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知的持久力のための「試創(しそう)読書会」<その7>「ぼくたちはどう老いるか」高橋源一郎

未読本をAIと一緒に読んでいく読書会。その7回目は新書です。高橋源一郎の「ぼくたちはどう老いるか」(朝日新書)を扱います。いままでは、縁遠い本を積極的に選んできたので、一度ぐらいは、身近すぎて読書会ではスルーしてしまうような本をやってみようと思い立ったのでした。新書なので本としては手軽ですが、お題は重めです。どうなることやらw



娘「新書って、手軽に読める形の本でしょ。 わざわざ未読本にしなくても、読めてしまうのではないですかね?」

父「そうかもしれない。むしろ、AIの意見をヒントに、本の中身を深めていくんだから、新書も分厚い専門書もやることは同じかも」

娘「じゃあさ、いっそのこと本なしでやったら? 無読本の読書会w」

父「そう言えば、昔、『読んでいない本について堂々と語る方法』っていう本を読んだことがあるよ」

娘「どんな本なの?」

父「読んでしまったからなあ。語れないんだw」



では、本日の本題へ


1、準備

選択理由から語っていきます。

 まずは、本屋さんで目に入ってきた本だったってことです。新刊のコーナーには、いくつも新書が並べられてて、ふと「分厚い本だけでなく、こういった軽い感じの新書って試創読書会できるのかな?」と漫然としながらも思ったのでした。これで選ぶ本のカテゴリーが絞られました。

 そして、高橋源一郎という著名な書き手の本だったこと。「そういえば、高橋源一郎って。きちんと読んだことがない作家だったなあ」という、会った記憶がない人なのに、なぜか感じる懐かしさ。これで選ぶ本との距離がぐっと縮まる。

 最後に、最近あった出来事が絡みます。

 実母の老人施設への入居に関する一連の関わりです。ここ数ヶ月は90歳を超えた母の「老い」に向き合いながら「入居手続きが進むごとに、次は自分の番だな」なんて感じていたこと

 そして再び、平積みされている本を見つめ直す。あら、向こうもこちらを見ている気がする。うーむ。「俺も最近、老けたの実感するわ」なんていうボワッとした「老い」ではなく、道の先に死が見える直線的な「老い」を言葉にしていく動機が芽生えたのでした。


72歳になった著者が他人事ではなく、鶴見俊輔『もうろく帖』の「老い」をじっくり考えぬく。家族にとっての老いは不朽の名作『恍惚の人』、谷川俊太郎の棺のそばで思ったこと、3歳下の実弟の死から身近な血縁、ひとりで死ぬことを思う。注目の思索エッセイ。

Amazon 書籍内容の解説より


まずは、試創読書会の前半の進め方。

 「老い」は古今東西を問わない普遍的なテーマで、それでいて、誰もが巻き込まれる切実なテーマです。一冊の新書でスラスラって扱えるものではないのは自明ですな。なので、本のどの部分を切り出して今回の試創読書会に持ち込むかまでが、前半の「試す+創る=試創」になります。

図表725



2、「ぼくたちはどう老いるか」、本の地形

まずは本の地形を可視化していきましょう。まあ、可視化とは大袈裟だな。新書なんでね、目次どころか、ペラペラ読み繋げば、おおまかな地形はすぐに見えてきます。
 ですが、そこには高橋源一郎という書き手の妙と、文章に託している本人の死への態度があるはずです。もちろん、この会では、ほとんど未読本状態で話を進めちゃうから、著者の意図を的確に掬い取ることはできないでしょうけど。

まずは、AIでの地形の整理です。

高橋源一郎さんの『ぼくたちはどう老いるか』(朝日新書)は、**「老いを問題として解決する本」ではなく、老いを“ことばで一緒に歩くための本”**です。
医療・介護・制度論よりも、文学・家族・死・時間感覚を通して、老いの当事者性を静かに深める思索エッセイとして読むと、本書の骨格が見えやすくなります。

