教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第一章 幼少期
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】
1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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【この章のポイント】
- ジャンヌの故郷ドンレミ村の風景と、信心深い家族の物語。
- 現代のファンにも馴染み深い「妖精の泉」や「マンドレイク」の伝承。
- 戦争の足音が近づき、家畜が奪われる過酷な村の日常。
1.1 生まれ故郷、ドンレミ村
ヌフシャトーからヴォークルールまで、ムーズ川の清らかな流れは、ポプラ並木やハンノキ、ヤナギの低い茂みにおおわれた岸辺の間を、ゆったりと流れている。
⚠️ムーズ川(Meuse):フランス北東部の高地バシニー(標高409メートル)を水源とし、ベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川。ジャンヌの故郷はこの川の支流にあり、シノンに旅立つまではムーズ川流域の地名が頻出する。
ある時は急に折れ曲がり、またある時は緩やかにうねり、絶えず細い流れに分かれては、その緑がかった水の筋が再び合流し、あるいは所々で忽然と地下に姿を消す。
夏は気だるい流れとなり、浅い川底に生える葦をかろうじてなびかせるにすぎない。岸辺からは、わずかな砂と苔をかろうじて覆うだけのイグサの茂みにせき止められて、さざ波が立つ水面を眺めることができる。
しかし、大雨の季節になると、急な豪雨によって増水し、より深く、より速さを増して激しく流れ、そのとき、川は岸辺に一種の露のようなものを残していく。それは谷の草地と同じ高さに、澄んだ水たまりとなって広がっている。
低い丘陵の間に、幅2~3マイルほどの谷が途切れることなく広がり、なだらかな起伏の丘はオーク、カエデ、シラカバの木々に覆われている。
春には野の花が咲き乱れるが、その姿は厳格で重苦しく、時には悲しげな印象を与える。
一面の緑の草地は、よどんだ水のような単調さを感じさせる。
晴れた日でさえ、厳しく冷涼な気候が肌に伝わってくる。
空は大地よりも慈しみ深い。涙を浮かべたような微笑みで大地を照らし、この繊細で静かな風景に、あらゆる動きと優雅さ、そして絶妙な魅力を添えている。
やがて冬が訪れると、空は一種の混沌となって大地と溶け合う。霧は深く、まとわりつくように立ち込める。
夏には谷底を覆っていた白く軽やかな霧も、分厚い雲と暗い山々の影に取って代わられ、それらは赤く冷たい太陽によってようやく追い散らされる。
早朝に高地をさまよう旅人は、恍惚の境地にある神秘家のように、自分は雲の上を歩いているのだと夢想するかもしれない。
この左手に樹木が生い茂る台地があり、その高台からブルレモン城がソーネル川の渓谷を見下ろしている。右手に、古い教会のあるクセ(Coussey)を通り過ぎると、曲がりくねった川は西側のボワシュヌ(Bois Chesnu)と東側のジュリアンの丘の間を流れていく。
川の流れは、西岸に隣接するドンレミ村とグルー村を通りすぎ、グルーとマクセ=シュル=ムーズを分かつ。
丘のくぼみに隠れた、あるいは高台に位置する他の集落を縫い、ビュレ=ラ=コート、マクセ=シュル=ヴェーズ、ビュレ=アン=ヴォーの間を通りすぎて、ヴォークルールの美しい草原を潤しながら流れていく。[147]
1.2 ジャンヌ誕生、家族構成
ドンレミと呼ばれる小さな村は、ヌフシャトーから少なくとも7.5マイル下流、ヴォークルールより12.5マイル上流に位置する。1410年か1412年ごろ[148]、この小村で、驚くべき生涯を送る運命を背負った女児が誕生した。
その子は慎ましい家に生まれた。
彼女の父親[149]、シャンパーニュ地方セフォン村の出身の[150]ジャコまたはジャック・ダルクは小規模な農家で、自ら馬を駆って耕作していた。[151]
近所の人たちは、男女を問わず、彼を善良なキリスト教徒であり勤勉な働き手であると見なしていた。[152]
ジャックの妻は、ドンレミから北西に4マイルほど、グルーの森を越えたところにあるヴートン村の出身だった。
