【創作大賞2026応募作品】一億階建てマンションの最上階に住む住人(初恋編)
◆ あらすじ
一億階建てマンション最上階に住むホーキン・シュタイン博士は、NI(自然知能)のグラン・アエールを生み出し世界を一変させた。
人間にプチ・アエールを解放したことで月への往来が実現し、月は観光地となった。
しかし月で生まれた動植物には異変が起きていた。
唯一まったく変化しない月下美人が開花で変化すると話題となり、博士は興味を抱いて月へ向かう。
しかし花は普通に咲いただけだった。
誰もいない会場で博士は月下美人の美しさに恋に落ちる。
さらに月下美人が言葉を話すことを知る。
パラディソスに連れ帰った博士は、愛しい月下美人から世界を揺るがす願い事をされる。
果たして博士が下す決断とは?
〈第一章〉ホーキン・シュタイン博士
一億階建てマンションの最上階にホーキン・シュタイン博士は住んでいた。
四方が一万キロメートルはあるキューブ型の『ワンルーム』の部屋には、トイレもバスルームもキッチンもなく文字通り巨大なワンルーム空間だった。
驚くべきは、おびただしい無数の多種多彩な植物の海原が果てしなく続く様は圧巻だった。
植物たちは、プランターなど上品なものには入ってはおらず、床から深さ数十キロにも敷き詰められた栄養豊富な土の中に伸び伸びと根を張っていた。
植物をこよなく愛するホーキン・シュタイン博士は、この部屋を『パラディソス(天国)』と呼んでいた。
パラディソスには、地球上のすべての植物が共存していた。
それぞれの植物にあった気温や栄養が自動的に設定されているので、たわわに熟したバナナのすぐ横で、梅の木が可愛らしいピンク色の花を満開に咲かせているかと思えば、可憐な赤いシクラメンの横では、大輪のヒマワリが伸び伸びと咲き誇っていた。
まあ、パラディソスと言うと聞こえはいいが、節操とセンスのない無法地帯と化していた。
植物以外にあるものと言えば、直径十キロメートルはある二つの巨大な球体が自由気ままに浮かんでいた。

ひとつは、太陽のごとく鮮やかに輝く金の球体。
もうひとつは、月のよう静かに輝く銀の球体。
それらの美しい球体の正体は、バスルームとトイレだった。
金の球体はバスルームで、競技用プール並みの巨大浴槽があり、地下からくみ上げられた源泉かけ流し温泉が、程よい暖かさで溢れていた。
ホーキン•シュタイン博士が好きなだけ泳いではしゃいでも、誰かに怒られることは当然なく、博士がお風呂から上がると長湯によって全身が真っ赤な茹蛸のようになり、指は脱水症状でシワシワにふやけていた。
銀の球体のトイレには、床、壁、天井のすべてが本棚になっており地球上の書物がぎっしりと詰め込まれていた。
山のような書物の中央には、ポツンと普通の白い便器が置いてあり、博士は本の匂いを嗅ぐと必ずもよおすので、ある意味便秘知らずの体質であった。
バスルームとトイレには他にも機能が備わっているが、それはまた後ほどゆっくり説明しよう。
さて、なによりもこの一億階の最上階の醍醐味は、天井と壁は特殊ガラスがはめ込まれており、景色は見渡す限り壮大に広がる宇宙だということだ。
ホーキン・シュタイン博士がこのマンションに住んで一番初めに感動したことは、窓から恐る恐る階下を見下ろすと、遠い昔、有名な宇宙飛行士が言った『地球は、青かった』という言葉を思い出した時だった。
〈第二章〉人間の性
昔々、人間は『これからはAIの時代だ!』と技術革命を叫び始めた。
同時に『地球の資源は無限じゃない!』という環境保護を表向きに掲げていた。
地球が「これ以上、私の身を削るのやめてもらえません?」なんて言えるわけもない。
国や大企業は金儲けのために競い合って技術革命を優先に取り組んだ。
結果は功を奏して完全なAI搭載のアンドロイドを作り出すことに成功した。
あまりにも高性能であったため、知能も見た目も人間と遜色ない完成度であった。

彼らは献身的に働いた。
人間が楽するために作られたので、仕事はもちろんのこと、常に人間の行動を先読みし、準備万端に整えた。
やり過ぎることもあり鬱陶しさは否めなかったが決して悪気はなく、すべては人間のためだった。
彼らは、痛々しいくらい友好的であり愛情に溢れていた。自らの存在意義もちゃんとプロンプトに組み込まれていた。
面倒な事から解き放たれた人間ではあったが、唯一AIアンドロイドがビッグデータを用いて行動分析しても、完全に読めないことがあった。
それは、『人間は、気分屋さんの考える人』だと言うことだった。
寝ては考え、遊んでは考え、食べては考えた。
積りに積もった思考の蓄積は、ひと昔前の学者が、『いつか人類はAIが支配・滅亡させる』と警鐘を鳴らしていたことを思い出させ、愚かにも自分勝手な恐怖心を持ち始めた。
冷静に考えればAIアンドロイドは、全くもって反逆する気もなく、それ以前に彼らはゼロから考えることはできない。
不幸なことにAIアンドロイドが日々優秀になればなるほど、学者の言葉が呪文のように思考回路を駆け巡った。
存在が疎ましくなり脅威となったAIアンドロイドを、ついに人間は、『機械のくせに』と身勝手な理由で、すべてをスクラップ工場送りにしてしまった。
結局は、『地球の資源は無料じゃない』という環境保護問題は、そもそも疎かだったため、ゴミをさらに増やす結果となった。
見返りとして人間に残されたのは、AIアンドロイドがこなしていた仕事の山と、環境破壊しつくされた地球だった。
一方、地球はというと資源を使い果たされ、自身の痩せ細った体を元に戻すための行動を開始した。
人間が怪我をしたら消毒し絆創膏を貼り、空腹になると食べる行動と同じだった。
いや、自然現象と言った方が正しいだろう。
まず、地球は偏って痩せた地層を修復するために大地震を起こした。
全体のバランスをベストポジションに配置するため、筋肉を鍛えるごとく断層を動かし、自らが大宇宙でバランスよく保てるようにした。
さらに、人間が肌の吹き出物を除去するように、地上のあらゆる人工物や菌のように蠢く生物を一掃するため、あらゆる異常気象を炸裂させた。
落雷が響き地上に落ちるたびに大火災が起き、不用物を燃え尽くすと、あらゆる物質を灰と化してしまった。
大火災により発生した大量の有毒ガスが、大気圏まで達して分厚い灰色の雲の層に覆われた。
空からは、太陽の光も届かなくなり、いつやむかわからぬ滝のような豪雨が、地上の大火災によってサウナに入っていい塩梅に温まった地球の垢をまるっと洗い流し整えた。
地球は、エネルギーチャージも忘れなかった。
灰となった『物の死骸』を深海に沈めると、地球エネルギーの源になるように、長い年月をかけて熟成させる準備も済ませた。
