教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十章 オルレアン包囲戦 1429年3月7日〜4月28日
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
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【この章のポイント】
- オルレアン市民の極限状態と不信感
- イングランド軍の脆弱化と包囲網の欠陥
- 「乙女」ジャンヌへの熱狂的な期待
10.1 オルレアン市民の恐怖と疑心暗鬼
ニシンの戦いで国王軍がひどくばかばかしい敗北を喫して以来、オルレアン市民は守備隊への信頼を完全に失っていた。[835]
動揺し、疑り深いのに軽率に信じてしまう心は、恐怖と憤怒の幻影にとりつかれた。突然、理由もなく「自分たちは裏切られた」と思いこんだ。
ある日、オーモーヌ(Aumône、教会の寄進財産、病院)の離れがそばにある町の外壁に、人がひとり通れるほどの大きな穴が空けられたと発表された。[836]
大勢の人があわてて現場に駆けつけると、そこにあったのは、修復された壁の区画と、二つの砲門(または銃眼)だった。
群衆は見たものを冷静に理解できず、自分たちが「敵の手に売り渡され、裏切られた」と思い込んで、狂ったようにわめき声をあげ、病院の責任者である司祭を捜してバラバラに引き裂こうとした。[837]
⚠️砲門(canonnières):大砲や火器を撃つための隙間。民衆は壁に穴が開いているのを見て「裏切りだ」と騒いだが、実際には防御用の設備である。民衆の無知による誤解であり、冷静な判断力を欠いていることを示すエピソード。
数日後の聖木曜日、また同じような噂が広まった。
裏切り者が、町をイングランド軍の手に引き渡そうとしているという。
人々は、兵士も市民も農民も武器を手に取り、外壁、城壁、通りを見張った。
パニックの発端となった日の翌日も、さらにその後も、恐怖は彼らを支配し続けていた。[838]
*
3月の初め、イングランド摂政ベッドフォード公が召集したノルマン兵が包囲軍に合流した。しかし、その数はわずか629人の槍騎兵に過ぎず、しかも26日間しか従軍する義務を負っていなかった。
スケールズ、ポール、タルボットの指揮の下、イングランド軍はできる限り包囲工事を続けた。[839]
3月10日、イングランド軍は、オルレアン市の東2.5マイル(約4キロ)地点にあるサン・ルーの急斜面を占領し、そこに堡塁(小型の要塞)を築き始めた。ロワール川上流と、ジアンとピティヴィエ方面から続く2本の道が「ブルゴーニュ門(オルレアン市の東にある門)」のそばで合流する地点を見下ろせる場所だ。[840]
3月20日にはル・マン方面へ続く道の途中に、新たな堡塁を完成させ、「ロンドン」と名付けた。
4月9〜15日には、西に向かって新しい堡塁を2つ築き、それぞれ「ルーアン」と「パリ」と名付けた。前者は「ロンドン」の東900フィート(約274メートル)、後者は「ルーアン」から900フィートの地点にあった。
⚠️堡塁の命名について:「ロンドン」はイングランドの首都。「ルーアン」はイングランド軍が最初に上陸・侵攻したノルマンディーの首府。「パリ」はフランスの首都。フランス陣営に対する嫌がらせとプレッシャーを兼ねた命名といえる。
20日ごろには、ロワール川の対岸にあるサン・ジャン・ル・ブランを要塞化し、川の渡し口を見張るための監視所を設置した。[841]
これは、まだなすべきこと(イングランド軍の最終目標はオルレアンの外周を取り囲むこと)と比較すればごくわずかであり、イングランド軍は人手不足だった。なぜなら、町を包囲する兵士は3000人以下だったからだ。
