あの五分間を、いまも設計しているシークエンスとプロムナード——建築はなぜ身体に残るのか
日本で、まだ駆け出しだった頃のことだ。
私は、アトリエ系の設計事務所で働いていた。
ある日、その地域で名のある建築家の住宅内覧会が開かれていた。
仕事を終え、社員数人で車に乗り込み、現地へ向かった。
けれど、到着したのは終了時間のわずか五分前だった。
外はもう真っ暗だった。
外観はほとんど見えない。
間取りを確認する余裕もない。
急いで中に入り、見られたのは本当に数分だけだった。
それなのに、今でもその時の感覚をはっきり覚えている。
広すぎず、狭すぎない空間。
窓の向こうに見えた、オレンジ色の光。
言葉にしにくい空気感。
そして、もう少しここにいたいと思わせる心地よさ。
図面を覚えているわけではない。
外観を見たわけでもない。
写真のように鮮明な記憶が残っているわけでもない。
それでも、あの数分間だけは、今も身体のどこかに残っている。
あの家を再現したいわけではない。
けれど、あの時に身体が覚えた心地よさを、もう一度どこかで立ち上げたいと思っている。
だから私は今も、机に向かっているのかもしれない。
あの、たった五分間の記憶を追いかけるように。
建築は、情報ではなく体験として残る
不思議なことに、私はその住宅の平面をほとんど覚えていない。
どこに玄関があり、どこにリビングがあり、どのような動線で構成されていたのか。
建築を学ぶ者として本来なら確認すべきことは、ほとんど記憶に残っていない。
外観も見ていない。
素材の名前も、細かなディテールも、正確には覚えていない。
けれど、その空間に入った時の感覚だけは、今でもはっきりと残っている。
身体が少し緩むような感じ。
呼吸が深くなるような感じ。
外の暗さの中に、窓越しのオレンジ色の光が静かに浮かんでいたこと。
それは、情報としての建築ではなかった。
図面や写真で説明できる建築でもなかった。
ただ、その場にいた数分間の体験として、身体の中に残った建築だった。
建築は、形として記憶されるだけではない。
面積や寸法、仕上げや設備だけで評価されるものでもない。
人は時に、建築をもっと曖昧なものとして覚えている。
光の入り方。
空気の密度。
歩いた時の距離感。
振り返った時の視線。
そこに、もう少し留まりたいと思った感覚。
それらは図面には描きにくい。
写真にも写りにくい。
けれど、建築の本質にかなり近い場所にある。
写真には写るものがある。
けれど、写真には写りにくいものもある。
その場所に入った時の呼吸、視線の動き、身体が少し緩む感覚。
私が今も覚えているのは、まさにその部分だった。
あの五分間は、建築を理解した時間ではなかった。
建築を身体で受け取った時間だったのだと思う。
ここから先では、なぜそのような空間体験が人の身体に残るのかを、
建築における シークエンス と プロムナード という言葉から考えてみたい。
それは単なる専門用語ではなく、
人が建築をどのように感じ、どのように記憶するのかを考えるための、とても重要な視点である。
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