教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十七章 オセールとの休戦協定/修道士リシャール/トロワ降伏
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- オセールとトロワの「無血開城」
- 修道士リシャールの登場と影響
- トロワ市民の「巧みな転向」
17.1 オセールの町(1)緊急事態
6月27日[1368]、ブサック元帥、ジル・ド・レ卿、ラ・イル隊長とザントライユ隊長に率いられた前衛部隊が、ジアンからモンタルジ方面に向かって出発した。
彼らの目的は、サンスに進軍することだった。
サンスは、誤った情報に基づき、王太子に門を開ける可能性が高いと思われていたからだ。
しかし、町がイングランドとブルゴーニュへの忠誠の証として「聖アンドレの旗」を掲げたという知らせを受けると、軍は進路を変えた。力ずくで町を占拠することは、彼らの望むところではなかったからだ。
⚠️聖アンドレの旗:新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。ブルゴーニュ公フィリップ善良公は、聖アンドレを守護聖人とする金羊毛騎士団を設立し、白地に赤十字の「聖アンデレ十字」を騎士団および公国の旗として用いた。
行軍ルートは、より好意的な歓迎が期待できるオセールへと向けられた。[1369]
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は焦りから国王を待たずに、最初に出発した部隊とともに馬に乗った。もし、ジャンヌが軍隊の指導者だったら、町の大砲が自分に向けられたとしても、背を向けて立ち去ることはしなかっただろう。
国王は2日後、血統貴族と多くの騎士で構成されたいわゆる「本隊」と呼ばれる主力部隊、そして遠征軍を指揮するラ・トレモイユ卿とともに出発した。[1370]
7月1日、全軍がオセールの町に到着した。[1371]
ぶどう畑と麦畑に囲まれた丘の中腹に、サンジェルマン司教の祝福された町の城壁、塔、屋根、鐘楼がそびえていた。
夏の日差しの中、勇敢な騎士団の仲間とともに、ジャンヌは美しい聖モーリスのように完全武装して馬を走らせていた。
今しがた向かっているその町は、わずか3カ月前、薄暗く曇りがちな空の下で、馬丁の少年のような格好をしたジャンヌが、貧弱な傭兵2〜3人とともに、王太子シャルルのもとをめざして、悪路を旅しながら眺めていた場所だった。[1372]
⚠️聖モーリス(Saint Maurice):ローマ軍のテバイウス軍団の軍人だったが、キリスト教徒だったために処刑された殉教者。軍人、兵士、剣士、歩兵たちの守護聖人。
*
1424年以来、オセール伯領は摂政ベッドフォード公から譲渡されて、ブルゴーニュ公の所有となっていた。ブルゴーニュ公は、代官(Bailie)と隊長を通じてオセールを統治していた。[1373]
かつてマンド司教だったオセール司教ジャン・ド・コルビーは、王太子の支持者だと考えられていた。[1374] しかし、大聖堂の参事会はブルゴーニュ派だった。[1375]
市民とその他の町民によって選出された陪審員12人が、オセールの行政を担っていた。
国王軍が近づいてくるのを見て、人々の心が恐怖に支配されたことは容易に想像できる。兵士たちが白十字(フランス軍兵士のお仕着せ)を着けていても赤十字(イングランド軍兵士のお仕着せ)を着けていても、市民から見れば恐怖の対象だった。
オセールの住民は、暴力と殺戮を引き起こす連中を、町の門前から追い払うためにもっとも効果的な手段、つまり財布の紐を緩めることを厭わなかった。
国王の使者は、オセールの住民に対して「シャルル王を彼らの自然で正当な君主として迎え入れるように」と呼びかけた。
だが、武力を背景にした呼びかけは、市民を非常に困惑させる立場に置いた。
拒否しても同意しても、善良な人々は大きな危険にさらされる。
忠誠を誓う相手を変えるのは簡単ではなく、彼らの生命と財産がかかっていた。
この緊急事態を見越して、自分たちの弱みを自覚していたオセールの住民は、シャンパーニュ地方の諸都市と同盟を結んでいた。
同盟の目的は(1)兵士を受け入れる負担軽減と、(2)敵対する2人の主君の争いに巻き込まれる危険から守るために、加盟都市が互いに助け合うことだった。
シャルル王の前に、オセールの住民の一部が現れて「トロワ、シャロン、ランスなどの都市が示すのと同じ服従をする」と約束した。[1376]
これは服従でも反抗でもなかった。
交渉が始まり、使節が町から野営地へ、野営地から町へと行き来した。