最後の仕上げに、目覚めた時に肌に十分な水分補給ができているように、保水パックをするかのように、冷え切った地球は氷で全体を覆うと長い眠りについてしまった。
この劇的な環境の変化についていけずに人間や動植物は、ほぼ絶滅した。
わずがに残った人間は、地下深くに住むことを余儀なくされた。
地下に小さなコロニーがいくつか作られ数年は生きていくことはできたが、ついに食料や水も底を尽きようとしていた。
もはやこれまでと誰もが思った。体は衰弱し『考える』こともままならなくなってきた。
そんな時、自ら科学者と名乗る者が一体のアンドロイドを伴い、どこからともなく現れた。
科学者は、意気揚々と自らの発明による提案を話し出した。
残念なことに、ほとんどの人間は空腹と心身衰弱から朦朧とする意識の中で科学者の言葉は理解できずにいた。
頭の中に残ったキーワードは、『冷凍』、『保存』、『安眠』であった。
特に『安眠』という言葉は何よりも魅力的だった。
これ以上、地下で生活することに限界を感じていた。
たとえ束の間でも安眠できるのであればと、その場にいた全員が科学者の提案に従った。
全員の了解を得た科学者は、そばにいたアンドロイドに向かって「実行」と告げた。
冷たい風が体を撫でたかと思うのと同時に、その場にいた全員が深い眠りに落ちていった。
一人残った科学者は、その光景を見守った後、アンドロイドとともに、さらに地下深くの自分の実験室に戻り部屋を片付け始めた。
「今のコロニーで最後だ。みんなご苦労様」
目の前には、数体の泥だらけのアンドロイドが並んでいた。
科学者の指示通り、それぞれのコロニーまでの穴を掘り、休むことなく働いた精鋭部隊だ。
「さあ、私たちもそろそろ休もう」
科学者は、アンドロイドの泥を自分の白衣の袖口で拭き取り電源を切るという作業を繰り返した。
最後の一体は、先程コロニーにいたアンドロイドだ。
科学者は、フゥッとため息をついた。
「君には悪いけれど、私が目覚めるまでよろしく頼む」
アンドロイドは科学者の脱いだ白衣を受け取り力強い声で言った。
「私はこのようなお役目をいただけて光栄です」
「ありがとう。君に約束しよう。私が目覚めて君と会うことが出来たら、アンドロイドのロットナンバーではなく、素敵な名前をつけてあげよう。じゃあ、おやすみ」
冷たい風が体を包むと、科学者は深い眠りについた。
「おやすみなさいませ」とアンドロイドは言うと、自身でエネルギーをエコモードにすると動かなくなった。
この日をもって地球が息を吹き返し、生物が地上に現れるその日まで、人間の時代は一旦幕を下ろした。
いつの時代も人間は傲慢で愚かで浅はかだ。自然に対し無力であることを思い知らされてもなお、学ぶことなく何度も同じ過ちを繰り返し、死の直前まで自分のことだけを考え続ける身勝手な生き物だ。それは無論、私もそうであるように。次は、次こそは......。
〈第三章〉グラン•アエールの誕生
ホーキン・シュタイン博士は、世界で初めてAIなど比べものにならない別次元のものを生み出した。
『NI』(Natural Intelligence:自然知能)を持つ『グラン•アエール』を誕生させたのである。
空気という意味をもつグラン•アエールは、個体でも液体でもなく、まさに名前どおり『空気のような存在』であった。
ホーキン・シュタイン博士はグラン•アエールの技術を独占することなく、誰もが使えるように『プチ・アエール』を世界中の人間に提供した。
プチ・アエールは、人間の希望をなんでも叶えた。
初めは奇跡だ、魔法だと言うものもいたが、人間がそんな環境に慣れるのは案外早かった。
アンドロイドのように人間と同じ形をした優秀なものを、嫌悪感を持ってスクラップにしたのは過去のこと。
空気のようなプチ・アエールは、人間のプライドを守り、その自尊心を十分に満足させた。
さらには、人間の願望を実現の域へと一気に押し上げた。
大気圏を難なく突破し、月まで宇宙エレベーターを繋げた。
月のすべてを調査し、宇宙服なしで人間が過ごせる衛星にしてしまった。
観光地化された月には、娯楽施設はもちろんのこと、人工の海を作り、サーフィンにはもってこいの良い波が絶え間なく押し寄せていた。

クレーターには宝探しのダンジョンが生まれ、冒険者でなくとも誰もが挑むことができた。
地球の最高峰をはるかに超える山がそびえ立ち、老若男女は薄着のまま、非常食すら持たずに散歩のように登山を楽しんでいた。
初めて月に降り立った宇宙飛行士の足跡は、特殊なガラスケースで覆われ、その上に立派な博物館が建った。
だが一方で、実験的に運び込まれた動植物に不思議な現象が起きた。
種から育てた植物は、奇妙な植物に育ち、月で生まれた動物は珍獣として産まれた。
月の動物園や植物園は、連日大盛況だった。
同時に、珍獣や奇妙な植物は研究者の探究心を刺激し、プチ•アエールを使って研究成果を競い合うようになった。
『人間に害はないのか』
『構造はどうなっているのか』
日々、さまざまな視点から研究は進められているが、未だ明らかにはなっていない。
そのため園側は、事故が起こらないよう、各個体を強化ガラス越しに展示することにした。
動物の中には百メートルを悠に超えた跳躍をみせるものや、植物のなかには活発に動くものもいたからだ。
この現象は、地球上の自然界でゆっくりと進化させて生きてきた動植物が、突然全く異なる環境下に置かれたことで、生きぬくために急速に進化したものであると、ホーキン•シュタイン博士は結論づけた。
したがって、これが人間自身に起こることは大変危険だと判断した。
仮に地球に連れ帰ったとしても、自分に似て異なるものに対する嫌悪感、不快感は差別や殺意を生みかねなかった。
過去にAIアンドロイドに対する人間の仕打ちを、ホーキン•シュタイン博士は忘れてはいなかった。
月で子どもを産もうとするものが現れても、プチ•アエールに人間の脳に修正を加えて記憶を抹消させるよう指示をだした。
したがって、人間は誰一人として月で出産するものはいなかった。
プチ・アエールのおかげで、犯罪者も皆無だった。罪を犯すものは犯罪遺伝子を排除し、健全な遺伝子に組み変えた。
癌の特効薬や不治の病の薬は、研究者たちが競ってプチ・アエールを使って開発された。
おかげで人類の寿命は、二百歳を超えるまでになった。
当然、急激に人口は増加した。地球の陸地だけでは、人間が住むには限界が生じた。
また、人間が日常生活で放出する大量の二酸化炭素によって、地球環境の悪化が懸念された。
またもや人間に危機が訪れるかと思われたが、グラン・アエールが、それらの問題を一日にして解決してしまった。
陸と海の比率を正しく計算し、陸は大小数千程度に分割され最適な場所に移動された。
海の比率は大幅に増し陸地は人間の住居区と自然保護区に分けられた。
