掌編|それ私にちょうだい
「その消しゴム、私にちょうだいよ」
雅にそう言われたら、断れる人間なんていないだろう。多分、私を除いては。
その言葉を無視して筆箱に放りこもうとした瞬間、雅は強引に私の腕から消しゴムを奪った。そしてそのまま、それを口に投げ入れた。つまらない大学の講義中に描いた猫の落書き。それを無造作に消したときの消しカスがついたそれを。あまりにも優雅な所作で。
彼女の口がモゴモゴと動き、その後、しずかに喉がぐんと膨らんで、そして何ごともなかったかのように元の形状へとしずむ。私の消しゴムが、彼女の一部となってしまうまでを見届けていた。
なにしてんのよ、あんた。
そう言うと、雅は前を見つめたまま
「あはは。うそだよ」
と笑った。
いや、うそって……。
そう言いかけたとき、次の講義のために、日本史教授の佐藤が入ってきたので、私たちはそそくさと講堂をあとにした。
誰もいない廊下で雅は、くすくすと笑いながらもう一度「うそだよ」とささやいた。腰までのびる美しい黒髪が跳ねるようになびき、私の左手をかすめる。こいつはおかしな奴だ。昔っから。正確には出会った小学5年生の頃から。当時からやたらと美しい奴で、本当に気に食わない。
またそうやって、私のことバカにして。
私はそう言い残すよりもはやく、雅の先を大股で歩いた。雅がなにか言ったけど、聞こえないふりをして進む。そのうち、「九条先輩」と後輩の女子に呼び止められている隙に距離を広げた。九条雅。なによそれ。芸能人みたいな名前。
憧れの眼差しで雅を見つめているであろう彼女たちに、教えてあげようかな。
そいつ、私の消しゴム食べやがったよって。
もちろん、変な顔をされるのは私の方だろう。
どんなに私が「本当のこと」を言っても、雅の存在だけがいつだってこの世の真理になる。
ねえ。雅がこれまで私からなにを食ってきたか教えてあげようか。
新品の絵の具の山吹色。
冬休みの宿題の「初日の出」の書初め用紙。
初めて学年一位になったときの成績表。
お母さんが買ってくれた合格祈願のお守り。
私の。切り落とした前髪。
全部全部、あいつの中にあるんだよ。
大学の併設図書館で小説を2冊借りて扉を開けた頃には、もう外はしんとした闇がはびこりはじめ、空には月が顔をのぞかせていた。ふと視線を落とすと、なぜか足元には小さな白い消しゴムが落ちている。大学生なんてそんな使わねぇだろ、と言いたくなるくらい小さくなったそれを拾い上げて、月の前にかざした。誰のものでもない月と、どうでもいい誰かの消しゴム。当然ながら、圧倒的に月の方が美しい。そんなの、わかってる。
自嘲する私の前に、青白い肌をした女が現れた。私は、その女をよく知っているはずだ。でも、月夜の下のその女は、この世からぼんやりと浮きあがって見える。
「それちょうだい」
性懲りもなく、そんな言葉を私に投げかけてくる。
私のものを、私を、どこまで奪えば気が済むのだろう。
ぶん、と月に向かって思い切り振りかぶった私の手首を、女はぐっと掴んだ。その青白く細い腕には血管が浮き上がり、私は思わず息をのむ。
「ねえ。それも、私のだから」
息をするようにうそをつく癖に。
どうしてこんなにも深い瞳をしているの。
雅はそのまま。私の手首を鼻先に持ってきて、柔らかな唇で触れた。
泣きたくなるような速度で。
「……あんたの匂いがする」
──うそつき。
私は言った。
「今度はほんとう」
と雅は笑った。
「ねえ。いっしょに食べちゃおうよ」
……今度こそ、死んじゃうかもしんないけど。
雅の白い歯が間近に迫ってきて、ああ、消しゴムみたい。と私は思いながら、そっと口を開いた。
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#チャレがや杯2026
参加させていただきました!
「大学」「嘘」「月」
をキーワードに、久しぶりの掌編小説で参加させていただきます。
とても楽しかったです…! ありがとうございました!
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