り方に「可能な限り最小限の差し替えで」組み立てます。やっと本人(ヤスハラ)が参加できる段階まで来ました!
※この川の対岸からこちらに渡れるかどうかが、読書会自体を楽しめるかどうかの分水嶺なのだ。という重要なポイントを鑑みて、加藤典洋と小生を重ねることを優先したのが、「本と自分の生活と触れる場面を探す」を先行させた理由なのです。

加藤典洋には文芸評論上のキーワードがあります。それがヤスハラの生活思創文脈で再解釈されたのが右側(ピンクの地色)です。
・宙吊り(加藤)→不条理の言語化(ヤスハラ)
・引き受け(加藤)→「それもまた、よし」という態度(ヤスハラ)
・空洞→メタファーによる混沌の秩序への橋渡し(ヤスハラ)
・過剰→感情エネルギーの極小化(ヤスハラ)
ふむ、4点ともそれっぽくなっているぞ。
・歴史構造への接続(加藤)→信念構造への接続(ヤスハラ)
ここの転換もマクロ的とミクロ的な違いだとすすなら、スムーズだな
※ちなみに、AIの表現では接続・回収・回復が頻繁に出ます。生活思創的には、カテゴリー越境(接続に近い)、対称性(回収に近い)、相補性(回復に近い)と感じております。
・立ち位置を明示するについても、どっぷり中に入り込む姿勢は共通なような気がする。→これは先に提示した「大きな話」がバラバラになっていく中では客観的で居られなくなることで起きていることと見做せます。
※ちょっと付け加えるなら、2025年以降はね、多くの人が客観的では居られない世界にいるのです。事実とフェイクも曖昧だし。世界の向こうからは情報をフィルタリングして発信してくるし、こちらからはエコーチェンバーを避けて情報を受信することはできないし。できることは、話の中に自分を置き直して入り込んで引き受けていくか、話の外にいるふりをして無関心を決め込むかだけ。もちろん、その人次第。
・4)本の見え方を揺らす
今回の試創読書会では、「本の見え方を揺らす」を「自分の生活と触れる場面を探す」の後に持ってきています。
さて、未知だった人の未知の仕事を揺らすなんてできるのかな? ええ、AIならできます。つーか、未知の提案を持ってきますw
小生と加藤典洋の共通フレームらしきものを前項で確認できたので、お互いそれなりに似たところはあるんだ、っていう、ちょっとした確信が持てました。
で、今度は加藤典洋の仕事の課題をAIに整理して出してもらいます。するとですよ。ここででてくる加藤典洋にとっての課題や問題点や弱点は、共通フレームを通じて小生にとっての問題点や弱点に読み替えることができるかもしれないんです。小生が扱える「自分への問い」になるわけですわい。
加藤典洋の文芸評論のスタイルを批判的な視点でまとめてもらったよ。この切り返しはAIならでは。
ここからは少し批判的に見ます。
加藤典洋は「見通し」を作ろうとした批評家でした。しかし、見通しを作るということは、同時に何かを取りこぼすことでもあります。
Ⅰ. 見通しを作る一方で、何を見落としたのか?
① 「構造」に寄せすぎる危険
加藤は小説を歴史的構造の露出として読む傾向が強い。その結果、作品固有のリズム文体の偶然性読者の身体的な快楽がやや後景に退くことがある。たとえば村上春樹作品を読むときも、物語の軽やかさより、「空洞化した主体」の構造を読む。これは鋭いが、👉 物語の遊びや享楽の側面は薄まる。
② 感情の“即時性”の軽視
彼は感情の暴走を構造化する。しかしその分、即時的な怒り群衆的な熱狂情動の伝染のダイナミクスには弱い。テレビやネット時代の感情の拡散速度は、彼の時代よりはるかに速い。彼の批評は、熟考を前提とする。👉 スピード社会の感情政治には適応しにくい。
③ 「軽さ」の可能性を十分に評価しなかった可能性
彼は空洞や軽さを構造として読むが、それを肯定的な創造力として強く評価したわけではない。たとえば、ポップカルチャー的感性の中にあるミーム的連鎖二次創作的増殖断片的共感は、彼の枠組みでは「症状」に寄りやすい。
Ⅱ. 今のSNS世代文学にこの眼差しは有効か?
ここが重要です。結論から言えば、部分的には非常に有効。しかし、更新が必要。
① 有効な点
SNS世代文学は、主体が分散している語りが断片化している承認欲求が可視化されているこれはまさに「立ち位置の不安定」の極端化です。
加藤の視点は、なぜ主体が立てないのか?を問うための強力な道具になる。
たとえば、エッセイ的自己開示小説承認不安をテーマにした物語炎上を背景にしたフィクションこれらは、SNSという新しい歴史構造の「宙づり」の現れとして読める。この点で、彼の眼差しはまだ有効。
② しかし限界もある
SNS文学は、速度可視化された他者の視線アルゴリズム的評価に規定される。ここでは、「立ち位置」は固定されない。常に更新される。加藤の枠組みは、比較的安定した歴史構造を前提にしていた。
SNS空間は、流動的で、即時的で、断続的。👉 「地図」よりも「気象図」に近い。彼の方法は、静的地図型。現代は、動的気象型。
特にポイントとなりそうなのが、「Ⅱ. 今のSNS世代文学にこの眼差しは有効か?」です。なぜかというと加藤典洋は小生よりも世代的に前ですから、このSNS世代の影響は、より現在のヤスハラの世界での話になっているからです。
そして、ここで注目してみたのが「地図型の批評」と「天候図型の批評」です。

