「見通しの良い人生」のための用語とツール開発<13>中庸(ちゅうよう)ととのえ衆
娘「中庸ってバランスよく生きるってことでしょ?」
父「まあ、一言で言うと、そうなんだが。むしろ、バランスよく生きれないのが人間だから、バランスが取れてない自分に気がつきましょうよ、っていう意味合いの方が強いんじゃないかな」
娘「ふーん、でもいちいちバランスがどうなっているかなんて、みんな気にするのかな?」
父「うむ、だよな。きっと、多くの人が『今、私はバランスが取れてた生き方をしている』って信じているだろう。だからこそ、今だに中庸とか古典を引きに合い出さにゃあならんのだろう」
◼️「それもまた、よし」、中庸(ちゅうよう)ととのえ衆
誰もが「無理です」応援団リミッターズと「頑張ります」圧力団体プレッシャーズに影響を受けて生活をしているとして、その先を試考していきます。
前回は、この2つのリミッターズとプレッシャーズの影響が対称性を持っている図を掲げたところで終了してましたね。

あなたも小生も、同一人物でありながら、限界ブレーキと限界アクセルを使うことで、感情的に疲弊する場面に出会します。
「無理です」(なんか無理って言ってから、ウジウジ感が残る)私が無理だと判断した行動なのに、誰かがスルッと行動するのを見ると、ますます、不穏な気持ちが湧いてくる。リミッターズは人の感情を押さえつけるところがあります。
「頑張ります」(なんか本気で言ったつもりなのに、視線が伏し目がちになっている感じがする) 私が頑張ると判断した行動なのに、力が入らない、頭の疲労が早いような気がするが、だからこそ頑張るのだと、これこそが頑張るの意味だと自分に言い聞かせる。プレッシャーズもまた、人の感情に蓋を閉めさせるところがあります。
さて、このリミッターズ、プレッシャーズを対にして扱って、生活を思創してみようという試みです。完全に対称性があるとはいえません。しかし、どちらも限界ブレーキ、限界アクセルという感情のバランスを失った極にいる状態ですから、もう一度感情のバランスを取り戻すと言う意味合いがある活動です。
これは中庸と呼ばれる状態です。
話をちょっと中庸の方に振りますね。
◼️中庸とは何か
中庸とは、やりすぎず、やらなすぎず、ちょうどよいところに身を置く智慧です。古くから「徳の中心」とされてきましたが、現代人にとっても重要です。なぜなら私たちは常に、リミッターズ(内的なブレーキ)に縛られ「無理だ」と諦めたり、プレッシャーズ(外的な圧力)に追われ「頑張らなきゃ」と自分を追い込んだりしているからです。どちらに傾いても感情が硬直し、心身の余白が失われてしまいます。
中庸を目指すことは、そうした偏りを整え、呼吸を取り戻し、清々しさや穏やかさを感じられる生き方に通じます。正解を探すのではなく、風のように柔らかく、いまここに調和を取り戻す習慣的な態度。それが中庸なのです。
出典:『中庸』『中庸(ちゅうよう)』は中国・儒教の古典で、『四書』(論語・孟子・大学・中庸)のひとつに数えられます。
著者は孔子の孫である 子思(しし/孔伋) と伝えられています。
中庸の冒頭には「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教」(天の命じたものを性といい、それに従うことを道といい、その道を修めることを教えという)とあり、人間が天と調和するための道が説かれています。
中庸が「徳の中心」と呼ばれるのは、中国の古典『中庸』に由来します。そこには「喜怒哀楽の未だ発せざるを中といい、発して皆節度あるを和という」(第1章)とあります。感情が極端に傾かず、発しても節度を保つことこそ人の徳の中心だ、と説かれているのです。この感情に力点があるのがポイントです。リフローミング(Re-Flooming)なんて、感情を表舞台に出していきましょうよ、っていう道具ですから。
勇気も行きすぎれば無謀に、足りなければ臆病に。優しさも過剰ならお節介に、欠ければ冷酷になります。中庸とは、その過不足をととのえる態度。現代人が「もっと頑張らなきゃ」「もう無理」と振れやすい時代だからこそ、徳の中心としての中庸は、清々しく穏やかな生活の軸になるのです(それは、生活の「見通しの良さ」とも言い換えができます)。
(出典:『中庸』第一章/『四書集注』朱子注)
では、今回の生活思創の中庸を整える話に戻っていきます。
◼️中庸ととのえ習慣
「中庸」とは、やりすぎず、やらなすぎず、ちょうどよいところに身を置くことです。でも、日常ではどうでしょう。「もう無理!」と諦めに傾いたり、「頑張らなきゃ!」と無理に突っ走ったり。気づけばどちらかに偏って、心や体が硬直してしまいます。そして、その奥では感情が押さえつけられています。
そこで役立つのが 「中庸ととのえ習慣」 としてみましょう。これは特別な修行ではなく、生活のなかでほんの数分、自分を整えるための小さな習慣のこと。ええ、自分の偏った状態に気がつくだけです。
限界ブレーキを、また踏んじまったようだ。もしかして、限界アクセルを踏みっぱなしなんではないか?、とか。大事なのは「正解を出すこと」ではなく、「今の偏りに気づいて、少しだけ風を通すこと」です。毎日の生活の中で「中庸ととのえ習慣」を取り入れると、不思議と感情がやわらぎ、見通しのよい気持ちで過ごせる時間が増えていきます。
リフローミング(Re-Flooming:前回と前々回を参照してください)で、リミッターズやプレッシャーズを擬人化してきましたので、この中庸ととのえ習慣でも、同様にやってみます。中庸の民(たみ)、ととのえ衆って呼ぶことにしました。あー、これらは話を面白くして、読んでる人の気持ちを喚起するためのものなので、そのネーミングの好き嫌いはお任せです。むしろ、ご自分で作るのが愛着が湧いてよろしいかと。
ととのえ衆は四人 ネーミングは際立ちを意識して和風っす。
はかりびと:状況を確認する役「今日、リミッターズが集まってたね」
ゆるしびと:まずは受諾する役「まあ大丈夫、それもまた、よし」
とまりびと:プレッシャーズ担当「メンバーの誰と和解するのか?」
ながれびと:リミッターズ担当「メンバーの誰を味方にするのか?」

