教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第五章 オルレアン包囲戦:1428年10月12日〜1429年3月6日
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- オルレアン包囲戦の開始と指揮官ソールズベリー伯の死
- 「ニシンの戦い」での敗北とフランス軍の窮地
- 救世主「ラ・ピュセル(乙女)」への期待
5.1 イングランドの決議:攻撃目標はオルレアン
ヴェルヌイユの勝利(1424年)とメーヌの征服以来、イングランド軍はフランスでほとんど進軍しておらず、フランスにおける実際の領有地はますます不安定になっていた。[467]
イングランド軍が、オルレアン公(シャルル七世のいとこでイングランドの捕虜になっている)の領地を侵略しなかったのは、良心の呵責によるものではない。
ロワール川流域では、高貴な身分の者が捕虜になっているときに、その領地と財産を奪うのは不名誉なことだと考えられていたが[468]、戦時下では手段を選ばない。
イングランド摂政(ベッドフォード公)は、アランソン公が捕虜だったときにその公爵領を奪うことをためらわなかった。[469]
実のところ、善良なシャルル公(オルレアン公)が賄賂と懇願によって、イングランド軍が彼の公爵領を攻撃するのを思いとどまらせていたのだ。
1424年から1426年まで、オルレアン市民は金銭を支払うことで平和を買い続けた。[470]
ゴドンたち(Godons:イングランドを指す蔑称。彼らの口癖「God damn」が由来)は戦場に出られる状況になかったため、そのような協定を結ぶ用意があった。
イングランド王家とフランス王家の血筋を引く幼い王(ヘンリー六世)の時代に、摂政の弟で護国卿のグロスター公と、摂政の叔父で大法官のウィンチェスター司教(ヘンリー・ボーフォート大法官、のちに枢機卿)は、幼い王をめぐって互いに激しく争っており、ロンドンの路上で流血沙汰を引き起こした。[471]
1425年の終わりごろ、摂政はイングランドに帰国すると、17カ月を費やして叔父と弟を仲裁し、公共の平和を回復させた。
さらに、巧みな策略と精力的な行動によって、摂政は、イングランドの同胞たちがフランス征服を完了することを望み、期待するよう仕向けることに成功した。
1428年、イングランド議会はフランス全土を侵略する目的で、補助金(軍資金)を可決した。[472]

さて、イングランドの将軍と王侯の中で、もっとも狡猾で、もっとも熟練し、もっとも武運に恵まれていたのは、ソールズベリー伯とペルシュ伯の称号を保有しているトーマス・モンタキュートだった。[473]
彼はこれまで長きにわたり、ノルマンディー、シャンパーニュ、メーヌの戦いで戦果を挙げていた。
現在、彼はロワール川流域の侵攻に向けて、イングランドで軍を集めていた。
弓兵は必要なだけ集めることができたが、騎兵と武装兵士の顔ぶれは期待外れだった。
わざわざ飢饉で荒廃した土地(フランス)まで渡って戦う意志があるのは、卑しい人間だけだった。[474]
ついに、高貴な伯爵にしてヘンリー王の美しいいとこである彼は、449人の武装兵士と2250人の弓兵を率いて海を渡った。[475]
フランスでは、摂政が徴募した騎兵400騎のうち半分(200騎)はノルマン人で、イングランドの慣習に従い、騎兵1人につき弓兵3人がつけられた。[476]
ソールズベリー伯は兵を率いてパリに向かい、そこで覆すことのできない決断を下した。[477] これまでの計画では、攻撃目標はアンジェだったが、土壇場になってオルレアンを包囲することに決定した。[478]
5.2 オルレアンの町(1)城壁と塔
ラ・ボースとラ・ソローニュ地方の間、フランス王家に忠誠を誓うトゥーレーヌ、ブレゾワ、ベリーの各地方への入り口に、公爵領の都市オルレアンがあった。ロワール川の湾曲部に位置しており、あたかも張り詰めた弓に矢がつがえられているかのように、敵に対峙していた。[479]
