『ピングー展』|かわいいは、粘土から動き出して
最近、ピングーのグッズを街でよく見かける。
駅ナカのガチャガチャにもピングーがいる。
懐かしいなと思いながら眺めていたら、ピングー展が開かれることを知った。しかも、整理券が出るほどの混雑だという。

そういえば、子どもの頃、ピングーのグッズを持っていた。
黒と白の身体に、赤いくちばし。
あのペンギンが、なんとなく好きだった。
けれど、ピングーのアニメを見た記憶は、ほとんどない。
展覧会へ行く前に、数話見てみることにした。
すると、ピングーは思っていた以上によく動いた。
歩く。転ぶ。怒る。笑う。驚く。
身体をぺちゃんこに潰したかと思えば、次の瞬間には縦にびよーんと伸びる。くちばしを大きく開いて、何かを叫ぶ。
その動きが、なんとも愛らしい。
そして、見ているうちに気がついた。
ピングーは、ペンギンの冒険を描いたアニメではなかった。
家族と暮らし、友達と遊び、仕事を手伝い、叱られたり、仲直りしたりする。
そこにあるのは、特別ではない一日だった。
ピングーには、パパとママがいる。
妹のピンガが生まれたときには、ピングーは少しやきもちを焼く。それでも、やがて妹をかわいがり、一緒に遊ぶようになる。
ママに抱きしめられる場面もある。
言葉がなくても、その腕の中にいることで、ピングーが大切にされていることがわかる。
パパは郵便配達の仕事をしている。
ピングーがその仕事を手伝う話もある。
そしてパパは、料理をしたり、洗濯をしたり、編み物までしたりする。
「お父さんだから仕事をする」というだけではなく、家族の暮らしを一緒につくっている。
まだ亭主関白という言葉が今より身近だった時代につくられた作品だと思うと、その自然さが少し意外だった。
何かを主張するように「こういう家族が理想です」と描くのではない。
ただ、パパも家事をする。
ママも子どもを育てる。
家族みんなが、それぞれのやり方で暮らしている。
そんなふうに描かれている。
だから、古い作品なのに、今見てもあまり古びて感じないのかもしれない。
展覧会で実際の人形を見て、アニメで感じていた「動き」の理由が、少しわかった。
ピングーは、クレイでできている。
展示されていたピングーは、思っていたよりもずっとでこぼこしていた。

身体の表面には、手で触れたような感触が残っている。
真横から見ると、腕がくるんと曲がっていて、その平べったさがおもしろい。

こんな身体だったのか、と少し驚いた。
ピンガには黄色味もあり、毛並みの揃わない子どものような初々しさを感じる。目の黒目のまわりは、白くくぼんでいる。

ロビはほとんどグレーの単色なのに、なぜかひょうきんさが伝わってくる。

色や細かな造形だけで、かわいく見せているわけではない。
身体そのものが、ピングーらしさを持っている。
展示には、ピンガ、パパとママ、スノーモービルやスノーマンなどが並んだ場面もあった。

そのなかで、ママの身体にはひびが入っていた。

1991年につくられたものだという。
長い時間を経ている。
それでも、大切に保存され、今こうして展示されている。
ひび割れた身体を見ていると、傷んでしまったというより、みんなに愛されてきた時間まで一緒に保存されているように思えた。
クレイアニメーションでは、人形を一コマずつ少しずつ動かして撮影する。
展示には、さまざまなポーズのピングーが並べられていた。
倒れているピングー。
起き上がろうとしているピングー。
身体を起こしたピングー。
両腕を広げたピングー。

完成したアニメーションでは、一瞬の動きとして流れていくものが、ここではひとつひとつの「静止した姿」として並んでいる。
動いていると思っていたピングーは、本当は、少しずつ動かされていた。
クレイをつくり、形を整え、少し動かして撮影する。
また少し動かして、撮影する。
その繰り返しから、ピングーの歩く姿や、転ぶ姿、怒って身体を震わせる姿が生まれている。
約5分の物語をつくるのに、ひと月ほどかかったという。
そう思ってアニメを見返すと、ひとつひとつの動きが急に重みを持って見えてくる。
いたずらをして笑ったり、ケンカをしてふてくされたり、怖くて泣いてしまったり。

ピングーの気持ちは、顔にも身体にも、そのままあらわれる。
そして、感情や行動に合わせて、身体のかたちまでも自由に変わっていく。
伸びたり、つぶれたり、ころんと丸まったり。
ピングーは、感情を身体のかたちにまでしてしまう。
クレイだからこそできる、予想のつかない表情や動きが、物語のアクセントになる。

そして、言葉がわからなくても、何を思っているのかが伝わる。
ピングーが話すのは、特定の国の言葉ではない。
それでも、怒っていることも、嬉しいことも、悲しいこともわかる。
全部、顔に書いてある。
だからきっと、どこの国の子どもでも楽しめる。

なぜピングーは、ペンギンなのだろう。
二本足で歩くペンギンは、人間の子どもの姿を重ねやすい。
翼を腕のように動かすこともできる。
そして、ペンギンなら、人間の子どもそのものとは少し違う距離から、その暮らしを描くことができる。
ピングーには独特の言葉がある。
何を話しているのか、はっきりとはわからない。
それでも、私たちは表情や動きから想像する。
言葉がわからないからこそ、想像する余地がある。
ピングーは、特定の国の、特定の子どもではない。
家族と暮らし、友達と遊び、いたずらをして、叱られて、また遊ぶ。
そんな、どこにでもいる子どもの姿なのかもしれない。
今、ピングーがまた人気になっている。
もちろん、昔からのファンにとっての懐かしさもあるだろう。
けれど、それだけではないような気がする。
何かを成し遂げることよりも、何気ない日々を大切にすること。
完璧な主人公ではなく、失敗したり、怒ったり、やきもちを焼いたりすること。
家族と一緒に過ごし、友達と遊ぶこと。
そして、人の手でつくられたものの、少し不完全な手触り。
そういうものに、今の私たちは惹かれているのかもしれない。
たくさんの情報が流れ、何をするにも効率が求められる日々のなかで、ピングーの世界には、ゆっくりとした時間が流れている。
一コマずつ、クレイを動かしていく時間。
家族と暮らす時間。
友達と遊ぶ時間。
失敗して、またやり直す時間。
ピングーがかわいいのは、丸い身体や赤いくちばしのせいだけではなかった。
人の手で少しずつ動かされたクレイの身体に、暮らしそのものが宿っているからなのだと思う。
子どもの頃、グッズとして好きだったピングー。
大人になって初めてアニメを見て、私はその「かわいい」の中に、思っていたよりずっと豊かなものが詰まっていることを知った。
展覧会で見た、少しでこぼこした身体。
くるんと曲がった、平たい腕。
そして、ひびの入ったママの身体。
1991年につくられたその身体は、今もピングーの家族と一緒にいる。
長い時間を経ても、愛おしさは損なわれていなかった。
そこには、ピングーがみんなに愛されてきた時間まで残っているように思えた。
かわいいは、粘土から動き出して、暮らしになっていた。


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可愛いだけじゃない!?『ピングー展』
2026年7月10日(金) ~ 2026年9月 6日(日)
有楽町ミュージアム