そこで彼らは農民に目をつけた。ブドウを手入れする時期が近づき、田園地域の人々は耕作のことだけを考えて畑に出かけたが、イングランド軍は彼らを待ち伏せし、捕虜にすると強制労働させた。[842]
10.2 イングランド軍の焦りと兵站不足
兵法に詳しい戦術家の意見によると、これらの堡塁は何の役にも立たない代物だった。
馬を収容する厩舎もなく、堡塁間の距離が遠すぎて互いに支援することもできない。
それどころか、包囲者(イングランド軍)自身が、堡塁の中に閉じ込められて包囲される危険性があった。
ようするに、煩わしいだけの大雑把な戦術によって、イングランド軍は失望と不名誉しか得られなかった。
オルレアン防衛側の一人であるビュエイユ卿は、偵察でこのことを察知していた。[843]
実際、敵の陣地を通過するのは非常に簡単で、商人たちは危険を顧みずに「包囲されたオルレアン市」に物資を運び込もうとした。
3月7日にはニシンを積んだ馬6頭、15日には火薬を積んだ馬6頭、29日には家畜と食料が町に運び込まれた。
4月2日には肥えた雄牛と馬9頭、5日には豚101頭と肥えた雄牛6頭、9日には豚17頭、馬、子豚、穀物、13日には守備隊に支払う貨幣、16日には家畜と食料、23日には火薬と食料が町に運び込まれた。
さらに、包囲された防衛者(オルレアン市)は、包囲する攻撃者(イングランド軍)の目の前で、包囲軍に送られるはずだった食料と弾薬、ワイン樽、狩猟肉、馬、弓、飼料、さらには大型の牛26頭を何度も持ち去った。[844]
もはや、オルレアン包囲戦はイングランドにとって大きな負担となっていた。
月に4万リーブル・トゥルノワも費やしていたのだ。[845]
イングランド軍は資金不足に陥り、最も苛立たしい手段に頼らざるを得なかった。
3月3日の勅令で、イングランド王ヘンリー六世はノルマンディーに駐留している士官全員に、給料の4分の1を貸すように命じた。[846]
木と土でできた小屋の中で、前線のイングランド兵たちは寒さに耐え忍んできたが、今度は飢えに苦しみ始めた。
ラ・ボース、イル・ド・フランス、ノルマンディーの荒廃した畑では、羊や牛を十分に供給することができなかった。
彼らの食べ物は悪く、飲み物はさらにひどかった。
1427年のブドウは不作で、翌1428年の収穫も貧弱で弱々しく、ワインというより酸っぱいブドウのようだった。[847]
さて、ある古いイングランドの作家は、自国の兵士の窮状について次のように書いている。
「彼らはポリッジ(お粥)と太った雄牛の肉を欲しがっている。
さもなければ、彼らはラバのように飼育(食事制限)され、
口に飼料(provender:食料)を縛り付けるか、
濡れネズミのように哀れな姿になるだろう」[848]
⚠️四行詩の原文:
"They want their porridge and their fat bull-beeves:
Either they must be dieted like mules
And have their provender tied to their mouths
Or piteous they will look, like drowned mice."[848]
10.3 ブルゴーニュ公の介入と亀裂
突然の屈辱が、イングランド軍をさらに弱体化させた。
ポトン・ド・ザントライユ隊長とともに、ブルゴーニュ公への使節として派遣されていたオルレアンの行政官2人——ギヨン・デュ・フォッセとジャン・ド・サンタヴィ——は、4月17日にオルレアンに帰還した。
ブルゴーニュ公は彼らの要請を受けて、オルレアンの町を自身の保護下に置くことを承諾した。
しかし、イングランド摂政ベッドフォード公は受け入れなかった。
摂政は、「自分が藪を叩いた後に、別の者が雛鳥を奪っていくようなことになれば、非常に残念だ」と答えた。[849]
結果的に、この申し出は却下された。
