教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第七章 ソワソンとコンピエーニュ/ラ・ピュセルの捕縛
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- ソワソン守備隊長の裏切り
- ブルゴーニュ公が最新兵器を投入
- ジャンヌは退却中に遅れを取り捕虜となる
7.1 コンピエーニュまでの行軍と巡礼の旅
ラニーから旅立った乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、自身の部隊と、途中で合流したフランス貴族の兵士たちを合わせて、およそ1000騎の騎兵を率いてサンリスの前に現れた。
ジャンヌはこの軍隊の威勢を借りて、町へ入れるよう要求した。
市民からすれば、武装した兵士を市内に受け入れることほど恐ろしい災難はない。したがって、市民たちはどんな時も「城壁の外に兵士を留め置く」特権を厳重に守っていた。
シャルル王でさえ、平和的な戴冠式へ向かう行軍中にこれを経験している。
サンリスの人々はジャンヌの要求に対し、こう答えた。
「町が備蓄している家畜飼料、穀物、オーツ麦、その他の食料、ワインが不足する事態を考慮し、彼女の部隊の中でも最も名高い30~40人ほどの入城は許可するが、それ以上は認められない」[378]
⚠️サンリス (Senlis):パリの北40マイル(64.3キロ)に位置する都市。シャンティイーの森と南のエルムノンヴィルの森との間にある。
言い伝えによると、ジャンヌはサンリスのあと、(次の目的地)コンピエーニュとレソンの間にあるエランクール教区のボラングリーズ城へ向かったらしい。
なぜそこに立ち寄ったのかは不明だが、聖マルガリータに捧げられたエランクールの教会へ巡礼したのではないかと考えられている。
かつて、聖カタリナに捧げられたフィエルボワの教会に立ち寄って礼拝したように、そこで聖マルガリータに礼拝したいと思ったのかもしれない。毎日毎時間、ジャンヌのもとを訪れていた天上の貴婦人の一人に敬意を示すためだ。[379]
*
当時、アンジェの町には、法学の免許を持ち、トゥールとアンジェの教会の聖職者(参事会員)で、アンジェのサンジャン教会の首席司祭を務める人物がいた。
ジャンヌが、エランクール教区のサンマルグリット(聖マルガリータ)教会を訪れる10日ほど前の4月18日、午後9時頃、彼はひどい頭痛を感じた。それは午前4時まで続き、死ぬのではないかと思うほど激しい痛みだった。
彼は聖カタリナに祈りを捧げて特別な信心を誓うと、すぐに治った。
この大きな恵みに感謝を示すために、彼はフィエルボワにある聖カタリナの聖域まで徒歩で向かい、5月5日金曜日、そこで国王と「神にふさわしい乙女」のために、そして王国の平和と繁栄のために大きな声で祈り、ミサを捧げた。[380]
7.2 ブルゴーニュ公の軍備(火薬地雷について補足)
シャルル王の評議会は、コンピエーニュをブルゴーニュ公に引き渡す代わりに、ポン=サント=マクサンスを譲渡した。
コンピエーニュは、当の町自身が引き渡しを断固として拒否し、王の意向に反して国王の所領であり続けることを望んだため、ブルゴーニュ公の望みを叶える(譲渡する)ことができなかったからだ。
ブルゴーニュ公は譲渡されたポン=サント=マクサンスを保持した上で、コンピエーニュを奪い取ることを決めた。[381]
4月17日、休戦協定の期限が切れると、彼は立派な騎士団と強力な軍隊を率いて出陣した。ブルゴーニュ人とピカール人とフランドル人が4000人、イングランド人1500人で構成され、リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールが指揮を執った。[382]
ブルゴーニュ公はこの包囲戦(コンピエーニュ)に立派な大砲を持ち込んだ。中でも、ルメスウェル砲、ルージュ・ボンバルド砲、ウッパンビエール砲は巨大な石弾を発射することができた。
