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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第五章 ランス市民宛の手紙/フス派宛の手紙/シュリーからの旅立ち

【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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【この章のポイント】
- オルレアンでの歓待とジャンヌの金銭感覚
- フス派への峻烈な警告
- シュリーからの旅立ちと迫りくる悲劇の予兆

5.1 ジャンヌの金銭感覚(1)オルレアンでの歓待と結婚祝い

 オルレアンの人々は、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が自分たちにしてくれたことに感謝していた。ラ・シャリテ包囲戦の不幸な結末を責めるどころか、以前と変わらない喜びと明るい声でジャンヌを街に迎え入れた。

 1430年1月19日、町の人々はジャンヌとともにジャン・ド・ヴェリーとジャン・ラバトーを宴に招いた。そこでは、去勢した雄鶏、ヤマウズラ、野ウサギ、さらにはキジまで豊富に用意されていた。[293]

 ジャン・ド・ヴェリーが何者で、なぜジャンヌと饗宴を共にしたのかは不明である。

 もうひとりのジャン・ラバトーは、1427年からポワティエ高等法院の検事総長を務めていた王室顧問官だ。[294] 彼はオルレアンでジャンヌの接待役を務めていた。ラバトーの妻は、ジャンヌが私的な祈祷室でひざまずいているのを何度も目撃していた。[295]

 オルレアン市民は、検事総長(ラバトー)、ジャン・ド・ヴェリー、そしてジャンヌにワインを捧げた。

 実際、それは儀式ばった盛大な祝宴だった。

 市民たちはジャンヌを愛し、敬っていたが、食事中の彼女をよく見ていなかったのだろう。
 そうでなければ、8年後、ある女山師(adventuress)がジャンヌ・ラ・ピュセルを自称した際、市民たちは彼女をジャンヌと間違えなかっただろう。そして今、ワインを捧げているのと同じオルレアン市の召使いジャック・ルプレストルの手によってワインを贈ることはなかっただろう。[296]

⚠️女山師(adventuress):単なる冒険好きではなく、「正体を偽り、手段を選ばず地位や金銭を得ようとする詐欺師の女」という軽蔑を含んでいる。

⚠️補足:火刑の後、ジャンヌ・ラ・ピュセルを名乗る人物がフランス各地で複数現れる。これらの詐欺事件は、下巻・第十五〜十六章に詳しく書かれているが、今回の話で触れている「8年後にオルレアンに現れた自称ジャンヌ」について簡単に説明すると、彼女は市民から盛大に歓迎されて莫大な金品を巻き上げて立ち去る。
明らかに偽物だったが、オルレアンでは間近で歓待したにもかかわらず誰も気づかなかった。市民たちはジャンヌを英雄・聖女と祭り上げているが、等身大のジャンヌ本人をありのままに見ていなかったことがよくわかる。

 ジャンヌが聖カタリナの剣よりも愛していた旗は、トゥールでオーヴ・プルノワという人物によって描かれたものだ。

⚠️オーヴ・プルノワ(Hauves Poulnoir):原著のフランス語ではこの名だが、英訳版ではスコットランド風にアミッシュ・パワー(Amish Power)と訳されている。歴史学では、スコットランド出身のヘリオス(Helius)と考えられている。それぞれ別の名前に見えるが、同じ画家である。

 彼はちょうど娘のエリオットを結婚させるところで、ジャンヌはそのことを知ると、トゥールの行政官たちに手紙を送り、花嫁の衣装代として100エキュドール(金貨)を払うよう要求した。結婚式は1430年2月9日に決まった。

 行政官たちは、ジャンヌの要請について審議するために会合を2回開いた。彼らはジャンヌを丁重に、同時にある程度の慎重さをこめて「戦争の件で、この王国の王のもとへ来て、天上の王からイングランド軍に対抗するために遣わされたと称する乙女」と表現した。

