短編小説|愛の告白にダメ出しする何も知らない他人たち 【ラブコメ】
1|18時52分
桐島克巳は、チラシの裏に人生を賭ける気など更々なかった。
定食屋「あけぼの」の店内には、もう客がいない。壁の品書きは半分剥がされ、床には段ボールが三つ積んである。厨房では店主が鍋を洗っていて、水の音だけが響いていた。
早瀬つむぎが、エプロンの紐をほどきながら振り返った。
「桐島さん、まだいたんですか」
「はい」
「もう何も出せませんよ。米も切れました」
「知ってます」
桐島は右手をズボンのポケットに入れた。そこに紙が一枚、四つに畳まれて入っている。三十年生きてきて、これほど手のひらが汗をかいたことはない、と彼は思った。
言うべき台詞は決まっていた。十六時十分から練習していた。声に出して七回、頭の中で四十回。
桐島は口を開き、息を吸い、そして――何も言えなかった。
二秒。三秒。
彼は諦めて、ポケットから紙を出した。
「これを、読んでもらえませんか」
つむぎが受け取って開いた。一度丸められたものを伸ばした皺が、格子状に走っている。
そして、眉を寄せた。
無理もない。その紙――
愛の告白が書かれた紙には四人ぶんの筆跡があった。
2|16時10分
三時間前、桐島は駅前ロータリーの花壇の縁に座っていた。
膝の上に広げていたのは、A4の紙である。彼の勤め先は市内の印刷会社で、その紙は今朝、商店街の各戸に折り込まれた月報の校了紙だった。刷り上がったものを一枚、彼が抜いて持っていた。表にはこう組まれている。
さよなら「あけぼの」──五十二年の味、今日で幕
二週間前、桐島はこの記事の赤字を自分で入れた。閉店を知ったのは、そのときである。校正紙の上で知った。彼はその日、四時間ほど何も手につかなかった。
いま、彼はその紙を裏返して、赤ペンで文章を書いていた。
書いては消し、消しては書く。彼は営業だが、社内の誰よりも赤字を入れる男として知られていた。文章の歪みが気になって仕方がないのだ。自分の文章となれば、なおさらだった。
早瀬さん。
三年間、ほとんど毎日ここに来ました。
仕事で嫌なことがあった日も、ここのご飯を食べれば大丈夫だと思っていました。
あなたがいたからです。
閉店すると聞いて、自分でも驚くくらい動揺しました。
ぼくは、あなたのことが好きです。
桐島は五回読み返し、五回とも「これはひどい」と思った。だが、これ以上どう書けばいいのかもわからなかった。
「すみません。お時間よろしいでしょうか?」
顔を上げると、スーツの男が立っていた。四十代半ば、髪が薄く、鞄の角が擦り切れている。片手にパンフレットの束を持ち、駅前で通行人を捕まえては一枚ずつ渡している、あの手の男だ。
「あの、ちょっとだけですので。将来のこと、考えたことあります?」
「間に合ってます」
「まだ何も言ってませんよ」
「間に合ってるんです」
桐島は立ち上がった。逃げるように、というより実際に逃げていた。三年間ためた台詞をこれから言いに行くのに、他人の将来の話をしている余裕はない。
五歩ほど歩いてから、彼は膝の上のことを思い出した。
紙は、花壇の縁に置き去りになっていた。振り返ったときには、風で道路を超えていった。追いかけたが、バスを挟んだ後見えなくなった。
桐島は十分ほど探し、それから諦めた。
どうせ暗記している。紙などなくても言える。そう思った。
3|16時38分
権藤は、その紙を植え込みから拾い上げた。
ゴミだと思ったからだ。彼は落ちているものを拾う習性がある。五十四歳、駅南口で自転車屋をやっている。
畳んで捨てようとして、赤い字が目に入った。
――三行目が歪んでいる。
彼はそう思った。「大丈夫だと思っていました」。なぜ過去形なのか。今も思っているなら、現在形で書くべきだ。過去形にした瞬間、この文章は思い出話になる。思い出話は、申し込みではない。
権藤は歪んでいるものを見ると直したくなる。それは病気に近い。ブレーキの片効き、振れの出たリム、緩んだサドル。目の前にあれば直す。直さないと寝られない。その性質のせいで彼は儲け損ない続け、そして同じ性質のせいで、彼にはもうひとつの習慣があった。
紙をポケットに入れ、権藤は駅の駐輪場へ向かった。
やり方には三つの規則がある。
ひとつ、鍵のかかっていない自転車しか触らない。ふたつ、預かるのは長くて十日まで。みっつ、返すときは必ず、乗ってきたときより良い状態にする。
世間ではこれを窃盗と呼ぶ。権藤も承知している。ただ彼に言わせれば、鍵をかけずに駅前に置かれた自転車というのは、あれは「置かれている」のではなく「見捨てられている」のだ。チェーンは錆び、空気は抜け、ブレーキシューは減りきっている。見捨てられたものを預かって、洗って、油を差して、返す。十日というのは上限であって、たいていは三日か四日で済む。
