教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十九章 伝説の誕生(旧翻訳版・未収録)
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。
⚠️字数が多い(12,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。
【この章のポイント】
- 肥大化したジャンヌの功績
- 戦況が好転した理屈よりも「奇跡」を好んだ民衆
- 「歪曲されたイメージ」が積み重なる
19.1 英雄譚の森の中へ(1)おとぎ話と現実
戦争で何が起きているかを見極めるのはいつも困難だ。
当時は、物事がどのようにして起こったのかを明確に理解することはまったく不可能だった。
オルレアン包囲戦では、行政官たちが集めた数々の巧妙な戦争兵器が相当役に立った。現場には、そのことを認識できる鋭い人もいたに違いない。
しかし、人間は一般的に、結果を奇跡的な原因にしたがるものだ。
オルレアンの人々は、自分たちの解放の功績を、当初は町の守護聖人である聖エニャンと聖ユヴェルトに、そして次に、神の乙女ジャンヌに帰属させた。彼らが目撃した出来事に対して、これほど簡単で、単純で、自然な説明はないと信じていたのである。[1550]
オルレアンの元・行政官(町役人)で、シャトレの公証人だったギヨーム・ジロー(第十二章で登場)は、包囲戦の解放に関する短い記録をみずから書き、署名した。
その中で彼は、昇天祭前日の水曜日、サン・ルーの要塞がまるで奇跡のように襲撃され占領されたと記している。
「神から遣わされたジャンヌ・ラ・ピュセルがそこに現れて、戦いを助けた」
そして、翌土曜日には、(ロワール川にかかる)大橋の端にあるレ・トゥーレル要塞にて、受難以来もっとも明白な奇跡によってイングランド軍の包囲が解かれたと述べている。
さらに、ギヨーム・ジローは、ジャンヌ・ラ・ピュセルがこの作戦を指揮したと証言している。[1551]
包囲戦の目撃者であり、現場にいた当事者自身が、出来事の概要を明確に理解してなかったとしたら、現場から遠く離れた人々はなおさら、出来事についてまともに考えることが可能だろうか?
フランス軍の勝利の知らせは、驚くほどの速さで広まった。[1552]
信頼できる正確な記録は簡潔だ。しかし、おしゃべりな聖職者・書記官の雄弁さと、民衆の想像力によって「包囲戦の物語」はたっぷり補完された。
ロワール遠征(オルレアン包囲戦後の残党討伐)と戴冠式に向かうシャンパーニュ遠征は、当初はほとんど知られておらず、おとぎ話のような伝聞だけが一人歩きして広まった。
そういう眉唾な話を、人々はごく単純に超自然的な出来事として受け止めていた。
王室秘書官が、王国各地の都市やキリスト教各国の君主たちに送った手紙の中で、ジャンヌ・ラ・ピュセルの名は、あらゆる勇敢な行為と結び付けられていた。
ジャンヌ自身も、彼女に仕える修道士の書記官を通じて、自分が成し遂げたと固く信じている偉業を口述筆記させて全世界に知らせた。[1553]
実際には、王の顧問や隊長たちがジャンヌに助言を求めたことはほとんどなく、聞いたとしてもごくわずかで、都合のよいときだけ彼女を呼び出した。ところが、事実に反して「すべてがジャンヌを通して行われ、王はすべてのことをジャンヌに相談した」と信じられていた。
すべての功績が、ジャンヌのみに帰属されたのだ。
ジャンヌの人柄・実像(personnalité)は「奇跡に見える行為」と結びつき、膨大な「奇跡の寓話のサイクル」の中に埋没して、英雄譚の森の中へと消えていった。[1554]
⚠️人柄・実像(personality):文脈的に、単なる性格・人格ではなく、伝説によって塗りつぶされる前の「一人の生身の人間としての実像」を指している。
⚠️さらに補足:英訳版序文で、著者は「私は、乙女(ラ・ピュセル)を命ある人間としてよみがえらせた。それが私の罪である」と述べている。
つまり本書は、聖人化される過程で剥ぎ取られたジャンヌの人間らしい魅力を取り戻すことを目的に書かれたことに留意したい。
19.2 英雄譚の森の中へ(2)黒幕の計画
当時、悔悛の念にかられた人々がいた。彼らは、王国のあらゆる災難を民衆の罪のせいだと考え、謙虚さ、悔い改め、償い(懺悔)に救いを求めていた。[1555]
彼らは悪の終焉と、地上における神の王国を期待していた。
