教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第六章 シノンのラ・ピュセル/予言
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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【この章のポイント】
- シノン城でシャルル七世と謁見
- 古い予言がジャンヌの生い立ちに合わせて改竄・捏造される
- アランソン公など若い貴族を魅了
6.1 シャルル七世の悲惨な生い立ち
聖カトリーヌ・ド・フィエルボワの村から、ジャンヌは口述して書いてもらった手紙を国王(シャルル七世)に送った。彼女は文字の読み書きを知らなかったからだ。
この手紙でジャンヌは、国王に謁見する許可を求め、国王を助けるために150リーグ以上も旅をしてきたこと、国王のためになる話をたくさん知っていることを伝えた。さらに、「もし国王が他の多くの人々の中に隠れていたとしても、自分は見分けられるだろう」と付け加えたと言われている。[572]
しかし、後日、この件について尋問されたとき、ジャンヌは「そのような記憶はない」と答えた。
正午ごろに手紙が封印されると、ジャンヌと護衛たち一行はシノンに向けて出発した。[573]
当時、アジャンクールやヴェルヌイユの戦いで死んだ騎士の息子たちは、困窮する未亡人の手で育てられ、15歳ほどになると草原で足の不自由な馬をつかまえて廃墟から国王のもとへ向かった。忠誠、欲望、飢餓、理由はさまざまだが、自分自身とフランスの運命を立て直すために。[574]
彼らと同じように、ジャンヌも王太子のもとへと向かった。
シャルル七世はフランスであり、フランスの象徴であった。
しかし、彼は狂気の王シャルル六世と多産な王妃イザボー・ド・バヴィエールの間に生まれた悲惨な子供たちの11番目で、不幸な人間のひとりにすぎなかった。[575]
彼は災難の中で成長し、4人の兄たちに先立たれて唯一生き残った。
しかし、発育の悪い体つきをしていて、膝が曲がり、脚は細くて内股だった。[576]
見た目だけを考慮すれば、正真正銘「王子らしい」顔立ちでありながら、王統の血脈を疑われていた。[577]
ある賢者がいうように、「そこに居合わせるくらいなら死んだ方がましだったあの日、モントローの橋の上で起きた事件」以来、彼は青ざめて震え、周囲であらゆるものが破壊され、破滅していくのを呆然と見つめていた。[578]
⚠️モントローの橋の上で起きた事件:王弟殺しのブルゴーニュ無怖公を、王太子の家臣が殺害した事件のこと。当時のシャルル七世は王太子になって2年目、16歳だった。
イングランド軍は、ヴェルヌイユでの勝利とメーヌを一部征服した後、4年間の猶予を与えた。
しかし、シャルル七世の友人も、彼を擁護する者も、彼を救う者も、みな同様に恐ろしい存在だった。
シャルル七世は敬虔で控えめな性格で、質素な妻に満足しながら、ロワール川沿いの城で悲しみと不安に満ちた生活を送っていた。
彼は臆病だったが、そうなったのも当然だった。なぜなら、彼が貴族の一人に友情を示したり信頼を寄せた途端、その貴族は殺されたからだ。
リッシュモン大元帥とラ・トレモイユ卿は、模擬裁判の後にジアック卿を溺死刑に処した。[579]
ブサック元帥は、リッシュモン大元帥の命令で、さらに簡略化した無礼なやり方でカミュ・ド・ボーリューを殺害した。ボーリューは、クラン川の岸辺の草地でロバに乗っていたときに襲撃を受けて倒れ、頭を割られ、片手を切り落とされた。寵臣のロバだけが国王のもとへ連れ戻された。[580]
リッシュモン大元帥は、彼に代わる新たな寵臣としてラ・トレモイユをシャルルに与えた。樽のように太った巨漢で、国中を食い荒らす伝説の巨人ガルガンチュアのようだった。
ラ・トレモイユがリッシュモンを追い払った後、非常に恐ろしい大元帥が戻ってくるまで、国王はラ・トレモイユをそばにとどめた。