名前はイザベルまたはザビレといい、それがいつの時点であったかは正確には分からないが、ロメという通称で呼ばれるようになった。[153]
この名は、ローマに巡礼した人、あるいは他の重要な巡礼地に行った人に与えられた。[154] イザベルがロメという名を得たのも、巡礼者の貝殻と杖を持っていたためかもしれない。[155]
⚠️巡礼者の貝殻と杖:巡礼者を象徴する伝統的な持ち物。貝殻はスペインにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(聖ヤコブの霊廟)への巡礼者のシンボルで、目的地に到着した証として現地の海岸でホタテ貝を拾うのが慣わし。杖は長い旅路の支えであり護身用。ジャンヌの母親が非常に信心深い女性だったことを示している。
ロメの兄弟のひとりは教区司祭で、もうひとりは屋根瓦職人であり、甥は大工だった。[156]
夫婦の間にはすでに子供を3人授かり、ジャックまたはジャックマン、カトリーヌ、ジャンと名付けられていた。[157]
ジャック・ダルクの家は、ガリアの守護聖人である聖レミ(レミギウス)を祀る小教区教会の敷地の端に建っていた。[158]
その子が洗礼盤に運ばれるとき、横切るのは墓地だけだった。
当時、その地域では、洗礼式で司祭が唱える悪魔祓いの儀式は、男児より女児の方がはるかに長かったと言われている。[159]
教区司祭のジャン・ミネ師[160]が、その子に儀式の文言をすべて忠実に唱えたかどうかはわからない。だが、この習慣は、教会が女性に対して抱いていた拭いがたい不信感を示す、数多くの証左の一つとして注目に値する。
⚠️拭いがたい不信感(invincible défiance):当時の教会は、女性を「誘惑や悪魔の入り口」として警戒していた。生まれたばかりの女児も例外ではなく、洗礼で入念な悪魔祓いがおこなわれた。
当時普及していた慣習に従い、その子には名付け親(代父と代母)が何人もいた。[161]
代父は、グルー村の[162]農夫ジャン・モレル、ヌフシャトーのジャン・バレー、ジャン・ル・ランガール(またはランギ)、ジャン・ランゲソン。
代母は、ドンレミ村でロゼと呼ばれるテヴナン・ル・ロワイエの妻ジャネット、同村の農夫エステランの妻ベアトリクス、ジャン・バレーの妻エディット、ブルレモン領主の秘書に任命されたときに「村長オブリ(Maire Aubrit)」と記されたオブリの妻ジャンヌ、ヌフシャトーの学者ティエセラン・ド・ヴィッテルの妻ジャネット。 彼女は、本から読み聞かせてもらった物語をよく知っていたため、この中の誰よりも物知りだった。
代母の中には、ジャック・ダルクの兄弟ニコラ・ダルクの妻アニエスと、シビル(巫女、女預言者のこと)と呼ばれる無名のキリスト教徒2人が挙げられている。[164]
ここには、善良なカトリック教徒の集団には必ずいるように、ジャン、ジャンヌ、ジャネットという名前が多数登場する。
洗礼者ヨハネ(ヨハネ・バプテスト)は非常に名高い聖人だ。6月24日におこなわれる祝日は、世俗的にも宗教的にも暦の上で重要な日で、賃貸借や雇用などあらゆる種類の契約を交わす慣習的な期日となっていた。
また、一部の聖職者、特に托鉢修道士たちの考えでは、救世主(キリスト)の胸にその頭を預け、時が満ちた(世界に終末が訪れる)ときに地上に戻ってくることになっている福音者ヨハネこそが、天国で最も偉大な聖人だった。
そのため、救世主の先駆者(洗礼者ヨハネ)、あるいはその最愛の弟子(福音者ヨハネ)を尊んで、赤ん坊が洗礼を受ける際には、ジャンやジャンヌという名が好まれて選ばれることが多かった。
これらの聖なる名前を、幼子の無力さや私たちの多くを待ち受けている慎ましい運命にふさわしいものにするために、ジャンノとジャネット(Jeannot/Jeannette)という指小形が付けられた。
⚠️指小形(diminutive):単語の語尾を変化させたり、特定の接尾辞を付けたりすることで、「小さいもの」「かわいらしいもの」「親しみのあるもの」いうニュアンスを添える表現のこと。
ムーズ川のほとりの農民たちは、気取らず、それでいて親愛の情のこもったこれらの表現を特に好んでいた。ジャコ、ピエロロ、ザビエ、メンジェット(マンジェット)、ギュイエメット(ギユメット)といった風に。[166]
学者ティエセランの妻にちなんで、その子はジャンネットと名付けられた。
それが、村で彼女が知られていた名前だった。
後にフランスでは、彼女はジャンヌと呼ばれた。[167]
