『夜店から』 #シロクマ文芸部
夜店から、ソースの香りが風に乗って流れてきた。
鉄板の上で焼きそばが跳ねる音。金魚すくいではしゃぐ子どもたち。綿あめを抱えた小さな手。提灯の灯りは風に揺れ、祭り全体が夢の中みたいに色づいて見える。
その灯りを抜けると、神社の参道だけが別の世界だった。
「じゃあ、スタート!」
肝試しの合図に背中を押され、ミナは沢村たちと一緒に歩き始めた。
「怖くなったら走って戻るからね。」
強がって笑ったものの、数十歩進んだだけで笑顔は消えた。
提灯はなく、月明かりも木々に遮られている。
砂利を踏む音だけが妙に大きい。
夜店の賑わいは遠くなり、聞こえるのは風に揺れる葉擦れだけだった。
先へ行った沢村たちの笑い声も、もう聞こえなくなっていた。
「……無理。」
足が止まる。
心臓だけがうるさい。
そのとき、白い紙が落ちているのが目に入った。
拾い上げると、何か文字が書かれている。
お札だ。
小さい頃、おばあちゃんが言っていた。
――お札は悪いものから守ってくれるんだよ。
その言葉だけを思い出し、ミナは震える手で額へ貼りつけた。
「これで……大丈夫。」
もちろん、何も変わらない。
怖いものは怖い。
しゃがみ込んだまま動けなくなってしまった。
どれくらい時間が過ぎたのだろう。
砂利を踏む音が近づいてきた。
「……おい。」
低い声。
顔を上げると、沢村が立っていた。
ミナの顔を見るなり吹き出す。
「……キョンシーかよ。」
「笑わないで!」
半泣きで抗議すると、沢村は肩を震わせながら近づいてきた。
「帰るぞ。」
そう言って額のお札をぺりっと剥がす。
「ちょっと! お守り!」
「置いてくぞ」
短く言って歩き出す背中を、ミナは慌てて追いかけた。
参道を抜けると、夜店の灯りが戻ってくる。
赤い提灯。
焼き鳥の煙。
ソースの焦げる香り。
さっきまで妖怪に見えていた木の影は、ただ風に揺れていただけだった。
境内では古田が腕を組んで待っていた。
「お疲れさまでした。」
「もう二度とやらない……。」
肩で息をするミナを見て、沢村が笑う。
「途中で固まってたからな。」
「だって本当に怖かったんだから!」
古田はミナの手にある白い紙へ視線を向けた。
「お札は回収できたようですね。」
「……え?」
「本殿に置かれていた札です。それを持ち帰ればゴールというルールでした。」
ミナは固まった。
「……これ?」
「はい。」
「ずっと額に貼ってたぞ。」
沢村がまた笑う。
「……えぇぇ!?」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
怖くて何も見えていなかった。
少し離れた場所で、鈴木が煙草に火をつけた。
煙が夜空へ細く昇っていく。
「怖いとさ。」
誰にともなく呟く。
「見えてるもんも、違って見える。」
ミナは夜店の方を振り返った。
さっきまで遠くて頼りなく見えた灯りが、今は祭りの帰り道を優しく照らしている。
ソースの香りがまた風に乗って流れてきた。
夜店から漂うあの匂いは、最初から何も変わっていなかった。
嘘をついていたのは、夜でも灯りでもない。
ほんの少し、怖がりすぎた自分の心だった。
あとがき
今週の『その嘘シリーズ』は、#シロクマ文芸部のお題「夜店から」で書いてみました。
👇こちらの企画に参加させていただきました。
