#87「黒革のシステム手帳」
転居のため、男は荷物を整理していた。
古い本や学生時代のノートを段ボールに詰めていると、本棚の端から一冊の手帳が出てきた。
黒革のシステム手帳だった。
まだスマートフォンはもちろん、携帯電話さえほとんど見かけなかったころだ。システム手帳を持つのがかっこいいと思えた、そんな若かりし時代の遺物だ。
当時の予定はすべて、この手帳に書き込んでいた。
男は荷造りの手を止め、埃を払い、ページを開いた。
《6/8 ゼミ》
《6/12 バイト》
《6/17 飲み会》
スペースも狭く、細かいことは何も書いていない。このくらいの情報で当時は十分だったのだろう。ページを繰っていくと、ある時期から様子が変わってきた。
《9/3 14:00 渋谷》
《9/18 10:00 テアトル新宿》
《10/2 18:00 代々木》
《10/16 10:00 明治神宮》
誰と会っていたのか、すぐに思い出した。学生時代に好きだった子だ。付き合っていた、と言ってよいのかは今となってはよくわからない。二人で映画を見たり、喫茶店に入ったり、公園を散歩したりした。
10月16日の予定は、自分の字ではなかった。もともとあった予定にバッテンがつけられ、その上から時間の経過でかすれたピンクのインクで書かれていた。
男はこの日のことを思い出した。爽やかな秋の日、明治神宮では、羽織袴と白無垢の一組の男女が神前結婚式を挙げていた。
さらにページをめくる。
《11/3 ディズニーランド》
《11/10 秋葉原》
《11/23 上野公園》
三十年以上たっても、そこに当時の筆跡が残っていた。
12月のページを開いた。
並んでいた予定は、少しずつ減っていた。そして、ある日を最後に、ぱったりとなくなった。理由は書かれていない。
こんなものを将来、考古学者が見つけたら、どう解釈するのだろう。
今、彼女がどこで何をしているのかはわからない。結婚したのだろうか。子どもはいるのだろうか。もし今どこかですれ違っても、お互い気づかないかもしれない。
男は手帳を閉じ、スマートフォンを取り出した。今週のカレンダーを開く。
会議。出張。歯医者。散髪。健康診断(再検査)。
カラフルに色分けされた予定が、画面いっぱいに並んでいる。来週も、その先も、予定はぎっしり入っていた。
三十年後に、この予定を偶然目にすることはあるのだろうか。機種変更。アプリ変更。サービス終了。アカウントロック。それに、簡単に修正できるが、もとの予定は画面から消える。
システム手帳は三十年以上、本棚の奥に残っていた。充電も、通信も、パスワードもいらない。開けば、昔の自分と、その周りにいた人たちの痕跡がそこにある。
男はもう一度、スマートフォンの画面を見た。次の日曜日。
《家具屋》
新しい家で使うダイニングテーブルを探す予定だった。
その後、男はスマホの予定を一つ付け足した。
《新しいシステム手帳》
あとがき
人は、未来の予定を記すために手帳を開きます。
ところが、何十年もたつと、それは過去を映す道具になる。
消したつもりの予定、忘れたはずの人、もう戻らない時間。
紙は、案外しつこく覚えているものです。
では、あなたのスマートフォンは三十年後、何を覚えているでしょう。
――もっとも、そのころパスワードを覚えていれば、の話ですが。