ジャンヌは父の家、ジャックの質素な住まいで育てられた。[168]
正面には、わずかな光しか差し込まない二つの窓があった。
庭に面する石造りの切妻屋根は、ほぼ地面の近くまで傾斜していた。
この辺りの地方ではよくあることだが、戸口のすぐそばには、堆肥の山、積み上げられた薪、錆と泥にまみれた農具が置かれていた。
しかし、ささやかな家庭菜園として使われていた慎ましい囲い地は、春になるとピンクや白の花々が咲き誇った。[169]
この善良なキリスト教徒の家庭に、もう一人子供がうまれた。
末っ子のピエールはピエロットと呼ばれていた。[170]
⚠️ジャンヌは5人きょうだい(兄弟3人/姉妹2人)だが、それぞれの長幼については諸説ある。現在の定説では下記のとおり。姉妹のカトリーヌは、ジャンヌが出奔する前に亡くなっている。
①ジャック
②ジャン
③ピエールまたはカトリーヌ
④ジャンヌ
⑤ピエールまたはカトリーヌ
1.3 子供時代
薄いワインと黒パンを糧とし、過酷な生活に鍛えられながら、ジャンヌは実りの乏しい土地で、無骨でつつましい人々に囲まれて成長した。
彼女は完全な自由の中で暮らしていた。
働きづめの農民たちの間では、子供たちは放っておかれるのが常だった。
イザベルの娘は、村の子どもたちとうまく仲良くやっていたようだ。
近所に住む小さなオヴィエット(Hauviette)は、ジャンヌより3〜4歳年下で、日々の遊び相手だった。二人は同じベッドで一緒に寝るのが好きだった。[171]
両親がすぐ近くに住んでいたメンジェット(Mengette)は、よくジャック・ダルクの家で糸紡ぎの仕事をしに来ていた。彼女はジャンヌの家事を手伝っていた。[172]
ジャンヌはよく糸巻き棒を持って、若い娘のいる農夫ジャキエの家へ出かけ、サン・タマンスで夜を過ごした。[173]
男児も女児も、ごく当然のように隣同士で育った。
隣人同士だったジャンヌとシモナン・ミュニエ(Simonin Musnier)の息子は、一緒に成長した。
ミュニエの息子がまだ幼かったころに病気になると、ジャンヌが彼を看病した。[174]
当時、村の若い娘たちが文字を知っているのは決して珍しいことではなかった。
数年前、ジャン・ジェルソン師(パリ大学総長で神学者)は、シャンパーニュ地方の農民だった姉妹に読み書きを学ぶよう勧め、もし習得できたら、ためになる本を贈ると約束していた。[175]
ジャンヌは教区司祭の姪だったにもかかわらず、ホルンブック(horn-book)を学ばなかった。その点では、村のほとんどの子供たちと同じだったが、全員が文盲だったわけではない。なぜなら、近隣のマクセ村にはドンレミ村の少年たちが通う学校があったからだ。[176]
⚠️ホルンブック(horn-book):中世から19世紀頃にかけて、子供たちが読み書きを学ぶために使われた初歩的な学習用具。アルファベットや『主の祈り』などが書かれた紙を、取っ手のついた薄い板に貼りつける。当時は紙が貴重で汚れやすかったため、牛のツノ(horn)を薄く削って透明にしたもので紙を覆って保護した。取っ手の先に穴が開いており、そこにひもを通して腰のベルトにくくりつける
ジャンヌは母親から「主の祈り」、「アヴェ・マリア」、「使徒信条(ミサの定型文)」を学び[177]、聖人たちの美しい物語をいくつか聞いた。それが、彼女が受けた教育のすべてだった。
聖なる祝日には、教会の身廊の説教台の下で、農夫たちが壁際に立っている間、ジャンヌは農婦の作法に従い、つま先を立ててしゃがみこみ、司祭の説教に耳を傾けていた。[178]
働ける年頃になるとすぐに野良仕事に従事し、土を耕したり草をむしったり、現在のロレーヌ地方の女性たちと同じく、男手が必要な力仕事もこなした。[179]
川沿いの草原は、ムーズ川の岸辺に住む人々にとって豊かな資源だった。
牧草の収穫が終わると、ドンレミの村人は各自が所有する耕作地の割合に応じて、一定数の家畜を草原に放牧する権利を持っていた。
各家庭は交代で、草原での家畜の見張り番を引き受けた。
ジャック・ダルクも小さな放牧地を持っていたため、他の村人と一緒に自分の牛や馬を放牧した。
当番が回ってくると、彼は娘のジャンヌに見張り番の仕事を任せ、彼女は糸巻き棒を手に草原へ出かけていった。[180]
しかし、ジャンヌはむしろ裁縫や糸紡ぎなど家事をすることを好んだ。
ジャンヌは信心深かった。