AIからの提示で気になるワードを拾って、言葉を整理しましょう
1:天候図型の批評で出てくる短期・流動・変動っていうのは、小生が生活の中で「見通し」を生成することに被ります。
2;地図は信念のための足場、気候図は覚悟のための予兆っていうのは気になる。信念と覚悟は生活思創でもよく扱う項目なのだった。
3:地図型の時代に生きる加藤典洋。気象図型の時代に生きるのが今の私たち(なので、ヤスハラはここ)
これらに近い記事は以下のnoteにあります。
1人読書会は、誰に憚ることなく、自分だけのために話を展開していって良いのです。過去の読書体験やらそこでのメモやら覚書やらが紐づいて出てくるのはウエルカムなのです。
むしろ、そのような手持ちの知とネットワークができることこそ、わざわざ勉強会の形式にしてまで本を読み込む(使い込むと言った方が良いかもしれん)意義なのです。
5)本と生活(本人)の対称性を浮かび上がらせる
さて、ここまで来ると収束の仕方を考えてみましょう。先の信念と覚悟を使って、自分なりの整理方針を立てます。読書会の後半は自分で引き受けていくことが肝要です。ある意味、知的持久力を鍛えるピークは、後半の自分事が混ざり合ってからにある、と言えます。
ではまた、本題へ
信念は「今までの信念の延長線」と「今までの信念の解体」を対(つい)にし、覚悟は「強い」「弱い」を対にしてマトリックスを作ってます。以前に小生が作ったものですね。またここで援用できるとは・・・。
※ただし、このマトリックスの援用っていうのも注意が必要です。なぜなら、AIが過去の小生の描いたものから引っ張ってきている可能性があるからです。(フィルタリンングね)ただ、今回の文脈なら、むしろ、自分事への転換がスムーズになっていると解釈することもできます。

2X2の4つのマス目のうち、左下を加藤典洋のいた時代の「覚悟と信念の様子」とすると、右上が小生のいる現在の「覚悟と信念の様子」というのがプロットできそうです。
・左下ー加藤典洋の「地図的な時代」
・右上ー私たち(小生のいる)の「気象図の時代」

昭和の後半からは、時代環境が「見通し」を作ってくれたので、感情エネルギーにロスがあっても(怒りや悲しみはシラケの対象であり、冷めたフリの中で消費ゲームに参加する)、十分に人生を肯定できた。
しかし、令和の今となると、押さえ込んだ感情エネルギーはイライラや失望となって生活の中に吹き出してきています。感情の揺らぎが激しくなって、先が見えない状況になりつつあります。
「見通しの良さ」は感情エネルギーのロスが無視できない、いえ、その感情エネルギーこそ生きるための活動力ではないか?、そう疑始めた人々が増加しているのではないでしょうか。
生活思創はその一つの場末での活動です。まあ、そんな流れが時間軸(1985−2025ぐらい)を取り込みながら可視化できました。
6)本と生活の間に結び目を作る
さて、こんな読書を試してみると、最後に出てきたマップも参加者側が書き込みで、より詳しく創れるものになります。「試す+作る=試創」読書会ですな。
小生の視点でしかないで、その点は留意してください。あくまでも試創した事例の「読書会の「結び目」としてアップしてみました。

図表671には左上と右下に加筆があります。
・左上ー地図を維持:今までの信念に固執する人々の「過剰な努力コース」
・右下ー気象図を無視:新しい信念に覚悟が持てない人々の「問題先送りコース」
これらの説明は割愛します。気になる方は、先のnoteの記事をみてもらえると、大まか解説をしています。AIな言い回しなら、小生の生活思創に回収されたわけですw
◼️<まとめ>今回の試創読書会を眺め直す
準備から結び目までの6ステップをまとめたのが下図です。今回の特徴は、本の内容を読み合うのではなく、著者を経由して本の骨格から世界の変化を映し取るようなプロセスにあります。
特筆したいのは、著者・加藤典洋と小生を同じ図の上に載せられたということ。「見通し」で橋渡しの作業をやれたってのは知的好奇心を満たします。(オイラだけか?)

前回の「鳥はいかに進化したか」に比べてみましょう。「文芸地図」では、第3ステップ「触れる点」が、第4ステップ「揺らす」と入れ替わっています。
ふむ、この勉強会の進め方もかなり流動的ですね。この臨機応変な対応もまた、生成AIと共に進める読書会の醍醐味でしょう。
おまけに、「え?どうやって進めるかな?」といった脳内混沌も良い訓練場になります。その都度、脳内秩序を組み立てていく力こそ、知的持久力だしな。

以上をもって、第二回試考読書会はおしまい。
<追記>
この試創読書会の後、じっくりと本書「文芸地図」を読まさせてもらいました。現代文芸史みたいなところが楽しい。ちらほら聞いたことのある作家の名前が年代ごとに変遷していくと、ほー、文芸ってミクロな時間軸で見るとそうなっているのか、という素直な感動に浸れる。
娘「これはどんな本でも読書会に持ち込めるってことなのかしらん」
父「原理的にはそうだな」
娘「原理的ってことは、例外もあるのかな?」
父「AIって、このネット世界から言葉を集めてくるものだからね。人々が語ったり、書いたりしたものがあるのが望ましい訳です。感性が言葉に先立つような本は向いてなさそうだ。詩集とか絵本とかさ。もういいじゃん、これ以上言葉は足さなくても」
娘「余韻を大切にしている本はやめとけ、ってことだね」
父「基本的にAIは無粋なのよ。ずかずか入り込んで、『これが風情です』とか言っちゃって風情を台無しにするタイプ」
Go with the flow.