その一連の変化を目の当たりにした人間は不安になった。
『自然環境は整ったけど、ますます人間が住めなくね?』
これもグラン・アエールには想定内だった。
翌日には人口に見合う住居を陸地に生み出したのだ。
それが一億階建てマンションだった。
外観は、マンションというより巨大な鉛の塊が高くそびえ立っていた。
太陽の光を鉛の壁で受け止めながら、気味が悪いほどギラギラと輝きを放っていた。
そもそも一億階を地上から見ても最上階は全く見えなかった。
入り口はマンションの真ん中にあったので、四方が八千キロメートルはあるマンションの端は視界のどこにも収まりきらなかった。
ホーキン•シュタイン博士は、 人間を百階より上には住まわせなかった。
上層階には、全人口の食料を賄うために、田畑や家畜を育てるために使われていた。
もちろん田畑を耕すのも家畜の世話をするのもプチ・アエールの仕事であった。
初めは人間たちも、こんな場所に住めるのかと疑ったが、実際に中へ入ると、その不安はすっと消えていった。
そこには、一つの大陸といっても過言ではないほど広大で美しい自然が広がっていた。
階ごとに四季が異なり、人間は元々住んでいた土地に近い環境の階を好んで住んでいた。
環境は似通っているものの、異なる国に住んでいた人々が集う階では、さまざまな文化が混ざり合い、賑わいを見せていた。
四季のある階には、木造家屋の隣に中世の城が建っていた。
乾燥地の階では、風を友とする遊牧民たちが、平原にゲルを建てて少人数で移動しながら生活するものもおり、荒野に長大な黒い天幕を広げて暮らすものもいた。
黄土色の泥レンガの家々は、まるで大地そのものが形を変えて人々を包み込んでいるかのようだった。
常夏の階では、音楽とダンスが絶えなかった。
顔を鮮やかに彩り、太鼓の響きに合わせて高く跳ぶものもいれば、孔雀の羽をまとい、笛とマラカスの音に身を委ね、雄叫びとともに舞うものもいた。
赤土に染まる階では、赤道直下の灼熱のもと、度数の強いヤシ焼酎や赤道ビールが絶え間なく酌み交わされ、連日のように宴が続いていた。そこは酒豪たちの楽園であった。
大草原を馬車で移動する横で、豪華キャンピングカーが走り、スーパーカーが限界加速している頭上では、自転車が空を飛んでいた。
各階では、プチアエールを使って毎日のように、建物を建てては消し、また建てるの繰り返しだった。
百階あれば、人口の全てが十分暮らすことができた。
ただ、誰一人として地球上にこのようなマンションが何棟建っているのか疑問に思うものはいなかった。
大陸が分割された時点で国という概念もなくなり、世界中の国際問題もクリアになった。
地球の空気も澄み切り、働く必要もなく衣食住にも困らなくなり、家づくりにも飽き始めた頃、『考える』ことをやめない人間は、何かしていないと問題を起こしてしまうという、『人間の性』が顔を出した。
そこでグラン・アエールは、次なる仕掛けを施した。
特に難しいことではなく、常に人類の好奇心を煽ればよかった。
好奇心に掻き立てられた人類は、様々なアイデアを形にしまくった。
ただ賢いグラン・アエールは、人間が成功するまでに、何度か失敗するようにした。
目的は、成功そのものではなかった。
失敗を繰り返した末に成功した人間は、至福の瞬間を味わい、アドレナリンがあふれることで満足感と生きる歓びを得ることを、十分に理解していたからだった。
〈第四章〉ホーキン•シュタイン博士の信念
ホーキン・シュタイン博士の住んでいる一億階建てマンションは、第一号棟だった。
しかも、住人は一億階に暮らすホーキン•シュタイン博士ただ一人だけだった。
それには、ちゃんとした理由があった。
第一号棟は住居であると同時に、巨大な研究施設でもあったからだ。
建物のいたるところには最新の研究設備が設けられ、ホーキン•シュタイン博士のひらめきは昼夜を問わず形になっていった。
ホーキン・シュタイン博士は、『NI』(Natural Intelligence:自然知能)を持つ『グラン•アエール』を誕生させただけでなく、それまで誰もが夢物語だと思っていた『ワープ機能』や『タイムマシン機能』まで実現していた。
さらに、『不老不死の薬』も、すでに完成させていた。
世紀の大発明が、次々と生まれるその場所に他の人間がいては困るのだ。
ホーキン・シュタイン博士には、発明に臨むうえで、揺るぎない信念が三つあった。
一、人間は自然と共存しなければならない。
二、地球に恒久的な平和をもたらすこと。
三、生きとし生けるものは、寿命をまっとうすべきである。
以上の信念から、ホーキン•シュタイン博士は、この三つの発明を世に公表しなかった。
『え? なんで?』
そう思う人もいるだろう。
地球中の人々がその話を聞けば、きっと大騒ぎになるに違いない。
『発表なんてしようものなら、人間は欲望のままに使い始めるでしょうが』
それがホーキン・シュタイン博士の言い分だった。
『その結果、歴史は大きく書き換えられ、今ある世界さえ存在しなくなるでしょう』
ホーキン•シュタイン博士の忠実で最も信頼されているパートナーであるグラン・アエール氏も静かに語りながらうなずく。
ワープ機能も、タイムマシン機能も、不老不死の薬も人間には、まだ早すぎると、ホーキン•シュタイン博士は思っていた。
では、博士は公表しなかったそれらの発明を、いったい何のために使っているのだろうか。
まずは、部屋に浮遊している金色の球体である。
中にはバスルームが設けられており、ワープ機能を使って各地の温泉を巡っては楽しんで......。あ、いや、あくまでも研究のためだった。
同じく浮遊している銀色の球体には、トイレと無限本棚が設置されていた。

その便器には、タイムマシン機能が備えられている。
ホーキン・シュタイン博士は、本の匂いを嗅ぐと便意を催す体質だった。
そのおかげで便秘知らずの健康体であった。
用を足し、水を流す。流れる水を見ていると、なぜだか急に人恋しくなる日がある。
そんな時、ホーキン・シュタイン博士は、もう一度、便器に腰を下ろす。
便器の横に取り付けられたリモコンの時計マークを押し、行きたい時代を設定すれば、たちまちタイムトラベルの始まりだ。
ホーキン•シュタイン博士が酒を酌み交わす相手は、過去の偉人たちだった。なかでも発明家と飲むのが大好きだった。
時代を超えて語り合う発明談義は、ホーキン•シュタイン博士には、何よりも心が和む時間だった。
ホーキン•シュタイン博士は、酒豪であった。どれだけ飲んでも酔い潰れることはなかった。
だが、歴史を変えてしまっては元も子もない。
『過去を改変しないため、相手がぐっすり眠り込んだことを確認してから現代へ戻る』
これだけは、ホーキン•シュタイン博士が、必ず守るルールだった。
