私たちは、「駅」というサードプレイスを見落としていたー毎日使う場所こそが、孤独を癒やす緩衝材になる
自分は駅が好きである。
毎日、地下鉄と電車を乗り継いで通勤しているが、駅という空間が充実しているからこそ、この満員電車の日々も続いていられるといっても過言ではない。
乗換駅というのは実に面白い場所だ。複数の鉄道路線が交差し、膨大な人間が流れ込み、周囲には商業施設やオフィスが密集する。
そこには
外国人観光客、
バックパッカー、
足早なオフィスワーカー、
賑やかな学生、
背中の丸まった老人、
少し社会からはみ出したような危ういオーラを纏った人
がいる。
私は休憩がてら、気取らないカフェに入ったり、キッチンカーでカフェラテを買ってベンチに座ったりする。
そこから見える景色は飽きることがない。
映えるドリンクを手に写真を撮り合う若い女性たち
ショッピングバッグを抱えて歩く上品な母娘
わき目も振らずパソコンに向かうビジネスパーソン
うつむいてスマホを見つめるくたびれた中年男性
店員に難癖をつけているクレーマー
無料のエナジードリンクを必死に配るアルバイト
全員が同じ床を踏み、同じベンチを共有している。
ここには社会のあらゆる階層、人生の縮図がある。
まさに「ごった煮」の空間だ。
私はそんな場所を、正直「うるさくて煩わしい」と思うこともある。
それでも好きなのは、こんなにも混沌とした人間社会が、案外ちゃんと破綻せずに回っていることが肌で分かるからだ。
誰もが割り切れない悩みや事情を抱えながら、今日をたくましく生きている。
他人の「生の営み」をただ眺めているだけで、心のどこかが深く安心するのである。
駅から考えるもう一つのサードプレイス
東京旅行のあと、私は「サードプレイス」について考えていた。
サードプレイスとは、家庭でも職場でもない第三の居場所として語られる。
しかし東京を歩いているとき、その理想像には違和感があった。
麻布台ヒルズには洗練された富裕層がいて、歌舞伎町には夜の欲望に生きる人々がいる。
私たちはそこまで高尚な生き物ではない。
本能的に、自分と似た人間と群れたがる。
サードプレイスとは格差をなくす場所などではなく、むしろ似た価値観の身内が集まる「心地よい防空壕」なのではないか。
しかし、ふと自分が最も癒やされている場所を思い返すと、そこには「駅」があった。
冒頭で描いたように、駅には価値観も年収も異なる人が集まる。
誰も深く分かり合ってなどいないのに、なぜか衝突せずに空間が成立している。
私はここに、現代の分断が進む社会を生き抜くための、新しいサードプレイスのヒントがあるような気がした。
これからのサードプレイスに必要な3つの理由
1. 「所属」ではなく「通過」の場所であること
サードプレイスを「私たちの居場所」にすると排他性が生まれる。
駅にはそれがない。
駅の利用者は全員「ただの通りすがり」だ。
目的がバラバラでも咎められない。
お互いが異分子だと知りながら一瞬だけ空間を共有し、それぞれの現実へ帰っていく。
私はそのドライさがたまらなく好きだ。
2. 「対話」ではなく「気配(ノイズ)」でつながること
「異なる階層で意見交換を」などと場を作っても誰も本音は話さない。
駅で隣の人の名前を知らなくても、話しかけなくても、高校生の笑い声やスーツケースの音で、他者の存在は五感で分かる。
この「違う人生の気配」をノイズとして受け取ることこそが、独りよがりになりがちな現代人の社会の免疫になる。
3. 「無属性」になれるカモフラージュを持つこと
リアルな駅では、全員が「乗客」というカモフラージュをまとい、一時的に肩書や属性が無効化される。
これは年齢や年収をリセットできるネット空間にも似ている。
駅とネット空間は、現代人が過剰な属性の縛りから逃れるために美しく補い合う関係なのかもしれない。
サードプレイスとは「社会の緩衝材」である
私はサードプレイスを、格差や分断を根本から解決する理想郷だとは思わない。
ネットやSNSの発達によって、他者との違いは嫌というほど可視化されるようになった。分断は治らない現代社会の持病だ。
だからこそ必要なのは理想郷ではなく、異なる人間同士が激しく攻撃し合って破滅しないように間に挟んでおく「緩衝材(境界領域)」なのだと思う。
駅には、自分と絶対に相容れない人もマナーの悪い人もいる。
それでも同じ空間に存在することだけは許容し合っている。
その乾いた距離感こそが、私たちの呼吸を楽にしてくれる。
結論――通過点から、目的地へ
分断と孤立が叫ばれる現代社会において、私たちが目指すべきは、どこか遠くにユートピアをゼロから作ることではない。
今ここにある「駅」や商業施設といった公共空間を、もっと豊かに育てていくことだ。
ただの「通過点」だった場所が、少し長居したくなる「目的地」になる。
異なる人間が、異なる姿のままで、お互いを排除せずに共存できる場所。
それだけで、このギスギスした社会はずいぶん住みやすくなるはずだ。
私たちは「新しい居場所」を探すことには熱心だ。
しかし、駅や商業施設のような、すでにある公共空間をサードプレイスとして見直す視点は、まだ十分ではないように思う。
今夜も私は、駅ビルの片隅でカフェラテを飲みながら、行き交う雑踏を眺めている。
この生きて動いている、愛おしくも煩わしい都市の健やかな呼吸を、肌で感じながら。