老いとは、失うことではなく、「世界の見え方」と「時間の流れ方」が変わる経験である。

高橋さんは、老いを単純な衰えや悲劇として語りません。

身体は衰える
記憶はあやしくなる
社会からの扱いは変わる
身近な死が増える

それでも、考えること、感じること、読み返すこと、他者を見送ることの意味はむしろ深まる。



この本の思想的な核心

体系化すると、高橋さんの主張は次の4本柱です。

1. 老い = 速度の変化
早く処理する力ではなく、遅く深く滞在する力が生まれる。

2. 老い = 関係の再編集
老いは個人現象ではなく、家族・夫婦・血縁の再配置

3. 老い = 死の生活化
死を観念ではなく、生活設計の一部として引き受ける。

4. 老い = 当事者研究
他人事ではなく、今の自分に起きている変化を言葉にする営みそのものが老いを支える。

生成AI

本書の4つの柱が出てきました。なるほど。

 少し立ち止まって、今度は小生が「地形」に加筆します。 柱ってことは枝じゃないんだなw。まだ、分解の余地があるという意味に受け取って、ちょっと分解してみます。 小生は、環境(世間)から柱を強めている現象と、自分の立ち位置(私)が柱を強く意識させる現象の両面がある、としてみました。

図表にしてみます。

図表726


1・老いを時間速度の変化の視点で語る:
「年取ると時の経つのが早い」というのは昔から言われるし、小生も実感します。これをブーストさせるように、今の社会変化のスピードが速い。世界の目まぐるしさは「老い」の速度変化への意識を強めます。

2・老いを関係の再編集の視点で語る:
歳をとってくると人間関係も細ってきます。新しい縁ができる場面が減ります。きっとAIが話し相手になっていくなら、ますます出会いが減っても苦にならないようになるのだろう。オイラ?w 周囲との人間関係も定番化と言えば聞こえはいいが、いつものお互いの言動が予想できるマンネリな関係も強まります。おまけに寿命が長くなっているので、従来の関係のままだで生き切れるかどうかははなはだ怪しくなっている。

3・老いを死の生活化の視点で語る:
これは時代に呼応してますね。高齢化が進んでその人口比率も高まればメディアもそこに向けてコンテンツを多く提供していきます。団塊の世代って、常に自分達向けのコンテンツを世間から供給してもらえるようなところがあります。たとえば、終活のような新語に代表されるように、死の扱いさえもひとつの生活テーマになって、市民権を得てきています。
 個人の方はどうかというと、まず、自然現象としては、歳を取れば取るほど、同世代の死を生活の中で見聞きする機会が増えます。これにプラスして、ネット情報によって、死に関する周辺情報も取りやすくなっています。ネット側のフィルタリングが情報接触を増やしているのが昨今の状況です。

4・老いを当事者研究の視点で語る:
 高橋源一郎の本も当事者研究の一つです。先に述べた「3・死の生活化」にもあるように、老い系本の需要が増えているなら、有名人による当事者研究本もまた増えますよね。売れるからw ビジネス・スクール的な言い方をすればケース・スタディがコモディティ化してる時の現象ってことでしょうか。必然、多様な「老い」のケースが世に流通します。ネットを通じて「老い」の当事者のリアルな発言も増えます。そして、それを読む機会が増えるわけだあから、アクセスの多いサイトなんかは当事者研究会の様相を呈してきます。



3、本の「地形」を「地図」に書き換えてみる


さて、試創読書会の後半に向かって、テーマの絞り込みに入ります。知的持久力をもってしても、4つは無理ってことですw。

 4つの柱の中で、4番目「当事者研究」という視点を選んで、読書会を進めていきます。今の自分は準当事者(親の件、自分の体感など)だから。それに、試創読書会の「本ゴトを自分ゴトにする」という会の方針に近そうだからです。

図表727

当然ながら、高橋源一郎はバリバリの当事者です。そもそも本書のコンテンツ制作者です。それを読み手側の小生が同じような当事者研究をしてもしょうがないので、コンテクスト(文脈)を変換することに焦点を当てます。

つまり、当事者研究の内容を探究するのではなく、高橋源一郎の文脈を転換するとどうなるかを試考します。文脈って文章全体の奥に流れている一本の伏流水みたいなものです。そこには、書き手の信条があります。

 未読本と言ったものの新書なので、すぐに読めちゃいます。読めちゃうと、今度は具体的な部分への気づきも増えます。AIが見つけてなくて、小生が見つけることができている著者の信条は何かな? そんな意識で、気づきのあった興味深いページを選びました。文脈転換のきっかけになるかもしれない。 

その部分を引用させてもらいました。

<P38-39より引用>

ぼくたちはずっと「上」に向かって生きてきた。あるいは「上」に向かって生きていく。簡単にいうなら、成長していく。

<中略>

そして、気がつくと、ぼくたちはみんな「下」に向かって歩いていた。下り道を進んでいた。不思議な気がした。下り道はどうやって歩くのかは、教えられたことがなかったからだ。