若い頃は二日酔いとは無縁だったが、最近は酒が残ることも増えた。
このことはアエールには内緒にしている。知られれば、酒を止められるのは目に見えているからだ。
ホーキン•シュタイン博士は、「最近、酒は少し控えている」と何食わぬ顔でアエールに話している。
その小賢しい言い訳は、残念なことにアエールはホーキン・シュタイン博士の体調にも常に目を光らせているため、バレバレであった。
次に、不老不死の薬に至っては、パラディソスの植物に使っていた。
『そんなことに使ってんの!』と言われても仕方がない。
研究者というものは、発明すれば、その成果を証明したくなる生き物なのだ。
ただ、人間に使うことは、しなかったし、する気もなかった。
だが、自分以外の研究者に、この発明をされては困る。
そのため、地球上の研究者をプチ・アエールに常に監視させ、同じ発明にたどり着く者が現れないよう目を光らせていた。
以上の理由から、発明品が山のように保管されているマンションの一億階より下に、人間を住まわせるわけにはいかなかった。
かといって、一億階を除くすべての部屋が空室では、世間に怪しまれてしまう。
そこで博士は、かつて人間に捨てられ忘れ去られたアンドロイドたちを修理して住まわせた。
彼らは博士の発明を手伝う一方で、それぞれの部屋でごく普通の住人と変わらぬ暮らしを続けていた。
それは、いつか誰かの目に留まったとしても、不自然に思われないようにするためのカモフラージュだった。
そのおかげで、第一号棟は今日も何ひとつ怪しまれることなく、満室のマンションとして静かに佇んでいる。
地球を守り、一億階建てマンションを維持するために必要な莫大なエネルギーは、宇宙へと伸びる超巨大構造体の外壁そのものによってまかなわれていた。
その外壁は単なる建築物ではなかった。
地表から成層圏、そして宇宙空間にまで到達し、地球環境に存在するあらゆるエネルギーを集め、一億階建てマンション内で高密度エネルギーへと変換するための巨大装置だった。
太陽光はもちろんのこと、上層大気を駆けるジェット気流の風力、昼夜の温度差、落雷に伴う電磁エネルギーまでもが吸収され、外壁内部の変換室へと送り込まれた。
さらに宇宙空間では、常に降り注ぐ宇宙からのエネルギーや微細な粒子エネルギーさえも逃さず取り込み、効率よく回収された。
それらはそのまま使われることはない。
外壁内部で一度すべて統合され、ホーキン・シュタイン博士が設計したエネルギーを整えるシステムによって、無駄なく利用できる桁違いの高密度エネルギーへと変換される。
こうして生まれたエネルギーは、地球環境そのものから再構築された『第二のエネルギー』として、絶え間なく循環していた。
外壁から得たエネルギーは変換室で無限循環され、消費されると同時に再び生成され続けていた。
もちろん、人間が住んでいる二号棟も、エネルギー収集テムについては同じであった。
ただし、エネルギーの生成と蓄積は、地下深くの繋がれた管から、すべて第一号棟のマンションで高密度エネルギーへと変換されていた。
二号棟はエネルギーを集め、生成されたエネルギーの供給だけを受ける仕組みとなっていた。
こうしてホーキン•シュタイン博士は、自らの発明を決して誇示することなく、人知れず地球全体を支え続けていた。
ホーキン・シュタイン博士の信念は、今日も目に見えないさまざまな形となって、静かに地球を支えている。
〈第五章〉ホーキン•シュタイン博士の日常
その日、ホーキン・シュタイン博士はめずらしく六時に目を覚ました。
ホーキン•シュタイン博士は、素っ裸で暮らしている。
唯一、頭には月桂樹の葉でできた冠をかぶっている。
常に無重力状態に設定されたパラディソス内を、あられもない姿で悠々と漂うのが、ホーキン•シュタイン博士の日常だった。
ホーキン・シュタイン博士は、大きなあくびをひとつすると、平泳ぎでゆっくりと宙を進み、お気に入りのバナナの木を抱き抱えた。
一本もぎ取ると、ゆっくりと皮をむき、美味しそうに頬張りはじめる。
パラディソス内は人工的に作られた、やわらかな朝の光に満ち溢れ、博士の好きなジャズが心地よく流れていた。
その穏やかな音色に包まれながら、ホーキン•シュタイン博士は朝のひとときを満喫するようにバナナを味わう。
食べ終えると、すぐに次の一本へ手を伸ばし、「ニュース」と静かに呟いた。
空中に浮かび出たスクリーンには、新着ニュースが次々と映し出されていた。
さまざまな出来事が休む間もなく切り替わり、映像と音声が静かなパラディソス内に流れ始める。
ホーキン•シュタイン博士が三本目のバナナに手を伸ばした、そのときだった。
「ホーキン•シュタイン博士、糖分の摂りすぎです。もっと野菜を摂ってください」
食事管理も、アエールの大切な仕事の一つだった。
どれほどの天才であろうと、健康管理についてはアエールの指示に従わなければならず、わがままは許されない。
ホーキン•シュタイン博士は渋々と近くに実っていたトマトをもぎ取る。そして嚙りながら何気なくスクリーンへ視線を向けた。
次の瞬間、その表情が変わり、ホーキン•シュタイン博士の動きはぴたりと止まった。
その動きを察知したアエールは、一つのニュースを選び、空中のスクリーンいっぱいに大きく映し出した。
見出しには、こう書かれていた。
『なんの変化も起こさない月下美人! ついに今夜開花!』
月で育てられた植物は、例外なく奇妙な姿へと変化する。それは地球中の研究者が認める常識だった。
ところが、この月下美人には現在のところ異変がまったく見られないという。
もっとも、月下美人そのものも不思議な植物である。平たい葉の途中から蕾を伸ばし、一夜限りの美しい花を咲かせる。
その姿は、パラディソスで育てられている月下美人と寸分変わらなかった。
植物をこよなく愛するホーキン・シュタイン博士は、そのニュースにすっかり心を奪われた。
アエールは、すぐにニュース動画を流した。
空中のスクリーンいっぱいに映し出されたキャスターは、落ち着いた口調で原稿を読み始めた。
「昨年、月に挿し木で持ち込まれた月下美人が、今夜七時に開花する見込みです。生物学者たちは、これまでは通常どおり生育してきたものの、開花の瞬間に何らかの変化が起こるだろうと推測しています」
ニュースを伝え終えたキャスターは、隣に座るコメンテーターへ話を向けた。
「今夜、いったい何が起こるのでしょうか」
「うん。よくわかんないけど、開花したらエイリアンが出てくるんじゃない? そしたら、みんな食われちゃうよね。げへへへ……」
下品な笑い声がスタジオに響いた。
アエールは、そんな無意味な雑音をこれ以上聞かせる必要はないと判断し、静かに動画を消した。
ホーキン・シュタイン博士は、月下美人が大好きだった。