実際、このように従順で臆病な王子が、あのブルターニュ人(リッシュモン)を恐れるのには理由があった。常に敗北し、常に激怒し、苦々しく、猛烈で、不器用さと暴力的な行為のために、無礼で厚かましいイメージを作り上げていた。[581]
1428年、リッシュモンは国王に対する影響力を取り戻そうとした。
クレルモン伯爵とパルディアック伯爵は、リッシュモンを支援するために団結した。国王の義母であるヨランド・ダラゴン(シチリアとエルサレムの実権なき女王で、アンジュー公爵夫人)は、不満を抱く貴族たちの味方になった。[582]
クレルモン伯爵は、フランスの宰相、王室の筆頭大臣を捕らえて身柄を拘束したが、国王は身代金を払って解放させた。[583]
イングランド軍がロワール川に向かって進軍している間、ポワトゥーではリッシュモン大元帥が国王の家臣たちと戦い、王家に忠誠を誓っていた地域では無所属の傭兵たちが国王の金で浪費に明け暮れていた。
こうした悲惨な状況下で、小柄で小心なシャルル王はますます小さく痩せ細り、人間不信をこじらせて臆病になり、哀れな姿をさらしていた。
しかし、彼は他の王に劣らず優秀であり、おそらく当時は彼こそが時代に求められていた王だった。もし、ヴァロワ王朝の初代フィリップや二代目のジャン二世なら、剣を交えて領地を奪い合うことを楽しんだだろう。
哀れなシャルル王は、武勇伝を誇示したり、軍勢を駆って大衆を蹴散らし、戦いの最前線に躍り出るような手段も願望も持ち合わせてなかった。
シャルル七世には美徳がひとつあった。彼は武勇を好まず、勇敢な偉業を誇るために戦争をしたり、侠気あふれる騎士にはなり得なかったことだ。
彼の祖父シャルル五世も騎士道精神に欠けていたが、イングランドに大きなダメージを与えていた。孫は祖父のような知恵を持っていなかったが、祖父譲りの小賢しい知性を失っていなかった。槍の切っ先を交えるよりも、政治的な交わりで条約に署名する方が多くの利益を得られると信じる傾向があった。[584]
6.2 シャルル七世の貧困と金策
シャルル七世の貧困について、ばかげた話が流行っていた。
聞くところによると、王は靴を新調する金銭さえなく、靴職人は新しい靴を足から引き抜いて古い靴を残して帰ってしまったという。[585]
またある日、ラ・イルとザントライユが王に面会を求めると、王妃と食事中で、鶏2羽と羊のしっぽが唯一のご馳走だったという話がある。[586]
しかし、これらは単なる微笑ましい話に過ぎない。
王は依然として広大で豊かな領土を所有していた。
オーヴェルニュ、リヨン、ドーフィネ、トゥーレーヌ、アンジュー、そしてギュイエンヌとガスコーニュを除くロワール川以南のすべての地域である。[587]
国王の主な財源は、三部会を召集することだった。
⚠️三部会(États généraux):フランスの身分制議会のこと。第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。3つの身分の代表者が集まり、重要議題を議論する。
貴族たちは「税金を差し出すのはプライドに関わる」と主張して何ひとつ出さなかった。聖職者たちは貧しいながらもいくらか献上したが、常に財政負担の大部分を担っていたのは、第三身分だった。
戦時下の臨時税「タイユ」が、毎年課せられるようになった。[588]
国王は毎年、時には年2回、三部会を召集したが、困難がつきものだった。[589]
街道はとても危険で、国中いたるところで旅人が襲われたり殺されたりした。
税金を徴収するために町から町へと旅する役人たちは、武装した護衛が付き添った。[590]
1427年、ランジェに駐留していたサバトという名の自由兵は、トゥレーヌとアンジューを恐怖に陥れていたため、町の代表者たちは三部会を欠席した。
自分たちが納めた税金が王国のために使われると信じていれば、状況は違ったかもしれない。しかし人々は、国王がまずは貴族への借金返済に充てることを知っていた。
