【小説 ショートショート】 孤高のG系グルメ
黒岩吾郎は自営業でやっている古物商の仕事で、三元茶屋を歩いていた。
三茶で喫茶店を開いている白髪混じりのナイスミドルな店主の持ち物である李氏朝鮮時代の白磁器を鑑定し、その後、鑑定した物品の受け取りの話し合いをしてこの日の仕事を終えたのだった。
喫茶店を出て腕時計を見ると、午後の14時を少し回っている。
「流石にハラぺこちゃんだな…」
信号待ちしている吾郎が、いつも彼が腹が減った時に思い浮かぶ「はらぺこちゃん」というワードを呟く。
黒岩吾郎はもちろん、ドラマの主人公でも何でもないので、彼がよく呟く「はらぺこちゃん」というワードが人に知られることも、世の中に浸透することもなかった。
「流行らないな。このフレーズ…」
しかし、吾郎は自分の中で気にしてはいた。
「はらぺこちゃん、バズらないな…」
自分で発信したりしているわけでもないので当たり前のことなのだが、バズらないことを気にかけている様子であった。
「まるで宮沢りえの『ぶっ飛びー』みたいじゃないか」吾郎はそう思った。
『ぶっ飛びー』とは何か…。WHAT IS BUTTOBI?
それは宮沢りえのアイドル人気全盛だった90年代初頭の頃。
彼女の主演するドラマなどで発せられる言葉だった。
例えば高校の放課後、帰宅途中の宮沢演じる女子高生が、いつも喧嘩ばかりしているが内心好意を持つ男子校生徒と話をする。何かその日のドラマの内容の総括のように宮沢を誉める会話をしていると思っていたら、最後に
「最近、お前デブになったな」と言って逃げ去っていく。
そんないわゆるツンデレをして、その後に宮沢がフグのような膨れつらになっていうセリフ。それが『ぶっ飛びー』である。
アイドル不遇の時代だった90年初頭。その中で一人、アイドル人気を勝ち得たにもかかわらず、彼女のキラーフレーズ「ぶっ飛びー」はなぜか会社や学校などで使われることもなく、宮沢のこの言葉を発した瞬間に死語なって芸能界の歴史の闇へと消えていった。
もしかしたら、宮沢は人気とかTVで言っておいて、本当は人気なんてなかったのだろうか?
そういや彼女の歌う歌も売れてはいなかった。
みんな宮沢が好きなようで嫌いだったのかもしれない…。
「そうなのさ。きっと、そうなのさ…」
またしても吾郎は一人つぶやくのであった。それは彼の仕事が自営業で一人で行動することが多いからかもしれない。
そのうち、彼は電車の中でも大きな声で独り言を呟くようになるかもしれないし、もうすでにつぶやいているのかもしれない。
「腰が痛いな」歩き回ったせいかだるくなった腰を押さえつつ、そうまた呟き吾郎は信号を渡り終え、辺りを見回す。ガードしたから、マクドナルドの建物を見る。
その脇道に商店が並んでいるのが見えた。
「さて、昼食とするか」
背広のポケットに入った財布を弄る。
お金はいつものようにちゃんと入っているはずだ。
大通りを曲がり、細い通りに入ると、大、小、色とりどりの看板が並んでいる。
「ラーメンの暖簾がありそうだな」
吾郎は透視をするように道の先をまっすぐ見る。
チェーン系の牛丼屋、中華屋、飲食店が並び、吾郎の目指すラーメン屋の赤いのれんも並んでそうである。
「あ、あった」年季のついている少しヨレた赤い暖簾がかかるラーメン屋が間の前に現れた。
「今日の昼飯はここにするか」
吾郎の脳裏にどんぶり鉢の中に広がる黒と茶の間ぐらいの色をした醤油ベースのスープと、黄色いちぢれ麺にナルトにしなちくがシンプルに乗ったラーメンが思い浮かぶ。
暖簾をくぐり、引き戸を開けると、食券機が入り口置いてあった。
この店はよほど味に自信があるのか、メニューは三つしかない。
みそ、しお、そして醤油ラーメンがある。
吾郎は黒皮の長財布を手に取ると、千円札を2枚食券機に入れて、味玉醤油ラーメン千二百円のをチョイスする。躊躇なくボタンを押し、食券を手に取ると、前に古い茶碗を買った取引相手の中年女性と昼食を共にした時に「吾郎さんって、お金を気にせずご飯を食べるんですね」と言われたことを思い出した。その質問の真意を問うと、
「だって、普通の人は千円こえるご飯を普通の顔して払わないでしょ」と不思議そうな顔で聞いてきたのだった。
「ま、いいか」そんなことはさておいて、食券を店員に渡してテーブル席についた。
「ラーメン、ひとつ…ください。」店員に食券を渡したのに、ちょっと高倉健を意識したかのような、よくわからない独特の『間』のある口調でラーメンを頼んだ。
