教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第三章 パリ攻撃
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- パリ包囲戦の失敗と戦略の乖離
- パリ市民の恐怖とジャンヌへの拒絶反応
- 聖剣の喪失と武運の陰り
3.1 パリの防衛(1)シャルル五世が建造した城壁
⚠️ジャン二世:フランス王国ヴァロワ朝第二代国王。シャルル七世の曽祖父。1356年のポワティエの戦いでエドワード黒太子率いるイングランド軍にフランス軍は大敗し、ジャン二世は捕虜となった。
フランス王ジャン二世がイングランド軍の捕虜になっていた時代、パリ市民は、敵が国の中心部に侵入しているのを見て、自分たちの街が包囲されるのではないかと恐れた。
彼らは、大急ぎでパリの防衛体制の整備に取り掛かり、主堀(fossé)と外堀(contre-fossé)で街を囲んだ。
⚠️外堀・副堀(contre-fossé):城壁の主堀の外側に設けられた、もう一層の堀のこと。防衛施設として、攻撃側が一つ目の堀を越えても二つ目の深い堀で阻まれる二重構造になっている。
大学側(セーヌ川の南岸)の郊外は防御施設なしでそのままにされ、辺鄙なところにある小さな地域は焼き払われた。しかし、右岸(セーヌ川の北岸)側の広大な郊外はパリの街とほぼ接しており、(郊外の)一部は堀で囲まれていた。
イングランドとの和平が成立すると、当時フランス王国の摂政だった王太子シャルル(のちのシャルル五世)は、パリの北側の郊外を城壁で囲むことを決めた。城壁の両端には四角い塔を建造し、テラスと胸壁が設けられ、周囲には道路と城壁に通じる階段が設けられた。堀は、場所によって一重または二重になっていた。

⚠️当時の摂政だった王太子シャルル:ジャン二世の息子で、ヴァロワ朝第三代国王シャルル五世。シャルル七世の祖父。賢明王と呼ばれる名君。
パリの代官であるユーグ・オーブリオがこれらの工事を監督し、サン・アントワーヌの堡塁(要塞)の建設も任された。サン・アントワーヌ堡塁はシャルル六世の時代にようやく完成した。[137]
シャルル五世が建造した最新の防衛施設は、東側(セーヌ川上流)の川沿い、セレスタン地区の高台から始まる。
新たな防衛圏内(城壁の圏内)には、サン・ポール地区、サン・カトリーヌ耕作地、タンプル地区、サン・マルタン地区、レ・フィーユ・デュー地区、サン・ソヴール地区、サン・トノレ地区、レ・カンズ・ヴァン地区が入った。
これらの地区は、いままでパリの郊外という扱いで防御されていなかった。
新しい防衛施設は、セーヌ川の下流(パリの西側)、ルーヴル城(当時はまだ宮殿ではない)まで達した。シャルル五世のこの事業によって、いままで郊外だった地域はパリの街と一体化した。
パリ北側の新たな城壁には、市内に出入りする門が6つあった。
東から順に、(1)ボーデ門またはサン・アントワーヌ門、(2)サン・アヴォワ門またはテンプル門、(3)パントル門またはサン・ドニ門、(4)サン・マルタン門またはモンマルトル門、(5)サントノレ門、(6)セーヌ門である。[138]
⚠️マップの説明文には視覚情報が欲しいところ。参考までに、フランスの地図制作会社LégendesCartographieのX(旧Twitter)を引用する。
1-5 Paris au Moyen Age - Enceintes et lieux de pouvoir dans la ville au XIVe siècle pic.twitter.com/B30wTsCpYr
— LegendesCartographie (@LegendesCarto) December 2, 2024
「中世のパリ Paris au Moyen Age」と書かれているが、賢明王シャルル五世が城壁を強化した後なので14世紀後半〜15世紀ごろの図面。
セーヌ川の北岸「城壁が拡張しているエリア」が、シャルル五世が計画してシャルル六世時代に完成した一大事業。今風にいえば「首都圏拡張および防衛施設刷新事業」といったところか。