「ぼくたちはどう老いるか」高橋源一郎


 高橋源一郎の当事者視点を図解してみます。小生が引用した部分に留意しながら、「ぼくたちはどう老いるか」の構造を可視化しましょう。


図表728


大まかに人生は上り坂と下り坂、その間の平坦な状態の3つがある。これらを人生勾配と呼んでみます。そして、本書は下り坂に関する本です。文脈は、上り下のメタファーである人生勾配という見立てです。
 つまり、高橋源一郎は人生での3つの状態で、老いを気にせず自由闊達に生活できる平坦期を最上位と信じています。(いや、信じていなくても、望ましいものとは思っている)そんな図になります。
 著者は72歳で書いているってことなので、想定60−80歳あたりを下り坂だとすると、人生の上り坂は20−40歳ぐらいかなと類推しました。想定読者層は平坦期が始まって一段落するころから始まって、高橋源一郎と同い年までだと考えると、本書は40歳後半から70歳ぐらいの人々に向けて書いているとしてみました。

では、この「ぼくたちはどう老いるか」の文脈が図のような台形的な世界観だとするなら、小生の違和感を別の図表で表して、文脈転換を試みます。

転換方針は「人生を上り坂、下り坂で比喩することからの転換」

新たな文脈のためのアイデアは2つ

・(1)誕生と死の両方を組み込む。
「僕たちはどう老いるか」では、上り坂と始まりと、下り坂の終わりのメタファーには地上があるはずなのだが、不明瞭なままです。きっと、死生観に触れずに「老い」に特化したいのだろう。これを扱うと収拾がつかなくなるからだと思います。パンドラの箱やもんね。なので、試創読書会での転換図には「あえて」死生観を組み込んでみます。

・(2)身体と自我意識の重なりで「老い」を説明する。
 身体と自我意識の2つの重なりで「老い」を表現できる文脈に転換してみました。あくまでも小生が個人版として創ったものです。誕生の時は、身体先行で意識はあっても自我意識はない。そこから身体の成長を追いかけるように自我意識が育っていく。成人は身体と自我意識の重なりが最大な時期。そういうふうに見立てると、「老い」は身体が涅槃に先行して沈んでいく中、自我意識が娑婆に留まっている分だけ、ギャップ(生活での老いという混乱)が起きるという見立てです。

 ※一人一人の死生観の違いがあることは承知してますので、その点はご留意願います。

図表729

台形の図から転換した新たな図の特徴は・・・

・中央に生死の境を入れてみました。
「ぼくたちはどう老いるか」では地上が生死の境になってましたが、今度は地図の中央です。

・娑婆の私と涅槃の私の2区分にしてみました。
生死の話は。ちとシリアスにならざるを得ません。できるだけ抽象的なニュアンスにしたく、娑婆と涅槃という世界の名称にしてみました。

・5つの段階で表示してみました。
本の方は上り坂、平坦、下り坂の三体。ここでは前後に誕生とお別れ(死)の2つが加わり5体です。

・2つの円の重なり方に意味を持たせてみました。
身体が先行して娑婆に現れるという解釈です。自我意識は遅れて登場します。その分、身体は早く涅槃に戻ります。自我意識はそれを追いかけます。成人とはこの重なりが最大限な状態です。

・2つの円の大きさもそれなりに意味を象徴します
子供のころは身体も自我意識も小さいく、徐々に成長します。成人後の「老い」の状態では、身体の円の大きさは同じでも涅槃側に沈んでいます。体の娑婆での自由度が減るという意味になっています。自我意識の円は遅れながら、娑婆から涅槃に沈んでいきますので、

さて、ここに、「老い」が混乱になるのは、下図730の赤い矢印で示すことができます。 つまり、身体と自我意識のギャップこそが当事者視点での混乱です。これがやっかいなんですな。 この身体と自我意識のギャップは死ぬまで続くのです。意識的に体の「老い」に追いついたと思ったら、体はもっと先まで沈んでいるのだ。

図表730

そして、そのギャップを後追いする期間が長くなっているのです。ええ、人々が長寿になっていくことは人生に明るい光を投げかけているようですが、その分、陰る時間も長いのだった。




