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だきしめてほしい、の本質

「だきしめてほしい」という感情がどこかにある。それを「寂しさ」だったり、「悲しさ」だったり、「死にたさ」という言葉にまとめるのは簡単だけど、やっぱり、この感情は「だきしめてほしい」になる。そういう言葉にしかならない。

言葉にだってしなくていい。本質は言葉にならない、って。言葉にしたら崩れるものだから、って。自分が大好きで大事で大切にしてる小説でも言っていた。
自分は、移りゆく形の、自分の中で、「だきしめてほしい」という感情をただひたすら持っている。両手に抱えて、「だきしめてほしい」をどこかにやることはなく、そのまま、遣る瀬無いまま、生きている。

深い関係にあった人と半年以上前に別れて、それ以来、ずっとさみしい。いや、この感情はずっとあった。それが、恋愛という形を通して露出しただけだと思う。もう未練はない。ただ、「さみしい」という感情はいろんな場所に現れる。「だきしめてほしい」という感情もその一つかもしれない。ただ、それがつらい。すごくつらい。あんなやつと、別れて正解だったけど、でも、人間不信になったけど、でも、さみしい。それが人肌なのか、人の言葉なのか、わからない。

気持ちの悪い感情だと思っている。「だきしめてほしい」とは、口に出すとなんと、気持ちの悪いことか。ただでさえ自分が言うと、はあ、気持ち悪い。「だきしめてほしい」という感情があるときは大抵「しにたい」と思っている。「しにたい」をごまかしたくて「だきしめてほしい」と思っているのかもしれない。

「だきしめてほしい」は、人肌なのか、言葉なのか。わからない。どっちでもないのかもしれない。時間という薬なのかもしれない。その感情を持っている当人ですらわからない。もはやだれにもわからない。

眠剤と頓服でふわふわした脳みそで、毎日、毎日、毎日、毎日、考えていた。答えは出ないんだろう。言葉は本質を表せない。本質は言葉に表そうとすると崩れるものだ。この湿度が高い部屋で、頭がぼーっとして、なんにも救われないまま、なんだかこのまま溶けて死んでいきそうだ。眠れない。死にたい。悲しい。つらい。さみしい。だきしめてほしい。

こういうのをうつ状態の思考回路って言うんです。

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