司教座、大学、広大な市場があり、その鐘楼、塔、尖塔の上に、「主の十字架」、「町の紋章(3つの心臓)」、「公爵家の3つの百合紋」を天に向かって誇らしげに掲げていた。
曲がりくねった通りや薄暗い路地に沿って、石造りや木造の家屋が建ち並び、スレート屋根の下にはオルレアン市民1万5千人が暮らしていた。
そこには、司法官や財務官、金細工師、薬剤師、食料雑貨店、皮革職人、肉屋、魚屋、琥珀のように繊細で、上質な衣服、立派な家、音楽とダンスを愛する富裕層、司祭、聖職者、神学者、学徒監視員(守衛)、大学のフェロー、写本屋、筆記者、彩色師、画家、庶民が住んでいた。学問はぱっとしないがフルートを美しく奏でる楽士、あらゆる宗派の修道士——黒修道士(ドミニコ会)、灰色修道士(フランシスコ会)、マチュラン会、カルメル会、アウグスティノ会——、そして鍛冶屋、樽職人、大工、船乗り、漁師といった職人や労働者がいた。[480]
ローマ起源のこの町の形は、皇帝アウレリアヌスの時代(三世紀)から変わっていなかった。
ロワール川に沿って南側と北側はおよそ3000フィート(約914メートル)におよぶ。東西の境界はわずか150フィート(約46メートル)だった。
町は、厚さ6フィート(約1.8メートル)、堀の上から18フィート(約5.5メートル)から33フィート(約10メートル)の高さの城壁に囲まれていた。
城壁の両側には34の塔があり、5つの門(表のゲート)と2つの裏門で貫かれていた。[481]
以下に、これらの門、裏門、塔の位置と、包囲戦で有名になった設備について説明する。
城壁の南東から南西にかけて、次のようなものがあった。
ロワール川に浸かっている丸型の巨大なヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)。
その他、川岸に3つの塔があった。
シュノーは水面に面している唯一の裏門だ。
ラクロワ=ムフロワ塔は、塔の足元から川に突き出ている鉤状の突起物からこう呼ばれる。
跳ね橋に続く門扉ラ・ポルト・デュポン(La Port du Pont)は、2つの塔に囲まれている。
ラブルヴォワール塔。
ノートルダム塔は、城壁に面して建てられた礼拝堂に由来する。
ラ・バール=フランベール塔は、城壁の南西の角に位置し、川を見下ろしている。こちら側の最後の塔だ。
ロワール川沿いの城壁には、細長い胸壁(城壁や城の最上部に設けられた《《凸凹》》部分)と石造りの手すりがあり、そこから投石することができる。敵がはしごをかけて城壁を越えてこようとしたら、石を落として撃退する。塔と塔の間は弓の射程ほどで、門扉で守られていた。
西側には、まず3つの塔があり、次にレニャールまたはルナールと呼ばれる2つの門塔があった。これは、かつて隣接する宮殿の所有者だった市民の名前にちなんだ名称で、1428年当時はオルレアン公の財務官ジャック・ブーシェがそこに住んでいた。
その後、もうひとつの塔が続き、最後に城壁の北西の角にベルニエ橋(La Porte Bernier)がある。こちら側の城壁は、弓よりも射程距離の長いクロスボウの時代に築かれたため、塔と塔の間はクロスボウの射程距離の間隔で離れており、城壁は他よりも低かった。
森に面した北側には、弓の射程距離の間隔で10の塔があった。
2番目のサン・サムソン塔は、武器庫として使用されていた。
6番目と7番目の塔は、パリ門を挟んでいた。
東側にも、北側と同じ間隔で10の塔があった。
5番目と6番目はブルゴーニュ門を囲む塔で、城壁のないサン・テニャン教会に近かったためサン・テニャン門とも呼ばれた。
最後は、ヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)と呼ばれる大きな角型の塔で、これでヌーヴ塔は2回数えられたことになる。
5.3 オルレアンの町(2)大橋と郊外
町からロワール川の左岸へと続く、家々が立ち並ぶ石造りの橋は世界的に有名だ。この橋には、幅の異なる19のアーチがあった。