代表者たちは、略奪を鎮圧する対策について話し合うために三部会に呼ばれた。[591]
しかし、いざ命の危険を冒して集まったとしても、彼らは黙ってタイユに同意することを強いられる。国王に仕える役人たちは、口を開けば「川に投げ込んで溺死刑にする」と脅した。
1425年にメアン=シュル=イェーヴルで開催された三部会で、善良な町の人々は「喜んで国王を助けたいが、まずは略奪を終わらせてほしい」と望み、ポワティエの司教ユーグ・ド・コンベレルも同様のことを述べた。
司教の意見を聞くと、ジアック卿は国王に「もし私の助言を聞いていただけるなら、コンベレル司教は同調する仲間とともに川に投げ込むべきでしょう」と進言した。結果的に、26万リーブルを可決した。[592]
また、1427年9月、シノンで開かれた三部会では、戦費として50万リーブルを承認した。[593]
1428年1月8日、国王は「6カ月後の7月18日にトゥールで全国三部会を招集する」と王令を発布した。[594] しかし、当日は誰も出席しなかった。
7月22日、国王から新たな召集状が出され、9月10日にあらためてトゥールで開くよう命じられたが[595]、その三部会は10月に入ってようやくシノンで開催される有様だった。すでにその頃、ソールズベリー伯爵がオルレアンをめざしてロワール川沿いを進軍していた。
そのため、三部会は50万リーブルを承認した。[596]
だが、善良な人々がこれ以上税金を納めることができなくなる日は遠くない。
戦争と略奪の時代には、多くの畑が休耕地となり、多くの店が閉鎖され、町から町へと駄馬に乗ってのんびり行商する商人もほとんどいなかった。[597]
このような時勢だったので、税金の徴収はうまくいかず、王は実際に資金不足に苦しんでいた。
貧困という恥から抜け出すために、国王はその場しのぎの金策を3つ講じた。
第一に、あらゆる人から借金した。義母ヨランド・ダラゴン[598]、寵臣ラ・トレモイユ[599]、宰相[600]、肉屋[601]、新鮮な魚を提供してくれるブールジュ司教座の参事会[602]、料理人[603]、従僕[604]——、そのため税収のほとんどを債権者に渡さざるを得なかった。[605]
第二に、シャルル七世は王領を手放した。彼が所有している町や土地は、他人のものになっていた。[606]
第三に、彼は偽の貨幣を鋳造した。とはいえ、それは悪意からではなく、必要に迫られてのことであり、貨幣の質を下げる対策はごく普通におこなわれていた。[607]
何にしても、慢性的な赤字を根本的に解決する方法は何もなかった。
6.3 シャルル七世の家臣団と金貸し
ラ・トレモイユが持っていた称号はコンセイユ・シャンベラン(Conseiller-Chambellan、侍従顧問官)のみだったが、彼は王国の偉大な金貸しだった。
債務者は、国王をはじめ高位の貴族から下級貴族まで大勢いた。[608]
そのため、強力な力を持つようになった。
困難な時代背景を利用して、彼は私腹を肥やす目的で国王に仕えていたが、そのような下心を差し引いても価値のある人物だった。
1428年1月から8月にかけて、ラ・トレモイユは2万7000リーヴルもの大金を融資し、その担保として土地と城を受け取った。[609]
幸いなことに、王室の評議会には、優れた実業家(ビジネスマン)である法学者や聖職者が何人もいた。
その中の一人、アンジュー出身で平民生まれのトレヴ領主ロベール・ル・マソンは、摂政時代から評議会に加わっていた。シャルル七世によく仕えていた下級身分の中で最初の人物であり、「よく尽くされた王(Le Bien Servi)」と呼ばれるきっかけとなった。[610]
もうひとりのゴークール卿は、戦争関連で国王をよく助けた。[611]
さらにもうひとり、可能な限りよく知っておくべき人物がいる。
なぜなら、彼はこの物語の中で重要な役割を果たすからである。
