知的持久力のための「試創(しそう)読書会」<その8>「歩くという哲学」フレデリック・グロ
未読本をAIと試創していく試創読書会。その8回目です。
少しずつ知的持久力の輪郭が見えてきているような気がします。体格ならぬ知格か? どんなものでもだらだら続けていくと、それなりの形が現れてくると期待して、今回も一冊チョイスしました。「試す+創る」で試創をしてみます。
まずは、再確認の意味を込めて。現時点での「試創読書会とは何か?」
・「試創読書会」とは、未読本(みどくぼん)を読書会形式でAIと一緒に読み込んでいく活動です。基本は本人とAIのペア・ワーク
・「試創読書会」は、「試す+創る」のペア・ワークを通じて、知的瞬発力に偏りやすい生活を防ぎ、知的持久力(AI共創力)を鍛錬する場です。
・未読本が提示する内容だけでなく、著者の世界観、価値観を拡張しながら、新たな知見を自分ごとに繋げていきます。それは、「未読本」と「読み手の生活」の知の文脈での接続です。
父「今回は、歩くことがテーマです」
娘「ちょっと私には縁遠い話かな。不登校してるとあまり歩かなくなっちゃてるし」
父「トーチャンは最近、歩くようにしてるから身近なんだよ」
娘「知ってるよ。歩く習慣を『見通し良く』したいんでしょ?」
父「ご明察でございます。歩くことと生活することの段差をなくしたいのです」
娘「心のバリアフリーですね」
父「心って躓きやすいんですよ」
それでは本題へ
1、準備
今回の未読本は「歩くという哲学」(フレデリック・グロ著:山と渓谷社:2025年)です。
世界を変えた思想や哲学、文学、詩は歩行から生まれた。
最高のアイデア、知性を生む様々な歩き方を偉人から学ぶ。
世界中に影響を与え、世界を動かした思想家、哲学者、作家、詩人の思索の多くは、歩くことによって生まれてきました。
歩くことは、最もクリエイテブな行為なのです。
また素晴らしいアイデアを出す歩き方にも様々なものがあります。
歩くことは、単なる機械的な繰り返しの動作以上のものであり、自由の体験であり、緩慢さの練習であり、孤独と空想を味わい、宇宙空間に体を投じることでもあります。
著者のフレデリック・グロが、哲学的な瞑想の連続を読者とともに探索しながら、ギリシア哲学、ドイツ哲学と詩、フランス文学と詩、英文学、現代アメリカ文学等の、著名な文学者、思想家の歩き方について探求します。
ソクラテス、プラトン、ニーチェ、ランボー、ボードレール、ルソー、ソロー、カント、ヘルダーリン、キルケゴール、ワーズワース、プルースト、ネルヴァル、ケルアック、マッカーシーらにとって、歩くことはスポーツではなく、趣味や娯楽でもなく、芸術であり、精神の鍛練、禁欲的な修行でした。
また、ガンジー、キング牧師をはじめ、世界を動かした思想家たちも歩くことがその知恵の源泉でした。
歩くことから生まれた哲学、文学、詩の数々に触れてみましょう。
確かに、今回の本の選択には、小生の「歩く習慣」への態度が絡んでいます。去年、肩の調子が悪くなり、週一のテニスができなくなってから、運動不足に対処するために歩き始めたのでした。サーブはできないけどウォークはできるという加齢に伴う変化でもあります(笑いなし)。
まあ、小生の場合、歩くを目的にしないようにしてます。体のために運動するっていうスローガンが、なかなかモチベーションに繋がらないからです。
テニスだって、毎週一回のレッスン時間が決まっていて、怠惰な自分を拘束しやすかったからこそ、長続きしてたのです。そこで、今のところですが、カフェでのPC仕事のために、車をできるだけ使わないで、徒歩や自転車で行くように切り替え、最終的な目的はあくまでも仕事ということにしています。
さて、話を本の選択理由に戻します。まず、図書館の新たに入館した本のコーナーで、「歩く哲学」という本を図書館で見つけ、手に取るわけです。他にも何やら小生の好奇心を刺激するような本もあり、あくまでも、軽くページをめくるぐらいの一冊でした。