神や聖人の名にかけて誓うことはせず、何か真実を主張するときは「間違いありません」と言うだけで満足した。[181]
お告げの祈り(アンジェラス)を告げる鐘が鳴ると、彼女は十字を切り、膝をついた。[182]
⚠️アンジェラス(Angelus):キリスト教の文脈では「お告げの祈り」と訳すが、ラテン語で「天使」を意味する。一日に三回(朝・昼・晩)、この祈りの時間を告げる鐘が鳴らされる。ジャンヌは後に、この鐘の音に合わせて「天使の声」を聞くようになったと語っており、彼女の信仰と神秘体験において重要な意味を持つ。
⚠️お告げの祈り:大天使ガブリエルによる受胎告知を記念する祈り。冒頭の句が「Angelus Domini」から始まるため、こう呼ばれる。
聖母マリアの日である土曜日、ジャンヌはブドウや果実の草木が生い茂る丘を登った。丘の麓にはグルー村がたたずみ、やがて樹木の生い茂る高原にたどり着いた。そこから東の方角に、緑の谷と青い丘を見渡すことができた。
村からわずか2.5マイルほど離れた丘の頂には、せせらぎの音が響く木陰の谷間に、ブナ、トネリコ、オークの木の下から「サン・ティエボーの泉」の澄んだ水が湧き出ている。その水は熱病を治し、傷を癒やすと言われていた。
この泉の上には、ノートルダム・ド・ベルモンの礼拝堂が建っている。
晴れた日は野原と森の香りが漂い、冬になるとこの高地は悲しみと静寂を羽織ったマントのような雲で包まれる。
当時、王のマントを身につけ、冠を戴き、神の子を腕に抱いたノートルダム・ド・ベルモン(マリア像)は、若者と娘たちから祈りと供物を捧げられていた。
彼女は奇跡を起こすと言われていた。
ジャンヌは、姉妹のカトリーヌや近所の少年少女たちと一緒に、または一人でここをよく訪れた。
そして、できる限り頻繁に、天上の貴婦人を讃えてろうそくに火を灯した。[183]
1.4 Fateの伝説:妖精の泉と女神の木
ドンレミ村から西に1.25マイル(約2キロ)ほどの所に、鬱蒼とした森に覆われた丘があった。野生のイノシシやオオカミを恐れて、そこに足を踏み入れる勇気のある者はほとんどいなかった。
オオカミは農村地帯では恐怖の対象だった。
村長たちは、オオカミやその仔を狩って首を持ってきた者に報酬を与えていた。[184]
ジャンヌの家の玄関から見えるこの森は、ボワ・シュヌ(樫の森)またはホアリー・シュヌ(白髪の森)と呼ばれる、ようするに古い森だった。[185]
このボワ・シュヌが、魔術師マーリンの予言の主題となっていたことについては、後に触れることにしよう。
村に向かう丘のふもとに泉[186]があり、泉のふちにはグーズベリーの茂みが灰色がかった緑の枝を絡ませていた。
それは「グーズベリーの泉」、または「ブラックソーンの泉」と呼ばれていた。
⚠️グーズベリー(Gooseberry):スグリ
⚠️ブラックソーン(Blackthorn):スモモ
もし、パリ大学の卒業生が考察したように[188]、ジャンヌが「我らが主の、善良なる妖精の泉(La Fontaine-aux-Bonnes-Fées-Notre-Seigneur)」と呼んだとすれば、それは村の人々がそう呼んでいたからに違いない。
このような名称を用いることで、素朴な村人たちは、森や水の妖精をキリスト教化する方便にしていたと考えられる。ある宣教師は、異教徒がかつて女神として崇めていた悪魔をその妖精と見なした。[189]
それはまったく真実であった。
ローマ神話のパルカ(Parcæ:運命の三女神)と同じように畏怖され崇拝されていたこの妖精は、いつしかフェイト(Fate、運命の女)と呼ばれるようになり[190]、人間の運命を支配する力があるとされていた。
しかし、この村のフェイトの権威はずいぶん前に落ちぶれて、人間と同じくらい素朴な存在になっていた。
彼女たちは洗礼式に招かれ、母親の隣の部屋には彼女たちのための食卓が用意された。
こうした祝宴の際、彼女たちは一人で食事をし、誰にも知られることなく行き来した。人々は、彼女たちの機嫌を損ねるのを恐れて、その姿を覗き見することを避けた。
秘密のうちに行き来するのは、神性を帯びた存在の習わしだ。
彼女たちは、生まれたばかりの赤子に贈り物をした。
非常に親切な者もいたが、その多くは、悪意があるわけではないにせよ、怒りっぽく気まぐれで嫉妬深い。たとえ意図的でなくとも、うっかりして機嫌を損ねると、邪悪な呪いをかけてくる。