とはいえ、使節団の派遣は決して無駄ではなく、ブルゴーニュ公爵とイングランド摂政の間に新たな争いの種を蒔いたことに意味があった。
使節団は、ブルゴーニュ公に託された伝令官を連れて帰還した。
伝令官はイングランド軍の陣地に向かってラッパを吹き鳴らし、主君の名において、ブルゴーニュ公に忠誠を誓うすべての戦闘員に対し、包囲を解くよう命じた。
この命令を受けて、ブルゴーニュとピカルディとシャンパーニュ出身の弓兵と武装兵、数百人がただちに立ち去った。[850]
⚠️ブルゴーニュ・ピカルディ・シャンパーニュ出身の弓兵と武装兵:ブルゴーニュ公と主従関係を結んでいる。イングランド軍の援軍として包囲戦に参戦していたが、この命令を受けてオルレアンから手を引いた。
翌日の午前4時、勢いづいたオルレアン市民はこの機会を逃すまいと、サンローラン・ド・オルジュリルの敵陣を攻撃した。
見張りを殺して侵入すると、そこで山積みの金銭、聖マルティヌスのケープ、そして大量の武器を発見した。人々は金品に目がくらみ、防御を忘れて略奪に没頭していたところ、イングランド兵が大挙して押し寄せた。
⚠️聖マルティヌスのケーブ(cape de Martin):トゥールの聖マルティヌスが軍団長だった頃、寒さに凍える乞食に自身のマントを半分に切って分け与え、着崩れた「短いマント(ケープ)」を着たという伝説に由来する聖遺物。
彼らは不意を突かれて逃げ惑い、多くの者がイングランド軍に殺された。
その日、オルレアンの町には父親、夫、兄弟、近親者を亡くした女性たちの嘆きが響き渡った。[851]
*
本来、オルレアンの城壁内には1万5000人しか入れないのに、いまや4万人[852]もの人々が身を寄せ合って暮らしていたため、あらゆる種類の苦悩が膨れ上がっていた。
苦しみに悶え、家庭の悲しみに押しつぶされ、不安に苛まれ、絶え間ない危険と絶え間ないパニックに狂った膨大な群衆だ。
当時の戦争は、後代ほど血なまぐさいものではなかったが、オルレアン市民の出撃によってかなりの犠牲者が出ていた。
3月中旬以降、イングランド軍の砲撃が町の中心部に落ちるようになり、必ずしも無害では済まなかった。
聖枝祭の前夜、臼砲から発射された石弾によって5人が死傷し、別の石弾では7人が死傷した。[853] アラン・デュ・ベイ司祭など、多くの住民が疲労と汚染された空気によって命を落とした。[854]
⚠️聖枝祭(Palm Sunday):エルサレム入城の日。イエス・キリストが十字架にかかり亡くなって三日後に復活したとキリスト教徒が信じる出来事の一週間前に、エルサレムへ入城した記念日を指す。だいたい3月中旬〜4月中旬ごろ。
10.4 神頼み(1)オルレアンの守護聖人たち
当時のキリスト教世界では、地震、戦争、飢饉、疫病はすべて悪行に対する罰であると人々は教えられていた。
オルレアン公シャルル・ドルレアンは、善良なキリスト教徒だったので、「フランスに大いなる悲しみが降りかかったのは、フランスの罪、すなわち王国に蔓延している傲慢、暴食、怠惰、貪欲、色欲、正義の軽視に対する罰だ」と考えていた。
彼はバラッドの中で、その悪行と救済策について語った。[855]
⚠️バラッド(ballad):物語や寓意のある韻文詩。識字率の低い時代に、民衆にニュースを伝える役割があった。
⚠️シャルル・ドルレアンの『獄屋の歌』:シャルル六世の甥(王弟の子)でシャルル七世のいとこ。アジャンクールの戦いで敗北して捕虜となり、イングランドに幽閉された25年間に多数の詩を書き残した。
オルレアンの人々は、「この戦争は神が罪人を罰するために下したものであり、神の忍耐が尽きたのだ」と固く信じていた。
彼らは、悲しみの原因と、それを解決する手段の両方をよく知っていた。
それは、善良な修道士・説教者からの教えだった。