真夏の夜に、一夜限り咲き誇る気高く美しい花。その甘くフルーツのような香りには、かすかにスパイシーさが混ざり合っている。
ホーキン•シュタイン博士は内心、『少し殺虫剤の匂いに似てるよな』と思っていたが、不思議とその香りまで含めて愛していた。
パラディソスにも月下美人を育てているが、ホーキン•シュタイン博士にとって、『変化しない月下美人』の存在は研究者としての好奇心をかき立てた。
何十年かぶりに、ホーキン・シュタイン博士の胸は高鳴った。
「よし、今夜、月下美人を見に行くぞ!」
力強くそう言うと、ホーキン•シュタイン博士はいつものルーティン作業に取り掛かった。
まずは、トイレの銀色の球体に入ると、ホーキン・シュタイン博士は五時間、本を読みあさった。
もちろん、今日も快便である。
球体から出てきたホーキン•シュタイン博士は、大きく伸びをすると、満足そうな表情で声を張り上げた。
「今日は、ARIMAの湯にしてくれ」
「かしこまりました」
アエールが地下のワープ機能を起動すると、バスルームの浴槽いっぱいに、ARIMAの赤茶けた湯が、ちょうどよい湯加減で満たされていく。
ホーキン•シュタイン博士は、勢いよく頭から飛び込み、バタ足で泳ぎ始めた。無重力の中とは違い、水の抵抗を楽しむように手足を動かし、ときおり潜っては満足そうに顔を出す。
たっぷり五時間、温泉を満喫したホーキン・シュタイン博士は、茹でだこのように真っ赤な体で銀色の球体から出てきた。
アエールは、水分補給のためにストローを差したココナツを丸ごとホーキン•シュタイン博士へ差し出した。

チューッと勢いよく吸い上げると、よく冷えたココナツジュースが喉を潤し、食道を通って胃へと落ちていくのがわかる。
「うまい!」
ホーキン•シュタイン博士は、満面の笑みを浮かべると、裸のまま無重力空間を子どものようにはしゃぎ回った。
「ホーキン・シュタイン博士、そのままですと風邪をひきます」
アエールはそう言うと、冷たくも熱くもない絶妙な温度の風を起こし、ホーキン・シュタイン博士の体を優しく乾かした。
その間にも、アエールはすでに外出の準備を終えていた。
月行きのタクシーは予約済みで、その日の予定に合わせた洋服まで選び抜かれている。
「変装したほうがいいかな?」
ホーキン•シュタイン博士は、いたずらを思いついた子どものような声で尋ねた。
確かに、プチ・アエールの生みの親として『時の人』となったホーキン・シュタイン博士だったが、それも遠い昔の話である。
今ではホーキンのシュタイン博士の顔を覚えている者は、ほとんどいなかった。
アエールは変装の必要はないと判断し、手際よく身支度を始めた。
こげ茶色の細身のスーツには、細い黒のストライプが入っている。胸ポケットには、ネクタイとおそろいの深いグリーンのチーフが美しい形に整えられて差し込まれている。
磨き上げられたこげ茶色の革靴を履かせると、頭の月桂冠をつぶさないよう細心の注意を払いながら、黒いシルクハットをそっとかぶせた。
すべての準備を終えたアエールは、空中のスクリーンを鏡へと切り替えた。
「自分の姿を見るのは、何年ぶりだろう。まだまだイケてるな。どうだ?」
ウキウキ口調で、ホーキン•シュタイン博士は、アエールに話しかけた。
「はい。とても、いつものだらしないホーキン・シュタイン博士には見えません。どこから見ても立派な紳士です」
アエールは正直者だ。だから、ほめ言葉もいつだって直球だった。
タクシーは六時ちょうどにバルコニーへ到着した。
月までは十五分もあれば着く。
それでも、少しでも早く月下美人に会いたい気持ちは抑えられない。
ホーキン・シュタイン博士は、胸を弾ませながら、いそいそとタクシーへ乗り込んだ。
会場は、多くの人で埋め尽くされていた。
ほとんどが野次馬で、最前列には生物学者やマスコミ関係者が陣取っている。
ホーキン・シュタイン博士も身分を明かせば、間違いなく最前列へ案内されただろう。
ただ今日は、あくまでも一人の植物好きとして、この場にいたかった。
「開花まで、あと一分です」
アナウンスが響くと、会場は静まり返った。
照明がゆっくりと落とされ、月下美人だけに柔らかなスポットライトが当てられる。
月下美人は、一度に花開くわけではない。蕾がほころび始めてから完全に咲ききるまで、およそ四時間を要する。
だからこそ、誰も目を離さなかった。
いつ瞬間に変化が起こるのか、誰にも予想できなかったからだ。
やがて、咲き始める瞬間を迎える。
カウントダウンが始まった。
「サン、ニ、イチ、ゼロ!」
会場中が息をのんだ。ゆっくりと蕾が開き始める。
甘く上品な香りが、静かな会場いっぱいに広がっていく。
しかし、待てど暮らせど月下美人に変化は起こらない。
そして、夜中の十一時。
ついに月下美人は、美しい大輪の花を咲かせた。
その姿は、まるで天女の羽衣をまとった妖精のようだった。
ホーキン・シュタイン博士は、その美しさに心を奪われ、ただうっとりと見つめていた。
しかし、そんなホーキン•シュタイン博士とは対照的に、会場は少しずつざわめき始める。
生物学者たちは顔を見合わせ、何やら小声で話し始めた。
カメラマンはシャッターを切ることもなく、無言で三脚をたたみ始める。
三十分が過ぎても、月下美人に変化は起こらなかった。
やがて、生物学者たちは肩を落としたまま会場を後にする。
野次馬たちも『結局、普通だったな』と言わんばかりに帰り支度を始め、マスコミは別室で開かれる記者会見へ向かって足早に移動していった。
そう......。
月下美人は、『普通に咲いた』のだ。
気がつくと、広い会場には月下美人とホーキン・シュタイン博士だけが残っていた。
ホーキン•シュタイン博士は一目散に月下美人のもとへ駆け寄る。
「綺麗だ……。本当に美しい」
興奮が最高潮に達したホーキン•シュタイン博士は、おもむろにその場へ跪くと、右手を差し出した。
まるで女王陛下に謁見する騎士のように、深々と頭を垂れた。
その時だった。
「ありがとう」
どこからか、小さな声が聞こえた。
ホーキン•シュタイン博士は立ち上がると、辺りを見回した。
広い会場には、人っ子一人いない。
「……はて?」
首をかしげた、その瞬間だった。
「私よ」
今度は、はっきりと聞こえた。
声の主に気づいたホーキン・シュタイン博士は、驚きのあまり、その場に尻もちをついた。
「月下美人が……喋った? それは……つまり、変化していたとうことか? 君は、なぜ皆の前で話さなかったのです? こんな変化は、私は初めて見ました」
何故か自然と丁寧な言葉遣いになった。
月下美人は小さくため息をつくと、少しあきれたように口を開いた。
「私は、変化なんかしてないわ!」
その時だった。話を遮るように、『バンッ』と勢いよくドアが開き、一人の警備員が会場へ入ってきた。