時には、理不尽な好き嫌いの感情で、その女性的な本性を露わにすることもあった。
騎士や自由民の中に恋人を見つける者も一人や二人ではなかったが、概してそのような恋は悲劇的な結末を迎えた。
そして、結局のところ、優しいか恐ろしいかに関わらず、彼女たちはやはりパルカであり、つねにフェイトそのものだった。[191]
*
近くの森の境界にブナの古木があり、ヌフシャトーへ続く街道に覆い被さるようにして心地よい木陰を作っていた。[192]
このブナは、ガリア(古い地名でほぼ現在のフランス領に相当)に宣教師が来る前の時代に神聖視されていた木々と同じく、信心深く崇拝されていた。[193]
地面まで届くその枝に、あえて手を触れようとする者はいなかった。
ある農夫は「百合の花でさえ、これほど美しくはない」と言った。[194]
妖精の泉と同じく、この木には多くの名前があった。貴婦人の木(l’Arbre-des-Dames)、貴婦人の宿り木(l’Arbre-aux-Loges-les-Dames)、妖精の木(l’Arbre-des-Fées)、ブルレモンの美しき妖精の木(l’Arbre-Charmine-Fée-de-Bourlémont)、美しい五月(le Beau-Mai)と呼ばれていた。[195]
ドンレミ村では誰もが、妖精が存在すると信じ、そして「貴婦人の宿り木」の下でその姿が目撃されていることを知っていた。
昔々、ベルタが糸紡ぎをしていた時代、ブルレモン領主のピエール・グラニエ[196]が、ある妖精の騎士となり、夕暮れ時にそのブナの木の下で彼女と逢瀬を重ねた。
ある伝説が、二人の恋について物語っている。
⚠️昔々、ベルタが糸紡ぎをしていた時代:フランスのおとぎ話で「伝説的な古い時代」を指す決まり文句。このベルタが何者かは諸説あり、①シャルルマーニュ(カール大帝)の母ベルトラダ、②10世紀のベルトラダ王妃のどちらかだが、後者はフランスやスイスに糸紡ぎにまつわる言い伝えが残っている。
ヌフシャトーの学者だったジャンヌの代母の一人は、この物語を聞いたことがあったが、それはロレーヌ地方でよく知られている『メリュジーヌの伝説』によく似ている。[197]
⚠️メリュジーヌ(Melusina):フランスの伝承に登場する水の精霊で、異類婚姻譚の主人公。上半身は美女だが、下半身は蛇で、背中にはドラゴンの翼が付いている事から竜の妖精とも言われる。
しかし、妖精が今もなおそのブナの木に出没するかどうかは疑わしかった。
妖精がいると信じる者もいれば、いないと考える者もいた。
ジャンヌのもう一人の代母であるベアトリクスは、よく「昔は妖精たちがブナの木に来ていたという話を聞いた。けれど、罪を犯したからもう来なくなった」と言っていた。[198]
この素朴な女性が言わんとしたのは、妖精は神の敵であり、司祭が彼らを追い払ったのだということだ。ジャンヌの代父であるジャン・モレルも同じ考えだった。[199]

(1419年、ドンレミ村にあったジャンヌ・ダルクの生家)
実際、昇天祭(復活祭から5週目の木曜日)の前夜や、祈願節(昇天祭前の月曜から水曜)、四季の斎日(断食と祈りの日)には、十字架を掲げて野原を練り歩き、司祭は「妖精の木」へと赴いて新約聖書の『ヨハネによる福音書』を朗読した。
司祭はまた、グーズベリーの泉や教区内にある他の泉でも同じことをした。[200] 悪霊を追い払うためには、ヨハネによる福音書に勝るものはなかったからだ。[201]
オベール・ドゥルシュ卿は、ドンレミ村にはもう20~30年の間、妖精は現れていないと主張した。[202] その一方で、村では、キリスト教徒たちが今なお妖精たちと語らい、木曜日が逢瀬の日だと信じている者もいた。
ジャンヌのさらにもう一人の代母である「村長オブリ」の妻は、その木の下にいる妖精たちを自分の目で見たことがあった。
彼女は名付け子であるジャンヌにそのことを話した。
オブリの妻は魔女でも占い師でもなく、善良で慎み深い女性として知られていた。[203]
ジャンヌはこうしたことすべての中に魔術の疑いを感じていた。
ジャンヌ自身は、木の下で妖精に会ったことは一度もなかった。
しかし、他の場所で妖精を見たことがないとは、言わなかっただろう。[204]
妖精は天使とは違う、彼女たちは常にありのままの姿で現れるとは限らないのである。[205]
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