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1ギガで一生使えると思っていた頃——『建築学概論』に見る、建築を学んだ人間の記憶

『建築学概論』という韓国映画については、以前一度記事にしたことがある。この映画は、韓国映画の中でも「初恋映画」として語られることが多い。


『建築学概論』の映画そのものについては、以前こちらの記事で書いています。済州島、ソヨンの家、そして建築に残る時間について考えた記事です。


建築学科で出会った男女。
言葉にできなかった気持ち。
時間が経ってから再会する二人。

そして、家を設計するという形で、
過去の記憶がもう一度立ち上がってくる。

たしかにこの映画は、初恋の映画である。

しかし、建築設計に関わる人間としてもう一度見直してみると、少し違う場面が気になってくる。

それは、恋愛の場面そのものではない。
むしろ、その周辺に映り込んでいるものだ。

先輩の部屋。
新しく買ったパソコン。
「1ギガあれば一生使えるんじゃないか」というような会話。

課題に追われる建築学生。
先輩と後輩の距離感。
そして、15年後に設計事務所で働くスンミンの、少し疲れた姿。

それらは物語の中心ではないかもしれない。
しかし建築を学び、設計事務所で働いてきた人間にとっては、妙にリアルに見える。

『建築学概論』が懐かしいのは、初恋の物語だからだけではない。
そこには、建築を学んだ人間ならどこかで覚えのある時間が残っている。

建築を学び始めた頃の空気。
先輩の部屋に集まった時間。
新しい道具に対する憧れ。
提出前の焦り。
そして、建築を仕事にした後の現実。

今回はこの映画を、初恋映画としてだけではなく、
建築を学び、設計という仕事に入っていった人間の記憶を保存した映画
として見直してみたい。



1. 先輩の部屋と、1ギガのパソコン


映画の中で、先輩の部屋に新しいパソコンが置かれている場面がある。

そこで出てくる、
「1ギガあれば一生使えるんじゃないか」
というような会話。

今聞くと、少し笑ってしまう。

いまの感覚で言えば、1ギガはあまりにも小さい。
スマートフォンで写真を少し撮れば、すぐに埋まってしまう。
図面データ、PDF、レンダリング画像、動画、アプリの更新ファイルなどを考えれば、1ギガという容量は、ほとんど一瞬で消えてしまう。

しかし、当時は違った。

1ギガという数字には、未来感があった。
それは単なる容量ではなく、これからできることの広がりを感じさせる数字だった。

パソコンはまだ、ただの道具ではなかった。
それは、これから何かが変わっていく気配そのものだった。

特に建築学生にとって、先輩の部屋に置かれたパソコンには、独特の存在感があったと思う。

建築学科には、教室とは別の学びの場所がある。

それは、先輩の部屋であり、作業場であり、徹夜明けの机の上である。

正式な授業だけで建築を覚えるわけではない。
講義もある。
設計課題もある。
教授や講師の指導もある。

しかし実際には、先輩から学ぶことがかなり多い。

どのソフトを使えばよいのか。
図面はどの程度まで描けばよいのか。
模型はどこまでつくり込むべきなのか。
先生はどんな表現を好むのか。
提出前に何を優先すべきなのか。
どこで材料を買うのか。
どのプリンターが使えるのか。
誰のデータを参考にすればよいのか。

こういうことは、教科書にはあまり書かれていない。

だから建築学生にとって、先輩の部屋は小さな設計事務所のような場所になる。

そこには、少し偉そうな先輩がいる。
でも、いざという時には頼りになる。
後輩は、先輩の作業を見ながら、建築学生としての振る舞い方を覚えていく。

映画の中の先輩の部屋も、ただの学生の部屋には見えない。
そこには、道具があり、情報があり、課題の痕跡があり、建築学生特有の雑然とした空気がある。

そこに置かれた新しいパソコンは、単なる家電ではない。

それは、少し未来に近い場所にいる先輩の象徴でもあり、建築の作業がこれから変わっていくことを感じさせる小道具でもある。


2. パソコンが未来に見えた頃


私自身が大学を卒業する頃、残念ながら身近なところにCADはまだなかった。

卒業論文を書くために、ワードプロセッサーを使っていたことを覚えている。今の感覚で言えば、パソコン以前の記憶に近い。
画面の中で図面を自由に描くというより、文字を打つ機械が、ようやく自分の作業の中に入ってきた時代だった。