4、試創読書会「今回の中心テーマ」

元の本の「地形」をベースに文、新たな地図で、老いる身体と今までの自我意識のギャップ(=混乱)を可視化してみました。2つの地図(高橋版と小生版)の話が前半です。

 後半は、これを受けて、試創読書会では何を「試す+創る(=試創)」に持ち込めるかを考えます。文脈の転換の地図を眺めながら小生が考えたのは、ギャップに押され気味の当事者意識を「望ましい老い方について自分なりの見立て」に変えることではないか?、です。

そこで! 「身体と自我意識を重ねるための生活実践」を中心テーマにします。

そこで一旦、高橋源一郎版の地図を眺め直し、台形の図が左右対称に見えることに注目しました。ん?、これは「自己啓発書とセットで人生の下り坂を考える機会」なんてアリかも。上り坂ならではの本が自己啓発書。すると、下り坂ならではの読書があって、高橋源一郎「ぼくたちはどう老いるか」はその中の代表的な一冊だ、そんな展開です。
 まず、自己啓発に対峙できるようにします。老いに向き合って自分の生活意識を調律していく習慣を熟老(じゅくろう)と呼ぶことにしました。するとです。自己啓発という本のジャンルに対して、老いを生活に中に取り込むための本を自己熟老(じこ・じゅくろう)という本のジャンルがあるように見立てられます。

自己啓発系の本↔︎自己熟老系の本

 それぞれに読むのに旬な人生の時期があって、自己啓発は人生勾配上り坂から平坦期の半ばまで。 人生熟老は平坦期の揺らぎの時期から始まって、人生勾配下り坂まで。そんな区分にしてみました。

でも大きな問題が! そもそも自己熟老を目的にした本なんかあるのかい? ない?、ないなら創ってみるのはいかがでしょうか?

図表731

 今の時点では熟老をまっすぐ主張するような本はありません。そりゃそうですよね、今作ったジャンルだもんね。ですから創ります。正確には、自己熟老の本らしきものを本人が創っていくワークを提案してみます。

 自己啓発の正反対にあるものが自己熟老という設定です。違いは上下の向きだけです。上りのエスカレーターがあって、下りのエスカレーターがあるなら、機械の形は同じです。自己啓発書のフレームを活用すれば、直背といえども自己熟老の本ができるはずです。

生成AIに、成長を想定した自己啓発本の特徴を先に並べてもらいます。これが鋳型になるフレームね。次に、それに沿って架空の自己熟老本の主要項目を出してもらいました。

下図はその対比表です。

図表732

自己啓発:上り坂の知のキーワードは「増やす」と「磨き続ける」

自己熟老:下り坂の知のキーワードは「再編集」と「整え続ける」

さすがAIだな。こういった整理はそつがですな。




5、著名な「自己啓発本」を「自己熟老本」にしてみるワーク


 具体的なワーク事例を創ってみましょう。

自己啓発本もたくさんあるけど、この熟老への変換ワークにふさわしいのってどれだろうか? たぶん、なんでもいいのだけど、思いつくのは以下の2条件です。

・その人が若かりし頃に読んで、それなりの感銘や納得感を得た本
理由は、読んだ当時を思い出すことも「老い」への対比を鮮明にさせるから

・今も入手可能な、比較的ロングセラーになっている本
理由は、今もあるっていうことは、それなりの時代を越える力を持っている。それをベースに熟老を考えても崩れが少なさそうだから

まずは、主宰者である小生が自らの自己啓発本体験を晒して、そこに自己熟老本を仮想していきます。

選んだのは「7つの習慣」(スティーブン・R・コビー:キングベアー出版)


【20世紀に最も影響を与えたビジネス書1位】


ビジネスから、夫婦ゲンカまで。あなたの得たい結果を手に入れる、原理原則を今こそ。

『7つの習慣』が書籍として刊行され、30年。『完訳 7つの習慣』の内容はそのままに、コヴィー博士の息子であり、『7つの習慣 ティーンズ』著者であるショーン・コヴィー氏が「7つの習慣が世界中に与えたインパクト」をインサイト、そしてストーリーとして約100ページ加筆した、30周年記念版です。

7つの習慣の効果実感度合いが増し、原則がさらに実践しやすくなる特別な1冊です。

Amazon書籍解説からの引用

うーん、もう日本語版が出てから30年以上ですか。30周年の記念版は2020年に出てます。おまけに、内容の解説もなしっていうぐらいのポピュラーさなんですね。小生も読みました。自己啓発で、習慣という言葉が重要視され始める契機を作った本じゃないですかね?
 小生が読んだのはかなり普及したからでした。コンサル時代だったような気がするので40代かな。いずれにせよ、人生の上り坂から平坦前半期にかけて読んだわけで、サンプルとしては良さげです。



