声を想う十五年/クリープハイプ『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』
8月にリリースされたクリープハイプのトリビュートアルバム、そのタイトルは『もしも生まれ変わったならそっとこんな声になって』だった。現メンバーでの15周年を記念した企画盤とは思えないほどに卑屈で、それでいて切実さが込められた題である。自分の”声“に対して何も思っていないアーティストからは決して出てこないだろう。
尾崎世界観(Vo/Gt)の歌声は紛れもなくクリープハイプの強い構成要素である。ゆえにその声は様々に捉えられてきた。そして12月4日リリースの7thアルバム『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』は、そんな”声“と向き合ってきた15年の先で生まれた傑作だ。本稿はクリープハイプと“声”の歴史を想い、書き残したものである。
変な声と呼び呼ばれ
デビュー期からクリープハイプの粗悪なラベリングの代表格と言えば”メンヘラ“、そして“変な声”だったのは間違いない。私はかつて書いた記事の中でこの“メンヘラ”という呼称に対しての見解を述べており、その切り口においては本稿では大きく言及しない。しかし重要な点として、“変な声”と“メンヘラ”は同じ類の客層に、同じようなムードで認識されていた点をここで強調したい。
尾崎世界観の歌声と言えば、喉を振り絞って発せられるハイトーンボイスであり、デビュー初期は同時代のバンドの中でも極めて高いキー設定が特徴的だった。その声は悲痛な叫びや切迫した吐露そのもので、ままならない想いを込める歌詞と親和するボーカリゼーションと言える。”泣き声“と“歌声”を重ねる1stシングル「おやすみ泣き声、さよなら歌姫」にも刻まれた特殊な個性だ。
その特殊さを解釈しきれず、消費するに留まったリスナーが”変な声“と言い始めたことが全ての始まりだ。そこに”メンヘラっぽい“という、歌詞の粗悪な認識も重なる。苦しみや辛さ、どうにもならなさをインパクトのある声で叫ぶという行動が、短絡的な連想で”メンヘラ“という呼称と結びつき、クリープハイプのバンド像、ひいてはそのファンへの視点として固定化されていったのだ。
曲も演奏も凄く良いのになんかあの声が受け付けない
もっと普通の声で歌えばいいのにもっと普通の恋を歌えばいいのに
でもどうしてもあんな声しか出せないからあんな声で歌ってるんなら
可哀想だからもう少し我慢して聴いてあげようかなって
余計なお世話だよ
シーンで頭角を表した約1年後にリリースされた2ndシングル「社会の窓」には上のような言葉がある。ライブではこの後に《バーカ》と付け加えて更に強い口調で突き放すわけだが、このようにクリープハイプの表現の中に尾崎による“声“への自虐/自嘲が次第に取り込まれていく。ある種の内面化だ。その声を強みにレーベル移籍の騒動や売上低迷の混沌を叫びながらキャリアを重ねた。
聴くに耐えないこんな声を
ちゃんと甘く薄めてくれよ
馬鹿でもわかるあんな声で
真実の愛を歌いたい
一一声といえば、尾崎さんの声はすごく特徴的ですが、自分の声に対する感じ方は変わったりしましたか?