だから私にとってCADは、大学で体系的に教わったものではない。
実務に入ってから、独学で覚えた。

これがなかなか大変だった。

特に日本では、CADの種類が多かった。
会社によって使っているCADが違う。
事務所によって操作感も違う。
同じ「線を引く」という作業でも、ソフトが変われば考え方が微妙に違う。

さらに厄介なのは、右クリックと左クリックの意味が変わってくることさえある。

あるCADでは右クリックが決定に近い。
別のCADではメニューが出る。
ある操作はショートカットで済む。
別のソフトでは、まったく違う手順を踏まなければならない。

会社が変われば、CADも変わる。
そのたびに、また最初から覚え直す。

設計者として図面を描く以前に、まず道具の癖を覚えなければならない。
これは意外に大きな負担だった。

一方、韓国に来て面白いと思ったのは、AutoCADが設計実務の共通語のように使われていたことだった。

学校でもAutoCADを教える。
設計事務所でもAutoCADを使う。
もちろん最近では、BIMや他のCAD、3D系のソフトも少しずつ増えてきている。
それでも、AutoCADができれば、少なくとも実務上の操作で大きく困ることは少ない。

これは日本の感覚とは少し違っていた。

私は韓国に来た当初、あえてAutoCADを覚えようとはしなかった。
日本では、AutoCADに対して少し特殊なCADという印象があった。
どこか取っつきにくく、普段使いのCADとは違うもののように感じていた。

しかし韓国で仕事をしていると、そうも言っていられなかった。

図面データのやり取りをする。
協力事務所からデータが来る。
役所や施工側との調整がある。
変換を繰り返すと、線種や文字、寸法、レイヤーにいろいろな問題が出てくる。

結局、ある時からAutoCADを覚え始めた。

この話を書きたいのは、CADそのものを語りたいからではない。

道具が変わるたびに、設計者の手の感覚も変わってきたということを思い出すからである。

ワードプロセッサーからCADへ。
会社ごとに違うCADへ。
そして韓国で出会ったAutoCADという共通語へ。

建築を考える道具は、時代と場所によって変わっていく。
けれど、そのたびに設計者は、自分の手を少しずつ作り直してきた。

『建築学概論』の先輩の部屋にあるパソコンを見ると、私はそんな設計道具の時間を思い出す。

あのパソコンは、単なる小道具ではない。
建築を学ぶ人間が、紙と手の世界から、少しずつ画面の世界へ向かっていく時代の入口に見える。


3. 建築学生の課題文化——恋愛よりも提出日が怖い


『建築学概論』は初恋映画である。

けれども、そこに出てくる若者たちは、ただ恋愛をしている学生ではない。
彼らは建築学生である。

この違いは意外に大きい。

建築学生の生活には、独特の時間が流れている。

課題がある。
図面がある。
模型がある。
講評がある。
提出日がある。
そして、なぜか毎回、提出前には時間が足りなくなる。

建築学生にとって、提出日はひとつの事件である。

普通のレポートであれば、文章を書いて提出すればよい。
しかし設計課題はそうはいかない。

平面図、断面図、立面図。
配置図、模型、コンセプト、プレゼンボード。
場合によってはパースやダイアグラムも必要になる。
ひとつ終わったと思っても、また別の作業が出てくる。

