教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十章 ボールヴォワール/アラス/ルーアン/異端審問
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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⚠️字数が多い(28,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。
【この章のポイント】
- ジャンヌの身柄を巡る政治的・金銭的取引
- 不利な証言の収集と卑劣な策略
- 異端審問の開廷
10.1 謎めいた使者とジャンヌの手紙
1430年9月、トゥルネーの住民である首席参事会員(chief alderman)ビエトレミュー・カルリエと首席評議員(chief Councillor)アンリ・ロマンの2人は、フランス王への使節としてロワール川流域へ派遣された後、帰還する途中で、ボールヴォワールに立ち寄った。
⚠️トゥルネー(Tournai):現在のベルギーで、フランスとの国境沿いにある町。当時はブルゴーニュ公の支配地域。
ここは、彼らが帰還する直通ルート上にあり、旅の途中で二度休憩するのに都合が良かった。
とはいえ、シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)への使節としての任務と、リュクサンブール卿の領地へ立ち寄った間に、何らかの関連があったのではないかと推測せざるを得ない。
彼らの同胞(ブルゴーニュ派)がフルール・ド・リス(フランス王家の紋章)に今もなお愛着を抱いていたこと、そしてジャンヌとこの使節団にすでに繋がりがあったことを知ると、その可能性は高いと思われる。[495]
トゥルネーの司教区は、自由と特権を与えたフランス王に忠誠を誓っていたと言われている。シャルル王に何度も伝言を送り、国王を称える公開行列を組織し、人や金銭(徴兵と徴税)を要求しない限り、どんなことでも喜んで王を受け入れた。
参事会員カルリエと評議員ロマンは、以前にも町の代表としてランスを訪れ、シャルル王の塗油と戴冠式を見守っていた。
そこで彼らは、栄光に満ちた乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を目撃しただろうし、彼女を偉大な聖女だと考えたに違いない。
当時、彼らの町(トゥルネー)は国王軍の進軍を注意深く見守りながら、好戦的なジャンヌと、彼女の告解司祭だった修道士リシャールあるいは修道士パスケレルと定期的に連絡を取り合っていた。
*
この日、彼らはジャンヌが残酷にも敵の手中に囚われているボールヴォワール城へと向かった。リュクサンブール卿に何を伝えに来たのか、またリュクサンブール卿が彼らの申し出を受け取ったかどうかさえ、私たちにはわからない。
仮に、彼らがシャルル王の密使で、王のために戦ったジャンヌの身代金について秘密の申し出をするために来たのだとしたら、リュクサンブール卿は彼らを無視するはずがない。
彼らが捕虜(ジャンヌ)に会えたかどうかはわからないが、可能性は十分にあり得る。なぜなら、当時は捕虜に近づくのは一般的に容易で、通りすがりの人が囚われの捕虜を訪ねる際には、七つの慈悲の業のひとつを行うためのあらゆる便宜が図られたからである。
ひとつだけ確かなことがある。
それは、彼らがボールヴォワールを去る際、ジャンヌから託された手紙を携行しており、それを町の役人に届けるよう頼まれていたということだ。
手紙の中で、ジャンヌはトゥルネーの人々に、主君である国王のために、そしてこれまで国王に尽くしてきた功績に報いるために、生活費として20~30エキュドール(金貨)を送るよう依頼した。[496]
当時は囚人がこのようにしてパンを乞うのが慣習だった。
10.2 アラスへ移送、訪問者と唯一の肖像画
余命わずかだったリュクサンブール嬢(リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールの生涯独身だった叔母)は遺言を作成したばかりだったが[497]、その際、高貴な甥に「ジャンヌをイングランド人に引き渡さないように」と懇願したと伝えられている。[498]
しかし、この善良な貴婦人は、イングランド王が差し出すノルマンディー金貨と聖なる教会の破門に対して、一体どれほどの力を行使できただろうか?