最終的に、知恵に欠けていなかった同盟者たちは、受け入れ可能な妥協案を提案した。それは、諸侯がいつも相互に締結していたもの、すなわち休戦協定だ。
17.2 オセールの町(2)休戦協定
オセールの町の人々は、国王に言った。
「どうかお通りください。そして、戦いを控えることに同意してくださるようお願い申し上げます」
そして、この要求を聞き入れてもらえるように、彼らは遠征軍を指揮するラ・トレモイユ卿に2000エキュドール(金貨)の賄賂を贈った。伝えられるところによると、ラ・トレモイユ卿はそれを恥じることなく受け取ったという。
さらに、オセールの住民は、代金と引き換えに遠征軍に食料を供給することを約束した。これは検討に値する申し出だった。遠征軍の陣営では、早くも食糧不足が始まっていたからだ。[1377]
しかし、この休戦協定は、兵士たちにとって決して喜ばしいことではなかった。
彼らは、凌辱や略奪で利益を得る絶好の機会を失ったのだ。
ざわめきが起こり、多くの領主や隊長たちが「町を占拠するのは難しくない。試してみるべきだ」と言った。常に「声」から勝利の約束を受け取っていたジャンヌも、兵士たちに武器を取るよう呼びかけるのをやめなかった。[1378]
王はこれらの騒ぎにまったく動じることなく、提案された休戦協定を締結した。
なぜなら、王は、平和的な手段で達成できる以上の利益を、武力で手に入れることを望まなかったからだ。
もし王がオセールを攻撃していたら、町を占拠して、慈悲によって保持できたかもしれない。だが、それは確実に、略奪、殺人、放火、凌辱が発生することを意味していた。王の後を追って、今度はブルゴーニュ兵がやって来て、また略奪、放火、凌辱、虐殺が繰り返されただろう。
町の人たちは、赤い帽子と白い帽子の両方を箱の中に隠し持ち、それを交互にかぶって情勢をやり過ごした。
それにもかかわらず、フランス人、イングランド人、ブルゴーニュ人によって入れ替わり立ち替わり破壊され、占領され、その後まもなく消えてしまった不幸な町が、これまでにどれほどあっただろうか。
これらの虐殺と忌まわしい行為に終わりはないのか?
人々の恨みは、アルマニャック派がイル・ド・フランス全体で呪われる原因となり、正当な王がパリの町を取り戻すことを非常に困難にしていた。
⚠️イル・ド・フランス(Île-de-France):首都パリを中心にした周辺地域のこと。直訳すると「フランスの島」だが、海に面しているわけではない。セーヌ川をはじめ、いくつかの河川に囲まれて島のような地形になっているためこう呼ばれる。
王室評議会は、これらの行為に終止符を打つときが来たと考えていた。
シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)が、力を誇示しつつも寛大な態度を示し、王の慈悲を行使すれば、相続地の奪還はより容易になるだろう。武器を手に取りながらも平和を追求し、ランスへの行軍は続けられた。[1379]
*
オセールの町の城壁の下で3日間過ごした後、回復した軍隊は、ヨンヌ川を渡ってサン・フロランタンの町に到着した。サン・フロランタンの住民は、すぐに国王に服従した。[1380]
7月4日、遠征軍は、トロワの町まで4時間ほどの距離にあるサン・ファルの村に到着した。[1381]
⚠️サン・ファル(Saint-Phal):オセールの西北西30キロ地点にある村。要塞があり、堀に囲まれている。
17.3 トロワの町(1)市民感情
この堅固な町(トロワ)には、多くても500〜600人ほどの守備隊が駐屯していた。[1382]
ジャン・ド・ダントヴィルという代官(Bailie)と、ロシュフォールとプランシーという隊長(Captains)2人が、ヘンリー六世とブルゴーニュ公のために町を統治していた。[1383]
トロワは工業都市で、その富の源泉は毛織物製造だった。
競争と市場の喪失によって、毛織物産業は長い間衰退していた。
その没落は、一般的な貧困と街道の治安悪化によって加速していた。
それでも、毛織物職人ギルド(組合)はまだ勢力を保っており、評議会に多くの行政官(Council)を送り出していた。[1384]
*
1420年、トロワの商人たちは英仏間で結ばれた条約を承認し、王太子シャルルの廃嫡と、イングランドのランカスター王家にフランス王位を約束する条約に誓約した。
当時のトロワは、イングランド人とブルゴーニュ人の言いなりだった。
毛織物を売りさばく大規模な定期市を開催するには、隣人のブルゴーニュ公と円満に暮らす必要があった。それに、もしゴドン(イングランドに対する蔑称)がセーヌ川の河川運輸から特定の荷物を締め出したら、トロワの人々は食い扶持を失って飢え死にしていただろう。
そのため、町の有力者たちはイングランド支持者に転向したが、だからといって彼らがずっとイングランドの味方であり続けるという意味ではない。