この中庸ととのえ衆が、「無理です」「頑張ります」の中にある感情の揺らぎを、整える。決め台詞は「それもまた、よし」 リミッターズにもプレッシャーズにも攻めることもなく、無関心を装うこともない。まずはその状態を受け入れる、それが中庸の民の文化なのだ。

でもって、AIには中庸ととのえ習慣の意義を「感情の硬直化への対処」として、ややアカデミックな視点から語れそうなことを出してもらいました。
感情の硬直とアイデンティティの関係
反復による固定化
同じ感情反応(怒り・諦観)が繰り返されると、「その反応=自分」という自己定義になる。
社会心理学で言う 自己スキーマ (self-schema) に近い。
認知的不協和の低減
「諦めた/執着した自分」を正当化するために、感情を自己アイデンティティに組み込む。
Festingerの認知的不協和理論(1957)が根拠。
役割期待との融合
他者や社会からのラベル(例:「あなたは我慢強いね」「君は諦めやすい」)が内在化され、感情パターンと結びつく。
Meadの役割取得 (role-taking)、Eriksonのアイデンティティ形成論の視点から説明可能。
身体化 (embodiment)
感情硬直は身体の緊張としても現れる(肩がこる、呼吸が浅い)。
Damasioの情動と身体の相互作用理論が裏付け。
この中で最も重視したいのは身体化だね。結局は、感情の不具合が累積すると体調が悪くなるんですよ。
中庸ととのえ習慣は、慢性的な感情疾患を予防するという意味もあるってことかな。
例えば、この中庸ととのえ習慣を、1日ごとの記憶単位でチェックしてみたらどうなるか?、試考してみました。デイリー・フローっていう名称にしたよ。