公爵が、ジャン・ド・リュクサンブールに現金を払って購入した臼砲も同様に持ち込まれた。ボールヴォワール砲、ブルゴーニュ砲、巨大なクヤール(coullard)砲、いずれも可動式戦争兵器(戦争機械)だった。
広大なブルゴーニュ領に含まれる諸侯は、弓兵とクロスボウ兵をコンピエーニュに派遣した。
ブルゴーニュ公はプロイセンとジョージアのカッファ[383]から弓を調達し、有刺矢と無刺矢を用意した。工兵と鉱夫を雇い、町の周囲に火薬地雷を敷設し、ギリシャ火薬を投げ込んだ。
⚠️訳者の覚書:英訳版の原文「He engaged sappers and miners to lay powder mines round the town」を見て、15世紀前半に地雷?と驚いて調べたら……あった。
🔸火薬なしの地雷:敵の進軍を遅らせるために、4本の鋭い釘が付いた小さな仕掛け「カラスの足跡(pieds de corbeau)」を地面に撒いた/埋めた。ようするに「マキビシ」である。
🔸火薬地雷:14世紀、中国・明で「容器の中に黒色火薬を詰めた兵器」を製造。ヨーロッパで実物(非常に高性能)が確認されているのは16世紀に入ってからだが、15世紀後半〜16世紀初頭にレオナルド・ダ・ヴィンチが「地雷に点火する導火線の構造」をスケッチしている。
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1430年当時、裕福なブルゴーニュ公が、東方から輸入した新兵器(原始的な火薬地雷)を所有・使用していてもおかしくない。
ようするに、国王(シャルル七世)よりも裕福で、キリスト教世界で最も壮麗な領主であり、騎士道のあらゆる技術に精通していたブルゴーニュ公フィリップは、コンピエーニュを舞台に、勇ましい包囲戦をやる決意を固めていた。[384]

7.3 コンピエーニュの守備隊とジャンヌ到着
当時、フランスで最も大きく最も強固な町の一つだったコンピエーニュは、ギヨーム・ド・フラヴィー隊長が率いる兵士400〜500人で構成された守備隊に守られていた。[385]
この地方の名門貴族の出身で、近隣の貴族たちとは常に争い、貧しい民衆とも常に口論していた彼は、アルマニャック派の貴族たちに劣らず邪悪で残酷な男だった。[386]
市民は、他の人物を隊長に据えることを望まず、シャルル王とその侍従たちの意向に逆らって、ギヨーム・ド・フラヴィーを守備隊のトップにとどめた。
実際、市民の判断は正しかった。ギヨーム卿ほど町を守る能力に長けた者はおらず、自分の義務を果たすことに熱意を傾ける者もいなかったからだ。
フランス王が、町を(ブルゴーニュ公に)引き渡すよう命じた時、彼はきっぱりと拒否した。
その後、ブルゴーニュ公がコンピエーニュと引き換えに多額の金銭と豊かな遺産を約束したとき、彼は「町は自分のものではなく、国王のものである」と答えた。[387]
そこで、ブルゴーニュ公はグルネー=シュル=アロンドを容易に占領し、さらに、エーヌ川とオワーズ川の合流地点にあるショワジー=シュル=エーヌ(ショワジー=オ=バックとも呼ばれる)を包囲した。[388]
ガスコーニュ出身の従騎士ポトン・ド・ザントライユが率いる部隊は、ソワソンとショワジーの間でエーヌ川を渡り、包囲軍に奇襲を仕掛けてすぐに撤退し、多くの捕虜を連れて帰ってきた。[389]
*
5月13日、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はコンピエーニュに到着し、エトワール通りの宿に泊まった。[390]
翌日、代表司政官(Procureurs)たち[391]は、ジャンヌにポット4杯分のワインを贈った。[392]
⚠️代表司政官(Procureurs):コンピエーニュ独自の呼称。町の行政を司る市参事会員(échevins)のこと。
町の人たちはこのようにして、ジャンヌに大きな敬意を示そうとした。