町を出て、門扉ラ・ポルト・デュ・ポンにある最初のアーチは、ラ・アルーエ(l'Allouée)またはジャックマン=ルースレ橋(Pont Jacquemin-Rousselet)と呼ばれ、ここに跳ね橋があった。
5番目のアーチは、細長くて船の形をした島(中洲)に接していた。
橋の上に、聖アントワーヌに捧げられた礼拝堂があったことから、この中洲はモット=サン=アントワーヌ(Motte:土くれの丘)と呼ばれ、橋の下には、捕獲した魚を生かしておくために穴のあいた船を係留していたことからモット=デ=ポワソニエと呼ばれていた。
1427年、この中洲が敵に占領されるのを防ぐために、オルレアン市民は、6番目のアーチの先に、橋の幅全体を占める要塞「サン=アントワーヌ塔」を建造した。
11番目と12番目のアーチの間にある控え壁(buttress、橋のアーチを支える部分)には、石の台座に支えられた「ベル=クロワ(美しい十字架)」と呼ばれる金メッキされたブロンズ製の十字架があった。
18番目のアーチの控え壁は延長され、その橋台には、2つの塔を丸天井の玄関で繋げた小ぶりの城「レ・トゥーレル」がそびえ立っていた。
19番目のアーチと20番目のアーチの間には、最初のアーチと同様に跳ね橋があった。その外側にル・ポルトローがあり、そこからトゥールーズへの道が続き、ロワール川を越えたオリヴェ山地でブロワへの道に合流した。[482]
当時、ロワール川の穏やかな水は、シダ植物の群生地と樫や白樺の茂みの中を流れていたが、今では航行のために取り除かれている。
オルレアンから東へ2.5マイル(約4キロ)、シェシーの丘の上にあるブールドン島(l'Île aux Bourdons)は、川の細い支流と、ラ・ボース側のコンブルーに面した緑の草地と下草のあるシャルルマーニュ島(l'Île Charlemagne)とブフ島(l'Île-aux-Bœufs)からの狭い水路によって、ソローニュ川の河岸から隔てられていた。
川を下るボートは、次にサン・ルーの2つの島に差し掛かり、ヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)を迂回して、右側の2つのマルティネ島と左側のトワル島(l'Île-aux-Toiles)の間をすべるように進む。
そこから橋の下をくぐる。この橋は、上流側のモット=サン=アントワーヌ、下流側のモット=デ=ポワソニエと呼ばれる中洲をまたいでいる。
やがて、城壁の下、サン=ローラン=デ=オルジェリルの向かい側にある、ビシュ=ドルジュという小島と、もう1つの名前のない小島に到達する。[483]
*
オルレアンの郊外は、フランス王国の中でもっとも素晴らしい場所だった。
南側の郊外にはル・ポルトローという漁師町があり、川沿いにはアウグスティノ派の教会と修道院が広がり、その先には国内最高のワインを生産するサン=ジャン=ル=ブランのブドウ畑が広がっていた。[484]
その上、ソローニュの荒涼とした台地へ上っていくなだらかな斜面には、激しい湧水、清らかな水流、木陰の多い土手、オリヴェの庭園と小川のあるロワレ川が、穏やかで雨の多い空の下で微笑んでいた。
東側に伸びるブルゴーニュ門の郊外は、もっとも多くの建物が並び、もっとも人口が多い場所だった。そこには、サン=ミシェル教会とサン=テニャン教会があり、特に後者の回廊は素晴らしいと言われていた。[485]
この郊外を離れて、ロワール川の河岸とブフ島(中洲)の間に広がる砂地の支流沿いのブドウ畑を通り過ぎ、4分の1リーグほど進むと、サン・ルーの急斜面にたどり着く。
さらに東へ進むと、川とオータンからパリに向かうローマ街道の間に、サン=ジャン=ド=ブレイ、コンブルー、シェシーの鐘楼が次々とそびえ立っているのが見える。
町の北側には、立派な修道院や美しい教会、墓地にはサン=ラドレ礼拝堂、ジャコバン教会、コルドリエ教会、サン=ピエール=アンサントレ教会などがあった。