もしジャン卿が、魔術、偶像崇拝、悪魔召喚、その他の宗教犯罪の疑いのあるこの乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を引き渡すことを拒否したら、彼は破門されていただろう。
由緒あるパリ大学は、申し出を拒否すれば重い法的処罰が科せられることを彼に十分に知らしめていた。[499]
*
当のリュクサンブール卿は、不安に駆られて落ち着いていられなかった。
彼の居城であるボールヴォワール城には、1万リーヴルに相当する高価な捕虜がいるのだ。
フランス人、イングランド人、ブルゴーニュ人、あるいはブルゴーニュやイングランドやフランスのことをまったく気にかけない者が、ジャンヌを拉致して穴に投げ込み、当時の盗賊の慣習に従って身代金を要求するかもしれない。
襲撃の可能性がある状況下で、ボールヴォワール城にいつまでも閉じ込めておくのは安全とは言えないのではないかと恐れていたのである。[500]
9月末ごろ、彼は、立派な町や堅固な都市を統治する主君ブルゴーニュ公フィリップに、ジャンヌの安全な保護を引き受けてくれるよう頼んだ。
フィリップ公は承諾し、彼の命令でジャンヌはアラスへ連れて行かれた。
この町は高い城壁に囲まれ、二つの城がある。そのうちのひとつ、クール・ル・コント城は町の中心部にあった。
ジャンヌはおそらくクール・ル・コント城の牢獄に幽閉され、リニー伯(リュクサンブール卿)、金羊毛騎士団、アラス総督ダヴィッド・ド・ブリムー卿の監視と保護下に置かれていたのだろう。
当時、捕虜が外部から完全に隔離されることは稀だった。[501]
アラスに幽閉中、ジャンヌは面会者を迎え入れた。そのうちのひとり、あるスコットランド人は「ジャンヌが片膝をついてシャルル王に手紙を差し出している姿」を描いた肖像画を見せた。[502]
絵の中の手紙は、ボードリクール卿からのものか、あるいはオルレアンの解放やパテーの勝利を国王に知らせる手紙だったのかもしれない。
これはジャンヌが見た唯一の肖像画だ。
彼女自身は、自分の肖像画を決して描かせなかった。
⚠️補足:絵画であろうと彫刻であろうと、肖像画を作ることはキリスト教で本来禁じられている偶像崇拝に繋がるため。
ジャンヌの権力のピークは短期間だったにもかかわらず、フランスの町の住民は聖人礼拝堂にジャンヌの彫刻や絵画を置き、ジャンヌが描かれた鉛のメダイを身に着けた。
このようにして、ジャンヌを慕う人たちは、教会に列聖された聖人を称えるために確立された慣習に従っていたのである。[503]
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(アラスでの面会者の中には)多くのブルゴーニュ貴族たちも含まれ、その中にはブルゴーニュの財務長官を務めるジャン・ド・プレシーという騎士がいた。
彼は、ボールヴォワール城でリュクサンブール卿の妻と叔母がそうしたように、ジャンヌ自身の利益のため、またスキャンダルを避けるために、ジャンヌに女性の衣服を差し入れた。
しかし、ジャンヌは何があっても、神の命令に従って身につけた男装を脱ぎ捨てようとはしなかった。
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ジャンヌはまた、アラスの牢獄で、トゥルネーの聖職者ジャン・ナヴィエルという人物と面会し、町の役人から託された22エキュドール(金貨)を受け取っている。
この聖職者は、トゥルネーの住人から大きな信頼を得ており、町に関わるもっとも緊急の事柄を任されていた。
なお、この年、1430年5月に彼はシャルル王の宰相ルニョー・ド・シャルトル(ランス大司教)のもとに派遣されている。その際、偶然にもジャンヌと同時期に、彼はブルゴーニュ人に捕らえられて身代金を要求されたが、大きな費用はかからず、すぐにその窮地から脱することができた。
⚠️補足:ジャンヌがコンピエーニュで捕縛されたのは1430年5月23日。
ジャン・ナヴィエルはジャンヌ関連の使命[504]をよく果たし、その苦労に見合う報酬を何も受け取らなかったようだ。おそらく、この慈悲深いおこないに対する見返りを、天国で受け取る自分の口座に預けてもらうことを望んだのだろう。[505]
⚠️補足というか、訳者のこぼれ話
🔸アラスでジャンヌに面会したスコットランド人について:
当時、フランスにいるスコットランド人はシャルル七世に仕えており、もしかしたらこの人物はシャルル七世から派遣されて来たのかもしれない。
🔸「ジャンヌが片膝をついてシャルル王に手紙を差し出している姿」を描いた肖像画を見せた:
当時は、肖像画自体が貴重で高価なものだった。もし、このスコットランド人がシャルル七世の使者だとしたら、幽閉中のジャンヌを励まし慰めるために描かせたものだろうか?