ここ数週間で、王国に大きな変化が起こっていた。
町の有力者であるジル・レギゼ家、エヌカン家、ジュヴネル家といった人々は、一方から他方へと権力が移り変わる運命の変遷(栄枯盛衰)の中で、変わらずにいることを誇りには思っていなかった。
フランスの勝利は、彼らにこれまでの方針を考え直すきっかけを与えた。
トロワ市内を流れる小川のほとりには、織物職人、染色職人、革なめし職人などが住んでいたが、彼らこそが真のブルゴーニュ派だった。[1385]
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聖職者たちは、アルマニャック派(シャルル七世を支持する勢力)への愛情に心が動かされることはなかったが、シャルル王が「聖なる神の摂理(divine providence)」の特別な導きによってここまで遣わされたと感じていた。
このころのトロワ司教は、1420年の条約(トロワ条約)に最初に署名したユエ・レギゼの息子ジャン・レギゼだった。[1386]
聖堂参事会は、イングランド摂政(ベッドフォード公)の許可を待たずに、ジャン・レギゼをトロワ司教に叙任した。摂政は新しい司教を嫌っていたわけではなかったが、この叙任に反対を表明した。
⚠️聖堂参事会(Cathedral Chapter):各地の聖堂に属する聖職者たちで構成される合議体的な組織。
もともと、ジャン・レギゼは、母校のパリ大学から影響を受けて、アルマニャック派(シャルル七世を支持する勢力)への憎しみと、ランカスター家(イングランド王家)の薔薇への敬意を抱いていた。
しかし、ベッドフォード公は、自分の権利(聖職叙任権)を軽んじる行為は、いかなる理由であろうと許すことができなかった。
⚠️聖職叙任権:司教や修道院長など高位聖職者にふさわしい人物を選び、任命する権限のこと。中世ヨーロッパでは、聖職者と王侯がこの権利をめぐってよく揉める。
17.4 トロワの町(2)ベッドフォード公の叙任権闘争
⚠️「叙任権闘争」について背景事情を補足:
もともと、地域の領主が地元教会の聖職者を任命していた(聖職叙任権)が、教会財産の保護と聖職売買を防止するため、世俗権力を排除して聖職者たちの話し合いで選ぶようになった。
しかし、ペスト流行や教会大分裂、長い戦争の影響で、聖職者不在の教会が増え、冠婚葬祭ができなくなるなど日常生活に不具合が生じると、世俗の権力者が再び叙任権を発動するようになった。その結果、中世ヨーロッパでは聖職者と王侯貴族が聖職叙任権をめぐり頻繁に争っていた。
その後まもなく、ベッドフォード公はフランス中の教会すべてから非難を浴びた。
司教たちから、「聖書に記されているもっとも残酷な暴君たち、イスラエルを罰した際にレビ人を赦免したファラオ、ネブカドネザル、アルタクセルクセスよりも悪い」と断罪された。[1387]
彼ら(名前の上がった暴君たち)よりも邪悪で冒涜的だったベッドフォード公は、強硬手段に出た。
(1)聖座に代わって司教たちの後援権を奪い、
(2)フランスの聖職者に二重の「十分の一税」を課し、
(3)教会関係者が40年間受け取ってきた献金をすべて彼に引き渡すよう命じた。ガリカニスム(フランス国民教会主義)の特権をおびやかしたのである。
ベッドフォード公はローマ教皇の同意を得てから事に及んだが、それにもかかわらず、フランスの司教たちの目から見て、ベッドフォード公は「荒廃をもたらす忌まわしいもの」だった。
⚠️荒廃をもたらす忌まわしいもの(abomination of desolation):旧約聖書『ダニエル書』第11章31節、預言者ダニエルが最後に見た幻に登場。傲慢な異国の王が「荒廃をもたらす忌まわしいもの」を立てた後、世界は終わるとされる。訳語はさまざまだが、キリスト教の終末論で頻出する。
領主兼司教たちは、フランスの事情にうとい無知な教皇ではなく、もっと広い見識を持つ教皇に訴えることを決めた。彼らは「教皇権は、公会議の権威に比べれば取るに足りない」と考えていた。
⚠️補足:教皇1人の権力よりも公会議(聖職者会議)のほうが権威が高いとする思想。教会大分裂の時代だったので、聖職者たちはローマ教皇をチェンジしたがる。
聖職者たちは、うめき声をあげて嘆願した。
「呪われたもの(ベッドフォード公)は国土を荒廃させるにとどまらず、ガリアにおけるキリスト教をも荒廃させている」
ベッドフォード公は、反乱の声を上げたフランスの教会をなだめるために、パリ、トロワ、オセール、ヌヴェール、モー、シャルトル、オルレアンの司教区を含む、サンスの教区(教会管区、ブルゴーニュの一部)の司教たちをパリに召集した。[1388]
トロワ司教ジャン・レギゼも、この召集に応じてパリの教会会議に出席した。