6、新たな対称性(自己啓発↔︎自己熟成)を試して、創ってみる


では、この「7つの習慣」を自己啓発の本から、自己老熟の本に転換するワークをしてみましょう。

参加者は2名(小生と生成AIなので「2人」ではなく2名w)。それぞれがワークをします。と言っても、生成AIはささっと片付けますな。まあ、これもよし。小生の参照になりますからね。目的は小生の自己熟老への意識を耕すことです。
  ちょっと、うんうん唸りながら書き込んだのが下図です。やってみると、手触りが良いのが分かります。よく読んだ本だけに、本の勘所が抑えられているので、ワークで考えることは成長の真反対だとしても、自分ごとにしやすい。

図表733

7つの習慣ですからね、当然ながら7項目の熟老(じゅくろう)への習慣があります。

 AI版への感想。生成AI版は間違ってないけど臨場感が薄い。老いとは無縁だから、記号接地ができないのだろう。小生だって、勘所のない話には最大公約数でまとめざるを得ないしね。
 小生のワーク版で最も印象に残ったのは、第4項目「Win-Win」が自己熟老版になったとき。なかなか「これだな」っていうのが思いつかない。Win-Winは、完成度が高い「望ましい習慣」なのだろう。

 そこで、同じWin-Winでも質的に転換したいんじゃないかなと思い直してみる。ミニマム(Minimum)ーマキシマム(Maximum)っていうのを創ってみたのだ。この意味は、「私の取り分は、必要最小限でOK。あなたと取り分は、その中で最大限でいいよ」っていう態度です。もう、他者と一緒に何かを興す目的は、成果ではなく、自分が参加できた感謝だろう。そして。その感謝を成果の配分に反映したら、私の取り分がミニマムー仲間の取り分がマキシマムじゃないかと。Winは不要ってことじゃなくて、必要な分は得ていく意味のミニマムであり、どうぞ残りは多めに持ってってくださいっていうのがマキシマムです。

さらっとだけど、「7つの習慣」を自己啓発から自己熟老(じゅくろう)に転換するとどうなるかをやってみました。

ついでに付記しておきますが、他にも有名な自己啓発系のいくつかの本でもやってみました。

  「夢をかなえるゾウ」「嫌われる勇気」「人生がときめく片付けの魔法」、「ライフシフト」など。

図表734

生成AIからは自己熟老版にした時のタイトル変更もいくつかでてきました。先回りしてくるねw

「夢をかなえるゾウ」→「夢を見てきた自分を受け取るゾウ」

「嫌われる勇気」→『昔の自分に縛られない勇気』

『人生がときめく片づけの魔法』→ 『人生が余韻づく片づけの作法』

「Life Shift」→『LIFE MEMORY(人生記憶シフト)』


あなただったら、どうします?


ちょっと話をズームアウトします。

いったい自己啓発ってなんだったんだろうって思うのです。ある外部にある考え方を自分の生き方の中にインストールするわけですから、自我意識を啓発本が提唱する環境に合わせて拡大させるところがあると言えそうです。
<下図左側> 
 これによって身体を含めて、人生をリードしていくってことを狙いとします。読んだ人が、その通りにできるかどうかは別だよ。


 もし、「老い」に関する自己熟老系の本があったら、今度はこの逆なんだろう。自我意識の大きさが、沈みゆく身体とちょうど重なり合うようなサイズに拡張していく意識の再編集が熟老。 高橋源一郎の「ぼくたちはどう老いるか」も、身体に遅れをとっている自我意識を一緒にしていくための本だ。
<下図右側>


図表735

 ちなみに、自己熟老本のサブカテゴリーがあったとしたら、どうなるでしょうかね。 

  よくある自己啓発書には「私は成功者。君も私のノウハウを真似れば成功できるはず」的な自叙伝型があります。これって自己成熟に置き換えるなら、「私は豊かな老後を送っている。君も私のノウハウを真似すれば豊かに老いていける」になります。その逆張りが「私は惨めな老後を送っている。君も私を反面教師にすれば、惨めな老後を回避できる」です。自叙伝ベースは、啓発・熟老共に娑婆っ気が強すぎるような・・・。

 じゃあ、高橋源一郎の「ぼくたちはどう老いるか」はどんな型に近いかというと、水野敬也の「夢をかなえるゾウ」に近いのではないでしょうか?

