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江頭2:50という朝ドラ(後編)――あの日、あの場所、確かに「居場所」はあった

サードプレイス論:リベラルな私が, 黒タイツの男に救われるまで――江頭2:50という朝ドラ(後編)
前編の最後で述べたとおり、江頭2:50の歩みは、
NHKのプロデューサーが嫉妬するほど美しいビルドゥングスロマン(成長物語)である。

ただし、ヒロインは黒タイツをはき、※※(自主規制)にでんでん太鼓を突き刺している。

そんな一見すると最悪で、しかし妙に爽快な「朝ドラ」を目の当たりにした山梨の地で、私は一つの社会学的な概念について考えていた。

「サードプレイス(第三の居場所)」である。


サードプレイスとは、ファーストプレイスである家庭でも、セカンドプレイスである職場や学校でもない、第三の居場所を指す。

近年、孤独や孤立が社会問題として取り上げられるようになってから、
行政や学者、政治家たちも注目するようになった。

彼らは「孤独対策」や「地域活性化」の名目で税金を投じては、
地域交流拠点やコミュニティカフェといった小綺麗な「居場所」を
せっせと量産している。

もちろん、それを全否定するつもりはない。
現場の職員たちが日々汗を流し、真摯に支援を模索しているのは事実だし、実際にそれで救われている人もいる。
行政も決して遊んでいるわけではないのだ。

しかし正直に言えば、私はそうした
「ここをあなたの居場所にしましょう」
と上からお膳立てされた空間で、心が安らいだことなど一度もない。

なぜならそこには、エガちゃんとは対極にある
反論の余地がないほど正しい善意と正論が、
あらかじめ配置されているからだ。

「人とつながりましょう」

「地域に参加しましょう」

「孤立せず、助けを求めましょう」

どれも正しい。
ぐうの音も出ないほど正しく、
そして、残酷なまでに眩しい。

正しい場所が、そのまま心地よい場所になるとは限らない。
むしろ、行政や社会起業家が放つ「つながること=善」という
暴力的なまでのピュアさに気圧され、
本当に孤独をこじらせている人間ほど、
息苦しさに窒息してそっと後ずさりしてしまうのだ。


ところが、山梨のフェス会場には、
間違いなくサードプレイスと呼びたくなるものが立ち上がっていた。

富士急ハイランド駅へ向かう列車の中で、
エガフェスTシャツを着て立っていた私に、
同じTシャツを着た見ず知らずの人が席を譲ってくれた。

ホテルから会場へ向かうタクシーが見つからず困っていたときには、
同じTシャツを着た人と自然に「困りましたね」と言葉を交わした。

それだけの何気ない交流に過ぎなかった。

しかし普段の私は、知らない人とそう簡単に会話を始める人間ではない。
おそらく相手も同じだったと思う。

会場では、1万3000人が
同じ歌で拳を突き上げ、
同じ下品な芸で腹を抱えて笑い、
同じ不器用な物語に涙を流していた。

家族ではない。
職場の仲間でもない。
年齢も職業も生活も違う。

共通しているのは、江頭2:50が好きだということだけだった。


そして不思議なことに、このつながりはフェスが終わってからも続いた。

友人は中野へ聖地巡礼へ出かけた。

職場でお土産を渡すと、

「私もあたおかなんです。今度は一緒に行きましょう!」

という人が、何人も現れた。

それまで業務上の会話しかしてこなかった人の中に、
突然「あたおか」という別の顔が見えた。

江頭2:50という奇妙な共通言語によって、
職場の肩書きとは別のつながりが生まれたのである。


私は仕事柄、学会や勉強会に身を置くことも多い。
そこでも「横のつながり」や「多様性」といった美辞麗句が、
洗練された言葉でこれでもかと語られている。

だが同時に、そうした場所には常に「何者かでなければならない」という重苦しい同調圧力が漂っている。

業績、肩書き、所属、人脈、専門性――。

互いににこやかに名刺を交わしながらも、
その瞳の奥では互いの価値を測り、
自分の価値も値踏みされている。

言ってみれば、知性とマナーでコーティングされた、
マウンティング合戦の場なのだ。


エガフェスには、それがほとんどなかった。

前編にも書いたように、会場にいたのは、
普段からフェスTを着て、
タオルを首に巻き、
ペンライトを振り回しているような人
ばかりではなかった。

むしろ、普段はそんなことをしそうにない人たちが、
少し着慣れないフェスTを誇らしげに着ていた。

白髪のじいさん。

腹の出た、独身非モテ風のキモいおじさん。

生活感にまみれた中年女性。

出所がいまいちつかめない中年の集団。

奇妙な服を着たばあさん。

そして私も、その中にいた。

「キラキラした側」の物語には、
あまり登場しない人たちなのかもしれない。

けれど、その日だけは全員が主役だった。

誰も自分を大きく見せる必要がなかった。

何者かになる必要もなかった。

江頭を見て笑い、泣き、騒ぐ「あたおか」である。
それだけで、その場にいてよかった。


行政のつくるサードプレイスが、
どれほど立派なハコと制度を用意しても、
温かな人間関係を自動生成できない理由はここにある。

いくら「誰でも歓迎」と看板を掲げたところで、
お膳立てされた小綺麗な空間は、
孤独な迷い人にとってむしろ入りにくい場所でしかない。

人が集まるのは、制度や予算があるからではない。

そこに嘘のない熱量があり、共に笑い、共に泣ける物語があるからだ。

そして、

「かっこ悪くてもいい」

「失敗してもいい」

「立ち止まってもいい」

「でも生きていてほしい」

と、自分の人生そのもので語っている狂った男がそこにいるからだ。

江頭2:50は、高尚なサードプレイスをつくろうとしたわけではない。

日本の孤独問題を解決しようという野心も、おそらくなかった。

ただ、不器用なまま、かっこ悪いまま、嫌われながらも、
全力で芸人を続けてきた。

打率は決して高くない。

失敗もする。

空回りもする。

それでも、たまに起こす奇跡の熱量が、人を引き寄せる。

その結果として、
1万3000人が笑い、泣き、少しだけ他人とつながる場所が生まれた。

制度ではなく。

補助金でもなく。

お行儀のよい社会政策でもなく。

一人の、※※(自主規制)にでんでん太鼓を突き刺した変な芸人が、
それを成し遂げてしまった。

サードプレイスは、誰かが
「ここをあなたの居場所にします」
と宣言して生まれるものではないのかもしれない。

人が本気で好きになれるもの。

誰かと共有したくなる体験。

自分を飾らなくても、その場にいてよいと思える空気。

そうしたものの周囲に人が集まり、後から振り返ったとき、
そこが居場所だったと気づく。

少なくとも私は、山梨のコニファーフォレストで、
行政の分厚い報告書や有識者会議の提言よりも、
はるかに雄弁なサードプレイスを見た。

黒タイツの男と、
普段ならフェスタオルなど首に巻かない1万3000人がつくった、
異様で、滑稽で、それでいてとても優しい居場所だった。

ー最後に
【NHKに、一言ものもーす!】
公共放送としての責務を果たし、今すぐ江頭2:50氏の出禁を解除されたし。
そして『プロフェッショナル仕事の流儀』では語り尽くせないこの男を、
ぜひ「朝ドラヒロイン」として起用されたい。
いちあたおかとして真剣に要求する。

【江頭2:50さんへ】
私たち「あたおか」に、最高の居場所を作ってくれてありがとう。

【あたおかのみなさんへ】
俺たちの戦争は、まだ終わっていない!!



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