🔸さらに補足:
リュクサンブール卿は、イングランドに与するパリ大学とボーヴェ司教から「捕虜を解放したら破門する」と示唆されている。
ジャンヌがただの戦争捕虜なら身代金と引き換えに解放できるが、教会が引き渡しを求める異端者を解放したとなれば、リュクサンブール卿と主君のブルゴーニュ公は(破門までいかなくとも)少なからず汚名をかぶることになる。
したがって、ブルゴーニュ陣営はフランス陣営と表立って交渉できないため、密使が行き来している可能性が高い。その際、シャルル七世の使者がジャンヌと面会してメッセージを伝えたり(会話するだけなら不利な証拠は残らない)、激励になるような差し入れを見せるのは大いにあり得るだろう。
10.3 コンピエーニュ包囲戦、その後の死闘:1430年5月23日〜10月24日
ジャンヌの捕縛(5月23日)も、ジャンヌについてきた兵士たちの撤退も、コンピエーニュ包囲戦を終わらせることはなかった。
コンピエーニュの総督・守備隊長ギヨーム・ド・フラヴィーとその兄弟であるシャルルとルイ、(ジャンヌとともにシュリーを旅立った)バルトロメオ・バレッタ隊長率いるイタリア兵、そして守備隊500人[506]は、その巧みな技量と活力、そして飽くなき努力を発揮した。
ブルゴーニュ軍は、イングランド軍がオルレアンでやったのと同じ方法で包囲戦を遂行した。
坑道(mines、トンネル、城壁の基礎を破壊)
塹壕(trenches、堀、攻撃から防御)
防塁(bulwarks、いわゆるバリケード)
大砲(cannonades、連続砲撃、連射)
要塞(bastions、拠点となる砦)
それらの役に立たない巨大で馬鹿げた建造物は、ただ燃やすためにそこにあるようなものだった。
ギヨーム・ド・フラヴィーは、砲撃の邪魔になるという理由で町の郊外を破壊し、川を封鎖するために船を沈めた。
ブルゴーニュ軍の臼砲や巨大なクイヤール砲に対して、ギヨームは自軍の砲兵で応戦し、その中でも特に優れた力を発揮したのは小型の銅製カルバリン砲だった。[507]
オルレアン包囲戦とジャルジョーの戦いで活躍した陽気な砲兵「メートル・ジャン」ことジャン・ド・モンテクレールはいなかったが、ヴァランシエンヌの靴職人ノワルーフルは優れた砲兵だった。背が高く、浅黒い肌で、見るからに恐ろしく、聞くのも恐ろしい人物だった。[508]
コンピエーニュの人々は、オルレアンの人々と同様に、うまくいかない出撃を繰り返した。
ある日、ギヨーム・ド・フラヴィーの兄弟ルイがブルゴーニュ軍の砲弾に倒れた。だが、それでもギヨームは兵士たちの士気を高めるために、その日もいつものように吟遊詩人たちに演奏させた。[509]
*
6月、オワーズ川に架かる橋を守っていた防塁(バリケード)は、ロワール川に架かる橋を守っていたオルレアンのトゥーレル城塞と同様に敵に占拠された。
だが、そんなことでコンピエーニュの町は陥落しなかった。
トゥーレル城塞が敵に占拠されても、シャルル公の町(オルレアン)が陥落しなかったのと同じように。[510]

要塞(bastions)に関しては、ロワール川で役に立たなかったのと同じように、オワーズ川でもほとんど役立たずで、(何も防ぐことができずに)あらゆる物資が通り過ぎていった。
ブルゴーニュ軍は、コンピエーニュの外周が広すぎたために町を包囲することができなかった。[511]
彼らは資金不足に陥り、兵士たちは食料と報酬の不足から、赤十字(イングランド軍)と白十字(フランス軍)の傭兵たちに共通する「《《完全なる確信》》」をもって脱走した。[512]
さらに不運なことに、ブルゴーニュ公フィリップはコンピエーニュ包囲戦に参加していた部隊の一部を撤退させざるを得なくなった。リエージュの住民が反乱を起こしたため鎮圧する必要に迫られたのだ。[513]
