教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十六章 続・ラ・ピュセルの死後/バーゼル公会議のルーアン判事と国事詔書/復権裁判/セルメーズのラ・ピュセル/ル・マンのラ・ピュセル
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- ジャンヌの復権と関係者たちの変節
- フランス王国の再征服と平和の到来
- 偽ジャンヌたちの末路
16.1 ジャンヌを裁いた者たちの邂逅(1)バーゼル公会議
新約聖書『ヨハネの黙示録』に登場するドラゴンの長大なしっぽのように、バーゼル公会議の開催期間は毎年毎年、延々と審議を長引かせた。
教会とその構成員と指導者を一挙に改革するというそのやり方は、ローマ教皇と枢機卿団の心に恐怖を植え付けた。
アエネアス・シルウィウス(のちの教皇ピウス二世)は悲痛な叫びをあげた。
「バーゼルに集まっているのは、
神の教会ではなく、サタンの会堂だ」[1086]
⚠️アエネウス・シルウィウス(Æneus Sylvius):ローマ神話に登場する伝説上の王。15世紀にいるはずがないので引用元を当たったところ、ガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史』第三巻。たまたま、同著を個人的に翻訳していた(未公開)ので確認したら、のちの教皇ピウス二世ことアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニと判明。
⚠️アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ(Aeneas Silvius Piccolomini):神聖ローマ帝国の使節としてバーゼル公会議に参加し、教皇派と公会議派の対立を収束するために尽力。のちに教皇ピウス二世となり、晩年の回想録でジャンヌ火刑を知ったときのシャルル七世の反応をつづっている。
しかし、ローマ枢機卿ひとりの発言とはいえ、この表現は乱暴とは言いがたい。バーゼル公会議では(1)司教職の自由選挙を確立し、(2)パリウム(祭服)の授与権や初穂税、教皇庁への奉納金を取り立てる権利を廃止し、(3)教皇職を福音主義的な清貧さへと回帰させよう(ようするに教皇とその取り巻きの弱体化)と努めていたのだから。
⚠️パリウム(pallium):教皇や大司教が身につける肩掛けの祭服。
⚠️初穂税(annates):聖職禄を得た聖職者が、最初の1年分の収入を教皇や上位聖職者に納める年貢のこと。初年度収入税とも。
バーゼル公会議が、ローマ司教たちの野心と強欲さを抑制しようと試みた際、フランス王と神聖ローマ皇帝はその成り行きを好意的に見守っていた。
*
今、教会改革に最も熱意を示した神父たちの中には、パリ大学の教授や博士たち、ジャンヌ・ラ・ピュセルの裁判に列席していた者たち、とりわけ著名なニコラ・ロワズルール師とトマ・ド・クールセル師がいた。
シャルル七世は、バーゼルで制定された教会法を審査するため、王国の聖職者会議を招集した。会議は1438年5月1日、ブールジュの聖なる礼拝堂(サント・シャペル)で開かれた。
公会議の代表に任命されたトマ・ド・クールセル師は、ブールジュに派遣され、そこでカストル司教と協議した。
1438年当時のカストル司教は、かの上品な人文主義者、熱心な王室顧問であり、まさにキケロ風の雄弁な文体で、手紙の中で「自分の『教区』である宮廷にあまりに堅く縛り付けられているため、『妻』を訪ねる時間さえない」と嘆いていた。[1087]
このカストル司教とは、国王の聴罪司祭ジェラール・マシェのことである。
1429年にポワティエの聖職者たちと共にジャンヌを審議し、彼女の中に誠実さと善良さしか見出せなかったことを理由に、乙女を支持して予言の権威を主張(王に進言)した。[1088]
一方、(現在の協議相手である)トマ・ド・クールセル師は、ルーアンで乙女を拷問にかけるよう提案し、世俗の権力(処刑の執行者)に引き渡すよう強く主張していた。[1089]
ブールジュの会議でこの二人の聖職者は、「公会議の優位性、司教選挙の自由、初穂税の廃止、そしてガリア教会(フランス教会)の権利」について合意した。この時、彼らのどちらかが、あの哀れな乙女のことを思い出していたとは考えにくい。