「はい」店員はそっけない返事。
店員の対応はそれほどよくはないが、吾郎の体験上、ラーメンの良し悪しには関係はないはずだ。
今日は久々に麺とスープ、シンプルな芸術品のようなラーメンが食べられるはずだ。
しかし、この間、G系と呼ばれるラーメン屋に入った時は酷かった。
吾郎は新宿で仕事がてらおいしいと噂だったG系と呼ばれるラーメンを食べに行った。
その店の券売機にはミニラーメンと小ラーメン、それに普通のラーメンがあった。
吾郎はミニと小というのを本当に量が少ないと思い込み、普通のラーメンを頼んだが、出てきたのはとんでもない山盛りのラーメンだった。もやしが山のように盛られたラーメンを食い始めたのだが、もやしをいつまで食べても、麺にたどり着けなかった。
麺の量も半端なく多く、ラーメン好きの吾郎も流石に食べ残して店を出たのだった。
スープの味にも調和という概念がないのか、醤油系ではあるが大味で、麺は大雑把な食感のベロベロとした太麺。全く吾郎の好みには叶わなかったのだった。
「量ばかり多くて味も大したことはない。これが美味しいというのはグルメ道を極めていない外道の言うことだろうな」と考えつつ店を出たのであった。
そんなことを思い出していると、店員が目の前のカウンターに、味玉醤油ラーメンの丼が置かれた。
「いただきます…」やはり高倉のように変な間でそう呟くと、どんぶり鉢の淵に乗っていた蓮華をとって、スープを一口飲む。
「!」
吾郎の目が輝き出した。素敵な予感がする。すぐさま割り箸を二つに割って、黄色い半透明の麺を掬った。
これは…。
まるでアルトゥール・ベネディッチ・ミケランジェリがピアノで奏でるドビュッシーの前奏曲第一集のような…。しかし、イタリアっぽいピアニズムが濃い味すぎてこのラーメンのシンプルさには合わないかもしれない。
ならばブタペスト弦楽四重奏楽団の演奏するラヴェルでどうだろう。
まさに食べる芸術品だとうるさいことを考えながら、彼はさらに麺を啜った。
日本庭園に置かれた灯籠のようなシナチクも、程よい歯応えで香り高いラーメンの格上げをする。
なるともその名の通り、鳴門の渦潮のような海のような深みを与えてくれる。
この間のG系なんちゃらと違い、食が進みすぎて止まることをしらない。
兎にも角にも、吾郎はスープと麺が素敵なハーモニーを奏でるクラシカルなラーメンを堪能したのであった。
それからも吾郎は古物商の仕事をしながら、ラーメン道楽を続けるつもりだったのだが…。
コロナ感染症が彼の一番の趣味を奪ったのだ。
趣味を奪っただけではなく、彼の古物商の仕事すら見る間に減ってゆき、このままでは少ない貯金も底をついてしまうと思い、他の仕事を探すことにした。
吾郎が見つけたのは近所の運送屋のバイトだった。
五十過ぎの彼がやるべき仕事ではなかったのかもしれないが、なにぶん焦っていたのと意外にも運送業者が彼の歳を考えなかったのか、正式に採用してしまったことで仕事を始めることになったのだ。
流石に体力が持たないので、午前だけの仕事にして、雇用期間の三ヶ月頑張ることにした。
荷物を運ぶ単純作業はなかなか辛かった。
次々とトラックで運ばれてくる荷物を、さらに吾郎たちが倉庫に運んでゆく。
単純作業の仕事がこれほど大変なものなのかとかれはその時知った。
仕事を始めて数日後、他のバイトに吾郎自身がお荷物になりながらも、なんとか仕事を終え、いつものラーメン道楽をまた始めることにした。
前日にネットで調べると、この運送屋の近くに評判の函館ラーメンがあるというのが分かった。
ラーメン屋は運送屋のある通りから駅に向かったあたりに店を構えていた。
白地に「函館」と描かれた暖簾をくぐり、吾郎は店に入った。
店は人気店のようで、中で食券を買い順番待ちをして、若い店員に食券を手渡してから、客が数人帰りようやく席に座ると、しばらくしてから吾郎の頼んだラーメンが目の前に置かれた。
まずはいつものようにスープを一口レンゲですくい飲んで、早速、箸で透明なスープに浮かんだ麺をつまんで食べた。
よほど体が食べ物を欲していたのだろう。
吾郎は一気に麺としなちくとめんまを食べ終わっってしまった。
「これでお終い?」
マジかよ。うまいといえばうまいが、だからどうしたんだ。ただの塩味のするラーメンだったといえばそうなのかもしれない。
もしかして、塩に味の素を混ぜてスープを作ってるだけじゃないのか?