建築学生の机の上は、いつもどこか散らかっている。
紙があり、カッターがあり、定規があり、模型材料があり、接着剤があり、コーヒーの空き缶がある。

そして、そこに恋愛が入り込んでくる。

だから建築学生の恋愛は、普通の青春映画のように、ただ美しく流れていくわけではない。

会いたい。
話したい。
一緒に歩きたい。
でも課題がある。
提出がある。
図面が終わらない。
模型もまだできていない。

この不器用さが、『建築学概論』の青春を少し特別なものにしている。

建築学生の青春は、ロマンチックである前に、かなり作業的である。

だからこそ、映画の中の恋愛はどこかぎこちない。
言いたいことが言えない。
タイミングがずれる。
距離が近づいたようで、また離れる。

それは性格の問題だけではなく、建築学生という生活のリズムとも関係しているように見える。

課題に追われる時間。
先輩の部屋に集まる時間。
街を歩く時間。
誰かを待つ時間。
言葉にできないまま過ぎていく時間。

『建築学概論』の初恋は、建築学生のそうした時間の中に置かれている。


4. 新人設計者の最初の仕事——図面を折って、判子を押す


建築学生の時間が終わると、やがて設計事務所の時間が始まる。

私自身が新人として設計事務所に入った頃、設計の現場にはまだ強い紙の感覚が残っていた。

当時、設計業務のひとつに、ロードサイド型の大手家電量販店の店舗設計があった。デンコードーのような家電専門店チェーンの店舗である。

店舗設計と聞くと、外観や売場構成を考える仕事を想像するかもしれない。
もちろんそれも設計の一部である。
しかし実際の設計事務所の現場では、その裏側に膨大な図面作業があった。

一つの案件で、図面枚数はざっと100枚を超える。
A2サイズ、場合によってはA1サイズの図面もある。
それらをCADで描き、トレーシングペーパーに出力する。
しかも一部ではない。
10部、20部と必要になる。

出力された図面は、そのままでは提出できない。
それを一枚一枚、A3サイズになるように折っていく。

ただ半分に折ればよいわけではない。
図面には図面の折り方がある。
表題欄がきちんと見えるように、決められた寸法で、折って、折って、また折る。A1やA2の大きな紙が、手元で少しずつA3の束になっていく。

最後に判子を押す。

今思えば、それは設計というより、ほとんど製本作業に近かった。
しかし当時の新人にとって、それは設計事務所で最初に覚える大事な仕事でもあった。

図面を描く前に、図面がどのように出力され、どのように折られ、どのように提出されるのかを身体で覚える。
一枚の図面が、ただのデータではなく、誰かに渡される正式な書類になるまでの過程を知る。

忙しい時には、もちろん事務所のみんなで折った。
先輩も、上司も、新人も関係なく、図面の山を前にして、黙々と手を動かす。

大きな紙の音。
折り目をつける指の感覚。
積み上がっていく図面の束。
最後に押される判子の重み。

CADで描かれた図面であっても、最終的には紙になり、折られ、判子を押されて、現場や役所や施主のもとへ渡っていった。

そこには、デジタルとアナログが同居していた。

画面の中で線を引く時代が始まっていた。
けれど、設計の仕事はまだ完全には画面の中に入っていなかった。
図面は紙として存在し、手で折られ、人の手を通って運ばれていた。

『建築学概論』に映る、パソコンがまだ特別だった時代の空気を見ると、私はそうした新人時代の図面の山を思い出す。

建築設計は、きれいなコンセプトや完成写真だけでできているのではない。
その裏には、折って、重ねて、判子を押すような、地味で身体的な作業が確かにあった。


5. 15年後のスンミン——建築を仕事にした人間の疲れ


映画の現在パートで、スンミンは建築士になっている。

学生時代の彼は、建築を学ぶ側にいた。
街を歩き、場所を見て、誰かと同じ風景を共有していた。

しかし15年後の彼は、建築を仕事にする側にいる。

この差は大きい。

建築を学ぶことと、建築で食べていくことは違う。

学生時代は、建築について語ることができる。
理想を語ることができる。
好きな建築家や作品について話すこともできる。
課題の中では、ある程度自由に空間を考えることもできる。

しかし実務に入ると、建築は急に現実のものになる。

予算がある。
納期がある。
法規がある。

施主がいる。
構造がある。
設備がある。

消防がある。
役所協議がある。

施工上の都合がある。
そして、何度も修正がある。

建築を好きだったはずの人間が、建築に疲れていく。

これは、設計の仕事をしている人であれば、少なからずわかる感覚ではないだろうか。

学生時代には、建築は夢に近かった。
けれど実務では、建築は責任になる。
図面の一本の線が、費用になり、工事になり、誰かの生活になる。
そこには自由だけでは済まない重さがある。