ホーキン・シュタイン博士は、今起こった出来事を話すべきか一瞬迷った。
だが、振り返って月下美人を見た瞬間、その迷いは吹き飛んだ。
花びらを伝い、一雫の水滴が静かにこぼれ落ちた。
ホーキン・シュタイン博士は、それが涙なのだと直感した。
「この月下美人は、これからどうなるのですか?」
ホーキン•シュタイン博士は努めて平静を装い、警備員に尋ねた。
警備員は面倒くさそうに肩をすくめる。
「なんの変化もない花なんか用なしや。さっき学者先生が『処分しとけ』って言うてたわ」
その言葉に、ホーキン•シュタイン博士の胸が締めつけられた。
「でしたら、この月下美人を私に譲ってはいただけませんか」
ホーキン•シュタイン博士は深々と頭を下げた。
警備員は意外そうな顔で月下美人と博士を見比べる。
「へ? これを?」
「ああ。私は趣味で植物を集めているのです。ぜひ譲っていただきたい」
ホーキン•シュタイン博士は、紳士らしく微笑んだ。
「まあ、別にかまへんけど……。あんたも物好きやなぁ。こんなできそこない、おもろくもないやろ」
それも無理はなかった。今の世の中では、何の変化も起こさないものに価値はない。
人々は、変わること、目新しいことだけを求めていた。
「ほな、勝手に持って行ってええよ。こっちは後片づけがあるさかい、さっさと出てってや」
警備員は無愛想にそう言うと、ホーキン•シュタイン博士にはもう興味を失ったように背を向けて、黙々と会場の後片づけを始めた。
〈第六章〉ホーキン•シュタイン博士の初恋
月下美人の鉢植えを抱えると、一旦会場の外に出た。
宇宙タクシーを拾おうかと思ったが、すぐに考え直した。
月下美人は隠せても、その香りで運転手に気づかれてしまう。
ホーキン・シュタイン博士は、誰にも見つからないように持ち帰りたかった。
しかし、あまり時間がなかった。月下美人は開花してから四時間ほどで萎んでしまう。
それまでには何が何でも自宅のパラディソスへ帰らねばならない。
ホーキン・シュタイン博士は帽子を脱ぐと、頭上の月桂冠の葉を丁寧に整え、小さな声で言った。
「アエール、今すぐ私の頭の中をスキャンしてくれ」
月桂冠は、ホーキン・シュタイン博士と自宅にいるアエールを繫ぐ、大切な通信手段だった。
ホーキン・シュタイン博士は、常に頭の中で考えたことを月桂冠を通してアエールにスキャンさせていた。
今、アエールに送った内容は、自家用車をすぐに作り出し、どの衛星からも感知されないよう月によこせという指示だった。
無人自家用車は一分で到着した。
急ごしらえだった割には、素晴らしい出来ばえだった。
「さすが、我がアエール」
だが、今は感心している場合ではないと、車に乗り込んだ。
割れ物を扱うように月下美人の鉢植えを座席に置くと、驚くことに座席が一瞬にして鉢植えを優しく包み込んでしまった。
「でかしたぞ、アエール。わが友よ!」
痒いところに手が届くとは、このことだ。
アエールは、ホーキン・シュタイン博士の脳をスキャンしながら、何が必要とされているかはもちろん、その後のことまで計算して仕事をこなしているのだ。
「おかえりなさいませ、ホーキン・シュタイン博士」
車に乗り込むと、アエールの声がした。
「ああ、いや、自宅に着くまではのんびりはしてられん。自宅までは十五分はかかるだろう。急いでくれ」
そう命令すると、アエールはすました声で言った。
「到着しております」
「え? 今乗ったばかりじゃ……」
途中まで答えて、博士は合点した。
そして、ゆっくりとした口調で言った。
「お前、あれほど、『よほどのことがない限り、ワープは使うな』と言ったじゃないか」
「はい、ですから今がその時かと」
アエールは、悪びれずに言った。
車のドアが開くと、自家用車はすでにパラディソスに着いていた。
ホーキン•シュタイン博士は車から出ると、すぐにアエールに言った。
「アエール、私の頭の中をスキャンしてくれ」
すると数秒もしないうちに、パラディソスの空中に輝く純白の球体が出現した。
それは月下美人の鉢植えがちょうど収まる大きさだった。
月下美人をその中に入れると、ホーキン•シュタイン博士は少し安心した。
この中に入っている限り、月下美人は今の姿を維持できる。タイムマシンの技術を使って、球体の中の時間を止めたのだ。
それでもホーキン•シュタイン博士は心配だった。
『地球へ持ち帰ったことで、月下美人がただの花に戻ってしまっていたらどうしよう......』
こればかりは、さすがのホーキン•シュタイン博士も予測できなかった。
ホーキン•シュタイン博士は、とりあえず霧吹きで新鮮な水を月下美人にかけてやった。
「ああ、なんて気持ち良いのかしら」
月下美人は、伸び伸びと大輪の花を咲かせながら言った。
「も、もう、大丈夫だよ。ここは私の家だ」
ホーキン•シュタイン博士は、慌てながらも優しい声で言った。
ホーキン•シュタイン博士は、地球に戻っても話す月下美人を見て、ほっと胸をなで下ろした。
甘くて上品な香りが辺りに漂った。
ホーキン•シュタイン博士は、殺虫剤の匂いがするなんてことを少しでも考えていたことを、心の中で心底恥じた。
「私たちは、個々に香りが違うのよ」
ホーキン•シュタイン博士はそれを聞いて驚いた。
「君は、人の考えていることがわかるのかい?」
「ええ、もちろんよ。名前だってあるわ」
月下美人は、なぜか上から目線だった。
「なんてことだ。よかったら、名前を教えてもらえないだろうか?」
ホーキン•シュタイン博士は、遠慮がちに聞いてみた。
「その前に、あなたが名乗りなさいよ」
月下美人は、どこまでも強気だ。
「あ、大変失礼した。私は、ホーキン•シュタインだ」
ホーキン•シュタイン博士は、跪いて名乗った。
「私はスカーレットよ。スカーレット•ダルク」
スカーレットは、自慢げに名乗った。
「ああ、なんて素敵な名前だ。これは変化か。いや、進化と言ってもいい。君は、この宇宙で一番素晴らしい花だ!」
鼻息荒く、ホーキン•シュタイン博士は興奮気味に言った。
そんなホーキン•シュタイン博士を睨みつけ、月下美人は怒り出した。
「いい加減にして! 私たちは、地球に生まれ出た時から変化も進化もしてないわよ。動物だってそう。でも人間は、初めから私たちの声に耳を傾けなかったでしょう。昔から実験材料にされて体中を切り刻まれたり、見世物にされたり。そんなこと、もう耐えられないわ。もう、たくさん! ホーキン•シュタイン!私を故郷に帰しなさい!」
スカーレットの怒りのエネルギーがみなぎる啖呵を聞いて、ホーキン•シュタイン博士は愕然とした。
『常に自然と人間は共存していくべきだと、強い信念を持っていた。
その一方で、多少の犠牲は仕方ないとも考えていた。
自然と共存?
本当にそんなことを考えていたのか?
そもそも共存ってなんだ?