だが、そこでグッとくる文字をこの本の中に見つけます。正確には中ではなく、表紙。表紙というより出版社。そう、出版社が「山と渓谷社」なんすよ。「おお、山渓が哲学本って・・・マジっすか」、もうこれで小生の意は決したのだった。
2、「歩くという哲学」、本の地形
試創読書会の大まかの進行メニューに沿って進めていきます。まずは本の地形です。ここは生成AIが先手になります。
① 構造:この本は「思想家 × 歩く様式」でできている
グロの特徴は、抽象理論ではなく
人物ごとの歩行スタイル=思考スタイルとして描く点です。
思想家歩き方思考の特徴
ジャン=ジャック・ルソー孤独な散歩内面への回帰・感情の純化
フリードリヒ・ニーチェ山岳を歩く強度・生成・身体と思考の一致
イマヌエル・カント規則的な散歩理性・秩序・時間の厳密性
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー自然の中の歩行自然との一致・文明批判
アルチュール・ランボー放浪逸脱・脱構築・自由
つまり歩き方の違い=世界の捉え方の違いとして描かれています。
② 核心テーマ:歩くことは「思考の条件」である
グロの中心主張はかなり明確です。
■ 思考は机ではなく「身体」から生まれる
歩くことでリズムが生まれる
リズムが思考を連れてくる。
思考は「意志」ではなく「流れ」として現れる
つまり思考は作るものではなく、訪れるもの
■ 歩くと「自己」から解放される
歩いているとき:社会的役割が剥がれる
成果や目的から離れる
他者の視線から自由になる
結果「ただ存在している状態」になる
■ 歩くことは「自由の最小単位」
グロは強くこう示唆します:何も持たなくていい
どこにも属さなくていい
ただ歩けばいい
👉だから歩行は最も原初的で、誰にも奪えない自由
③ 著者の意図(重要)
グロは単に「散歩はいいよ」と言いたいのではありません。
むしろ核心はここです:
■ 思考の再定義
思考とは:論理ではなくリズム意志ではなく流動
■ 生き方の再定義
歩くことは:「何者かになる」から離れる。「ただある」へ戻る
計画ではなく生成
■ 哲学の再配置
哲学は:書くものではなく歩くもの
なるほどね、思考の条件として「歩くこと」を扱っている本なんですね。そこから思考について再定義していく本となっています。
さて、今回は「山と渓谷社」という登山やトレッキングなど、アウトドア系のアクティブ一直線だと思っていた出版社の本なので、小生が少なからず動揺してしまったわけです。もちろん、いい意味です。ぜひ、これからも揺さぶっていただきたいものです。
とはいえ、歩くことに関しての本はいくつも出回ってます。いくらか類書と特徴にだけ触れておきましょう。かなり、あります。
◼️類書について
「ウォークス 歩くことの精神史」(レベッカ・ソルニット著:左右社2017年)これは「歩く」X「創造性」。歩くことが、その人の思想や行動にどのように影響を及ぼしたかについての系譜です。かなり今回の「歩く哲学」に近しいけど、AIでの確認でしかないが、描かれている著名人での被りがある割には、内容的に影響を受けた(ウォークスの方が先)様子はないらしい。
「歩く マジで人生が変わる習慣」(池田光史著:NewsPicksパブリッシング:2026) これはかなり新しいですね。「歩く」X「自己啓発」という実践寄りの本です。やはり、AIの影響によって、認知系の自己啓発から身体系の自己啓発に重心が移行してきてるのかな。
でもって、これらと並列させるなら、「歩く哲学」が「歩く」X「思想表現」
になります。主な掲載されている人物をまとめてみました。どなたも伝記が存在するほどの大物ばかりなのだった。

