建築家の空想休憩室 第十八話|森の中のかき氷屋
森の奥へ奥へと歩いていくと、一軒の小さなかき氷屋があります。
看板もありません。
地図にも載っていません。
けれど、不思議なことに、本当に疲れた人だけは、その店にたどり着けると言われています。
店は木々に包まれるように建っていて、大きな窓からは夏の緑が揺れています。
風が葉を揺らし、遠くでヒグラシが鳴き始める頃、店主は静かに氷を削り始めます。
「今日は、どんな夏をお探しですか?」
メニューには、いちごも、メロンも、抹茶もありません。
代わりに書かれているのは──
初恋の夏
夏休みの最終日
海へ行った日
おばあちゃんの家
蝉時雨
花火の帰り道
そんな名前ばかりです。
注文すると、店主は棚から一冊の小さな瓶を取り出します。
瓶の中には、誰かが大切にしまっていた「夏の記憶」が入っています。
それを氷の上にそっと注ぐと、かき氷は淡く光り始めます。
一口食べると、不思議なことが起こります。
甘い味がするわけではありません。
冷たいだけでもありません。
忘れていた景色が、心の中に静かによみがえるのです。
汗だくで走った帰り道。
縁側で食べたスイカ。
浴衣の袖をつかんだ小さな手。
青い空に浮かぶ大きな入道雲。
どれも、もう思い出せないと思っていた夏でした。
ある日、一人の建築家がその店を訪れました。
「あなたは、どんな夏をご希望ですか?」
そう尋ねられた建築家は、少し考えてから答えました。
「まだ来ていない夏を。」
店主は少しだけ微笑み、棚の一番奥から、真っ白な瓶を取り出しました。
「これは、まだ誰の記憶でもありません。」
削りたての氷に、その透明な一滴が落ちます。
建築家は静かにスプーンを口へ運びました。
味はありません。
けれど目を閉じた瞬間、森の中に一軒の建物が見えました。
大きな木陰で笑う家族。
水盤に映る青空。
窓を抜ける風。
夕暮れに灯るやさしい明かり。
そこには、まだ完成していない建物と、まだ出会っていない人たちの笑顔がありました。
未来の景色なのに、どこか懐かしい。
建築とは、未来をつくる仕事でありながら、
いつか誰かの「懐かしい夏」になる場所をつくる仕事なのかもしれません。
店を出る頃には、かき氷はすっかり溶けていました。
振り返ると、お店はもうありません。
けれど夏になるたび、ときどき思い出します。
あの森の中の、小さなかき氷屋のことを。
そして私は今年も、新しい誰かの夏の記憶をつくるために、図面へ向かいます。

あの夏を思い出すと、不思議と懐かしい場所まで一緒によみがえってきます。
もし「記憶」と「空間」のつながりに興味を持っていただけたら、こちらの記事もぜひ読んでみてください。
誰にでも、忘れられない夏があります。
私にとって、その一つは海辺で過ごしたあの日でした。実際の夏の記憶を書いたこちらの記事も、よろしければご覧ください。
ここは「建築家の空想休憩室」のひと部屋です。
このような物語や、建築から生まれる空想、まだ形になっていないアイデアは、メンバーシップ「時間建築室」で少しずつ綴っています。
よろしければ、また森の奥でお会いしましょう。
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