真北には、パリ街道沿いにラ・ポルト・ベルニエの郊外が広がり、そのすぐ近くには、オーク、シデ、ブナ、ヤナギの深い森に覆われた「オオカミが住む陰鬱な町」がある。そこには、薪割りや炭焼きのための小屋があるフルーリー村とサモイ村が隠れていた。[486]
西側には、ラ・ポルト・レナールの郊外がシャトーダンへの道沿いの野原に広がり、ブロワへの道沿いにはサン・ローランの集落があった。[487]
これらの郊外は、非常に人口が多い住宅地で広範囲に拡大していた。
イングランド軍の接近にともない、郊外の住民が市内(城壁内)に避難したため、オルレアン市内の人口は倍増した。[488]
5.4 オルレアンの決意:開戦の準備
オルレアンの住民は戦う決意を固めたが、それは名誉のためではなかった。
当時、市民が自分の町を守ったからといって、名誉を得られることはなかった。唯一の見返りは、恐ろしい危険を冒すことだけだった。
町が陥落すれば、富裕層や有力者は身代金を払うだけでよく、征服者は彼らを厚遇したが、下級貴族や貧しい貴族のほうがより大きな危険にさらされた。
同じ1428年、ムランを守るために馬や犬まで食べ尽くして戦った末に、降伏した騎士たちはセーヌ川で溺死刑に処せられた。「貴族は何の価値もない」とブルゴーニュで歌われた。[489]
しかし、一般的には、高貴な生まれであることは命を救った。
自衛のために勇気を振るった市井の人は、死ぬ可能性が高かった。決まった規則はなく、何人かを一度に絞首刑に処すときもあれば、一人だけで済むことも、全員がやられることもあった。首を切り落としたり、袋に縫い込んで水に投げ込むことも合法だった。
同じ1428年、ラ・イルとザントライユの両隊長はル・マンへの攻撃に失敗し、間一髪で退却した。
彼らを助けた市民は、すでにオリヴェに到着していたサフォーク伯ウィリアム・ポールと、まもなく到着する予定だった《《最も礼儀正しい》》イングランド騎士ジョン・タルボットの命令により、クロワトル=サン=ジュリアン広場の石碑の上で斬首された。[490]
この前例は見せしめとして、オルレアンの人々に警告を与えるのに十分だった。
オルレアンの町は総督の支配下にあったが、総督の承認を得て、市民によって2年任期で選ばれた12人の行政官によって自治運営されていた。[491]
これらの行政官は、他の市民よりも大きな危険にさらされていた。
そのうちの1人は、処刑場であるサン=シュルピス修道院の前を通りかかったとき、領主の遺産を守った罪で、年内にそこで処刑される可能性を考えたかもしれない。
それでも、12人はこの遺産を守る決意を固め、迅速かつ知恵を尽くして公共の利益のために行動した。
オルレアンの人々は、不意を突かれたわけではなかった。
彼らは、父親の代からイングランド軍を注意深く監視し、町の防御を固めていた。
彼ら自身、1425年には包囲攻撃を強く予想していたため、サン=サムソン塔に武器を集め、富める者も貧しい者も同様に堤防を掘り、城壁を築くことを義務付けられていた。[492]
戦争は常に費用がかかる。
町の年間税収の4分の3を、城壁の維持とその他の戦争準備に費やした。
ソールズベリー伯の接近の知らせを聞いて、彼らは驚異的なエネルギーで迎え撃つ準備をした。
川沿いを除いて、城壁には胸壁(城壁や城の最上部に設けられた《《凸凹》》部分)がなかったが、町の商店には手すりを作るための杭と横木があった。
砲撃から守備隊を防御するために、城壁の上にペントハウス型の砦(外堡)を築き[493]、出入り口には木製の防壁(バリケード)が設置され、開閉を担当する門番の控え小屋を作った。
城壁の上部と塔には、大砲や臼砲を含む71門の火砲を設置したが、カルバリン砲はまだなかった。
町から3リーグ(約15キロ)離れたモンマイヤールの採石場から石を運び、砲弾を作った。
多額の費用をかけて鉛や硫黄を買い込み、女性たちが火薬を調合した。
毎日何千本もの矢を作って備蓄した。鉄の両端には矢じりと、鳥の羽や羊皮紙で作った羽をボルトで留めた。[494]
木片を互いに組み合わせて革で覆った大きな盾(パヴァ)も多数製造された。