尾崎:変わらず嫌いですよ。変な声だなって。街中で曲が聴こえてきたりすると、変だなって思います。でも、こんな声でも好きといってくれる人がいて、それと同じかもっと多いくらい嫌いという人もいて。以前なら、何も言われないくらいなら、嫌いと言われるほうがマシとも言っていました.......でも、嫌いって言われると腹立ちますよね。
2015-2016年の時期と言えば、尾崎が歌唱面でイップスに陥っていた時期だ。その前後に上記のような歌詞や発言があり、“変な声”への両価的な想いや愛憎が垣間見える。当時のシングル「破花」にも《どうして 声に出して疑う事で何か始まる》と“声”に触れている。声を出し続けることの困難さを乗り越えて完成したアルバムはその名も『世界観』であり、非常に象徴的と言えるだろう。
自分自身の声に複雑な感情を抱える一方、声を発さないことに強く苛立つのも特徴だ。端的に言えば口パクへの拒絶感だ。「あ」は《あー、口パクでトキメク馬鹿に/あぁ、溜め息で吹き消す灯り》と突きつける。また「金魚(とその糞)」では《いつもパクパクしてる》という対象への強い憎しみを覚えながら《大嫌いな金魚の声は聞こえないよ》と突っぱねる。声に対する愛憎の一側面だろう。
また自分の声を異物的に扱いつつ、他者の声を依り所として描くことが多い。別れた恋人を追想する「チロルとポルノ」、《あなたの声》《君の声》を慈しむ「さっきの話」「のっぺらぼう」、電波越しの声を歌う「ラジオ」、緊迫感の先に《見つけたって声がして/君の手が優しく肩に触れる》と歌う「鬼」。しかしこれらは信頼が基底にあり、不信になれば嫌悪に反転する表裏一体の感情に思える。
僕は君が嫌いです
本当に君が嫌いです
その喋り方もその声も
何かを伝えようとする時のその間もその仕草も
でも僕は僕が嫌いです
本当に僕が嫌いです
この喋り方もこの声も
何も伝えられなかった時の情けない感じも
こうした感覚の原点と言える曲がインディーズ期の「あの嫌いのうた」だと考えられる。自分と他人、そしてその声に対するアンビバレントな想いは《結局ここに帰ってくるんだよ》と諦めたように滞留し、どこにも逃げない。いくら嫌ってもずっとそこにあることを遥か昔から自覚し、大事に抱えてきたのだ。ゆえにイップスごときでは失われない。取り戻した”変な声“は更に磨き上がる。
昔々あるところに
独特の世界観を持ったバンドがおったそうな
変な声だと村人から
石を投げられて泣いていたバンドを救ったのは
変な感性を持った変な村人だった
そうやってどうにかこうにか
変な時代を変な村人に支えられながら
変なバンドは生き延びていった
イップスを乗り越え、まっさらな歌声で「イト」や「栞」など間口の広いポップさに挑んだ2018年のアルバム『泣きたくなるほど嬉しい日々に』。そこに収められた「今今ここに君とあたし」にある上のラインは、声への愛憎が1つの帰結を見せた楽曲だろう。変な声のまま、変な感性に受容された現在地を誇るようになったのだ。メジャーデビュー6年、現メンバー9年で至った境地である。
それ以降、クリープハイプはデビュー時以上にブレイクを果たす。尾崎のテレビ露出の増加やバンド像と合致したタイアップの増加が要因に思えるが確証はない。しかし彼らの”変な声“がお茶の間レベルに浸透したことは間違いないだろう。2022年以降の各地のフェスでトリを飾る日々の先で完成した今回のアルバム。そこにはより成熟した姿勢で”声"と向き合う姿が刻まれている。
「天の声」にめがけて
低いキー設定や編曲の多彩さで振れ幅を見せた前作『夜にしがみついて朝で溶かして』から3年、本作はバンドサウンドへと軸足が戻った。タイアップシングルとして先発された「青梅」はとりわけアレンジ面が新鮮な楽曲だが、アルバム曲は進化し続ける“変な声“による歌唱とこれまで育ててきたギターロックサウンドが組み合わさることで新たな響きをもたらした楽曲が多いように思う。
1曲目の「ままごと」は突き抜けるように疾走するナンバーで、その快活さはオープニングに相応しい。題通り、幼心溢れる可愛らしい光景を描いているようで、同時に仲睦まじい大人の暮らしの愛しさも描いてもいる。続く「人と人と人と人」はキレのあるギターアンサンブルで、1日を生きる人々の姿を映し取ってみせる。やや丸みを帯びた歌声はこの2曲が含んでいる生活感を醸し出す。
歌詞で心のままならなさを叫ぶアプローチは減り、40代という人生の壮年期に突入した人間のリアリティが投影された点も新しい。「本屋の」のような不意によぎる思い出を眺める楽曲や、体のままならなさを発熱の辛さとともに歌う「センチメンタルママ」など、普遍的なフィーリングを独自の切り口とタッチで描きつつ、従来のように激しい歌唱で届ける楽曲が増えたのがユニークだ。