その日、駐輪場の三列目に、水色のシティサイクルがあった。鍵は、かかっていない。
権藤はブレーキレバーを握った。奥まで引ける。ワイヤーが伸びきっている。この状態で坂道を下りたら、どうなるか。
「まったく」
彼は舌打ちして、それにまたがった。
店に着いて、カゴの入っていたレシートを見て、権藤は舌打ちをもう一度した。
コンビニ、雑誌の購入履歴。時刻の印字は、十六時三十一分。
七分前だ。この持ち主は、十日どころか一時間で戻ってくる。
権藤は十日ぶんの計画を捨て、耳に挟んでいた鉛筆を作業台に置き、ワイヤーの張り直しにかかった。ついでにチェーンの油だけ差す。振れ取りは諦める。それでも五十分かかった。
途中、休憩のつもりで煙草に火をつけたとき、ポケットの紙を思い出した。
彼はそれを作業台に広げ、鉛筆を取った。
過去形にするな。今も思ってるんだろう。
字はひどく下手だったが、線はまっすぐだった。
作業台のジャマになったので、紙は畳んでカゴに入れた。
4|17時45分
清水あかりは、駐輪場の三列目で立ち尽くしていた。
自転車がない。
あかりは十七歳で、この一か月でひどい目に遭いすぎていた。三週間前に彼氏と別れ、二週間前にコンクールの選考に落ち、一週間前に母と口をきかなくなった。そして今日、画材を買いに寄っただけの数十分で、自転車が消えた。
鍵をかけ忘れたのは自分である。それは間違いなく自分である。だからこそ腹が立って、あかりは駐輪場の柱にもたれて、五分ほど泣いた。
それから、駅前のベンチに座った。歩いて帰れば四十分だ。四十分歩けるだけの気力がなかった。
二十五分後、なんとなく駐輪場に戻ってみると、三列目に水色のシティサイクルがあった。
あかりは三回確認した。ハンドルの傷も、リアキャリアの錆も、自分のものだった。
乗ってみて、彼女はさらに混乱した。
ブレーキが、効く。
握った瞬間に効く。この一年、握りしめないと止まらなかったブレーキが、指二本で効く。チェーンの音も消えていた。ペダルが軽い。まるで別の自転車だった。
あかりは五十メートルほど走って停まり、もう一度ブレーキを握り、それから声に出して言った。
「気持ち悪」
そのとき、カゴの中の紙に気づいた。
四つ折りの月報。裏に、赤い字がびっしり。すみのほうに、下手な鉛筆の字。
あかりは読んだ。読みながら、だんだん腹が立ってきた。
彼女はカバンから緑の水性ペンを引き抜き、余白に書き殴った。
全部あなたの話ですよね。この人がどんな人かは一行も書いてない。
それと、これ言われた側はどうすればいいんですか。逃げ場がないんですけど。
書きながら、あかりは別れた彼氏のことを考えていた。あいつは最後まで、自分がどれだけ好きかという話しかしなかった。あかりがどんな人間かという話は、一度も出てこなかった。だから別れたのだ、といまさら理解した。
書き終えると、少しすっきりした。
十七時四十五分。あかりは紙を丸め、ロータリーのゴミ箱に投げ込んだ。三ポイントシュートは決まらず一度弾かれリングに乗った。
そして自転車に乗り、よく効くブレーキで一度だけ試しに急停止して、帰っていった。
5|18時20分
飯田はその日、駅前で四十七枚のパンフレットを配り、九件の飛び込みで九件断られていた。
彼には奇妙な習慣がある。配り終えたあと、近くのゴミ箱をひととおり覗くのだ。自分が渡したパンフレットが、そこに捨てられていないかどうか確かめる。
捨てられていれば落ち込む。なければ「まだ誰かの鞄に入っている可能性がある」と考えて、少しだけ元気が出る。四十七枚配って、ゴミ箱に六枚。今日は良いほうだった。
同僚に話したら気味悪がられたので、以来、誰にも言っていない。
ロータリーのゴミ箱の縁に、丸められた紙がひっかかっていた。
飯田はそれを拾った。理由は自分でも説明できない。強いて言えば、丸めて捨てられた紙というものに、職業的な親近感があった。
濡れてはいなかった。膝の上で伸ばし、開いて、読んだ。
三種類の筆跡があった。赤い几帳面な字、下手な鉛筆の字、緑の怒った字。
そして一行目を読んだ瞬間、飯田は顔を上げた。
覚えがあった。二時間前、この花壇の縁で、赤いペンを持って紙とにらめっこしていた男がいる。声をかけたら、まだ何も言っていないうちに「間に合ってます」と言われた。
断られた顔だけは覚えている。十九年やっていると、それだけは覚えてしまう。
飯田はベンチに腰を下ろし、鞄を膝に置いて、三度読み返した。
この文章が失敗する理由は、はっきりしていた。
最後の一行だ。
「好きです」で終わる文章は、申し込みではない。あれは通告である。受け取った側は、イエスかノーかを差し出すしかない。人間は、差し出されると身構える。身構えた人間は、断る。十九年かけて学んだのはそれだった。