3、本の見え方をずらす
試創読書会はAIのフル活用によって、一般的な読書会ではいけない世界を目指しています。未読本であることは何らハンデにならないのだ(少しはあるけど)。
「見え方をずらす」では、小生が本に応答して直感した2つの問いによって「ずらし」を試みました。
ひとつは、著者についての視点からの問いです。フレデリック・グロってフーコー研究を仕事にしていた人です。フーコーって、ポストモダンの中心人物の1人であり、その業績についての探求を生業にしていたのがグロってことらしい。「ポストモダンと身体の関係を著者はどう考えてるのかな?」(問いの1)
もうひとつは、「歩く以外に思考の条件になるものは何があるのかな?」(問いの2)です。後者の質問は次節で語るとして、まずは、著者のバックグラウンドと身体の関わりから。
◼️<その1>著者自体をずらす
・問い:「ポストモダンと身体の関係を著者はどう考えてるのかな?」
フレデリック・グロのアカデミックな背景の中心はミッシェル・フーコーの研究であり、ポスト・モダン研究の系譜の人です。ここに「歩く」という身体に関心が向いた著作があるというのが、彼のユニークさだと感じるんですよね。
「歩くという哲学」は「思想の前に体がある」という、身もふたもない話を堂々としているわけです。つまり、思想を解体してしまったポスト・モダンがニヒリズムへ行き着く中、その「ニヒリズム返し」として「歩く」を置いているように見えるのです。
フレデリック・グロの仕事
エコール・ノルマル・シュペリウールで哲学を学び、博士論文でミシェル・フーコーの知の理論と認識史を研究。以後、狂気の歴史、主体化、自由と倫理の問題をテーマに一貫してフーコー思想を批判的に継承している。著書『フーコーと狂気』(法政大学出版局、2002年)は、フーコーの『狂気の歴史』を体系的に読み解く試みとして評価が高い。
思想と著作
代表作『歩くという哲学(Marcher, une philosophie)』では、歩行を単なる移動ではなく「自由」「孤独」「思索」と結びつけ、人間存在の根源的経験として捉える。ソクラテス、ルソー、ニーチェ、ソローらの思想を引用し、現代社会の速度や効率への批判を展開した。フランスでベストセラーとなり、21言語に翻訳されている。
ちなみに、フーコーが「歩くという哲学」に入ってないところをみると、あまり歩かなかった人だったのだろうw
小生は哲学研究をしたいわけではないけど、グロの気持ちが託された本書の意味はぜひ知りたいのです。でもって、フーコーの仕事との関係から、グロの「歩く」までの道のりを試しに整理してみました。それが図表にしたのが下図738です。