シャルル五世はイングランドから防衛するために建造したが、1429年当時のパリはイングランドに奪われて施設を利用され、孫のシャルル七世が攻める側になっているのはなんとも皮肉な話。
なお、地図の右に見える赤い囲みの建物「オテル・サンポール(Hotel St-Pol)」はシャルル七世が生まれた場所。

3.2 パリの防衛(2)市民感情と忠誠心
パリ市民はイングランド人を嫌っており、彼らに街を占拠されていることにひどく心を痛めていた。
亡き国王シャルル六世の葬儀の後、イングランド摂政のベッドフォード公がフランス王の剣を前に掲げた時、人々は不満を漏らした。[139] しかし、どうしようもないことは我慢しなければならない。
パリ市民はイングランド人を嫌っていたが、美しい顔立ちでキリスト教世界で最も裕福な君主であるブルゴーニュ公フィリップを尊敬していた。
その一方で、ブールジュの小王(シャルル七世への蔑称)は陰気で悲しげな顔立ちをしており、さらにモントロー橋の殺害事件で反逆の疑いをかけられていたため、好感を抱くところが何もなかった。
シャルル七世はパリ市民に軽蔑され、その支持者であるアルマニャック派は恐怖と戦慄の眼差しを向けられていた。
この10年間、街の周辺をうろつき、略奪し、捕虜を捕らえ、身代金を要求していたからだ。実際はイングランド人とブルゴーニュ人も同じことをしていたのだが。
1423年8月にフィリップ公がパリに来たとき、彼に仕えるブルゴーニュ派の兵士たちは、友人や同盟者の所有地であろうと関係なく、近隣の畑をすべて荒らした。しかし、彼らはただ通り過ぎただけで済んだ。[140]
一方、アルマニャック派は絶えず略奪を行い、手に入るものはすべて盗み、納屋や教会に火をつけ、女性と子供を殺し、未婚の処女や尼僧を強姦し、男たちを親指で吊るした。
1420年、彼らは解き放たれた悪魔のようにシャンピニー村を襲撃し、オーツ麦、小麦、羊、家畜、雄牛、そして女性と子供たちを一斉に焼き払った。同様に、クロワシーではさらにひどいことが起こった。[141]
ある聖職者は、「アルマニャック派はマクシミアヌス帝やディオクレティアヌス帝よりも多くのキリスト教徒を殉教させた」と述べた。[142]
⚠️マクシミアヌス帝とディオクレティアヌス帝:ローマ帝国の皇帝。共同皇帝。「三世紀の危機」を乗り越えた有能な軍人皇帝だが、キリスト教徒を迫害したため、エドワード・ギボン著『ローマ帝国衰亡史』で再評価されるまで暴君と見なされていた。
とはいえ、1429年当時、パリ市内にシャルル・ド・ヴァロワの支持者がいなかったわけではない。ヴァロワ王家に忠誠を誓っていたクリスティーヌ・ド・ピサンはこう述べている。
「パリには邪悪な者が多いが、
善良な者もいて、彼らは王に忠実だ。
だが、彼らは声を上げる勇気がない」[143]
アルマニャック派と繋がりのある者が、高等法院やノートルダム大聖堂の参事会にいたことは周知の事実だ。[144]
パテーの戦いで勝利した翌日、恐るべきアルマニャック派は、パリをただちに占領するならまっすぐ進軍するだけでよかった。彼らは遅かれ早かれ町に入ってくると予想されていた。
このとき、摂政(ベッドフォード公)の心の中では、すでに町は占領されたも同然だった。早々にパリを脱出して、残っていたわずかな兵士と共にヴァンセンヌ城に閉じこもった。[145]
イングランド軍の敗北から3日後、パリは大混乱に陥った。
市民は「アルマニャック派が今夜やって来る」と口々に言った。
その頃、実際のアルマニャック派はジアンに集結し、オセールへ進軍する命令を待っていた。
この知らせ(シャルル七世とアルマニャック派の動向)を聞いて、ベッドフォード公は深い安堵のため息をついたに違いない。そして、すぐにパリの防衛とノルマンディーの安全を確保するために動き出した。[146]
パニックが落ち着くと、大都市パリの人々は忠誠心を取り戻した。
といっても、イングランドへの忠誠心ではなくブルゴーニュ公への忠誠心だ。パリがイングランドに支配されたことはなかった。