味玉も何も載っていないのにこれで千百円もするとは…。
吾郎は仕事で減った腹を満たすことができずに店を後にすることになった。
次の日、流石に体力仕事をしてから昨日のような少ない量のラーメンを食べる気がしなくて、今日は何を食べようかと迷っていた。そこで頭に浮かんだのはバイト先から線路を跨ぎその先にある吾郎が嫌いだったG系ラーメンの店だった。
前の悪い印象の記憶がありちょっと躊躇したが、今ならあのラーメンの量は食べ切れるかもしれないと思い行くことにした。
いつもは行列が並ぶほどに人気の店らしいが、この日は幸運にも席がいくつか空いていた。
吾郎は自販機でラーメン小の食券を買う。吾郎がネットで調べたところ、タンパク質は体重と同じぐらいは取らないといけないらしい。仕事量も考えれば体重のプラスアルファは摂らなければいけないだろう。
それも考えてチャーシューのトッピングも食券で買った、
食券を店員に渡し席に座る。よく考えると普通の食事でもラーメンの薄いチャーシューと半分の味玉ではタンパク質量はかなり少ない。
「そりゃあ腰も悪くなるわけだ」
今更ながらに吾郎は気がついた。
数分後、ニンニクを入れるかどうか店員に聞かれ、「はい」と答えると、目の前のカウンターにもやし山盛りのラーメンが置かれた。早速、割り箸を手をに取りラーメンを食べ始めた。
体力を使っているだけに、するするともやしが胃袋の中へ入ってゆく。
食の細い吾郎には自分の胃袋が意外だった。
「うん。ありがたい」
やはり麺が現れるまでもやしの山を崩してゆくのには時間がかかるが、今回はなぜかそれほど不快ではない。
もやしの下に見えた太い麺を箸でつまみ、啜ると気持ち良い食べ応えがあった。
自分の求めていたものはこれだと思いながら、茶色の太麺を平らげてゆく。やはり多めの麺を食べるのには少し時間はかかるが、体に足りなくなった栄養を補うように、箸は次々と麺を口へと進んでゆく。
最後のひと麺を食べ終えると、何か儀式、イニシエーションを終えたような爽快感があった。
「なんだ、結構おいしいじゃないか…」
それは吾郎がG系ラーメンのうまさに目覚めた瞬間であった。
世間ではG系ラーメンは量が多いだけだとか、なんだとか文句を言う奴がいるが、(それは昔の吾郎のことでもあるのだが…)そういうやつはたいして体力も使って仕事をしていないやつだろう。
体力を使ったなら使っただけの食べたいものがあるし、それによっておいしく感じるものも変わるもなのだ。グルメを気取って単純にうまいのまずいのだと決めつけるバカがいる。そんなこともわからず、訳のわからないブロガーだの落語家だか講談師だかが言うことではない。
おとといきやがれ、である。
「明日は何を食べるか」ラーメンを食べ終え、いきなり明日の昼食のことも考え始める。あまり麺の太のつけ麺は好きではなかったが、今はとてもおしそうに感じてきた。
「つけ麺屋もこの辺にあったな…」吾郎の脳裏にネットに載っていた地図が浮かび上がった。
次回の彼の昼食メニューは決まったようだった。(終)