ポストモダンの行き詰まりって、「何を考えても相対化できます。ええ、ポストモダンという考え方もその一つでしかないのです」っていう自己否定を含んでいるところにあります。だから、ニヒリズム。斜に構えざるを得ないインテリって感じっすかね。
グロは、世界を解釈するには、「なぜ」の前に「どう生きる?」があるって考えているんですね。Whyはもういい。その前にHowを自分の体に問え!、というメッセージがこの本にはある。ここが他の「歩く」系の類書にない魅力なんじゃないでしょうか?
◼️<その2>「歩く」ことをずらす
では、「歩くという哲学」の見え方をずらす、もう一つの方向を試してみます
・問い:「歩く以外に思考の条件になるものは何があるのかな?」
AIから出てきたのは「歩く」以外では5つ。以下にまとめてみました。

1、静止・沈黙(座る・瞑想)
まずは本線というか本丸。「思考する↔︎思考を止める」っていうのは、思考の条件になるだろう。白紙のキャンバスがもっとの絵が描きやすいはずだからね。ただし、欠点もある。面倒臭いのだ。小生も瞑想会の主宰メンバーになっているけど、毎月一回集まるぐらいです。毎日、瞑想を習慣にする人もいますから、「できない」ことはないですけど「歩く」ことに比べると場のセッティングは手間です。人は静かになれんのだw
2、書くこと(仏語でエクリチュール)
まあ、これは条件っていうより、思考そのものとさえ言える行動です。思考が先行して、書き物になるとしても、書くことが思考を導くのは多くの人が納得するところです。日記やジャーナリングなど、書くことを奨励するのも最近の傾向ではないでしょうか? 書くことは脳に負荷を掛けます。これによって、絵の具のチューブを指で押すようなことが起きます。思考の加速条件とも言えそう。となると、この書くことでの脳への負荷エネルギーは「歩く」に比べると、やや敷居が高くなります。
3、対話(他者との関係)
コーチングに代表されるように対話によって、思考がインスパイアされるなんていうのは日常ごとです。まずは、誰かに話してみる。話している間に、新たな思考に目覚めるなんていうのは、その典型的な現象です。相手が答えを持ってなくてもいいんです。ただし、それなりの関係性は重要でしょう。教えてもらう関係、ただ聞いてもらう関係、何かを教える関係など、それなりに思考の重さや軽さにつながってきます。「歩く」に比べると、最適な相手に場面をセッティングするという段取りが必要になります。
4、逸脱・旅・放浪(越境という体験)
日常から飛び出ると、環境が思考を変えます。だって、今までの思考パターンじゃ生きていけない感じがするからね。旅は、自分をリセットする力が半端ないです。これって、別の環境を全肯定していくってことなので、自分の境界線と旅先の境界線が混ざり合う行為です。越境です。思考がジャンプアップする場面では、異質な知見が混ざり込んで、今までの思考パターンが崩れ、そこから第三の秩序が立ち上がってきます。だが、非日常はめったに起こせない。「歩く」が日常すぎるなら、越境は非日常すぎるのだ。
5、身体の極限(苦行、運動)
これは小生も思い浮かばなかったな。運動も極限になると、別のものが見えてくるってことなんだろうな。村上春樹のマラソンとかもそうなのかな? 苦行っていうのも滝に打たれるとか? まあ、身体の極限を目指してみるなら、当然ですけど、思考とかしてる場合ではないのです。ヨガでさえ呼吸するのにいっぱいいっぱいですから。ある意味、瞑想による思考を止める行為の強制版みたいなものです。「歩く」との違いは明白なので、加筆したい違いは回復ですかね。思考の条件って言うけど、終わった後にすぐには思考に戻れないじゃないですかw
こうやっって「歩く」以外の思考の条件を押し込んでみると、「歩く」についてのユニークさを可視化しやすくなります。
まず、「歩く」ということには身体というカテゴリーとのつながりがあるということ。脳→体全体→歩く→体全体→脳の流れで表してみました。
まずは、思考の条件が損なわれているのがスタートです。これって頭が加熱している。つまり、脳に中で言葉がグルグルしていたり、情報がバンバンはいってきていたりして、認知過剰状態になっています。
ここで、いきなり脳の気分転換を狙ってコーヒー飲んだり、マンガ読んだりしない。なぜなら、体全体からみるとエネルギーが脳に偏って溜まっているいる。電流で言うなら、電気が滞留したままでいる。
まずは、脳の帯電状態を放電させたい。
歩くことは直接に脳とつながって働くわけではなく、放電の回路を体全体に開かせることに貢献するのだろう。大切なのは、脳を一つの内臓であり、体が内臓をパッケージングしているものだという見立てです。
「歩く」習慣がある人には頷いてもらえると思いますが、ある程度の距離を歩くと、脳が軽くなっていく感覚を得ます。スキッとする。
「歩く」ことは体全体の動きですから、呼吸や身体のリズムと同期します。これって脳に溜まっている過剰な情報や認知をアースします。不要な電流の放電です。身体的な循環が優先されて、その望ましい循環のリズムに脳が従ってくるわけです。

ちょっと追記します。
こうやって脳を内臓として扱っていくと、深呼吸で内臓としての肺も放電の役割をもってることになります。ふむ、呼吸によって肺と言う内臓を活用して、体全体の循環を取り戻すってことですからね。ヨガもそうだけど、呼吸法自体が重視されるようになってきているのには納得感があります。

本棚にあった呼吸系の本
4、文脈を「本ごと」から「自分ごと」に転換する
本の文脈を拡張・移転しながら試創してきましたが、ここからは自分ごとへの転換に進みます。今回の試創読書会の流れを図解でメモしておきます。

「歩くという哲学」を「歩くという生活思創」に転換してみます。
生活思創は、その場の「見通しの良い」考え方を生成していくことで、心的なエネルギーの無駄をなくしていきます。内面のエコロジーのための方法論でもあるのだったw
「正しい」考え方が当てにならない時代の生活態度だよ。正しいとか間違っているとかに巻き込まれて、いちいちキーってならない工夫でもある。それが生活思創。
さて、本書から広げてきた読書会の試創の過程をまとめてみたよ。
「脳の過負荷」→「身体への設置」→「脳の再統合」っていうフレームにしてみました。最後の「脳の再統合」っていうのが文脈転換のキーワードになります。

一番下の「脳の再統合」には、2つの思考への貢献がある想定しました。
記憶ベース型と生成ベース型です。「歩くという哲学」は、具体的には謳っていないけど、過去の知識を検索させ、正しい答えを選ぶ方向に思考
していきます。どちらかというと記憶ベース型への貢献を語ってます。歩くことで検索ノイズが減るのだ。小生のメタファーでは認知過剰をアースする、つまり放電ね。