⚠️リエージュ(Liège):現在のベルギー東部にある都市。フランス、ドイツ、オランダの国境に近く、昔から反乱が絶えない。特に、シャルル七世とルイ十一世はブルゴーニュ公を牽制するために、しばしばリエージュの不満分子を扇動して戦略的に反乱を起こさせている。
10月24日、ヴァンドーム伯とブサック元帥が指揮する援軍がコンピエーニュの近くまで接近してきた。
イングランド軍とブルゴーニュ軍が彼らを迎え撃つために向きを変えると、守備隊と町の住民全員、さらには女性たちまでもが包囲軍の背後に襲いかかり、ついに彼らを敗走させた。[514]
援軍はコンピエーニュに入城した。
要塞が炎上する様子はすばらしい光景だった。
ブルゴーニュ公はこの戦いですべての砲兵を失った。[515]
ボーヴェ司教を迎えるためにボールヴォワールにいたリュクサンブール卿は、まさにその時、コンピエーニュの前に戻ってきてこの惨劇に巻き込まれた。[516]
⚠️補足:リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールは、コンピエーニュ包囲戦ではブルゴーニュ公に次ぐ司令官。
イングランド軍がオルレアンから撤退せざるを得なかったのと同じ理由で、ブルゴーニュ軍もまたコンピエーニュからの撤退を強いられた。
しかし、当時はごく普通の出来事にも超自然的な理由を当てはめるのが常だった。
そのため、コンピエーニュの町が救われたのはヴァンドーム伯の誓いのおかげだと言われた。彼はサンリスの大聖堂で「もしコンピエーニュが陥落しなければ、ノートルダム・ド・ラ・ピエール教会で毎年ミサを捧げる」と誓約していた。[517]
10.4 ジャンヌを購入(1)イングランドの資金調達とフランスの軍事行動
ノルマンディーの財務長官は援助金(Aid:臨時税)8万リーヴル・トゥルノワを徴収し、そのうち1万リーヴルをジャンヌの購入費用に充てることになっていた。
この事態に心を痛めていたボーヴェ司教は、リュクサンブール卿に交渉を急がせ、脅迫と甘言を交じえながら、彼の目の前にノルマンディーの金貨をちらつかせた。
彼は、「シャルル王も同様の申し出をするのではないか? ヘンリー王の1万リーヴルを上回る身代金を約束するのではないか? 最終的にアルマニャック派は高価な贈り物によって『 妖精の母 』を取り戻すのではないか?」と恐れていたようだ。そして、パリ大学の教授や博士たちも同じ恐怖を共有していた。[518]
噂によると、シャルル王は、イングランドが金銭と引き換えにジャンヌを手に入れようとしていると知り、ブルゴーニュ公に大使を派遣して、「いかなる理由があってもそのような協定には絶対に同意しないように」と警告し、「もし同意すれば、フランス王の手中にあるブルゴーニュ人がジャンヌの運命の代償を払うことになるだろう」と付け加えたという。[519]
この噂は虚偽だろうが、ボーヴェ司教やパリ大学の教授たちの懸念はまったく根拠がないわけではなかった。ロワール川流域から、好機を捉えて介入しようと、交渉の行方を注意深く見守っていたことは確かである。
さらに、フランス軍の突然の襲撃もつねに警戒・懸念されていた。
ラ・イル隊長はノルマンディー地方を荒らしまわり、騎士バルバザンはシャンパーニュ地方で、そしてブサック元帥はセーヌ川、マルヌ川、ソンム川に挟まれた地域で戦っていた。[520]
⚠️騎士バルバザン(Barbazan):二つ名「非の打ちどころのない騎士(chevalier sans reproches)」と呼ばれたアルノー・ギヨーム・ド・バルバザンのこと。王太子シャルルの熱烈な支持者で、無怖公の殺害に加担したため「ブルゴーニュ派の宿敵」といわれる。ムランをイングランド軍から守ったが、人質となった住民と交換条件で投降。1420〜1429年までガイヤール城に幽閉・拷問を受けた。ジャンヌが捕縛された1430年、ラ・イルに救出されて再び戦地に戻ってきたところ。なお、1460年生まれにつき当時70歳!