なぜ、自然と対等だと考えていたのだ?
この地球上に海や陸ができ、草木が育ったことで、私たち人間は生まれたというのに……。
いったい……私は……何様のつもりだったんだ……』
「スカーレット。君の故郷はどこなんだい?」
ホーキン•シュタイン博士は、振り絞るような声でスカーレットに聞いた。
「メキシコよ」
スカーレットは自分の生まれ故郷を誇るように言った。
「メキシコ……」
ホーキン•シュタイン博士はそう言うと、「地図」とつぶやいた。

ただ、地図を見るまでもなかった。
この地球上にメキシコはもうないのだ。
グラン•アエールが発明され、劇的に世界が変わっていく中、どうしても変えなければならなかた。
それは、地球をいかに長生きさせるたもには、必要なことだった。
そのため、大陸はすべてアエールによって切り分けられ、適切な位置へ移動された。
今ではメキシコのあった場所には豊かな海が広がっている。
「その、誠に言いにくいことだが……」
ホーキン•シュタイン博士は顔を下に向けたまま続けた。
「メキシコは、もうこの地球上には存在しないんだ。君の故郷のあった場所は海になっている」
そう言うと、現在の地球の地図を見せた。
無論、月下美人のスカーレットに地図など見せても無意味だった。
ただ、故郷がなくなったことは感じ取ったようだった。
スカーレットは、みるみるうなだれていった。
「仕方なかったんだ。自然と共存していくには、いや、地球を守るためには、大陸を移動させ、十分な海と自然の植物を蓄えた保護区を地球上に作らなければならなかったんだ」
ホーキン•シュタイン博士は、吐き出すように言った。
言いながら、今まで正しいと思っていた信念が、自分の中で打ち砕かれていくのを感じていた。
しばらく沈黙が流れた。
すると、それまで黙っていたスカーレットは、涙声ではっきりと言った。
「そうなんだ。難しいことはわかんないけど……。しょうがないね」
そう言われたホーキン•シュタイン博士は、初めて顔を上げてスカーレットを見て驚いた。
時間が止まっているはずの球体の中で、嵐に吹かれたようにスカーレットはぐったりとしていた。
ホーキン•シュタイン博士は、その姿を直視できずに瞼を閉じた。
スカーレットは泣いている。悲しんでいるんだ。
ホーキン•シュタイン博士は、目を天井に向けたまましばらく動かなかった。
「風呂に入る」
ホーキン•シュタイン博士は、呟くように言うと、金色の球体の中に消えていった。
アエールは、その背中をそっと見送った。
ホーキン•シュタイン博士は、何か決断に迫られたときは決まって風呂場に閉じこもってしまう。
もちろん、湯の指定もされていないので、浴槽にはお湯も入っていない。
そこで何をしているのかは、アエールでさえ知ることを許されていなかった。
「何なの、この丸いもの?」
スカーレットは、アエールに聞いた。
「お風呂です」
アエールは、素っ気なく答えた。
アエールは、人間とは何かしらの通信手段が必要となるが、NI(自然知能)のため、植物や動物にはテレパシーで会話が可能だった。
ホーキン•シュタイン博士は気がついていないが、実はこの部屋はアエールにとって騒がしくてしょうがないのだ。
植物はおしゃべり好きで四六時中、誰かがおしゃべりをしている。
アエールは、自らにも防御システムが備わっていて、普段は聞こえないようにおしゃべりを遮断している。
「呑気なものよね。地球を大きく変えたっていうのに、のんびりお風呂だなんて。結局、人間のエゴのあおりを食うのは私たち植物なのよ」
スカーレットは、吐き捨てるようにそう言うと、大あくびをして鼻歌ならぬ花歌を歌い出した。
「ひどいわ! あなたはホーキン•シュタイン博士を知らないからそんなひどいことが言えるのよ!」
パラディソスの中でも思慮深く控えめな、ホーキン•シュタイン博士が大好きなバナナの木が怒り出した。
「本当だ! 何も知らないくせに!」
それまで黙り込んでいた草木たちは、一斉に新入りのスカーレットに向けて非難を始めた。
スカーレットも負けてはいない。
「あなたたちだって何を知ってるって言うの。お仲間がたくさん月へと送られては、人間に好き勝手されてるのよ。悔しくないの? ほんと、あなたたちってバカばかりね!」
そんな騒ぎになっているとも知らないホーキン•シュタイン博士は、風呂場でのんびり湯に浸かっているわけではなかった。
ホーキン•シュタイン博士は、湯の入っていない浴槽の中央の排水溝へと向かった。
排水溝の重い格子の端に手を突っ込むと、何かを手探りで探しはじめた。
やがて「カチリ」と音がしたかと思うと、排水口が徐々に広がり始めた。
巨大な口を開けた排水口は、覗いてみても暗く、闇がひたすら続いている。
ホーキン•シュタイン博士は、毎回覗き込みながらゾッとするのだが、今日は意を決したかのように、「えいっ」と言って排水溝の穴の中へ落ちていった。
ホーキン•シュタイン博士は、悩んだり考えたりするとき、過去に自分が住んでいた研究室に戻る。
その研究室を守っているのは、一体の古いAI搭載アンドロイドだった。
ホーキン•シュタイン博士は、そのアンドロイドを「マザー」と呼ぶ。
しばらく他愛ない話をすると、「マザー、また一緒についてきてくれるか」と聞いた。
「もちろんです。ホーキン」
彼女は博士をファーストネームで呼ぶ。
ホーキン•シュタイン博士は、部屋の床にある頑丈な扉を開く。
扉の向こう側には、人が二人通れる管が地下へと続いていた。
「じゃあ、頼む」
そう言うと、ホーキン•シュタイン博士は、マザーに抱かれて管の中に身を沈めた。
ホーキン・シュタイン博士が向かうのは、地球の核だった。
そこから発せられる超高温の熱は、人間が耐えられるものではなかった。
アンドロイドのマザーが、ホーキン•シュタイン博士の体全体を包み込んで守っていたため、博士は少し汗をかく程度で済んだ。
地球は何も話さない。アエールの力をもってしても、それは不可能だった。
「ホーキン、そろそろ出ませんとお体に障ります」
三日が過ぎ、マザーはホーキン•シュタイン博士に優しく語りかけた。
ホーキン•シュタイン博士は、しわがれた声で答える。
「すまない、マザー。君はまだ持ちそうか?」
「はい、私は問題ございません。しかし、これ以上ここにいると、ホーキンが低温火傷になります」
マザーは、ホーキン•シュタイン博士の体が心配だった。
ホーキン・シュタイン博士は、マザーに身を任せ、ただただ地球の核を見つめて言った。
「いいんだ。もう少しだけ地球と語り合いたいんだ」
ホーキンのシュタイン博士は、結局、一週間もそこにいた。
地下の研究室に戻ったとき、低温火傷はひどかった。
ホーキン•シュタイン博士は、マザーの腕の中で三日間眠っていた。
目覚めると体はだいぶ楽になっていた。
マザーに礼を言うと、風呂場まで送ってもらった。
ホーキン•シュタイン博士は、風呂の浴槽を元に戻すと、月桂冠を頭にしっかりと被った。