この話を「歩く生活思創」なるものがあったとしたら、それはどのようなものなのだろうか?っていうのを創るよ(試す+創る=試創)
小生にとって「歩く」ことは、手持ちの混乱に秩序を与えてくれる準備にあたります。混沌とした頭の中に風を通して「見通しをよくする」条件を提供してくれることなのです。
そして、グロの「思考」とは小生の「見通し」であり、グロの言う哲学(小説・詩なども含んでいます)は日々の生活のことなのです。
話をもっと記号接地した世界に持っていきます。
じゃあ、小生はこの「歩くという哲学」から何を得たのか? 感じている新しい「見通しの良さ」は何なのかを可視化していきます。
先に見せた「歩く」以外の思考の条件の図表を使って、小生の現在の「歩く」をよりバージョンアップしてみます。
手続きはこんな感じ。
①歩く以外の5つの行動のコアを抑える
②そのコアを、小生の「歩く」に組み込めないかを検討する
③小生の「歩く」での実践=「見通しの良さ」を生む条件の質向上
まずは、5つの行動のコアを五角形の図に書き込みました。
※あくまでも小生の視点なので、他の人なら別のコアが置かれるでしょう。

コアをの表現も、歩く時に何に意識を向けるか

5つの行動を「歩く」に組み込んだ時のキーワードが出揃ったね。気がするだけかもしれんが、まあ、よいのです。生活で実践すれば腑に落ちるから。5つのうち、停止・沈黙にある重力なんかは「歩き瞑想」そのものです。
また、季節の移り変わりと、体内の微細な変化って、時間軸が最短と最長なとことが面白いね。うーん、歩きながら意識の向きを変えていくのは難しいかもしれないけど、きっと練習次第だ。そう信じていこう!
5、未読本と自分に結び目を創ってみる
知n的持久力の鍛錬と言ってしまえばそれまでなのだけれど、もうひとつ小生が押し込みたい試創があります。(ここまで書いてて湧いてきたものなので、『2、書くこと』の効用だね)
歩いてワーキングプレイスやカフェに行くだけでなく、自転車でも行くんだよ。ほぼ半々です。自転車だとやや遠くの場所にも赴けるので、週5日を考えると色々なところに行きたい小生の性分に合う移動手段の選択なのです。

でもって、自転車を「漕ぐ」も「漕ぐ生活思創」だと強引に拡張して言語化してみました。だいたいは歩くことと同じ効用なのだけど、自転車ならではってところもあるんです。そこに焦点をあてます。
「歩く→漕ぐ」の大きな違いは2つ。
「重力→風圧」と「季節の移り変わり→視点の高さ」です。重力が縦の力、風圧が横の力。季節の移り変わりが時間の変化、視点の高さが→空間の変化。ふむ。「歩く」と「漕ぐ」に相補性が浮かんでくるね。ちょっと、言葉にしてみる価値があったように感じるのだった。知的持久力のご褒美でしょうかw
娘「あのー、まだよく掴めてないんですけど。試創読書会の本ゴトを自分ゴトにするって、どういう意味なんですか?」
父「はあ。じゃあ、こんなのはどうですか? 」
人が集まって、読書会に参加しているとします。そこで、本の中身について、質問があったり、それぞれの意見があったりしながら会が進んでたとします。 すると、いきなり1人の人が『それって食べられますか?』って叫ぶ。
父「これって、ええ?〜ってなりますよね」
娘「きっと、今まで寝てたんだね。食事の夢でも見てたから、何か食べ物の話に聞こえたんだとかw」
父「いいね。そう考えてみよう。ならさ、普通の読書会なら笑いが起こって、まるでその発言がなかったようにして、元の話の流れに戻るじゃない」
しかし、試創読書会は真逆なのです。たぶん、AIが介入してきて、『それは食べられないんです。しかし、何々することはできます。なんなら、何々できる方向で本の内容から語れることを集めてみましょうか?』なーんて言ってくる」
娘「AIなら、言いそう」
父「そうなると、俄然、展開は変わるよね。トンチンカンに見える質問だけど、そこをAIが本の中に回収してっちゃうんだから、全く新しい視点が試されることになるわけです」
娘「うーん、それが本ゴトを自分ゴトにすることなのかい」
父「少なくとも、その寝ぼけてた人にとっては、本ゴトが自分ゴトにはなっとるわな」
娘「もっと緻密な段取りがあるかと思ったけど。かなり、ぞんざいな進め方なんだな」
父「読書が進むと、人は本の内容に取り込まれていくのさ。むしろ、どこまでトンチンカンでいられるかの方が難しいんだよ」
Go with the flow.