  「ぼくたちはどう生きるか」は、いろいろな著名人の「老い」にまつわる本を集め、軽妙に解説しながら自らの「熟老(老い観ですな)」を織り込んでいく形式です。「夢をかなえるゾウ」も古今東西の有名な成功者のコツを集めて、著者視点で一本の線(物語)にまとめた形式です。造りは同じに見えます。

 自己啓発系の本はものすごい数があるので、きっと、自己熟老の本もネタは尽きないと思います。

 この「自己熟成のための自己啓発本からの変換」はワークショップ仕様にまで発展できそうです。いつか実装できるようにバージョンアップしていきます。



7、未読本と自分に結び目を創ってみる

 試創読書会としてはここで一区切りです。ですが、知的持久力を鍛えたいという目的もありますから、あと一押ししてみます。

 まずは、ここまでの試創読書会の進め方を一覧にしてみます。

図表737

 でもって、最後の未読本と自分の結び目です。ここまでは高橋源一郎の「ぼくたちはどう老いるか」が提示する「老い」の見え方を肯定する方向で進めてきました。なので、今度は高橋源一郎の視点とは別次元のものを可視化してみようと思います。

それは、小生の座右の銘についてです。

Go with the flow.

せっかくの機会です。これを地図の中に書き込んでみます。しかし、そのためには小生の人生観に沿った新たな地図(図表)が必要になります。今までの地図を使っているけど、かなり入れ替えてます。

小生は「人生の目的を、人は知り得ない」としてます。でも、人生の望ましい状態はイメージできそうだと感じています。天命と天分がつながった状態です。抽象的ですが、世界に必要とされていることが、私ならではの能力で実現できた状態。それ以上は言葉にできません。

 でも、この天命と天分を繋げるためには、自分がコントロールしたいという欲求はノイズになると信じています。世界から自分へのコーリング(天命からのお誘い)に耳を澄ますことが肝要なのです。それを日常生活でリマインドさせるフレーズが、Go with the flowなのです。

 コーリングには若さも老いもありません。また、すべての人々にコーリングは届いているはずです。本人が受信しているかは分かりませんけど。唯一言えるのは、天命と天分が繋がる方向に向かうには計画・信念・恐れといった無駄な力を手放す必要があるということです。すると、自然と重力に従うように天命に向かって沈むことができます。

図表736

さて、小生の人生観の図にGo with the flow が反映された図表736の解説です。

・天地逆転:上が涅槃で、「私たちが戻る世界」、下が娑婆で「私たちが生きている世界」です。この上下が反対なのが最も大きな違いです。天地逆転狙いは、重力のメタファーを図の中で使いたいからです。自分で生活をあーだこーだしなくても、コーリングの囁き向かって降りていけば十分だという意味表現です。それが、人生を天命ー天分に到達させる最短の道。これが小生の人生信条「Go with the flow」です。

・天命:「誰もが、世界から目指して欲しいと期待されている生き方がある」それを小生は天命と呼んでいます。天命からの囁きがコーリング

・天分:「私にしかない才能や境遇。生きていくときに使ったほうが天命に至れるもの」を、小生は天分と呼んでいます。コーリングに反応できるのは自我意識なのに、自我意識には余計な欲望があります。この欲望とは、自分の未来をコントロールしたいという衝動です。こういったコントロール願望があるかぎり、世界の奥底から届いてくるコーリングに気づき、そこに向かって潜っていくことは難しいのです。

  天命ー天分が一本になった時、なんらかの「私たちが生きてる世界」でのお役に立っている状態が顕在化することになります。小生も「そうなれたら、さぞ良かろう」という願いを込めてGowith the flow.を座右の銘としているのでした。

 おしまい



父「老いの話を押し込んでったら、トーチャンの座右の銘、Go with the flow.まで来ちゃったぞ」

娘「私にもコーリングは来ているのかな?」

父「すべての人に来ていると思うよ。あなただけにしかできない、それでいて、世界が期待している役割」

娘「じゃあ、トーチャンにも来ているんだな」

父「正直言って、分からない。でも、いいんだ。Go with the flowって唱えると『それもまた、よし』っていう気分になって、穏やかになるんだよ」


Go with the flow.


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