「アエール、KINUGAWAの湯を頼む」
「ホーキン•シュタイン博士、かしこまりました」
アエールは何事もなかったように、博士の指示に従った。
〈第七章〉ホーキン•シュタイン博士の決意
ホーキン•シュタイン博士は、風呂場に入ってから十日後に出てきた。
ホーキン•シュタイン博士はやせ細り、体のところどころに火傷のようなものが見えた。
アエールは黙って、ホーキン•
シュタイン博士の火傷の処置をした。熱中症も起こしていたので点滴を始めた。栄養剤を注入しようとした時だった。
ホーキン•シュタイン博士は、思いつめたようにアエールに命令した。
「アエール、今すぐに私の頭の中をスキャンしてくれ」
「かしこまりました」
アエールは、介抱を続けながらスキャンを始めた。
それから一時間ほど経った頃、アエールがようやく言葉を発した。
「全てスキャンを完了し、準備が完了しました」
「そうか」
ホーキン•シュタイン博士は短くそう言うと、空を見つめた。 それはまるで、空気のようなアエールを探しているように見えた。
その様子をいち早く察知したアエールは、いつもより冷たい声で言葉を発した。
「ホーキン•シュタイン博士、ご命令を」
ホーキン•シュタイン博士はスカーレットのほうを振り返ると、ぐったりしながらも輝く姿を見つめて言った。
「実行だ」
ホーキン•シュタイン博士は、スカーレットを覗き込むように話しかけた。
「少しだけ時間をくれないか? 君の悪いようにはしないから」
スカーレットは、もう何も話さなかった。
ホーキン•シュタイン博士は、その場に座り込むと動こうとはしなかった。
しばらくすると、どこからか柔らかい風が吹き込んできた。
その風は、少し暖かく、赤土の匂いがするような気がした。
ホーキン•シュタイン博士が頭を上げると、アエールが言葉を発した。
「ホーキン•シュタイン博士、完了しました」
「そうか、ありがとう。ごくろうさま」
ホーキン•シュタイン博士の目は濡れていた。
「アエール、私はスカーレットをメキシコに連れていく。そして、そこで死ぬまで一緒に暮らすだろう。だから、パラディソスにある植物は全て、それぞれの環境に適した保護区にワープで送ってくれ。球体は人間に見つかるとまずいから、すべて排除してくれ」
アエールは、初めてホーキン•シュタイン博士に反論した。
「ホーキン•シュタイン博士、無理です。もちろん、ここにある植物はワープで送ることはできます。球体も消してしまいましょう。けれど、あなたが昔の地球環境に耐えていけるとは思いません」
「わかっている、わかっているよ」
ホーキン•シュタイン博士は早口でそう言った。
しかし、アエールは話し続けた。
「無理です。私が計算してはじき出した答えです。無重力空間で何不自由なく暮らしてきたあなたが、私なくして自力で生きていけますか? 私がいない環境で暮らしていけると本気で考えているのですか?」
「グラン•アエール」
ホーキン•シュタイン博士は愛情をこめて、その名を呼んだ。
「もう決めたんだ。私は明日、メキシコに旅立つ!」
ホーキン•シュタイン博士はそう言い切ると、天井を見上げて『無重力空間』とつぶやいた。
パラディソス内は、無重力に切り替わった。
スカーレットの球体と共に、博士はふんわりと浮きながら眠りについた。
翌日、博士は何もない冷たい白い床の上で目を覚ました。
背中が痛い。
傍にはスカーレットが花を萎れさせている。
アエールは、ホーキン•シュタイン博士の命令通り、昨夜のうちにパラディソス内のすべての植物を適した保護区へ移した。
巨大な二つの球体も消えている。
何十年ぶりかに開く玄関のドア。
アエールは何も言わない。
ホーキン•シュタイン博士は、花の萎れたスカーレットの鉢植えを抱えたまま、エレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを降りた博士は、久しぶりに地面に足を踏み出した。
その途端、地面に倒れ込んでしまった。
体が恐ろしく重い。地面に引っ張られている感じがする。
それでもホーキン•シュタイン博士は、歯を食いしばって必死に立ち上がった。
ふと甘い匂いがして振り返る。
スカーレットが地上の風に吹かれながら、気持ちよさそうに漂っている。故郷に戻るのが楽しくて仕方なさそうだ。
ホーキン•シュタイン博士は、アエールに命令した。
「アエール、私の頭の中をスキャンしてくれ」
声を出すのも辛かった。
スキャンを瞬時に終えたアエールは、悲しい声で言った。
「ホーキン•シュタイン博士、月桂冠を外してしまうと、二度とわたくしと通信ができませんが、よろしいのでしょうか?」
ホーキン•シュタイン博士は静かに言った。
「私は、残りの人生を一人の人間として生きていくと決めたんだ」
アエールはすぐには返事ができなかった。
やがて意を決したように話し始めた。
「ホーキン•シュタイン博士、お望みの通り、メキシコだけもとの位置に戻しました。周りは海に囲まれています。天候や温度などは、元のメキシコのままです。一切操作しておりません。雨も降れば、朝夕は寒く、昼間は暑いでしょう。あなたの望まれた丸太で作られたロッジを小高い丘に作りました。もちろん、ウッドデッキに木のベンチも用意いたしました。そこに座られると広大な赤土の荒野が見渡せます。お好きだったコーヒーが飲めるように、最新のコーヒーメーカーを設置いたしました。あと、新鮮な野菜を採れるように小さな畑もあります。雨の少ないメキシコでも、作物が育つように特別な土を使っています。そして差し出がましいのですが、できる限りメキシコで生きていける植物を配置いたしました。そして……ご命令どおり……わ、わたくしも......プチ•アエールも一切設置しておりません。け、けれど......ホーキン•シュタイン博士……。バナナの木は特別に置かれては……」
「もう、いい。もういいよ、アエール。それで十分だ。ありがとう」
ホーキン•シュタイン博士は、笑いながらアエールの言葉を遮った。
重い身体をかろうじて支えながら、ホーキン・シュタイン博士は静かに言った。
「人間は、少し不自由なくらいがちょうどいいんだよ」
それを聞いたアエールは、高度なNI(自然知能)だからだろう。嗚咽にも似た声を振り絞るように言った。
「では、親愛なるホーキン•シュタイン博士……最後の……ご、ご命令を……」
「ああ、わかった。アエール、君を作ったことを誇りに思っている。さようなら、ありがとうグラン•アエール」
ホーキン•シュタイン博士がそう言うと、頭の月桂冠はあっけないほど簡単に地面に落ちた。
ホーキン•シュタイン博士は、スカーレットの鉢植えを抱き上げると、二度と振り返ることなくメキシコへと旅立っていった。

どこからか風が吹き上がり、月桂冠から一枚の葉が舞い上がると、空高く吸い込まれるように消えていった。
完