 結局、彼らは支払うことを拒否した。なぜなら、市の資金は市の事柄に使うべきであり、それ以外のことに使うべきではないからだ。彼らはそのように理由を述べた。

 その一方で、彼らは、ジャンヌに対する愛情と敬意から、教会関係者、市民、その他の町の人々が結婚式の日に教会に集まり、花嫁のために祈りを捧げ、パンとワインを贈呈することを決定した。これには4リーブル10スーの費用がかかった。[297]

5.2 ジャンヌの金銭感覚(2)オルレアンで家を購入

 正確な時期を特定することは不可能だが、ジャンヌはオルレアンに家を購入した。より正確に言えば、賃貸契約(賃貸借)を結んだ。[298]

 賃貸借(bail à vente)とは、家屋やその他の財産の所有者が、現物または金銭による年間の支払いと引き換えに、賃借人に所有権を譲渡する契約である。

 このような賃貸借の期間は、通常59年だった。

 ジャンヌが取得した家は、大聖堂参事会の所有物だった。それは町の中心部、サン・マロ教区、サン・マクルー礼拝堂の近く、プティ・スーリエ通りにある油売りジャン・フーの店の隣にあった。

 包囲戦の最中、この通りで、テーブルに着いていた5人の客の真ん中に、重さ164ポンド(約74.4キロ)の石の砲弾が落ちたが、誰にも危害を加えなかった。[299]

 ジャンヌはこの家をいくらで買ったのだろうか?
 どうやら、夏至とクリスマスの半年ごとに6エキュドール(金貨)を59年間支払うことになっていたようだ。

 さらに、慣習に従って、家を良好な状態に保ち、教会の会費、井戸や舗装の料金、その他すべての税金を自費で支払うことを約束していたに違いない。

 保証人を立てる必要があったため、ジャンヌはギヨー・ド・ギュイエンヌという人物を選んだが、彼についてはこれ以上のことは何もわかっていない。[300]

 ジャンヌ自身がこの契約を交渉しなかったとは考えにくい。
 彼女は聖人であり、財産を所有することの意味をよく理解していた。

⚠️補足:キリスト教の聖人や修道士は、最低限の衣服と聖書以外に財産を持たず、教会施設で自給自足しながら共同生活するか、行く先々で施し(寄付)をもらいながら伝道活動をする。ジャンヌがそのことを知らないはずはない。もともと戒律を守らない傾向も見られ、もしかしたらジャンヌは本心では自分を聖人とは思っていないのかもしれない。

 こういう知識はジャンヌの家系に受け継がれたもので、実際、ジャンヌの父親は村一番の実業家(ようするに、やり手)だった。[301]

 ジャンヌ自身は家庭的で倹約家だった。古着を大切に保管し、野原で友人に何か贈りたいと思ったときは、どこで見つけられるかを知っていた。

 ジャンヌは武器や馬など自分の所有物を数えて、それらを1万2000クローネと評価した。かなり正確に計算していたようだ。[302]

 なぜ、ジャンヌはこの家を借りたのだろうか?

 自分自身がそこに住むつもりだったのか? 戦争が終わったらオルレアンに戻り、自分の家で平穏な余生を過ごすつもりだったのだろうか?

 それとも、両親やヴートンの叔父、あるいは兄弟たちに住まわせるつもりだったのか? ジャンヌの兄弟の一人は、オルレアン市民からプールポワン(短い上着)をもらうほど極貧だった。[303]

 3月3日、ジャンヌはシャルル王に従ってシュリーへ向かった。[304]

 ジャンヌが国王の近くに滞在したシュリー城は、ラ・トレモイユの所有物で、彼は母であるルイ・ド・ブルボンの娘マリー・ド・シュリーから城を相続していた。

 この城はオルレアン解放後に、イングランド軍から奪還していた。[305]

 ロワール川沿いの要塞で、パリからオータンへ向かう街道沿いに位置する。オルレアンとブリアールの間の平野と、20のアーチを持つ古い橋を見下ろすシュリー城は、フランス中部と、ジャンヌが後ろ髪を引かれる思いで去った北部地方を結びつけていた。