住民のために、また守備隊や王の家臣、そして傭兵のために、穀物、ワイン、家畜を大量に買い入れた。[495]
オルレアンの人々は、町の中に軍人が駐屯することを拒否して自力で守る特権を持っていた。職業に応じて、塔の数と同じ数の守備隊に分けて運用していた。
長い間、市民は自力でこの権利を守り抜き、そのおかげで、略奪や焼き討ちなどの被害から町を守っていた。
しかし今、オルレアンの人々はこの権利を放棄したがっていた。
なぜなら、町の人々で構成した中隊と、近隣の村の農民だけでは包囲攻撃に耐えられないと悟ったからである。敵に抵抗するには、槍の扱いに熟練した騎兵と、クロスボウを使いこなす歩兵が必要だった。
町の総督であるゴークール卿と、王の中将(Lieutenant General)を務める「オルレアンの私生児」卿が、国王から兵士と資金を調達するためにシノンとポワティエに行き[496]、その間に、市民は2人1組の委員を結成して、ブルボネやラングドックまで足を運び、町々に救援を求めた。[497]
行政官は、フランス王のために近隣の地域を守っている武運に恵まれた傭兵たちに呼びかけた。
市の2人の伝令、オルレアンとクール・ド・リスの口を通して、「市の城壁内には金銀が豊富にあり、2000人の戦士を2年間養うのに十分な食料と武器を用意している」こと、そして「善良で誠実な騎士であれば誰でも市の防衛に参加し、死ぬまで戦うことができる」と宣言した。[498]
5.5 オルレアンの守護聖人:聖ユヴェルテと聖エニャンの伝説
オルレアンの住民は神を畏れていた。当時、神は大いに畏怖されるべき存在であり、まるでペリシテ人の時代のように恐ろしかった。
貧しい漁師たちは、苦難の中で神に直接訴えかけると拒絶されるのではないかと恐れ、聖母マリアや聖人たちの仲介を求めたほうがよいと考えていた。
神(キリスト)は母を敬い、あらゆる機会に彼女を喜ばせようとした。同様に、神は天国で左右に座っている聖人たちの願いを尊重し、彼らが捧げる嘆願に耳を傾けた。
したがって、危機が差し迫っていた場合は、聖人に祈りと供物を捧げて加護を求めるのが慣例だった。
それで、オルレアンの住民は、町の守護聖人である聖ユヴェルテと聖エニャン(サンテニャン)を思い出した。
非常に古い時代、聖ユヴェルテはオルレアンの司教座についていた。1428年現在、そこにはスコットランド出身のジャン・ド・ミシェルが座っているが、聖ユヴェルテは「使徒の徳」のすべての栄光に輝いていた。[499]
もうひとりの守護聖人である聖エニャンは、彼(聖ユヴェルテ)の後継者だ。
オルレアンが現在直面しているのと同じ危機に直面し、町を見守りながら神に祈りを捧げた。
以下は、オルレアンの人々に知られている彼の物語である。
*
聖エニャンは若い頃、オルレアン近郊で孤独に隠棲していた。
そこで、当時、町の司教だった聖ユヴェルテが彼を見つけた。
聖ユヴェルは彼を司祭に叙任して、サン=ローラン=デ=オルジェリルの修道院長に任命し、信徒たちの統治を引き継ぐ後継者に選んだ。
聖ユヴェルテがこの世を去ると、祝福された聖エニャンは、オルレアンの人々の同意を得て、幼い子供の声によって司教に選ばれた。
なぜなら、神は幼子の口を通して賛美されるお方であり、乳飲み子として祭壇に運ばれた子供の一人に「エニャン、エニャンはこの町の司教として神に選ばれた」と言わせたからである。
司教に在職して60年目、フン族がガリアに侵攻した。
彼らを率いるアッティラ王は、「我が行くところは、どこであろうと星が落ち、大地が震える。我は世界の槌(ハンマー)である」と豪語していた。
行軍の道中にある町はすべて破壊され、今やオルレアンに向かって進軍していた。
そこで、祝福されたエニャンは、ローマ軍を指揮する貴族(パトリキ)アエティウスがいるアルル市へ行き、この大いなる危機に際して救援を要請した。
救援の約束を得て、聖エニャンは司教座に戻ったが、そこはすでに異民族の戦士たちに包囲されていた。
フン族は城壁に穴を開け、攻撃の準備をしていた。
