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おとなり姫 - 壁の向こうの隣人|短編小説

 最初は泊まらないと言っていたのに、結局、彼はあたしの部屋から帰ろうとしなかった。別にいいんだけど、どこで寝るんだろうと思っていたら、彼はあたしのふとんに潜り込んできた。
「彼女いるんでしょ? いいの?」
「床の上は寒いだろうが。十一月だぞ」
「……別にあたしはいいけどさ」
 でも、そういうことまでいいと言ったわけじゃない。なのに、触れられただけでぞくっとしてしまうのだから、こいつに片想いをこじらせているという事実は始末が悪い。
「声出してよ」
 AV観過ぎ。絶対、彼女にはそんな注文しないくせに。
 だいたい、声出すのって気持ちいいからじゃない。突かれた衝撃音みたいなものだ。それならまだマシで、基本的には音声サービスだ。
 ああ、でもやっぱり好きだから、めちゃくちゃサービスしている自分が情けない。
 終わったあと、彼はあたしの軆から引き抜いた。ぽた、ぽた、と白濁がしたたり落ちる。
「あ、ゴム破れてる。すまん」
「え……は? 嘘でしょ」
「大丈夫だって。ちゃんとゴムの中に溜まってるから」
「いや、ゴムは針の穴ひとつで意味なくなるんだよ」
「ははっ。弟か妹が欲しくて、親のゴムに小細工する笑い話あるよなー」
「ぜんっぜん笑い話じゃない!!」
 彼はじとっとあたしを見た。何こいつ。分かってんの。事態を分かってんの。あたしは一気に不安で蒼ざめて、怒りでめまいがしているのに。
 男ってこんな楽観的? こいつが特別バカなの? 二十歳にして初めて好きになった男だから分からない。
 あたしはとてもじゃないけど理性を保てず、ヒステリックに彼に怒鳴り散らしていた。夜明けが来て深夜テンションが終わると、今度はわんわん泣き出した。
 妊娠したらどうするの? 責任取れるの? 取ってくれるつもりあるの? あたしのこと好きでもないくせに。本命の彼女がいるくせに。それを理由に振ったくせに、しれっと手を出すのはそもそも何なの!?
「でも、お前も嫌がらなかったじゃん……」
 ダメだ。こいつバカだ。
 あたしはスマホを手に取って、調べがつく限りの事後にできる避妊を行なった。アフターピルは買えるようになったんだっけ。彼に買ってこいと命令するあたしは、彼女にはなれなかったけど、鬼嫁みたいにはなっていた。
 が、彼が出ていってふっと冷静になった。何してんだ。あんな野郎、そのまま逃げて、平然と音信不通を決め込むに違いないのに!
 声なき声を上げ、冷たくなったふとんの上にへたりこんだときだった。ドアフォンが鳴った。
 まさか、ちゃんとピル買ってきた!?
 這いずるように玄関に向かって、ドアを開けると、ピンクメッシュが派手な黒ジャージの見知らぬおねえさんが立っていた。
「ちょっといい?」
「え、と……」
「説明はいい。隣で全部聞いてたから」
 目を開いたあたしは、一気に頬を真っ赤に燃やした。
 そうだ。没交流だから忘れていた──というか、いつも特に物音なんてないから考えたこともなかったけど、ここはアパートだからお隣さんがいるに決まっている。
「とりま、あーしが世話になってる婦人科行くよ」
「は……?」
「こういうの慣れてるから気にしないで。本強された新人ちゃんの面倒とか見るし」
「え、ええと」
「てか、あーしアフピル持ってっけどさ。隣人とはいえ、知らねー奴からの薬とか怖いっしょ」
「………」
「ほら、早くして」
 目の高さにしゃがみ込んで微笑んだおねえさんに、あたしはじわじわと目を潤ませて、すぐに涙をこぼしてしまった。
「あー、泣くな泣くな。泣き虫なのも、独り言多いのも、知ってっけど」
「うう、すみません……」
「親とかは?」
「家出、してきて……」
「そっか。あーしもだわ」
 あたしはおねえさんを見た。にかっと笑ってくれたのに、なぜか痛々しかった。
 おねえさんが連れていってくれた産婦人科の女医さんには、診察と処方箋のあと、「そんな男はやめなさい!」とこっぴどくしかられた。「ばーちゃん心配しすぎ」とおねえさんはけらけら笑って、「あんたほど世話焼きじゃないけどね」と還暦くらいの先生はしかめっ面をしていた。
 家に戻っても、やっぱり彼はいなかったし、買ったものを残すとか来た形跡もなかった。「マジやめとけよな」とおねえさんが言って、あたしは素直にこくんとした。
「じゃあ、急にこれからよろしくとか言わんけど。引っ越すときくらいは、いなくなるよって声かけるね」
 あたしはおねえさんを見た。おねえさんは今度は照れたようににかっとした。
「それまでは、あーしが隣でだいぶ聞いてるからな? 遠慮しろ」
 おねえさんが確かに隣の部屋に入っていくのを、ただ見送った。せめて菓子折りを入れたいけれど、それも断られてしまったのだろうか。
 あたしも自分の部屋に入った。暖房を切っていったから寒い。カーテンを開けると、すっかり白昼の青空が舞い込んだ。おねえさんの部屋に接する壁を見てから、改めてあの笑顔を思い出す。
 こんなあたしが隣の部屋なんて、きっと、最悪なのに。
 あたしはピルを飲んだ。それから壁一枚の向こう、おねえさんがいるほうに軆ごと向くと、きゅっと唇を結んで、深く深く頭を下げた。

 FIN


お題をお借りしました。
ありがとうございました。