クリープハイプらしい攻撃性や遊び心も健在だが、異質さも同居している。「dmrks」はエゴサーチに苛立つ曲だが、言葉を尽くすのでなく同じ言葉の繰り返しによってその憤慨を表現する。「べつに有名人でもないのに」は芸能界めいた言葉遊びで穏やかに市井の恋を歌う。やけくそな吐露はむしろ長谷川カオナシ(Ba/Vo)による「星にでも願ってろ」に顕著であり、尾崎曲はどれも新鮮なのだ。
歌謡風ロックンロール「もうおしまいだよさようなら」ではラフな演奏で剥身な声を聴かせ、妖しげなダンスナンバー「生レバ」では意味を排した歌詞で声の威力を際立たせる。またこの2曲はともにタイアップで、ともにアカペラパートがあり、広く届け得る曲でも“変な声”を強く聴かせようとする気概を感じる。空音とのコラボ曲を尾崎の歌のみで作り直した「I」にも、そんな意義が滲む。
このように声についての実験的に迫っていく側面もある本作においてシングル曲「喉仏」が鎮座している意義も大きいだろう。まさにその声を発するために動かされる喉仏をモチーフに、言葉を放つことの逡巡を描いたこの曲は言語による表現者としての矜持を歌った曲に聴こえる。《お前は誰だ》と自分自身に問いかけて終わる点も、“声”と共に在り続けた尾崎ならではの筆致に思う。
誰かが何かを喋っている
よく聞けばそれは自分の声で
「明日も勝ちます最高です」
今日もずいぶん調子がいい
そして「インタビュー」には直接的に“声”が歌詞に登場する。内なる声との対話を描きつつ、そこに宿る熱情を《君にだけバレたい》とも歌う。こうした心の声を歌う曲はこれまで「僕は君の答えになりたいな」があったが、ここまで真っ直ぐにその声を伝えようとするのは新境地である。時にリスナーを突き放すこともあるクリープハイプが《また明日話そう》と歌う日が来たのである。
アルバム終盤、レトリックとメタファーを通してもう終わりの恋を描く「あと5秒」がクリープハイプらしさを強く印象づける。そして歌い終わりからちょうど5秒でラストナンバー「天の声」へとスライドしていく。先ほどまでの楽曲の主体としての存在から、題通りの“天の声”、つまり俯瞰の目線へと引き上げられたアングルがメタの位相でクリープハイプの今をナレーションしていく曲だ。
俯瞰と言えどもそれは客観ではなく、まるで思念体となったクリープハイプがこの世界を飛び回り、《なんとなく死にたい夜に/光も届かない窓に》生きている聴き手へと歌を届ける光景が浮かぶような主観に近い“天の声”である。この曲にめがけて進行する本作が従来の作品よりも冷静さに満ちているように思えたのは対象の出来事との距離に俯瞰の眼差しがあったからだと察せられる。
それなりに売れようとして
「連れて行ってあげる」とか言ってたな
こんなところに居たのかやっと見つけたよ
《連れて行ってあげる》とはかつてCMやMステを通して“変な声”を茶の間に届けた「憂、燦々」の一節だ。自虐のようでいて、かつての苦闘を懐かしんでいるようにも聴こえる。「こんなところに居たのかやっと見つけたよ」とはリスナーに呼びかけるだけでなく、ずっとそばにあり続けた自分の“変な声”をもう1度見つけ直して、讃える言葉のように思う。この変な声こそが、“天の才”ならぬ“天の声”であると宣誓する1曲として響いた。
アルバムに付属する短編映画はその名も「変な声」だ。メイキング映像から判断するに撮影日に尾崎の一言でタイトルが「天の声」から「変な声」に変更になっている。やはりこの2つの言葉は表裏一体なのだろう。尾崎が脚本に関わっているのに(がゆえに?)、作中でクリープハイプを弄り、クリープハイプのファンもアンチも弄り、取り巻く環境も弄り続ける。自虐的で他罰的な映画だ。
しかし同時に自分やリスナーへの愛着も溢れている。抱えた自己愛を客観的に見せる物語に纏めたのも今の彼ららしさだろう。今まで多くのクリープハイプのMVや関連映画で主人公を演じ、クリープハイプの化身とも言える池松壮亮が外側からバンドを支える役割を演じていたのも、本作が主観を少し外側へずらしてクリープハイプを捉え直してみせたアルバムであることを象徴している。
本作は変な声を変な声であると認め、変なままどのように、どんな風に、どんな状態で聴かせるかという点にこだわった作品と言えるだろう。きっとこれからもあなたを見つけるためにクリープハイプは変な声を発し続けるし、あなたに見つかるために変な声であり続ける。声を想い続けた十五年はまだまだその先へと進み続けるはずだ。