ニシンの戦いでフランス軍を殲滅させたパリ総督シモン・モリエは、ヒョウ(イングランドの紋章)への忠誠を貫いた。[147]
一方、市の評議会議員たちは、シャルル王の提案に好意的な姿勢を示していると疑われた。7月12日、パリ市民は、商業と両替取引に熱心なブルゴーニュ人で構成された新たな評議会を選出した。
商人の代表には、財務官のギヨーム・サンガンを任命した。ブルゴーニュ公が彼から7000リーブル・トゥルノワ以上借りており[148]、摂政の宝石を保管していたからだ。[149]
⚠️補足:ギヨーム・サンガンはブルゴーニュ公とイングランド摂政の財産を手に握っている。ようするに、シャルル七世がラ・トレモイユを優遇するのと同じ状況。
パリ市内のこの変化は、武力ではなく平和的な手段で良き町々を取り戻すことを好み、大砲や石弾よりも住民との交渉に頼っていたシャルル王にとって、大きな不利益となった。
3.3 パリの防衛(3)印象操作による嫌悪と恐怖
まさに間一髪のところで、イングランド摂政(ベッドフォード公)はブルゴーニュ公フィリップにパリの権限を引き渡した。つい先日、オルレアンでの仲裁案を拒絶したことを、深く後悔していたことは間違いない。
摂政ベッドフォード公は、王国の主要都市が《《フランス人》》(イングランド摂政ではなく、本来フランス方のブルゴーニュ公)への忠誠を誓うことで、王太子の軍勢に対してより精力的に防衛するだろうと考えた。
パリ市民は、昔の威厳ある公爵(ブルゴーニュ無怖公)への好意を思い出すと同時に、イザボー王妃の勘当された息子(シャルル七世)に対する憎しみも再燃するだろう。
裁判所(Palais de Justice)で、ブルゴーニュ公はアルマニャック派の反逆と条約違反への非難を散りばめた「父の死の物語」を読み上げた。モントロー[150]で流された血を思い出し、天に響くほどの叫びを上げるよう仕向けた。
話を聞いた聴衆は、ブルゴーニュ公とイングランド摂政に忠誠を誓った。
翌日には、正規の聖職者と世俗の聖職者によって同じ宣誓が行われた。[151]
*
しかし、市民たちの抵抗を強めたのは、ブルゴーニュ公への好意よりも、アルマニャック派の残虐行為の記憶だった。
シャルル・ド・ヴァロワが、パリとあらゆる身分の市民、高貴な者も卑しい者も、男女を問わず、街を傭兵に明け渡し、パリの大地そのものをつぶして耕そうとしているという噂が広まり、市民はそれを信じた。
このような噂は、シャルル七世の人物像を非常に不当に印象操作している。
彼はいつも慈悲深く、気さくな人物だった。シャルル七世の評議会は、戴冠式のための軍事行動を、武装した平和的な行進へと賢明に転換したではないか。
しかし、パリ市民は、フランス王の意図に関する事柄になると、冷静に判断することができなかった。パリが一度でも陥落すれば、アルマニャック派が火と剣で街を蹂躙するのを止める方法はないと、彼らは重々承知していた。[152]
**
パリ市民の恐怖と嫌悪をさらに強めた、もう一つの出来事があった。
かつて、市民が熱心に演説に耳を傾けていたあのリシャール修道士が、「王太子の兵士たちと一緒に馬を並べて、その巧みな弁舌でシャンパーニュ地方のトロワといった立派な町々を征服している」と聞いた時、パリ市民は神と聖人の名にかけてリシャールを呪った。
彼らは、善良な修道士(リシャール)からもらった、イエスの聖なる名が刻まれたピューター製(スズ合金)のメダイを帽子から引きちぎり、激しい憎悪から、修道士の勧めで放棄したサイコロやボウル、チェッカー遊びにすぐさま戻った。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)もまた、同様の恐怖を与えた。
彼女は預言者のように振る舞い、「あれやこれが必ず実現する」といった言葉を口にすると言われていた。
「アルマニャック派には、女の姿をした生き物がいる。それが何なのかは神のみぞ知る!」
彼らはそう叫び、ジャンヌを悪名高い女と呼んだ。[153] 敵の中には、異教徒やサラセン人(アラブ人)よりももっと恐ろしい者がいる。すなわち修道士と乙女だ。