なぜなら、当時、国王の副官であるヴァンドーム伯とその他多くの軍司令官と共に、王国宰相であるランス大司教(ルニョー・ド・シャルトル)もコンピエーニュに滞在していたが、市民はそれ(ジャンヌへの敬意)以上のことはしなかった。
これらの高貴な貴族たちは、もはや長くは持ちこたえられないだろうショワジー城に大砲やその他の軍需品を送ることを決め[393]、そして今回もまた、これまでと同じように乙女(ジャンヌ)が起用された。
7.4 ソワソンの守備隊長ギシャール・ブルネルの裏切り
フランス軍は、エーヌ川を渡るためにソワソンに向けて進軍した。[394]
ソワソンの町の隊長はピカルディ出身の従騎士で、フランス陣営からはギシャール・ブルネル、ブルゴーニュ陣営からはギシャール・ド・ティエンブロンヌと呼ばれていた。彼はどちらの陣営にも従軍した経験があった。
ジャンヌは彼をよく知っていた。つらい出来事を思い出させた。
彼は、パリ郊外の堀の前でジャンヌが負傷しているのを見つけ、彼女の意志に反して馬に乗せようとした者の一人だった。
シャルル王に仕える貴族と兵士たちが近づいてくると、ギシャール隊長はソワソンの人々に「全軍が町を陣取るために来る」と信じ込ませた。
そのため、町の人々はフランス軍を迎え入れないと決めた。
そして、少し前にサンリスで起きた出来事と同じことが起こった。
ギシャール・ブルネル隊長は、ランス大司教とヴァンドーム伯とジャンヌを少数の部隊と共に迎え入れ、残りの軍勢はその夜、城壁の外で宿営した。[395]
翌日、橋の制圧に失敗し、彼らは徒歩で川を渡ろうとしたが、春で水かさが増していたため失敗に終わった。軍は引き返さざるを得なかった。
軍隊が去ると、ギシャール・ブルネル隊長はフランス王から守備を命じられていた都市をブルゴーニュ公にサリュドール金貨4000枚で売却し、ジャン・ド・リュクサンブール卿の手に引き渡した。[396]
⚠️サリュドール金貨(Salut d'Or):トロワ条約で王太子(シャルル七世)が廃嫡され、イングランドがフランスを統治していた1422〜1453年に発行。イングランドの支配地域(フランス北部)で流通していた。サリュー(Salut)はフランス語の軽い挨拶で、貨幣には英仏の紋章とヘンリー六世が刻印されており、名称・デザインともに両国の和合を表している。当然ながら、フランス陣営からすれば屈辱的な貨幣だろう。現在は別名「百年戦争の金貨」と呼ばれるレア品。
ソワソンの町の隊長による、この裏切りと不名誉な行為の知らせを聞いて、ジャンヌは「もし彼を捕らえたら、その体を四つ裂きにしてやる!」と叫んだ。
この言葉は、彼女の怒りを表現するただの過激な想像ではない。
当時、特定の罪に対する罰として、処刑人は死刑囚を斬首した後、その死体を四つに引き裂くのが慣例で、これを「四つ裂き刑」と呼んでいた。
つまり、ジャンヌは「裏切り者は四つ裂き刑に値する」と言ったも同然だった。
この言葉は、ブルゴーニュ人の耳にはかなり辛辣に聞こえたようで、中には「ジャンヌが怒り狂って神の名をみだりに唱えているのを聞いた」と信じる者もいた。
彼らは、正確な話を聞いていなかった。
ジャンヌは神や聖人の名をみだりに唱えたことは一度もなかった。
怒ったときは、悪態をつく(みだりに誓いを立てる)どころか、「神のご意志のままに!」とか、「聖ヨハネにかけて!」あるいは「聖母マリアにかけて!」と叫ぶのが常だった。[397]
*
ソワソンの手前で、ジャンヌと将軍たちは部隊を分離して別れた。
将軍たちは兵士たちと共に、サンリスとマルヌ川の流域へと向かった。もはや、エーヌ川とオワーズ川の間にある地域は、これほど多くの兵士や要人を養うだけの余裕がなかったからだ。
ジャンヌとその一行はコンピエーニュへと引き返した。[398]
彼女は町に到着するとすぐに、近隣地域で略奪するために出撃した。
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