スンミンの大人になった姿には、その疲れが少し見える。

彼はスター建築家ではない。
強烈な個性で作品をつくるカリスマでもない。
むしろ、現実の設計事務所にいそうな中堅の設計者である。

忙しく、少し疲れていて、若い頃の純粋さをどこかに置いてきたように見える。でも、建築への感覚を完全に失ったわけではない。

そこがリアルなのだと思う。

建築を仕事にした人間は、建築に疲れる。
けれど、それでも建築を完全には嫌いになれない。

『建築学概論』のスンミンには、その中途半端な感情がよく出ている。

この映画が、建築学生や設計事務所の空気をここまで自然に描けているのは、監督自身が建築を学んだ人だからでもあるだろう。

『建築学概論』のイ・ヨンジュ監督は、延世大学で建築を学んだ経歴を持つ。
だからこの映画の中に出てくる建築は、単なる背景としての建築ではない。

先輩の部屋に置かれたパソコン。
課題に追われる学生たち。
建築を学ぶ者同士の微妙な距離感。
そして、大人になって設計事務所で働くスンミンの疲れた表情。

それらは、外から眺めた建築業界のイメージというより、内側を知っている人が、必要以上に説明せずに置いた細部のように見える。

建築を知らない人なら見過ごしてしまう場面かもしれない。
しかし建築を学び、設計事務所で働いたことのある人間には、そこに妙なリアリティを感じる。

この映画が初恋映画でありながら、建築に関わる人間にとって少し痛いのは、そのためでもある。


6. 住宅設計の打ち合わせ——要望整理ではなく、記憶の聞き取り


現在パートで、ソヨンはスンミンに住宅の設計を依頼する。

ここから映画は、単なる再会の物語ではなく、住宅設計の物語にもなっていく。

住宅設計は、建築の中では小さな仕事に見えるかもしれない。
大規模な公共建築や商業施設に比べれば、面積も小さい。
関係者の数も少ない。
構造も比較的単純に見えることがある。