⚠️補足:なお、日本語の文献に「1430年4月17日にジャンヌ・ダルクによって解放」と書かれているがこれは明らかに間違い。この日のジャンヌはフランス中部のムランにおり、バルバザンが幽閉されているノルマンディーのガイヤール城奪還とは無関係。
⚠️訳者のひとりごと:百年戦争の後期、特にシャルル七世時代のフランス軍はジャンヌに叱咤されるような情けないイメージがあるので、知られざる英傑は積極的に紹介したい。
10.5 ジャンヌを購入(2)パリ大学からボーヴェ司教への指示書
11月中旬ごろ、ついにリュクサンブール卿は取引に同意し、ジャンヌはイングランド軍に引き渡された。
ポンティユを経由し、海岸沿いにノルマンディー北部を通ってルーアンへ連れて行く。このルートなら、さまざまな勢力の斥候と遭遇する危険が少ないだろう。
まずはアラスからドゥルジー城(Château de Drugy)へ移送され、そこではサンリキエの修道士たちが獄中のジャンヌを訪ねたと伝わっている。[521]
その後は、城壁が海の波に洗われているクロトワへ連れて行かれた。
ジャンヌが「美しい公爵」と呼んでいたアランソン公は、ヴェルヌイユの戦いの後、ここに幽閉されていた。[522]
ジャンヌが到着した当時、アミアンのノートルダム大聖堂の司教座聖堂参事会員であるニコラ・ギューヴィル師は、イングランド軍に捕らわれて、クロトワの城で捕虜となっていた。彼はジャンヌの告解(懺悔)を聞き、聖体拝領を授けた。[523]
その広大なソンム湾、灰色で単調な、海鳥が長く飛び交う低い空の下で、ジャンヌは初期のころの訪問者である大天使・聖ミカエルが降りてくるのを見た。すると、彼女は慰められた。
アブヴィルの娘たちや市民たちは、ジャンヌが幽閉されている城へ会いに行ったと伝わっている。[524]
戴冠式の際、これら(フランス北部)の市民たちはフランス陣営に鞍替えしたいと考えていた。もしシャルル王が彼らの町に来ていれば、そうしていただろう。しかし、シャルル王はここまで来なかった。
おそらく、アブヴィルの人々がジャンヌを訪ねたのは、キリスト教的な慈善心によるものだったのだろう。しかし、ジャンヌを好意的に見ていた人は、自分も異端の疑いをかけられることを恐れて、口に出すことはなかった。[525]
*
パリ大学の博士と教授たちは、信じられないほどの苛烈さでジャンヌを追い詰めた。
11月、ジャン・ド・リュクサンブール卿とイングランド人との取引が成立したことを知ると、彼らは学長を通してボーヴェ司教に手紙を書き、「この女の件で、司教の仕事が遅れている」ことを非難し、もっとまじめに努力するよう促した。
「神の教会において、
かくも高い地位にあるあなたにとって、
キリスト教に対するスキャンダルが
撲滅されることは、決して
軽視すべきことではありません。
特に、そのようなスキャンダルが
あなたの管轄区域内で発生した場合は
なおさらです」
手紙にはそう書かれていた。[526]
「神の名誉を守る」という信念と熱意に満ちたこれらの聖職者たちは、彼らの言うところの、いつでも魔女を火あぶりにする覚悟ができていた。
彼らは悪魔を恐れていた。しかし、おそらく、彼ら自身にさえ認めていなかったかもしれないが、アルマニャック派だった頃の方が、悪魔を20倍も恐れていたのだ。
⚠️わかりにくいので補足:パリ大学の人たちがジャンヌにこだわる理由は「悪魔を恐れている」からだが、それ以上に、アルマニャック派に対する政治的な恐怖、自分たちの地位や権力がおびやかされる恐れがある。神の名誉を守るという大義名分の下に、自分たちの政治的な恐怖を正当化し、「アルマニャック派復権の象徴」だったジャンヌを苛烈に追い詰めようとしている。
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