ジャンヌは、少なくとも当初は、そのような信心深い人たちの一人だった。
ときどき、神秘主義の改革者らしく、「イエスこそが聖なるフランス王国の王であり、シャルル王は彼の代理人にすぎず、王国を『(神の)封建領地』として保持しているだけだ」と語っていた。[1556]
ジャンヌは他にも、自分の使命はすべて慈善と平和と愛であるという印象を与える言葉を口にした。たとえば、「私は貧しい人や困窮している人を慰めるために遣わされた」といった発言だ。[1557]
純粋で誠実で善良な世界を夢見た、心優しい悔悛者(懺悔者)たちは、ジャンヌを自分たちの聖人・預言者とみなした。彼らは、ジャンヌ自身が一度も口にしたことのない啓発的(教訓的)な言葉を、ジャンヌのものにした。
「乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が王のもとに来たとき」
彼らは言った。
「彼女は王に3つの約束をさせた。1つ目は、王国を放棄して、それを神に返すこと。2つ目は、彼に背き、彼を苦しめたすべての人を赦すこと。3つ目は、貧乏人も金持ちも、友も敵も、すべての者を好意的に受け入れるほどに自らを卑下すること」[1558]
あるいは、以下のような単純で魅力的な寓話の中で、ジャンヌが使命を果たす様子を、繰り返し表現した。
「ある日、乙女は王に贈り物を授けてほしいと頼んだ。
王が同意すると、乙女はフランス王国を要求した。
王は驚いたが、約束を撤回しなかった。
乙女は贈り物を受け取ると、
王の公証人4人に贈与証書を粛々と作成させ、
声に出して読み上げさせた。
王が読み上げを聞いている間、
乙女はそばに立っている人々に
王を指してこう言った。
『見てごらん、王国で最もみじめな騎士だよ』
それからしばらくして、
乙女はフランス王国を放棄し、
それを神に返した。
その後、乙女は神の名において、
シャルル王にそれ(王国)を授け、
この厳粛な譲渡行為を
文書に記録するよう命じた」[1559]
*
ジャンヌは、「1429年の洗礼者ヨハネの日(6月24日)に、フランスにはイングランド人は一人も残っていない」と予言したと信じられていた。[1560]
これらの単純な人々は、聖人(ジャンヌ)の約束が、彼女が定めた日に実現すると期待していた。
彼らは、「6月23日にジャンヌがルーアン市(ノルマンディーの首府)に入り、翌日の洗礼者ヨハネの日に、パリの住民は自発的にフランス王に門をひらいた」と言い張った。
実際、7月には、(事実と異なるにもかかわらず)これらの物語がアヴィニョンでまことしやかに語られていた。[1561]
フランスおよびキリスト教世界全体に多数いたと思われる宗教改革者たちは、乙女がイングランド人とフランス人を修道院の方式で組織し、彼らをひとつの信心深い乞食(pious beggars)の国民、悔悛者の兄弟団にするだろうと信じていた。
⚠️信心深い(pious):立振舞いに表れた信心のこと。善人ぶった「偽善」の意を含む。なお、 devoutは心からの信仰をいい、外に表れるとは限らない。
彼らによると、以下が両当事者の意図であり、条約の条項であった。
「国王シャルル・ド・ヴァロワは、
普遍的な恩赦を与え、
すべての過ちを忘れる用意がある。
イングランドとフランスは、
悔悟と悔い改めに立ち返り、
善良で拘束力のある和平を
締結しようと努めている。
乙女自身が、彼らに条件を課した。
乙女の意志に従い、
イングランド人とフランス人は
1年間または2年間、
小さな十字架を縫い付けた
灰色の修道服を着用すること。
毎週金曜日は、パンと水だけで暮らすこと。
妻と一体となって暮らし、他の女性を求めないこと。
自国を防衛する以外の目的で戦争をしないことを神に誓う」[1562]
⚠️補足:ジャンヌを教唆している黒幕はおそらく、のちの宗教改革者につながる修道士たちで、彼らはジャンヌを通じてシャルル七世に上記の宣言をさせたかったらしい。
19.2前半部分の寓話と合わせて考えると、まずは国王に土地財産を放棄させて、みずからを卑下させて《《謙虚な身分》》におとしめ、最終的には英仏の国民全員を「信心深い乞食」に……よく言えば清貧な托鉢修道士にする計画だったと。どう考えてもカルトじゃないか!
ここから先は
¥ 200
最後までお読みいただきありがとうございます。「価値がある」「応援したい」「育てたい」と感じた場合はサポート(チップ)をお願いします。
