天才のBHに吸い込まれたい
明けても暮れても
「未知子って、好きになると、おんなじものばっか、食べるよね。おんなじものを食べ続けても飽きないんだね。お父さんとそっくり」
う、あっそう…。
それは誉め言葉なのか?いや、言ってる目がしらーっとしてるから、決して誉め言葉ではない。
遺伝なら猶更、治るものではない性分だろう。
クラウス・ノミ、ボリス・ヴィアン…
「本物」に触れると、頭の片方に電流が流れたような痺れがくる。
それを自分は、本物と出逢った証だと勝手に信じている。
録音や録画でもそれは起こるし、生(なま)の舞台であれば、ビリビリを通り越して正常ではない心身状態に陥ることもある。震えが止まらなくなるとか、涙が止まらなくなるとか、顎が動かなくなるとか…
まぁ、滅多にそこまでのことは起こらない。
ボリス・ヴィアンは作家だと思っていたから、たまたま流れてくるままのBGMのなかで、唐突に頭をひっ掴まれるように立ち上がってしまったのが、ボリスの声だとは思わなかった。びっくりした。
なんじゃこりゃ?!
聞いたこともない音楽、普通じゃない。
フザケテルけど、作ろうと思って作れる曲じゃない。
ボリス・ヴィアンの時は、そこから半年くらい、毎日、ボリスの声を聴き続けた。
そしてクラウス・ノミ。
ブラックホールのような、底のない、真っ暗な吸引力。
ノミになぜこんなに惹かれてしまうか、
そんなの理由は必要ない、誰でもそう思うだろう?
ノミはシンガーソングライターではないのかもしれない(楽曲提供やカバーが多い印象がある)が、孤高の表現者だ。
何度も何度も何度も、いまは有難いことにウェブにたくさん映像を探すことができるから、深く広く探して、まだ見たことのないノミを、探してしまう。
「僕はSelf taughtだ。良い指導者に巡り合えなかっただけかもしれない。でも自分なりの方法を見つけたつもりだ」
活動10年、ブレイクして、たった3年で命尽きたノミ。
デヴィッド・ボウイのバックコーラスをしているとき、デヴィッドの、裃(かみしも)のような逆三角形の衣装に一目ぼれし、「これだ!」と思ったノミ。(実際彼は、パートナーのジョーイ・アリアスと一緒に、三角衣装がゴツすぎて動けないデヴィッドを人形のように舞台中央に「運んで」いく役だった)
その後、デヴィッドとどういう交渉をしたか知らないが、それを真似て、しかもプラスチックで、逆三角形の衣装を作って、顔を白塗り(グレーにも見える…)髪型はおでこの広い鉄腕アトム風で、彼の永遠のシグニチャーとなった。
あるインタビュアーが訊いた。
「なぜあなたは大げさな衣装やメイクの後ろに隠れるの?」
かれは素直な顔で答える。
「小さい頃から、道を歩くとみんな変な顔をして僕を見た。僕はそれがいつも悲しかった。今、舞台ではこの顔が喜ばれる。昔は広いおでこを隠したけど、今はこのおでこが商品のようなもの。この姿は、自分自身でいられるってことさ」
カストラートのようなファルセットの高音と、挑発的なロック、エレクトリックを変面のように瞬間に入れ替え、舞台は宇宙との交信のような、非現実感に溢れる…
この社会に生きる「違和感」「異物」そのもの、紛れ込んでしまった悲しき異星人…
けれどそんな異星人は、ニューヨークに着いた頃には、あらゆる(彼の表現では)「おぞましい仕事」をこなさざるを得なかった。
飲食店の洗い場、皮むき係、また菓子職人の顔ももっていた。
それらが「もうどうにも耐え難くなるまで」続けた。
もうどうにも耐え難くなり、彼は舞台に立ち、ついに喝采を受ける。
ついに、彼は歌う、という、彼の生きる唯一の情熱、唯一の希望に辿り着く。
インタビューを見ると、彼はそうした過去を、あまり表情を変えず、淡々と、意地悪とかふてくされた様子でもなく、「受け入れた様子で」語る。ちょっと辛そうに。
舞台の上の輝きは、100万回でも見たい。
実は自分は、完璧にショーアップされた映像よりも、外国の歌番組やトーク番組に呼ばれて、(宇宙人なのに日常の俳優とかがトークしてるところに現れて!)なんとなく場違いな中、バックコーラスもバックダンサーも舞台美術も半端でも、それでも必死に完璧に唄おうとするノミの表情、しぐさに感動してしまう。
完璧なショーも、ちょっとしょーもないシチュエーションでも、ノミはノミ。
生きることに、唄という表現に常に全力だったし、彼はそういう存在として地上に降りてきたのだろう。
病に冒されて
当時まだ「謎の病」とされてきた病に冒され、例の、彼の誇りの、プラスチックの衣装は、首の後ろの腫瘍に当たるから、着られなくて、
昔の宮廷の道化のような、イタリアのコメディア・デラルテに出てきそうな?白い飾り襟の衣装になったのは、首を隠すためだったという。
この衣装で唄う「Cold Song」は、それこそ何十回、何百回見ても、まだ見足りない。
そのライブの1年後には、世を去るのだ。
しかも謎の病といわれるアーティストに対して、周りのオーケストラの人々はどういう心境だったのか、わからない。
どうしてそんな状態で、あのような声が出るのか。
そして一度かすれたように聞こえたくだりの後に、輝くような艶のある響きで一節を唄い上げ、
最後の響くトーンが彼の口から、まるで魂がすべり出すように飛び去ったとき、
彼は観客席に右、左と、素早く探すような目線を送り、
伴奏がまだ続く中、階段を一歩、一歩急ぎ足で降りていき、階段を降り切らない途中で伴奏が終わり、2段に足をかけたまま、お辞儀する。そして、そそくさと袖に歩いていく。
パバロッティも、ノミも
このシーンを見ると、パバロッティのあるライブの、歌い終わりのシーンと重なる。
このひとたちは、まさに、神が下りてくる容れ物(あるいはすばらしい楽器)のような存在でもあり、
唄は(もちろん多大なる努力の上だが)彼らではなく、もっと大きな神的なものによって届けられたものが、彼らという、地上の容れ物を通じて、地上の人々に届けられたのだ、と感じる。
唄が、最後の響く声が口から出切り、空に飛び去ったときの、あの人たちの表情を見ると、それは何か大きなものに身を捧げていた存在、というように見える。もちろん、自ら望んでその役を引き受けるわけだろうけど、その気持ちは本人にしかわからないだろう。
と、私は思う。
ノミのBlack Holeのような孤高
そういう存在として、天から降りてきたノミは、そうでしかいられなかったし、天才とはそういうものかもしれない。
選ぶとか、じゃない、どうしてもそうなのだ。
それはなんとなくわかる。
どうしてそういう人生なの?と訊かれても、「そうでしか、有れない」から、としか言いようがない。
AIは素晴らしい能力を発揮しているけれども、ノミのように、またほかの孤高の天才のように、他人から見れば「なぜもっと楽な生き方をしないの?」「なぜもっと効率的なやり方をしないの?」と思われても、そうでしか有れない、という人間からでないと、生まれないものが絶対にあるのだ。そしてそれは、AIにはつくり得ない…
AIには共感できないだろう。なぜそんなことをするのか。
でもいつか、AIはそうやって人間に憧れるのかもしれない。
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