この会議は、1429年3月1日から4月23日まで、大司教の議長の下、パリのサン・エロワ修道院で開催された。[1389]
出席した司教たちは、それぞれが自分の教区の悲惨な状況をベッドフォード公に訴えた。
兵士に略奪された農民はもはや義務を果たせず(教会への献金も、領主への納税もできない)、教会が所有する土地は荒廃し、公共の礼拝を支える資金がないため祭祀をおこなうこともできない。
彼らは満場一致で、ローマ教皇とイングランド摂政に二重の税金を納めることを拒否し、教皇から公会議に訴えると脅した。
さらに、「聖職者が過去40年間に受け取った献金まですべて奪い取るのは、神を冒涜する不敬虔な行為である」と宣言した。
そして、大きな慈悲をもって、ベッドフォード公に「不敬虔な者には、神の裁きによって定められた運命がある」ことを思い出させた。(歴史上、教会を弾圧した権力者の運命がその後どうなったかを説教した)
「君主は……」
彼らは口々に言った。
「神がご自身の尊い血で贖われた教会を、そのような要求で弾圧した暴君が、のちにこうむった悲惨な運命と悲しみを思い出すべきだ。ある者は剣で殺され、ある者は追放され、またある者は輝かしい権利を奪われた。したがって、神の花嫁である教会を奴隷にしようとする者は、神の神聖な恵み(恩寵)を授かる資格はない」[1390]
トロワ司教ジャン・レギゼの意見も、他の司教たちと同じだった。
とはいえ、トロワ司教が「この罪人(ベッドフォード公)の死を望んでいた」、あるいは「イングランドに敵意を抱いていた」と結論づけるのは間違いだ。[1391]
教会はつねに、世俗の権力(王権)に寄り添い妥協する。
その慈悲は広く、忍耐は大きい。
攻撃(異端宣告や破門など)する前にしばしば脅迫し、罪人が目を覚まして悔い改める兆候を見せたらすぐにそれを受け入れる。教会組織というものは、いつの時代もそうだった。
17.5 トロワの町(3)シャルル七世の情報戦
しかし、トロワ司教と聖堂参事会の聖職者たちが心の中で本当に恐れていた事態は、イングランド摂政ベッドフォード公との叙任権闘争ではなかった。
万が一、シャルル・ド・ヴァロワが王権を獲得して、シャルル七世として即位し、国王としてフランスの教会を保護する意志を表明した場合、(かつてトロワ条約を締結して王太子シャルルを廃嫡した)自分たちの運命がどのように処されるかだろう。
(トロワ条約を根拠に)シャルル王を拒絶するのは、神そのものを拒絶することを意味するのではないか? なぜなら、すべての力は、権力を委譲する神からもたらされるからである。
*
当のシャルル七世は、安全策を講じないままでシャンパーニュ地方に踏み入るような危険は冒さなかった。
シャルル王は、トロワの町で「頼れるものは何か」をよく知っていた。
彼は、トロワ市民の一部——有力者から《《取るに足らない》》下級市民に至るまで——と、ずいぶん前から秘密の通信を維持しており、彼らから情報提供と約束を取り付けていた。[1392]
5月の最初の2週間、ひそかに王のもとへ向かう途中だった王室公証人と書記官(聖職者)10人、そして商人ギルドの幹部が、パリ街道沿いの城壁のすぐ外で、イングランド軍を率いるシャトーヴィラン隊長によって逮捕された。[1393]
しかし、王に謁見する使命は、幸運にめぐまれた別の人々によって果たされた。
この秘密の謁見で、どのような問題が話し合われたかは容易に推測できる。
商人たちは、シャルル王が彼らの領主として君臨した場合、商取引の絶対的な自由を保証するかどうかを尋ねただろう。書記官(聖職者)たちは、教会の財産を尊重する約束を求めただろう。
そしてシャルル七世は、トロワ住民の要求を受け入れて、約束を守ることを惜しまなかった。
⚠️「5月の最初の2週間、ひそかに王のもとへ向かう」について補足:
オルレアン包囲戦は5月8日に終結。つまり、トロワ市民は早くも終戦直後からシャルル七世に接触しようと行動し、使者たちがイングランド軍に捕らわれてもなお、危険な賭けを試みていたことがわかる。
なお、ベッドフォード公が招集したパリの宗教会議の日程は3月1日から4月23日まで。包囲戦のさなかに2カ月近く開催されており、トロワ司教は自分の叙任にかかわる案件なので当然ながら出席している。
当時の伝達速度を考えると、トロワ市民の驚異的な速さの「てのひら返し」にある種の感動すら覚える。
また、ジャンヌと軍隊の動きは派手でわかりやすいが、このころのシャルル七世は水面下での動きが非常にめまぐるしい。王は軽薄で遊んでばかり…というイメージに反し、見せかけの姿と、本当の姿に大きなギャップがある。そこがいい。
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