4人衆の中にもキーマンがいます。ゆるしびとが中庸のキーマンです。「それもまた、よし」が決め台詞。いいんですよ、本当にそう思ってなくても。まずは言葉にする、棒読みでいいのです。中庸の民が他の領域を批判したり、対抗するのは、中庸の本筋から離れてしまうからなのだ。そもそもの話、感情への弾圧行為に処方はない。ある意味、中庸とは自分へのゆるしでしかないのだろう。
当然のことながら、ゆるしびとはあくまでも役柄です。自分の中にはないかもしれません。いや、むしろ不在が故に、押さえ込まれた感情に振り回されて疲れ果てているのです。 でも、心の中の一人芝居ならできるでしょう。
さあ、ご一緒に!、「それもまた、よし」
付け加えておきますが、中庸ととのえ衆はリフルーミングの一つです。心に隙間を作って風を通す様子を例え話で描いたものにすぎません。感情を扱う時は、楽しげなのがポイントなのだ。
せっかくなので、もう少し押し込んでみます。
◼️中庸羅針盤(ちゅうよう・らしんばん)を使って、中庸ととのえ習慣
ちょっと加工を施して見ましょう。♾️マークに見るように、2項目の対称性だけだと話が単純なので、もう一つの視点を導入して試考します。
生活思創らしく、小難しくしていくよ。諦めと執着の違いの軸を入れると、少しは解像度が上がるかもしれない。そんな目論見です。
諦めと執着 ― 精神免疫と精神依存の力学
私たちの生活には「諦め」と「執着」という二つの力学が常に働いています。古典的には「過ぎても足りなくても偏り」と言われますが、現代生活の中ではこの偏りがもっとわかりやすい形で現れます。それが「精神免疫」と「精神依存」です。
精神免疫は心理学の標準的な用語ではありません。ただし類似する概念としては、心理リアクタンス(psychological reactance)というのがあります。これは、人が自由を脅かされると逆に反発し、選択の自由を守ろうとする動機ですが、そこから派生して「挑戦や変化を予告なく拒む防衛反応」などに似た構造をイメージできます
精神的依存 は、心理学や臨床の領域で広く使われている用語です。これは特定の行動や状態(例:薬物、ゲーム、承認など)に対する精神的な執着を指し、やめると不安や焦燥観が生じるものです
まず「諦め」は、精神的なアレルギー反応に似ています。まだ起きてもいない未来の可能性に対して、心が過敏に反応し「やめておけ」「危ないぞ」と拒絶するのです。たとえば「新しい企画を任されそうだ」と聞いたときに「自分には無理です」と即答してしまう。これは本当は挑戦したい気持ちが心のどこかにあるのに、失敗や恥をかく不安が免疫反応のように先回りして未来を閉ざしてしまう現象です。これをここでは「精神免疫」と呼びます。体に必要以上の免疫反応が起こるとアレルギーになるように、心にも「未来を避けすぎる防衛反応」が存在するのです。
一方「執着」は、精神的な依存に近い力学です。社会の期待や人からの承認に応えたときの安心や快感が報酬となり、それを手放せなくなる。たとえば仕事で「頑張ります!」といつも即答してしまう人は、もしかすると「頑張ること」自体に依存しているかもしれません。本当は休みたい、ゆとりが欲しいと思っていても、「期待に応えることで得られる安心感」や「褒められる心地よさ」がやめられないのです。これを「精神依存」と呼ぶことができます。依存はアルコールやギャンブルだけでなく、「頑張り続ける自分」にも起こり得るのです。
この「精神免疫」と「精神依存」の二つは、一見正反対のように見えて、実は同じ根を持っています。どちらも「感情の硬直」です。無理に諦めれば未来を閉ざし、過剰に頑張れば自分をすり減らす。つまり、どちらの力学に傾いても「いまここ」を生きる余白が失われてしまうのです。
だからこそ必要になるのが「中庸」という感覚です。中庸は、両極のどちらにも偏らず、やりすぎずやらなすぎず、その場のちょうどよさを探す姿勢です。諦めすぎたら「ほんの一歩だけ試してみよう」、頑張りすぎたら「今日はここで切り上げよう」と小さな調整を入れる。理屈で自分を説得するよりも、深呼吸やユーモアのひとつで場をゆるめることが有効です。
私たちは「無理です」と言うときにも、「頑張ります」と言うときにも、実はその裏に諦めと執着の両面を抱えています。精神免疫が強く出れば未来を避け、精神依存が強く出れば過去の評価に縛られる。けれども両方を眺めながら「今の自分はどちらに寄っているだろう?」と問い直すことで、感情の硬直は少しずつほぐれていきます。
中庸とは、特別な境地でも理想的なゴールでもありません。それは毎日の生活の中で、風を通すように小さな調整を続ける習慣です。精神免疫と精神依存という二つの偏りを知り、自分の中の「無理」と「頑張り」の声をやさしく聞き分ける。そのとき初めて、清々しさと穏やかさを伴った「ちょうどよい生活」の方角が見えてくるのです。
諦め ↔ 執着の入れ替えを使って、中庸羅針盤を作ってみよう!
<基本の中庸羅針盤>A. 無理 ↔ 頑張る
無理=挑戦を諦める
無理=「自分はできない」という評価に執着する
頑張る=社会の期待に執着する
頑張る=「休みたい自分」を諦める
<応用としての中庸羅針盤>B. 自己主張 ↔ 遠慮
主張しすぎ=自分の立場に執着する
主張しすぎ=他者との調和を諦める
遠慮しすぎ=自分を出すことを諦める
遠慮しすぎ=他者の期待に執着する
こんなふうに基本版と応用版にペアを想定して見ました。これらを 諦め/執着の二重構造として捉えると、単なる二項対立ではなく「感情硬直の相補性」が浮かび上が理想です。生活の癖や口癖も「諦め型」と「執着型」を行ったり来たりしている。同じ行動でも自己著述には両面がある。そして、中庸ととのえ習慣とは、この両側の硬直を緩め、定期的にバランスを回復することとします。。
・A 無理↔︎頑張る <基本の中庸羅針盤>
まずはリフローミング例の様子から。「無理です」と言うとき、背後にはリミッターズの一人がこっそり耳打ちしています。「やめとけ、傷つかずに済むぞ」と。限界ブレーキだと認識できたら、それは中庸ととのえ衆のはかりびとです。まずは、「まあ、それもまたよし」とゆるしびとに繋ぎます。感情の隙間ができます。ながれびとが出てきて、気づかれないように「今日は準備運動だけ」と言い訳しながら、ほんの一歩を踏み出すのがコツです。
逆に「頑張ります」と口走ると、プレッシャーズが目を輝かせて背中を押してきます。「もっと速く!もっと成果を!」と。限界アクセルだとはかりびとが認識できたなら、「それもまたよし」とゆるしびとに繋ぎます。感情の隙間とは舞台転換でもあります。とまりびとが、彼らプレッシャーズに気づかれないように「実は今日は早めに寝て、明日もっと頑張る」と約束して帰る。
リミッターズやプレッシャーズに見つからず、あるいは彼らを“だます”、”仲間にする”ように立ち回る脚本です。中庸ととのえ衆が中庸の風を送る感情舞台を描写するのがリフローミングです。