祝福された聖人は城壁にのぼり、ひざまずいて祈りを捧げたあと、敵に向かって唾を吐いた。
神の意志により、唾液の一滴に続いて天空のすべての雨粒が降り注いだ。
嵐が起こり、激しい雨が異民族の野営地に降り注いだため、彼らの陣地は水浸しになった。テントは風の力でひっくり返され、多くの者が雷に打たれて命を落とした。
雨は3日間降り続いたが、その後、アッティラ王は強力な兵器で城壁を攻撃した。
住民は、城壁が崩れるのを見て恐怖におびえた。
抵抗の望みが尽き、聖エニャンは司教服を身につけるとフン族の王のもとへ行き、オルレアンの人々を憐れむよう懇願し、もし人々に過酷な仕打ちをするなら神の怒りが降りかかると脅した。
しかし、これらの祈りと脅しは、アッティラ王の心を和らげることはなかった。
司教は信徒たちのところに戻ると、「あとは神を信じる以外に何もできないが、救いは必ずあるだろう(神は見捨てない)」と警告した。
そしてまもなく、約束したとおりに、神はローマ人とフランク人によって町を救った。彼らは大いなる激戦でフン族に立ち向かった。
愛する町が奇跡的に救われた後、聖エニャンは主のもとで眠りについた。[500]
*
それゆえに、イングランド軍によるこの大いなる危機に際し、オルレアン市民は聖ユヴェルテと聖エニャンに援助と救済を求めた。聖エニャンが生前に成し遂げた奇跡に基づき、人々は彼が天国にいる今、奇跡を起こす力を期待した。
この二人の懺悔者はそれぞれブルゴーニュ門側の郊外に教会を持ち、そこで聖遺物が厳重に守られていた。[501]
当時、殉教者と懺悔者の遺体は熱心に崇拝されていた。
時には、遺体から徳を示す癒しの香りが漂うと言われていた。
宝石で飾られた金色の聖遺物箱に納められ、これらの聖なる遺物によって成し遂げられない奇跡はないと考えられていた。
1428年8月6日、オルレアンの聖職者たちは聖ユヴェルテの聖遺物箱がある教会に行き、城壁の加護を得るために聖遺物を城壁の周りに運びこんだ。聖遺物箱は町中を練り歩き、その恩恵に預かろうと、すべての人々があとに続いた。
9月8日には、重さ110リーブル[502]の「トルティス」が聖エニャンに捧げられた。
困った時は、聖人たちの恩恵を得るためにあらゆる種類の贈り物、衣服、宝石、貨幣、家屋、土地、森林、池が捧げられたが、天然の蜜蝋は特に喜ばれると考えられていた。
トルティスとは「蜜蝋の輪」のことで、その上にろうそくが置かれ、市の紋章を冠した2つの盾型紋章(エスカッション)が刻まれた[503]。
こうしてオルレアンの人々は、自分たちの町を守るためにあらゆる策を講じ、尽力した。
5.6 フランスの援軍と敵軍イングランドの接近
各地の傭兵たちが、オルレアンの行政官の呼びかけに応じた。
最初に町に駆けつけたのは、以下の者たちだ。
モンタルジ総督アルシャンボー・ド・ヴィラール。
ギトリー領主ギヨーム・ド・ショーモン。
ラ・ボース男爵ピエール・ド・ラ・シャペル。
ベアルン騎士団長レイモン・アルノー・ド・コラーズ。
アラゴン王国のドン・マティアス。
ジャン・ポトン・ド・ザントライユ。
さらに、かつてオルレアン大学の神学生だったシトー会セルカンソー修道院の院長が、追随者の軍団を率いて到着した。[504]
オルレアンの町を救いに来た友軍は、予想される敵の数とほぼ同数になった。
守備隊(防衛者)には報酬が支払われ、パン、肉、魚、豊富な飼料が与えられ、ワインの樽も用意された。
当初、住民たちは彼らを自分の子供のように丁重に扱った。
市民は皆、見知らぬよそ者をもてなすために協力し、持っているものを分け与えた。しかし、この協調は長くは続かなかった。
一般市民と軍の客人との間に友好的な関係があったとする伝承がどのようなものであれ、[505] オルレアンの状況は、実際には他の包囲された町と何も変わらなかった。まもなく、住民は守備隊に不満を抱き始めた。
9月5日、イングランド総司令官ソールズベリー伯がジャンヴィルに到着した。彼は、行軍の道中で40もの町、要塞化された教会や城をいとも簡単に占領した。
しかし、これは彼の最大の功績ではなかった。