パリ市民は皆、聖アンデレ十字(ブルゴーニュ公の騎士団のシンボル)を掲げた。[154]
3.4 パリの防衛(4)包囲戦に備える(百年戦争の金貨サリュドールについてこぼれ話)
シャルル七世がランスの戴冠式に出かけて不在の間、イングランドからの軍隊がフランスに上陸してきた。
イングランド摂政ベッドフォード公は、その軍隊にノルマンディーを制圧させるつもりだった。(ノルマンディーの首府)ルーアンへ進軍する際は、摂政自身が軍を指揮した。
パリの防衛と管理は、イングランド陣営のフランス大法官であるテルアンヌ司教ルイ・ド・リュクサンブール、フランス元帥でパリ司令官のリラダン卿、武装兵2000人とパリの民兵(歩兵)に任された。
民兵たちには、城壁の防衛と砲兵の指揮がゆだねられた。この部隊は、パリ市の24地区を代表する「カルティニエ(quarteniers)」と呼ばれる市民24人によって指揮された。
7月末から、あらゆる奇襲の危険が警戒されていた。[155]
8月10日、聖ラウレンティウスの祝日の前夜、アルマニャック派が(パリの北東にある小村)ラ・フェルテ・ミロンに陣を敷いている間に、4つの塔と二重の跳ね橋に挟まれたサン・マルタン門は閉鎖された。そして、例年に引き続き、祝祭や定期市に参加するためにサン・ローランに行くことを市民全員に禁じた。[156]
同月28日、国王軍がサンドニを占拠した。
これ以降、誰も街から出ようとしなかった。ブドウの手入れも、北側の平野に広がる菜園で何かを収穫することもできなくなった。物価はたちまち高騰した。[157]
9月初旬、カルティニエ(民兵の隊長24人)たちはそれぞれの担当地区で堀を整備し、城壁、門、塔に大砲を設置した。パリ市の評議会に命じられて、大砲用の石を切り出す職人たちは、数千個の砲弾を作った。[158]
*
パリの行政官たちは、アランソン公から次のような手紙を受け取った。
「パリの総督、商人の代表、市の評議会の皆さんへ……」
アランソン公は彼らの名前を挙げ、雄弁な言葉であいさつした。
この手紙は、パリ市民に評議会に対する疑念を抱かせ、ある身分と別の身分とを対立させることを意図した策略とみなされた。アランソン公に送られた唯一の返答は、「このような悪意ある試みで紙を無駄にしないように」と求める内容だった。[159]
ノートルダム大聖堂の参事会は、民衆を救済するためにミサを執り行うよう命じた。
9月5日、参事会員(世俗の司祭)3人に修道院防衛の準備をする権限が与えられた。聖具室の責任者は、大聖堂が所有する宝物と聖遺物をアルマニャック派の兵士から隠す措置を講じた。彼らは聖ドニの遺体をサリュドール金貨200枚[160]で売却したが、銀製の足と頭部、そして王冠は残した。[161]
⚠️サリュドール金貨(Salut d'Or):トロワ条約で王太子(シャルル七世)が廃嫡され、イングランドがフランスを統治していた1422〜1453年に発行。イングランドの支配地域(フランス北部)で流通していた。サリュー(Salut)はフランス語の軽い挨拶で、貨幣には英仏の紋章とヘンリー六世が刻印されており、名称・デザインともに両国の和合を表している。当然ながら、フランス陣営からすれば屈辱的な貨幣だろう。現在は別名「百年戦争の金貨」と呼ばれるレア品。
9月7日の水曜日、聖母マリア降誕記念日の前夜、時代の悪に対抗し、敵の戦意を鎮める目的で、サン・ジュヌヴィエーヴの丘(Sainte-Geneviève-du-Mont)への行列が行われた。宮殿の聖職者たちは、聖十字架を掲げて練り歩いた。[162]
丘には、パリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物を納めた聖堂があり、こことノートルダム大聖堂を往復するのが恒例行事だが、今回は迫りくる包囲戦に備えた臨時行事である。
⚠️聖十字架(True Cross):イエス・キリストの磔刑に使われたとされる十字架。各地の教会でその破片を保存し、聖遺物として信仰の対象になっている。
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