小生が使って中庸羅針盤を記号接地させてみる。挑戦を諦めるの直近の思い当たる節は、「楽器に挑戦」ですかね。いや、本当の音楽の成績もひどいし、音痴だし、昔ギターとかやってみたけど挫折です。これって楽器の演奏をすることへの精神免疫があると言えます。(はかりびと談)でも音楽や楽器には罪はないのです。(ゆるしびと談)
これを一旦、音楽や楽器から離れてみます。何か頑張ったものがあるかな?ってことです。あーそういえば運動神経が鈍いオイラもテニスは大人になってから始めたな。それは、世間的な健康のために運動習慣を持とう、ってな風潮に応えてきたっていう、うっすらだけど満足感がある。(ながれびと談)
するとですよ。楽器演奏は音楽へのコンプレックスがあったけど、テニスはやや状況が違うんですな。テニスって運動へのコンプレックスだけでなく、週一でも健康維持しているっていう気分も継続に貢献している気がするのです。(とまりびと談)ふむ、コンプレックスって比較競争の亜種です。つまり、小生はコンプレックスから離れることこそ、頑張る&無理の間のニュートラルへ向かう条件らしい。そう、コンプレックスは筋の悪い感情のエネルギーですからね。まあ「それもまた、よし」なんだが。(ゆるしびと談)いいねえ、これ書きながら気がつきましたぜ。
その後の顛末。月に一回ぐらい松本市内で劇団の芝居を見ることにしました。知らんかったけど、松本は演劇が盛んなところらしい。魅力は音ものへの興味(軽い執着を取り込む)とライブな場にいるだけでいい気軽さ(重くなりそうな無理を軽減)ですかね。音楽や楽器へのコンプレックスを避けながら「中庸ととのえ行動」が起きているやもしれん。 現在、試験中でございます。