しかし、住宅設計は簡単ではない。

むしろ、かなり難しい。

なぜなら住宅には、施主の生活そのものが入ってくるからである。

家族の関係。
過去の記憶。
これからの暮らし。
好き嫌い。
習慣。
不安。
見栄。
諦め。
言葉にしにくい希望。

それらが、小さな家の中に一気に入り込んでくる。

施主は、自分の要望を正確に言語化できるとは限らない。

「明るい家にしたい」
「落ち着く空間がいい」
「昔の雰囲気を残したい」
「でも古臭くはしたくない」
「広く見せたい」
「家族が集まれる場所がほしい」

こうした言葉は、設計条件であると同時に、感情の表現でもある。

設計者はそれを聞きながら、図面に変換しなければならない。

どの壁を残すのか。
どの窓を開くのか。
どこに光を入れるのか。
どの場所に余白をつくるのか。
何を新しくし、何を残すのか。

住宅設計の打ち合わせは、単なる要望整理ではない。
それは、施主の記憶の聞き取りになることがある。

『建築学概論』におけるソヨンの家も、まさにそうである。

彼女が求めているのは、ただ新しい家ではない。
過去を完全に消すことでもない。
かといって、過去に閉じこもることでもない。

そこには、記憶を整理し、もう一度自分の場所をつくり直そうとする感情がある。

だからスンミンの仕事は、単に住宅を設計することではない。
彼女の記憶と、自分自身の記憶の間に、ひとつの空間をつくることになる。

住宅設計の難しさは、ここにある。

建物をつくるだけなら、条件を整理すればよい。
しかし、誰かの記憶を受け止める家をつくるには、条件だけでは足りない。

そこには、時間を読む力が必要になる。


7.『建築学概論』とは、場所を記憶する練習だった


映画のタイトルである『建築学概論』は、もちろん授業名として出てくる。

建築を学び始める学生たちが受ける、入口のような授業。
建築とは何か。
場所とは何か。
空間とは何か。
そうしたことを考えるための、最初の扉である。

しかし映画全体を見た後で考えると、このタイトルは単なる授業名以上の意味を持っているように感じる。

この映画における建築学概論とは、建築の専門知識を覚える授業ではない。

それは、場所を記憶する練習だったのではないか。

街を歩く。
坂道を上る。
同じ風景を見る。
誰かと一緒に場所を通過する。
その時には何でもないように見えた場所が、後になって特別な意味を持つ。

建築とは、建物だけではない。
そこに至る道も、窓から見える風景も、誰かと歩いた時間も、すべて含まれている。

学生時代のスンミンとソヨンが共有した場所は、単なる背景ではない。
それは、後になっても消えない記憶の器になっている。

そして15年後、その記憶は住宅設計という形で戻ってくる。

ここが、この映画の美しいところだと思う。

建築は、完成した瞬間だけで意味を持つのではない。
むしろ、時間が経ってから意味を持ち始めることがある。

その時は何でもなかった場所。
何気なく歩いた道。
誰かと見た風景。
言えなかった言葉。
渡せなかった気持ち。

それらが、時間を経て、ひとつの建築の中に戻ってくる。

そう考えると、『建築学概論』というタイトルはとても深い。

建築を学ぶということは、建物の名前や様式を覚えることだけではない。
場所を見ること。
時間を感じること。
誰かの記憶が、どのように空間に残るのかを知ること。

それこそが、この映画における本当の「建築学概論」だったのかもしれない。


8. この映画が保存していたのは、初恋だけではない


『建築学概論』は、初恋の映画である。

それは間違いない。

しかし、建築設計に関わる人間の目で見ると、この映画が保存していたものは、それだけではない。

先輩の部屋。
新しいパソコン。
1ギガという容量への驚き。
課題に追われる建築学生。
ワードプロセッサーからCADへ移っていった設計道具の記憶。
新人時代に折り続けた図面の山。
15年後、設計事務所で働くスンミンの疲れ。
そして、住宅設計を通して立ち上がる記憶。

それらが、映画の中に静かに残っている。

当時のパソコンは、今から見れば古い。
容量も小さい。
性能も低い。
設計環境も今とは比べものにならない。

けれど、その古さの中には、確かにひとつの時代の空気がある。

パソコンが未来に見えた時代。
1ギガの容量に夢を見られた時代。
先輩の部屋が、小さな設計事務所のようだった時代。
建築がまだ少し手の中にあり、同時に画面の中へ移り始めていた時代。

『建築学概論』が懐かしいのは、初恋の物語だからだけではない。

そこには、建築を学び、設計事務所で働いてきた人間にとって、妙に切実な記憶が残っている。

建築の道具は変わった。
設計の速度も変わった。
図面の描き方も、プレゼンの方法も、働き方も変わった。

それでも変わらないものがある。

場所を歩くこと。
誰かの言葉にならない要望を聞くこと。
図面の奥にある時間を読むこと。
そして、建築が人の記憶を受け止める器であるということ。

『建築学概論』は、誰かの初恋を描いた映画である。
しかし同時に、建築を学び、道具に出会い、実務に疲れ、それでも場所の記憶を扱い続ける人間の映画でもある。

だからこの映画は、今見ても少し痛く、そして美しい。

1ギガで一生使えると思っていた頃。
その小さな容量の中に、私たちは未来を見ていた。

そしてたぶん、建築もまた、その頃から少しずつ、手の中から画面の中へ移っていったのだ。

けれど最終的に建築が扱うものは、容量でも、ソフトでも、図面形式でもない。

それは、場所に残る時間であり、
人の中に残り続ける記憶なのだと思う。


『建築学概論』の映画そのものについては、以前こちらの記事で書いています。済州島、ソヨンの家、そして建築に残る時間について考えた記事です。


建築は、完成した瞬間だけでなく、時間が経ってから意味を持ち始めることがあります。

場所に残る記憶、素材に刻まれる時間、人の中で変わっていく建築については、「時間建築論」でも続けて考えています。


はじめて読んでくださった方へ。

このnoteでは、建築、暮らし、時間、そして日本と韓国の住文化について、建築家の視点から記録しています。
私がどのような立場で、どんなテーマを大切にしながら書いているのかは、こちらのプロフィール記事にまとめました。
よろしければ、あわせて読んでいただけるとうれしいです。
▶︎ 建築家として、時間と暮らしを記録する|新しいプロフィール



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