 ジャンヌは、新たな遠征と包囲戦に挑むために、心の底からそこへ戻りたいと切望していた。

5.3 ランス市民宛の手紙

 3月最初の2週間、ジャンヌは、ランスの町の人々から根拠のある不安を打ち明けるメッセージを受け取った。[306]

 3月8日、イングランド摂政(ベッドフォード公)はブルゴーニュ公に対し、シャンパーニュとブリーの伯爵領を、彼が再征服することを条件に与えた。[307]

 アルマニャック派とイングランド人は、この巨大な力を持つ公爵(ブルゴーニュ公)にもっとも大きく、もっとも魅力的な分け前を提供することで互いに競い合っていた。
 フランス軍は約束を守り、コンピエーニュを引き渡そうとしたが、結局(町がブルゴーニュ公の支配下に戻ることを拒否したため)引き渡されることはなかった。フランス軍は、コンピエーニュの代わりにポン=サント=マクサンスを差し出した。[308]

 だが、ブルゴーニュ公が欲しかったのはコンピエーニュだった。

 非常に不完全ながら休戦協定は守られており、当初の期限はクリスマスまで有効だったが、3月15日まで延期され、さらに復活祭(イースター)まで延長された。
 1430年のイースターは4月16日だ。ブルゴーニュ公フィリップは、その日が来たら軍隊を戦場に投入しようとしていた。[309]

 簡潔かつ活気に満ちた口調で、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はランス市民にこう答えた。

「親愛なる友よ、心から待ち望んでいる愛する人々よ。
 ジャンヌ・ラ・ピュセルは、あなたたちが
 包囲攻撃を恐れているという手紙を受け取りました。

 私はもうすぐ彼ら(ブルゴーニュ軍)と遭遇するので、
 そのような事態(包囲戦)は起こらないと信じてください。

 もし、私が彼らに遭遇せず、
 彼らがあなたたちのところに来ないとしても、
 あなたたちは門をしっかりと閉めておきなさい。
 そうすれば、私はもうすぐあなたたちのもとへ
 向かうので、共にいることができます。

 もし、彼らがそこに来たなら、
 私は、彼らに拍車をかけさせてやります。
 彼らはどこへ行けばいいのか分からなくなるほど
 非常にすばやく、すぐに逃げるでしょう。

 他の事については、今は書きません。
 あなたたちが常に善良で、
 忠実であり続けることを願っています。
 神があなたたちを守ってくださるよう祈ります。

 3月16日、シュリーにて記す。

 あなたたちが大いに喜ぶであろう
 他の知らせを伝えたいのですが、
 手紙が旅の途中で奪われて、
 見られてしまうことを恐れています。

 署名:ジャンヌ

 ランス市の親愛なる友、愛する人たち、
 聖職者、市民、そしてその他の町民の皆様へ」[310]

 書記官がこの手紙をジャンヌの口述通りに忠実に書き記し、彼女の口からこぼれた言葉をそのまま書き留めたことは疑いようがない。
 ジャンヌは急いでいたので、ときどき単語を忘れ、時にはフレーズ全体を忘れることもあったが、それでも意味は明瞭だ。そして、なんと自信に満ちているのだろう!

「私が敵と遭遇すれば、包囲は起こらないだろう」

 これはまさしく、騎士道の言葉である!
 パテーの戦いの前夜、ジャンヌは仲間たちに「いい拍車を持っていますか?」と尋ねた。[311] 今ここでジャンヌはこう叫ぶ。

「私は、彼らに拍車をかけさせてやります」

 ジャンヌは「もうすぐシャンパーニュにいるだろう、出発するところだ」と告げる。

 もはやジャンヌが、ある種の金色の鳥かごのように、ラ・トレモイユの城に閉じ込められていると考えることはできない。[312]

 最後に、ジャンヌはランスの友人たちに、「手紙が道中で奪われることを恐れて、書きたいことすべてを伝えるわけではない」と告げている。

 ジャンヌは、用心深さを知っていた。時には、手紙に十字架をつけて、自分の信奉者たちに「書かれている内容に注意を払わないように」と警告し、手紙が傍受されることのないよう、そして敵が欺かれることを願った。[313]

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