・B 自己主張↔︎遠慮 <応用の中庸羅針盤>
羅針盤の使い方を拡張してみるよ。
まずはリフローミング例の様子から。声を強めすぎるとき、プレッシャーズが「もっと主張して勝ち取れ!」と舞台袖で旗を振っています。その勢いに気づかれないよう、「ちょっと意見を聞いてほしいんだけど」と前置きして控えめに出す。するとプレッシャーズは「まあ、それならOK」と黙ります。反対に遠慮しすぎてしまうとき、リミッターズが小声で「出しゃばるな」と言っています。
そこで、中庸ととのえ習慣です。
強く主張したり、ダンマリを決め込むことのタイミングがよくわからなくなって混乱しているのです。限界アクセルと限界ブレーキの踏み込むこと自体に、自信をなくしつつある感じでしょうか? はかりびとが気がついて、中庸ととのえの場が始まります。で、まずはゆるしびとがその混乱を認めてあげます。「それもまた、よし」、まずは受け入れる。でもって、ながれびとやとまりびとに語ってもらいます。こはあえて「そうだね、でも私はこう感じた」と少しだけ自己開示して、リミッターズやプレッシャーズを味方にしましょう。「ほら、ちゃんと控えめに言ったでしょ?(もしくは、話す回数を減らしたでしょ?)」と彼らも納得。擬人化キャラをなだめたり煙に巻くように振る舞わせるわけです。中庸ととのえ衆の感情舞台を想像し、描写するのがリフローミングです。

小生が使って中庸羅針盤を記号接地させてみる。小生はコンサルタントという職業柄もあり、基本的には主張することを優先します。もちろん、相手構わず強引な言い回しはしません。とはいえ、自己主張に重心を置いて対人関係に臨ことが多いかな。どこかでアイデンティティが絡んでいることは間違い無いでしょう。
さて、この中庸羅針盤の出番は、小生の親としてのあたふたを可視化させます。親は、過去経験0から始まるので、親としてのアイデンティティなんかはほとんどありません。あるのは、自分の親の原風景ぐらい。
そもそも、子育ての現場では親の主張なんぞは、小さな子供にとっては空気以下です。そよ風さえ起きません。いうこと聞かねーw がデフォルト。むしろ、言わないほうが生活の回りが良かったりすることを体験していきます。(はかりびと談)もちろん、グッと我慢するけど、主張しないという主張のオプションを現場で学びながら、徐々に手に入れるわけです。 え?、あなたも?
そうこうしていると、最初に自分が持っていた自己主張への執着に気がつきます。でも、同時に、主張することで波風が立つことを諦める必要がなくなっていることにも気がつきます。人間関係には波風は常にあるのだが、興味はそこではなく、凪も必ずあるということに関心が向いていくのだった。対話での凪って、「それもまた、よし」を体感させます。(ゆるしびと談)子供が小学校で不登校になってから、はかりびととゆるしびとの二人が交互に登場しはじめた。
そうやってると、この自己主張や遠慮に苦慮する気分から距離が置けるようになって(とまりびと、ながれびと談)、話し相手との間にできる凪を感じ取ることに重きをおけるようになってきた。凪を目指す対話だね。不登校のような「揺らぎ」が与えてくれた中庸ととのえの場なのだった。

父「中庸の弱点って、今の自分はどこか片方にいるのに、反対側の自分も考えなきゃいけないところだな」
娘「でしょ? これって無責任な第三者が語る話だよ」
父「まあ、だからこそ、自分が第三者になるようにしたのがリフローミングってことなんだな。、心の中の動きを擬人化して眺めたら、気づきも増えるし。それと、あくまで擬人化した動きだけだから」
娘「無責任もOKかい。なんか本当に効くのかな?」
父「効かないよ。一息つくだけで十分なのさ」
Go with the flow.
※備考にして、備忘録
AIセカンドリテラシーの視点で整理しておきます。3つのチャート「五知循環」「ダブル・プロンプト」「文脈ワープ」を添付してみます。

・五知循環図で見ると、今回は相剋が2ヶ所あります。中庸がオーソドックスな概念なので、そこから逸脱する方が面白いと思ったのかな? 少なくとも、伝統的な概念を新しい視点で考えるなら、相剋の矢印はいくつか欲しいだろう

・ダブル・プロンプトは2つ。記号接地がポイントです。つまり、自分のケースを適用するために、ちょっと深く自省する必要があります。じゃないと表層的な言葉遊びで終わっちゃうからね。AIに頼りすぎると、それが起きやすいのだ!

・文脈ワープはどうでしょうか? そもそも前回の限界ブレーキと限界アクセルの話も合意形成は難しそうという前提でした。中庸も同じ。ただ、古典的で、中庸自体の存在は証明が不要なので、合意形成への貢献度は高いだろうと直感してた節はあります。「私じゃなく荘子が言ってるんですから」みたいなw。