シャルル公爵がバラッドで語ったように、解決策は「正しい人生を送ること。生活を改めること。王国のために死んだ犠牲者の魂のためにミサを捧げて歌うこと。罪深い生活を捨てること。聖母マリアと聖人たちに許しを請うこと」だった。[856]
オルレアンの人々は、この救済策にすがった。
彼らは、オルレアン防衛のために命を落とした貴族、隊長、兵士のためにサン・クロワ教会でミサをおこない、特にニシンの戦いで哀れな死を遂げた犠牲者の魂のために祈った。
聖母マリアと町の守護聖人にろうそくを捧げ、聖エニャンの聖遺物を掲げて城壁の周りを練り歩いた。[857]
人々は、大きな危険にさらされていると感じるたびに、サン・クロワ教会からそれを運び出し、盛大な行列を組んで町中や城壁の上を練り歩いた。[858]
その後、大聖堂に戻ってくると、行政官によって選ばれた善良な修道士が玄関先で説教するのを聞いた。[859]
彼らは公共の場で祈りを捧げ、生活を改めることを決意した。
天国にいる(町の守護聖人)聖ユヴェルテと聖エニャンが、オルレアン市民の信仰心に動かされて、神に執り成しをしてくれるに違いないと考えた。(修道士の説教は)まるで二人の司教の声が聞こえるかのようだった。
聖ユヴェルテはこう言うだろう。
「全能なる神よ、どうかオルレアンを救ってくださいと切に祈り、懇願します。私は生前オルレアンの司教で、今はその守護聖人です。オルレアンは私のものです。敵に引き渡さないでください」
次に、聖エニャンがこう語った。
「オルレアンの人々に平和を与えてください。神よ、あなたは幼子の口を通して、私をオルレアンの羊飼いに任命されました。彼らが敵の手に落ちないようにしてください」
オルレアンの住民は、神は二人の守護聖人の祈りにすぐには答えてくれないだろうと予想していた。神の裁きは厳しいと知っていたので、神はこう答えるのではないかと恐れた。
「フランスの人々は、自身の罪ゆえに正当な懲罰を受けている。彼らは聖なる教会に従わなかったために苦しんでいる。王国では、最も卑しい者から最も高貴な者まで、互いに競うように悪事を働いている。農民、市民、法律家、司祭に至るまで冷酷で貪欲である。王侯貴族と領主は、傲慢で虚栄心が強く、人を呪い、くだらない誓いを立てる裏切り者である。彼らの堕落した生活は空気を腐敗させている。彼らが懲罰を受けるのは当然である」
神がこのように語るのは当然だろう。
神が怒っているのは、オルレアンの人々が大罪を犯したせいなのだ。
しかし、今こそ見よ——。
百合の王を愛する聖母マリアは、フランス王とオルレアン公のために、御子(キリスト)に祈りを捧げる。御子は、すべてにおいて聖母の御心を叶えることを喜ばれる。
「わが息子よ、心からあなたに懇願します。イングランド人をフランスの地から追い払ってください。彼らにフランスを支配する権利はありません。もし彼らがオルレアンを奪ったら、残りの地も思うがままに奪うでしょう。わが息子よ、どうかそれを許さないでください」
そして神は、聖なる母の祈りに応えて、フランス人を許し、救うことを承諾するだろう。[860]
*
このように、当時の人々は、霊的な世界に対する考えに基づいて、「天国の評議会」に自分たちの望みを代弁させていた。この「天国の評議会の結果として、神が大天使を羊飼いの少女に遣わした」と民衆は信じた。
教養ある知識人の中にも信じる者が少なくなかった。
神は、ひとりの女性の手によって、王国を救うかもしれない。
神は、この世界の弱者を通じて、その力を顕現するのではないだろうか?
神は、幼いダビデに巨人ゴリアテを倒させ、ユディトの手にホロフェルネス将軍の首を渡したではないか。オルレアンでは、包囲された町をアッティラから解放する羊飼いの名前を、赤子の口から言わせたではないか。[861]
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