トマ・ド・クールセル師が重要な役割を果たしたこのブールジュ会議の審議の結果、1438年7月7日に国王によって発布された厳粛な勅令、いわゆる『ブールジュの国事詔書(プラグマティク・ザンクション)』が生まれた。この勅令により、バーゼルで定めた教会法はフランス教会の憲法となった。[1090]
⚠️ブールジュの国事詔書(Pragmatic Sanction):教皇と対立しているバーゼル公会議を支持し、公会議が教皇よりも上位であると示すと同時に国王の教会監督権を宣言。国家教会を設立し、フランス国内で教皇が徴収していた奉納金(税金)を廃止し、教会禄の授与権も取り上げた。これはフランス国内の教会に対する教皇の権限を制限し、教皇の国政介入を低下させる事を目的としたもので、フランス教会独立主義(ガリカニスム)推進の嚆矢となった。
16.2 ジャンヌを裁いた者たちの邂逅(2)ピエール・コーション破門
フランス王に続き、神聖ローマ皇帝もバーゼル公会議の改革案に同意した。
しかし、公会議の神父たちはますます大胆になり、恐れ多くも教皇エウゲニウス四世を彼らの法廷に出頭するよう召喚した。
教皇が応じなかったため、彼らはエウゲニウス四世を罷免し、彼について「不服従、強情、反逆者、規則違反者、教会統一を乱す者、偽証者、分裂主義者、頑固な異端者、教会財産の浪費者、醜聞を招く不道徳者、聖職売買を行う者、有害かつ忌まわしい者」と宣言した。[1091]
これは、本書でおなじみのジャン・ボーペール師、トマ・ド・クールセル師、ニコラ・ロワズルール師といった面々が、他の博士たちと共に宣言した『聖なる神父たちの非難声明』である。この3人は皆、教皇への服従を拒んだことを理由に、ジャンヌを激しく攻撃していた連中だ。[1092]
ニコラ・ロワズルール師は、ジャンヌの裁判の間中、極めて精力的に活動していた。ロレーヌの靴職人と聖カタリナの役をかわるがわる演じ分け、ジャンヌが火刑台に引きずり出されるまで狂ったように彼女を追いかけた。[1093]
ニコラ師は、バーゼル公会議でも精力的に活動してある程度の名声を得た。彼は「教会法に基づいて招集される公会議は、教皇よりも上位にあり、教皇を罷免する権限を有している」という見解を支持した。
この(ルーアン教区の)聖堂参事会員は単なる学者にすぎなかったが、バーゼルの神父たちに強い印象を与え、1439年には法律顧問としてマインツの帝国議会に派遣された。
一方、ニコラ師の言動は、公会議へ彼を代表として派遣していた(ルーアンの)聖堂参事会に強い不快感をもたらした。ルーアンの参事会員たちはローマ教皇を支持し、公会議の神父たちに反対していたため、パリ大学と対立した。
もはやルーアン参事会はニコラ・ロワズルールを自分たちの代表とは認めず、1438年7月28日に彼を呼び戻すよう命じた。[1094]
⚠️補足:ニコラ・ロワズルールは聖職者としては身分が低く、ただの学者にすぎないのに、「ルーアンの地域代表」から逸脱して「公会議の代表」のように振る舞ったため、もともとの任命者(ルーアン参事会)から否認された。
トマ・ド・クールセル師もまた、教皇を「不服従、強情、反逆者」などと非難した連中の一人だったが、新教皇の選出を主宰する委員に指名され、ロワズルールと同様に、マインツの帝国議会に派遣される代表になった。
しかし、ロワズルールとは異なり、彼はもともとの任命者から否認されなかった。
なぜなら、彼はパリ大学の代表であり、公会議が定めた対立教皇フェリクス五世をキリスト教徒たちの真の父と認めていたからである。[1095]
1440年8月にブールジュで開かれたフランス聖職者会議において、トマ師はバーゼル公会議の神父たちを代表して演説した。彼は2時間にわたって熱弁し、国王を大いに満足させた。[1096]
シャルル七世は、教皇エウゲニウス四世への忠誠を保ちつつも、『ブールジュの国事詔書(プラグマティク・ザンクション)』を堅持した。トマ・ド・クールセル師は、これ以降、フランス教会の支柱の一人となった。
*
一方、イングランド政府は教皇を支持し、バーゼル公会議に反対すると宣言した。[1097]
⚠️補足:シャルル七世のフランス政府は「どっちも取り(教皇の権威を認めつつ、公会議の改革も支持)」、イングランド政府は「教皇一択(公会議の改革は認めない)」という対比。
この頃、リジュー司教となっていた(元ボーヴェ司教)ピエール・コーションは、バーゼル公会議でヘンリー六世の使節を務めていた。
そして、バーゼルでは少々不愉快な出来事が降りかかった。リジュー司教区への転任で生じた金貨400フローリン相当の初穂税を滞納していたのだ。
