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#493 第五福竜丸は東京に現存している?

第五福竜丸を知っていますか。

1954年、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験によって被ばくした漁船として、社会科や歴史の授業で習った人も多いと思います。

実は、第五福竜丸は現在も東京に残っています。

場所は、東京都江東区の夢の島公園。

「都立第五福竜丸展示館」で保存され、誰でも実物を間近に見ることができます。

私自身も、東京観光の一環として実際に見にいったことがあります。

第一印象は、

・想像の倍大きい!
・こんなに大きい船が木造?

という点でした。

百聞は一見に如かず。

教科書の知識だけでは分からない部分です。

しかし、第五福竜丸は被ばく直後に保存が決まったわけではありません。

第五福竜丸は、被爆後も現役の船として復帰し、後に廃船、その後多くの人々による働きかけの結果、保存に至るという数奇な歴史を辿りました。

第五福竜丸とは?

第五福竜丸は、静岡県焼津港を母港とする遠洋マグロ漁船でした。

現在の私たちがイメージする大型の漁船とは異なり、第五福竜丸は木造船でした。

1947年に和歌山県で「第七事代丸」というカツオ漁船として建造され、その後、1953年にマグロ漁船へ改造されて「第五福竜丸」と名前を変えました。

そして翌1954年、第五福竜丸は太平洋へ出漁します。

3月1日、第五福竜丸が操業していたのは、マーシャル諸島のビキニ環礁から約160km東の海上でした。

そこで第五福竜丸の乗組員たちは、突然、西の空が明るくなるのを目撃します。

アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ったのです。

ビキニ環礁での水爆実験

このとき爆発したのが、水爆「ブラボー」です。

その威力は15メガトンとされ、広島に投下された原爆のおよそ1000倍に相当しました。

爆発によって周辺のサンゴ礁が大量に砕かれ、放射性物質を含む細かな粉塵が発生しました。

この放射性降下物は、白い灰のように第五福竜丸へ降り注ぎました。

これが「死の灰」と呼ばれるものです。

水爆実験のことをまったくしらない船員の中には、白い灰が人体にとって有害な放射性降下物だとは知らず、舐めてみた人もいたそうです。

第五福竜丸は、実験による放射性降下物の影響を受け、23人の乗組員全員が被ばくしました。

乗組員には、焼津への帰港までに放射線による皮膚の障害、頭痛、吐き気、脱毛などの症状が現れ、帰港後に急性放射線症と診断されました。

そして同年9月23日、無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。

第五福竜丸の被ばくは、乗組員だけの問題ではありませんでした。

水爆実験によって周辺の海や魚も放射能による影響を受け、マグロなどの魚介類の汚染も大きな問題となりました。

日本では「第五福竜丸事件」をきっかけに、原水爆禁止を求める運動が広がっていきます。

第五福竜丸は再利用された?

被ばくした第五福竜丸は、そのまま保存されたわけではありません。

放射能が減るのを待った後、第五福竜丸は東京水産大学、現在の東京海洋大学の練習船として再利用されました。

船名も「はやぶさ丸」と変更され、学生たちの航海実習などに使われました。

第五福竜丸は、水爆実験による被ばく後も、別の船として使われていたのです。

しかし、木造船の寿命はおよそ20年。

はやぶさ丸は、1967年に廃船処分となります。

そして、ここから第五福竜丸の運命は、さらに大きく変わっていきます。

ゴミ捨て場に放置された第五福竜丸

廃船となった「はやぶさ丸」は、東京の夢の島に運ばれました。

現在の夢の島は、広い公園やスポーツ施設などがある場所です。

ところが、かつての夢の島は、東京から運ばれてきた大量のごみを埋め立てる場所でした。

第五福竜丸も、その「ゴミ捨て場」の岸壁に置かれることになります。

人々から忘れられたまま、船は次第に朽ちていきました。

1968年には、第五福竜丸を保存しようとする人々が声を上げ始めます。

当時の船は岸壁で傾き、沈没してしまう危険もある状態でした。

ここで重要なのは、第五福竜丸が最初から「貴重な歴史資料」として保存されていたわけではないことです。

一度は廃船となり、東京の埋立地に捨てられていたのです。

それを後から「この船を残さなければならない」と考えた人々が現れました。

第五福竜丸を残そうとした人々

1968年3月に、「沈めてよいか第五福竜丸」という投書が新聞に掲載されました。

その後も保存を求める活動が続き、1969年には「被爆の証人第五福竜丸保存の訴え」が発表されました。

廃船となった第五福竜丸を残すための取り組みは、その後も続いていきます。

そして1976年6月、東京都立第五福竜丸展示館が開館しました。

こうして第五福竜丸は、廃棄される運命から保存・展示される存在へと変わったのです。

2026年6月には展示館の開館から50年を迎え、「第五福竜丸の50年と夢の島」と題した特別展も開催されています。(※2026年9月30日まで)

船だけではない第五福竜丸の記憶

夢の島に残されているのは、第五福竜丸の船体だけではありません。

第五福竜丸から取り外されたエンジンは、別の船に搭載されていました。

その船は1968年に三重県沖で沈没します。

その後、1996年になって海底からエンジンが引き揚げられました。

そして1998年、エンジンは東京都へ寄贈され、第五福竜丸のそばに設置されました。

船体とエンジンが、30年以上の時を経て再び同じ場所に戻ってきたのです。

第五福竜丸のエンジン

さらに、第五福竜丸事件によって廃棄されたマグロを記憶する「マグロ塚」もあります。

当時、放射能汚染が問題となったマグロなどの海産物が大量に廃棄されました。

その記憶を残すために建立された「マグロ塚」の碑石も、現在は第五福竜丸展示館のそばに置かれています。

マグロが埋められた築地市場に置かれる碑でしたが、現在は築地市場の整備のため第五福竜丸が展示される夢の島に置かれることになったそうです。

マグロ塚と説明文

今も東京に残る第五福竜丸

多くの人々にとって、教科書上の知識として記憶されている第五福竜丸は、現在も東京にあります。

一度は練習船として再利用され、その後は廃船となって夢の島に捨てられました。

そして、沈没・朽ち果てる危機にあったところを、人々の保存運動によって残されました。

現在の夢の島は、かつての「ゴミの島」とは大きく姿を変えています。

その場所に、1954年の出来事を伝える船が保存されているのです。

歴史を保存するということは、単に古いものを残すことではありません。

その時代に何が起きたのかを、後の世代が実物を通して考えられるようにすることでもあります。

第五福竜丸が東京に残っていること。

そして、そのそばにエンジンやマグロ塚など、事件を伝えるものも残されていること。

普段は何気なく通り過ぎてしまう東京の片隅にも、こうした歴史の証人が存在しています。

かつてはゴミ捨て場だった夢の島には、

一度は捨てられた船を「後世に残すべき歴史」と考えた人々の努力も、一緒に残されているのです。

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