なぜなら、行軍中の各所に置いていかれた兵士はわずかだったが、そうすることで、脱走しそうな不良兵士をあらかじめ軍から切り離すことができたからである。[506]
ソールズベリー伯は、ジャンヴィルから2人の伝令をオルレアンに派遣し、住民に降伏を呼びかけた。
行政官たちは、この伝令を丁重にもてなし、バニエ郊外のラ・ポム邸に宿泊させ、ソールズベリー伯爵へワインの贈り物を託した。彼らは偉大な君主に対する義務を心得ていた。
しかし彼らは、イングランド軍の駐屯部隊に門をひらくことを拒否し、当時の市民の習慣通り、「自分たちよりも強い者が中にいるので門を開けることはできない」と主張した。[507]
危険が迫ってきた10月6日、司祭、市民、名士、商人、職人、女性、子供たちが十字架と旗を掲げて厳粛に行進し、賛美歌を歌い、町の守護者である天の神に祈りを捧げた。[508]
同月12日の火曜日、敵がソローニュを通過しているとの知らせを受けて、行政官たちは兵士を派遣し、ロワール川左岸の郊外にある漁師町ル・ポルトローの家屋、およびその先にあるアウグスティノ会教会と修道院、さらに、敵が宿営したり陣地を敷く可能性のあるその他のすべての建物を取り壊した。
しかし兵士たちは不意を突かれた。
まさにその日、イングランド軍はオリヴェを占領してル・ポルトローに現れた。[509]
彼らの中には、ヴェルヌイユの戦勝に貢献し、イングランド軍の花形と呼ばれる騎士たちが何人もいた。
イングランド王に「いとこ」と呼ばれるほど寵愛されたポントルソン総督でヌセル領主トマス・スケールズ。
フォーコンバーグ男爵ウィリアム・ネヴィル。
エヴルーの官吏でウェールズの騎士ウィリアム・ゲシン。
ソールズベリー伯の甥リチャード・グレイ卿。
ギルバート・ハルソール、リチャード・パニンゲル、トーマス・ゲラールなど多数の騎士、その他多くの名士たちだ。
ノルマンディーから来た200の槍騎兵の上には、サフォーク伯ウィリアム・ポールとジョン・ポールの旗がはためいていた。彼らは兄弟で、ウィリアム公の戦友の子孫だった。
また、摂政の侍従長である騎士旗手トマス・ランプストン。
コンシュの総督でエヴルーの代官兼隊長だったリチャード・ウォルター。
騎士ウィリアム・モリンズ。
フランスではグラシダ(Glacidas)と呼ばれたウィリアム・グラスデール(従騎士でアランソンの代官。卑しい生まれの男)などの旗もあった。[510]
弓兵は全員が馬に乗っていた。歩兵はほとんどいなかった。
牛に引かれた荷車には、火薬の樽、クロスボウ、弓矢、砲弾、あらゆる種類の銃火器、マスケット銃、猟銃、そして大型の大砲が積まれていた。
イングランド軍の砲手長フィリベール・ド・モランとウィリアム・アップルビーの2人が部隊に同行した。
また、鉱夫38人と親方が2人いた。
女性も少なからずいたが、中にはスパイとして活動していた者もいた。[511]
軍隊がオルレアンに到着したとき、道中で勝利するたびに脱走者を出していたため、大幅に兵力が減っていた。イングランドに帰った者もいれば、フランス国内を放浪して強盗や略奪を働く者もいた。
まさに開戦当日の10月12日、ルーアンからノルマンディーの代官と総督に、ソールズベリー伯の部隊から離脱したイングランド人を逮捕せよという命令が出された。[512]
レ・トゥーレルの砦(本塁・本丸)とその外塁(外側に張り出している副次的な要塞施設)が、オルレアンへ渡る橋の入り口を塞いでいた。
イングランド軍は、郊外のル・ポルトローに陣を構え、サン・ジャン・ル・ブランの丘の上に大砲と臼砲を設置し[513]、次の日曜日には砲弾の雨をオルレアンの市街地に降らせた。町の家々はひどく痛めつけられたが、死者は1人のみ——川岸のシュノー裏門近くに住んでいたベルという名の女性——だった。
ひとりの女性(ジャンヌ)の勝利で終結するオルレアン包囲戦は、ひとりの女性の死から始まったのである。
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