もし、彼が果たした役割のすべてを完全に明らかにすることができれば、さらに大きな意味を持つだろう。
その人物とは、すでに財務大臣に昇進した件で触れたルニョー・ド・シャルトルである。[612]
彼は、ノルマンディーの森と水の所有者(森林水利長官)エクトル・ド・シャルトルの息子だった。ルニョーは聖職者になり、ボーヴェの助祭長を務めた後、教皇ヨハネス23世の侍従となり、1414年に34歳でランス大司教に昇格した。[613]
その翌年(1415年)、彼の兄弟3人がアジャンクールの血みどろの戦いで戦死した。
1418年には父エクトルがパリで屠殺者に殺された。[614]
ルニョー自身もカボシャン派によって投獄され、死刑に処されることを覚悟していた。
⚠️カボシャン(Cabochiens):ブルゴーニュ無怖公が、王弟殺害に反発する政敵アルマニャック派を排除するため、食肉業者組合カボシャンと結託してパリで暴動を扇動した。カボシュの乱またはカボシャン蜂起と呼ばれる。
ルニョーは獄中で、「もし逃げることができたら、残りの人生で死ぬまで毎週水曜日に断食し、毎週金曜日と土曜日の朝食を水だけを飲む」と誓った。[615]
恐怖に駆られたときの振る舞いで、その人を判断してはならない。
聖職者でありながら、このような(命を惜しむ)誓いを立てた彼を、無神論者のエピクロス派と同列に並べて非難することはためらわれる。彼の知性は、当時の一般的な信仰に従っていただけだと結論づけることができる。
アルマニャック派の悲劇的な忠誠心を受け継いだルニョーは、王太子(シャルル七世)に推薦され、王太子はラングドック、スコットランド、ブルターニュ、ブルゴーニュなど各地への重要な任務を託した。[616]
ランスの大司教(ルニョー)は、非凡な能力と不屈の熱意でその任務を遂行した。
12月、彼は、王太子への献身と自分の健康状態を理由に「かつて獄中で立てた誓いの履行を免除してほしい」と教皇に懇願した。[617] 王太子にはルニョーが必要で、任務のためにしょっちゅう過酷な長旅をしていたからだ。
1425年、学識ある弁護士だがおそらく悪党だったであろうルーヴェ総督[618]によって王と王国が統治されていたとき、ルニョー卿はクレルモン司教マルタン・グージュ・ド・シャルペーン(シャルペーニュ?)卿の後任としてフランス大法官(宰相)に任命された。[619]
しかし、その後すぐ、フランス大元帥のアルテュール・ド・ブルターニュ(リッシュモン)がルーヴェを解任・失脚させたため、ルニョーはマルタン・グージュに年金2500リーブル・トゥルノワでその地位を売却した。[620]
神に仕える敬虔な神父であるランス大司教(ルニョー)は、ラ・トレモイユほど金持ちではなかったが、持っているものを最大限に活用した。ようするに、ラ・トレモイユと同様に、ルニョーも国王に金を貸した。[621]
しかし、当時、国王に金を貸さなかった者はいただろうか?
シャルル七世は1万6000リーヴル・トゥルノワの負債と引き換えに、ルニョーにヴィエルゾンの町と城を与えた。
ラ・トレモイユが大元帥を、ルーヴェと同じように失脚させると、ルニョー・ド・シャルトルは宰相に返り咲き、1428年11月8日に就任した。
この頃までに、国王の評議会はオルレアンに兵士と大砲を派遣していた。
ランス大司教は宰相に任命されるとすぐ、町を救援するために身を投じ、労を惜しまなかった。[623]
ルニョーは聖職者でありながら、世俗の財産に執着する守銭奴とみなされることがある。[624]
だが、フランス王家の大義に献身していたことは間違いない。また、ヒョウと赤十字の旗下(イングランド王家の紋章)で戦う者たちを憎んでいたのも事実である。[625]
6.4 ジャンヌ、シノンに到着
11日間の旅を経て、ジャンヌは3月6日にシノンに到着した。[626]