ドイツで、ローマ教皇の財務官から「長期間の猶予を与えたにもかかわらず、初年度税(初穂税)の未払いを理由に破門された」ことを告げられ、さらに「破門の身でありながら、差し出がましくも聖務(ミサ)を執りおこなったため、教会法の不正行為を犯した」と非難された。[1098]
この告発は、彼をかなり苛立たせたに違いない。しかし、結局のところ、こういう出来事は頻繁にあり、大したことではなかった。聖職者たちにとって、これらの雷(破門)は軽いもので、大きな痛手にはならなかった。
⚠️フローリン(florin):イタリアやドイツなど主に西ヨーロッパで流通していた金貨と銀貨。銀貨の方はギルダーとも呼ばれる。
16.3 シャルル七世のフランス再征服、百年戦争終結
1444年以降、フランス王国は敵からも味方からも等しく解放され、自由に働き、様々な職業に就き、商業を営み、富を築くことができるようになった。
戦争の合間や休戦期間中、シャルル王の政府は、天然産物や商品の交易によって、さらにセーヌ川、オワーズ川、ロワール川の通行料や課徴金の廃止によって、ノルマンディーの《《実質的な征服》》を成し遂げた。
したがって、《《名目上の征服》》の好機が訪れたとき、フランスはその地方(ノルマンディー)をただ手に入れるだけでよかった。ノルマンディー征服はあまりに容易になっていたため、1449年の迅速な軍事行動では[1099]、リッシュモン大元帥もアランソン公でさえも敗北しなかった。
シャルル七世は、この王らしい平和的なやり方で、ルーアンの町を再び手に入れた。それはちょうど20年前、トロワとランスを奪取したのと同様に、市民との合意の結果であり、恩赦および市民への権利や特権の付与と引き換えだった。
1449年11月10日の月曜日、シャルル七世はルーアンに入城した。
フランス政府は、実質的にイングランドの領土となっていたアキテーヌ地方の再征服を試みるだけの力がついたと感じていた。
⚠️補足:アキテーヌ(ギュイエンヌとも)は百年戦争勃発以前から数百年にわたりイングランド王の所領だったが、ヴァロワ王朝初代フィリップ六世は、王位継承を認めないエドワード三世からアキテーヌ領没収を宣言した。百年戦争の背景を考えると、アキテーヌ征服は歴代ヴァロワ王家の悲願といえる。なおシャルル七世はヴァロワ王朝5代目。
1451年、今やデュノワ伯となった「オルレアンの私生児」ジャン卿がブレイの要塞を占領した。ボルドーとバイヨンヌも同じ年に降伏した。
ル・マン司教は、最もキリスト教的な王(フランス王の伝統的な称号)の威厳にふさわしいこれらの征服について、次のように祝辞を述べた。
「メーヌ、ノルマンディー、アキテーヌ、これらの美しい地方は国王への忠誠へと立ち返った。フランス人の血をほとんど流すことなく、この偉業は成し遂げられた。多くの堅固な城壁で囲まれた町の塁壁を崩したり、町の防御施設を破壊したり、住民が略奪や殺害に苦しむ必要もなかった」[1100]
実際、ノルマンディーとメーヌは再びフランス領に戻ったことに大いに満足していた。
ボルドーだけが、イングランド人の撤退で町が破滅することを嘆いていた。
1452年に反乱を起こしたが、その後、多大な困難を経て、ついに完全に再征服された。
訳者のこぼれ話:傭兵くずれの略奪者たちはどこへ行ったのか?
本書のメインテーマから外れるので、ジャンヌの死後がダイジェストになってしまうのは仕方ないが…
フランス王国は敵からも味方からも等しく解放
ノルマンディー征服はあまりに容易になっていた
この1行でまとめられたことを成し遂げるために、シャルル七世と家臣団がたどってきた経緯を知っていると、もっとこう……深掘りしてねちねち語りたくなる。
本書の上巻〜下巻の半ばにかけて、フランス中で敵味方を問わず荒らし回っていた《《傭兵くずれ》》の略奪者たちはどこへ行ったのか?
もうすぐ完訳・完結するので、年明けから『7番目のシャルル』を再開する予定ではあるものの、筆が進まない場合は、『シャルル七世の軍事改革勅令』を公開するかもしれません(現在はpixivFANBOX支援者限定)。
ガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史』も着手したい。←広辞苑を超えるボリュームで、全6巻中3巻途中で止まってる。
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