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オレたちはどう生きるか

気がつけば、昔、テレビでよく目にしていた芸能人の訃報が定期的に届く年齢になった。

「あの人、亡くなりはったんやね」

親が口にしていたことを、今、自分が口にしている。
順序は必ずしも公平ではないが、豊かな者も、貧しき者も、皆平等に終の橋を渡っているのだなあと実感する。


今年も一時帰国で多くの友人と旧交を温めてきた。
皆の共通の気掛かりは、残りの人生をどう過ごすか、ということのように感じた。

年金受給のタイミング、その額、そこから生じるであろう数々の生活上の制約、突然手にした有り余る時間の使い方、衰える体力、そして夫婦の距離までも。

ほとんどの仲間は、年金生活にはまだ少し時間があるので、各人、「その時」に備えているのが伝わる。
推し活に精を出す人、習い事を始めた人、始めるべき習い事を探している人、続けられる仕事を探している人など、それぞれの年金生活プランが浮かび上がる。

かつて教室でバカ話をしていた仲間たちと、「残りの生き様」について話し合うとは想像もしていなかった。


色々な言葉を交わしているうちに、まだ生きなければならないことの意味をつい考えてしまう。

そう。それはどこか、まだ生かされているという感覚だ。

思わず自問してしまう。

何のため?


noteを徘徊していると、新しいことに挑戦している同年代の方の声に触れることができる。
年齢に幅がある分、旧友たちとの輪からは出てこなかったシーンに何度も出会う。

noteを始めたことを新しい挑戦と捉えている人、地域社会との繋がりを模索している人、AIを使って創作活動に挑戦している人もいる。還暦を過ぎて、大学生になる人も。

そうかと思えば、自分に敢えてもう何も強いない生き方を実践している人もいる。

しかし、どんなに言葉を重ねようとも、結局は、皆それぞれに計算のできない残された時間といかに向き合うかを考えさせられているのだと思う。


タイムアップが近づく。しかし、終着点までの距離は見えない。先立つものは十分なのか。

こんな不安要素に囲まれ、明日を考えるのは容易ではない。

先立つものを豊富に持っていても、体が壊れてしまっては、それもまた詰みだろう。


オレたちはどう生きるか。


この人生最後に出された宿題に対して、どう答えるか。

難しい。

若い頃のような、追うべき「正解」らしきものはそこにあるのか?


あまり深く考えず、とりあえず、たまに帰国して先人の偉業に触れ、旧友と昔話をする。
一人の時間で、自分の中にある「昭和の記憶」を振り返りながら、何かを生み出す。

そう。
ただ消費しながら待つだけで終わりたくない。

見知った街を、着慣れたTシャツで歩くような、そんな日々の中で、小さな足跡を残す。
そして、その先で、静かに終の橋を渡れればいい。


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