ちょうど、四旬節(レント)の第4日曜日だった。ドンレミの少年少女たちがまだ新緑が芽吹く前の灰色の野原に出かけて、母親がこねたロールパンとナッツとゆで卵を一緒に食べる日だ。彼らはその行事を「泉の祭り(well-dressings)」と呼んでいた。
⚠️ジャンヌの故郷の風習については、上巻・第一章「1.5 村の風習:消えた花輪、マンドレイク、乗馬の経験」参照。
しかしジャンヌは、別れを告げずに去った故郷やこの行事の記憶を思い出すことはなかった。[627]
貧しいキリスト教徒が「聖なる40日間の苦行」を取り入れた、ほとんど異教的な田舎の祭りを無視して、教会はこの日(四旬節の第4日曜日)を「レタレ(喜び)の主日」と名付けた。これは、その日のミサの始まりを告げる入祭唱の出だしが「レタレ・エルサレム(Lætare, Jerusalem)」から始まることに由来する。
その日曜日、司祭は祭壇の高みから低音でミサを唱え、聖歌隊は聖句の中から『レタレ・エルサレム』を歌う。
レタレ、エルサレム(エルサレムよ、喜べ)
汝ら民よ……
エルサレムを愛するすべての者よ、
エルサレムとともに喜べ。
エルサレムのために嘆くすべての者よ、
エルサレムとともに喜べ。
エルサレムの慰めの乳房を吸い、
エルサレムによって満たされよ……[628]
その日、聖書に通じた司祭、修道士、聖職者たちは、教会で集まった人々とともに『レタレ・エルサレム』を歌いながら、王国を救うために立ち上がると預言された乙女が、謙虚な姿で町にやってくるのを心に思い浮かべただろう。
聖書の一節にある「聖なる国」を「フランス王国」の現状に当てはめ、この「典礼文(レタレ、エルサレム)」と「乙女の喜ばしい到来」を重ね合わせて、希望を見出そうとする者は少なくなかっただろう。
レタレ、エルサレム(エルサレムよ、喜べ)
汝ら民よ!
フランスを愛するすべての者よ、
真の王と正統な君主を信じて、ともに喜べ。
ともに集い、敵に対し、すべての力を結集せよ。
長い悲しみが明けることを、ともに喜べ。
主は、汝らに救いと慰めを与えてくださる。
聖ジュリアンのとりなしと、おそらく国王の使者コレット・ド・ヴィエンヌの助けによって、ジャンヌは城の近くの町で、評判の良い女性が経営する宿屋を見つけた。[629]
宿は空っぽで誰もいなかった。客たちは、暖炉の隅に深く座り、聖ローランよりもひどい苦しみを受けている「聖なるニシン」の炙り焼きを見守っていた。[630]
当時のキリスト教徒は、聖なる四旬節の断食と禁欲(節制)に関する教会の戒律を無視する者はいなかった。砂漠で40日間断食した主イエス・キリストの例に倣い、信者たちは四旬節の日曜日から復活祭の日曜日まで、六主日(日曜日)を除く40日間、この戒律を守った。日曜日には断食が破られたが、節制は守られた。
⚠️四旬節(Lent):四旬とは40日間のことだが、主日(日曜日)は数えないため合計46日間におよぶ。期間中、食事は1日1回のみ。魚を除く肉・卵・乳製品を食べてはいけない。ジャンヌが到着した時、宿でニシンを焼いているのはそのため。
断食して魂を慰めながら、ジャンヌは自分の「声」のささやきに耳を傾けた。[631]
宿屋で過ごした二日間は、ひざまずいて祈りながらのんびりと過ごした。[632]
ヴィエンヌ川の岸辺や広い草原は、まだ黒っぽい冬の衣をまとったままで、丘の斜面には薄い霧が立ちこめていたが、ジャンヌの気を引くことはできなかった。
しかし、教会に行く途中で急な道を登っているとき、あるいは宿屋の庭で馬の手入れをしているときに、ジャンヌが北に目を向けると、すぐ近くの山の上——ちょうど50〜60年前から使われるようになった火砲で石の砲弾を打ち上げたときの飛距離——に、王国でもっとも立派な城の塔が見えた。
その誇り高い城壁の向こうには、ジャンヌが奇跡的な愛に駆られて旅をしてきた理由、国王シャルル七世が確かに息づいていた。
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