逆に、と飯田は思う。人間は、頼まれると少し嬉しい。頼まれごとには、断ってもいい余地がある。余地があるから、人はうなずける。
彼はボールペンを出し、余白の残っていた下の隅に、営業マンらしい細い字で書いた。
最後を質問に変えること。
例:よろしければ、連絡先を教えてもらえませんか。
※差し出されると人は身構えます。頼まれると、少し嬉しいものです。
書き終えて、飯田は自分でも驚いた。他人の恋愛にペンを入れるような人間だと、自分を思っていなかった。
腹が減っていた。
そういえば、と彼は紙をひっくり返す。何度も飛び込んで何度も断られた定食屋が、今日で閉店だと書かれていた。
「あけぼの」の暖簾をくぐったのは、十八時二十分だった。
カウンターにひとり、男が座っていた。日替わり定食を、ものすごく遅い速度で食べていた。
その後頭部に、飯田は見覚えがあった。
6|18時44分
早瀬つむぎは、三年前のことを覚えている。
桐島克巳が初めて来た日、彼は品書きを二分眺めてから、「日替わりで」と言った。
翌日も、その翌日も、彼は日替わりを頼んだ。三年間、一度の例外もなく。
最初はつむぎも、そういう人なのだと思っていた。決められない人。人に選ばせる人。
だが半年ほど経った頃、気づいたことがある。彼は、日替わりが何かを聞かずに注文する。中身を知らないまま「日替わりで」と言う。つまり彼は、決められないのではない。何が出てきても構わないと思っているのだ。ここで出るものなら何でもいい、という顔で、彼は三年間、毎日それを食べていた。
それに気づいた日から、つむぎは献立を少しだけ変えるようになった。
金曜日に、彼の好きそうなものを置くようになったのだ。理由は自分でもよくわからなかったし、深く考えないようにしていた。
閉店を決めたのは二か月前だった。伯父が腰を痛め、つむぎは名古屋の姉の店を手伝うことになった。貼り紙を出した日、桐島は貼り紙の前で三分立っていた。それから店に入ってきて、いつもどおり「日替わりで」と言った。
つむぎは、その三分ぶんの何かを、二か月待っていた。
十八時四十四分。最後の客だった保険の男が、店を出た。出しなに、桐島に何か紙を渡していた。二人はろくに話していなかった。渡して、出ていっただけだった。
つむぎはエプロンの紐に手をかけた。
もうすぐ十九時になる。厨房で伯父が鍋を洗っている。もう何も出せない。米も切れた。
この人が何も言わずに帰ったら、と彼女は考えた。
考えて、それはそれで仕方がないな、と思った。人生というのは、そういうものが大半でできている。
7|18時53分
表は、閉店を告げる記事だった。今朝、この店の前の商店街に配られたものだ。
その裏に、四種類の字がある。
赤い几帳面な字で書かれた本文。その語尾に線が引かれ、下手な鉛筆で「過去形にするな。今も思ってるんだろう」。余白には緑の怒った字で「全部あなたの話ですよね」「逃げ場がないんですけど」。下の隅に、細い営業マンの字で「最後を質問に変えること」。
つむぎは、たっぷり一分かけて読んだ。
それから顔を上げた。
「桐島さん」
「はい」
「これ、何人がかりなんですか」
「……わかりません」
「わからない?」
「本当にわからないんです」桐島は正直に言った。「落としたんです、十六時ごろに。十分探して、諦めて。そしたらさっき、知らない保険の人が、これを」
つむぎは、もう一度紙に目を落とした。
「この、過去形にするなって書いた人」
「知りません」
「この、逃げ場がないって書いた人」
「知りません」
「じゃあ、この最後の質問に変えろっていうのは」
「その保険の人だと思います」
つむぎは笑った。声を出して笑ったのは、たぶん二か月ぶりだった。
「桐島さん、三年間、毎日日替わりを頼みましたよね」
「はい」
「何が出てくるか、一回も聞かないで」
「はい」
「わたし、あれ、けっこう嬉しかったんです」つむぎは言った。「でも今日は、日替わりはありません」
彼女はカウンターの上のペンを取った。伝票用の、インクの出が悪い黒いボールペンだった。
紙の、四人の字の隙間に、彼女は何か書いた。
畳んで、桐島に返した。
「開けるのは、外に出てからにしてください」
「はい」
「それと、次に会うときは」つむぎは電気のスイッチに手を伸ばした。「自分で選んでください。何でもいいは、なしです」
桐島は暖簾の外に出て、三歩歩いてから、紙を開いた。
名古屋の住所と、携帯番号。その下に一行。
こちらの話は、会ったときに聞いてください。長いので。
桐島克巳は、駅前のロータリーで立ち止まり、それからしばらく動かなかった。
ただ誰が書いたかも分からない三種のダメ出しが目に留まった。
桐島は深呼吸をして電話を取り出した。

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