教会の中にあると思われる聖書理解──無誤性と無謬性をめぐって
※この記事は、信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、キリスト信仰に関する一つの思索としてお読みください。
特定の教派や立場を断定するものではありません。
1. はじめに
教会、信じる人の集まり、そこには様々な人たちがいるものです。
信仰に熱心な人もいれば、信仰を持つことにためらいがある人もいます。
長年聖書を読み、深く学び続けてきた人もいれば、初めて集まりに足を運んだ人もいます。
「友人に誘われて来た」
「なんとなく心が惹かれた」
「静かな時間を過ごしたかった」
そんな理由で来られる方もいると思います。
信仰の形は一つではありません。それでも不思議なことに、皆が同じ場に来て、同じ言葉について、考えたり、学んだりするのです。
教会は信仰の濃淡が入り混じる不思議な共同体とも言えるかもしれません。
そこには、「確信している人」「探している人」「ただ見ている人」が同じ場所に共存していると言えます。
そして、その全員が、神のもとに集っているとも考えられるのです。
2. 聖書観の違い──無誤性と無謬性
教会に集う人々の中でも、聖書をどう理解するかという点では意見が分かれるものだと思われます。
ある人は、「聖書は一言一句、誤りがない」と信じます。
これが無誤性の立場でしょう。
一方で、「聖書は救いに関してあやまりがない」と理解する人もいます。
これが無謬性の立場でしょう。
無誤性は、聖書の細部まで神の霊感が及んでいて、全て正しいと見る立場であり、無謬性は、聖書が伝えようとする「神の救いの目的」において正しいと信じる立場と言えるように思われます。
どちらの立場においても、「神の言葉といわれる聖書を信じたい」という誠実な思いがあるように感じられます。
違いは、聖書は「どのような意味において正しいのか」という考え方にあると言えるのかもしれません。
3. しかし、実際にはそれだけでは分けられない
無誤性と無謬性という区分は、信仰を理解する上では便利な整理だと思いますが、実際の教会や信仰生活は、もっと複雑で豊かなものです。
同じ「無誤性」を掲げる教団であったとしても、ある教会は学究的に聖書を分析し、別の教会は素朴な信仰として「神の言葉を信じる」ことを中心にしているかもしれません。
逆に、「無謬性」を強調する教団の中にあっても、実際には無誤に近いような聖書理解を持ち、生活のあらゆる指針について聖書に解答を求めるというような教会もあるものと思われます。
つまり、教派や教団、実際の教会によって、同じ言葉でも雰囲気やイメージが違うと考えられるのです。信仰のラベルはあくまで目安であり、実際の姿はもっと多様で流動的であるとも考えられます。
そして、これは個人にも当てはまります。信徒一人ひとりの理解は、関心・学びの深さ・生活の状況・人生における段階によって異なるものと言えるでしょう。
ある人は「文字どおりの言葉の力」を重んじ、ある人は「全体の霊的な導き」を見つめるかもしれません。
またある人は、学問的知識はなくとも、聖書の物語を深く信じ、自分の生き方の光として受け止めるかもしれません。
こうした多様な理解が共にあるからこそ、教会は生きた共同体であると考えることも出来そうです。信仰とは、同じ真理に向かいながら、それぞれの道を歩むものと理解することも出来そうです。
4. あえて違いを明確にしないという知恵
こうした違いを抱えながらも、教会は一つの群れとして歩んでいます。
そのために働いているのが、「あえて違いを明確にしない」という知恵であるようにも思われます。
議論を深めすぎると、時に「信仰の熱」が「論争の熱」に変わってしまうことがあるかもしれません。けれども、教会は「正しさを競う場」というよりも、「許し合う場」と言えるようにも思われます。
そのため、教会では、語らない、争わない優しさが選ばれることもあると思われます。それは妥協というよりも、愛情と言えるのかもしれません。
互いに異なる理解を持ちながらも、「一致」を守るために沈黙を選ぶ。そのような選択は実際に多くあるように思われます。
5. 立場によって、異なる忍耐がある
教会における信仰の共存も、多くの忍耐によって支えられているように感じられます。
たとえば、学問や理性が尊ばれる環境においては、少数派として無誤性の立場を持つ人々がいるとも考えられます。
その中においては、無謬性の立場の人々が互いを認め合うために、忍耐と理解を示すことがあるかもしれません。
反対に、文字通りの信仰が尊ばれる環境においては、少数派として無謬性の立場を持つ人々がいるとも考えられます。
その中においては、無誤性の立場の人々が、忍耐をもって共に生きる努力をするのかもしれません。
つまり、どちらの立場であったとしても、少数派がいる時の忍耐があると言えるのではないでしょうか。
そして、その忍耐こそが、教会を支える見えない力であるとも思われます。信仰は、互いに譲り合い、願い合う中で育まれていくようにも思われます。
6. 興味がない人も、神のもとに招かれている
無誤性・無謬性といった神学的な議論に関心がないという人も、教会には多くいるでしょう。それでも、そのような人々も集まりに来て、座り、学びの時間を過ごしています。
「詳しいことはよく分からないけれど、讃美歌を聴くと心が安らぐ」
「信じているわけではないけれど、この場所に来ると落ち着く」
そう感じる人もいるように思います。彼らは端っこにいるようにも見えますが、実は教会の中心にいるようにも思われるのです。
「まだ信じていない人」「迷っている人」「ただ居る人」──
信仰においては、様々な人が、神にとって大切な羊であると考えられるように思われます。
信仰は、知識によるというよりも、招きによって始まると言えるでしょう。だから、どんな段階にあったとしても、キリストの近くに来られるようにも思われます。
7. 相手を理解するという、もう一つの信仰
無誤性と無謬性の違いを突き詰めるとすれば、それは「神の真理をどのように見るか」という違いにあると言えるのかもしれません。
ある人は「聖書は歴史と自然を完全に正しく描いている」と信じ、またある人は「聖書は人の救いについて誤らない教えを伝えている」と信じる。
どちらも神への信仰であるとも考えられるようです。また、そうだとすれば、相手を理解しようとする姿勢そのものも、すでに信仰に近い行為のようにも思われないでしょうか。
自分と違う理解を持つ人を受け入れ、耳を傾ける。その行為の中にも、キリストの愛があると言えるのかもしれません。
8. 教会の中において
教会の中を見渡すとき、無誤性のような立場にある人、無謬性のような立場にある人、そのどちらでもないような人、それぞれの信仰が一つの空間に集っているようにも思われます。
同じ賛美歌を歌い、同じ聖書を開き、同じ神を仰ぐ。そこには、見えないけれど調和があるようにも感じられるかもしれません。
教会は、全く同じ答えを持つ人の集まりではないでしょう。違いを抱えながらも、一つであろうとする人々の集まりであるとも考えられます。
そして、その姿が、神の国の先駆けであり、地上における希望であるようにも感じられるかもしれません。
9. 教職者と教会に求められる慎重さ
想像ではありますが、このような多様な人々を前にして、最も慎重にならざるを得ないのが教職者であるのかもしれません。
自分自身の信仰をもって講壇に立ちながらも、異なる立場にある信徒に対する気遣いを持つ必要があるようにも思われます。
ときには「どちらの立場を明確に取るか」という選択を迫られることもあるのかもしれません。
教えの純粋性を保つとするならば、教理的な理解の一致が求められるように思われます。
一方で、多様性を維持するとするならば、細部においては争わないという知恵が必要であるように思われます。
教職者は、その狭間で真理を求め続ける存在なのではないでしょうか。
純粋さと柔軟さのバランスを保つために、人々の中において苦心していると考えられるのかもしれません。
10. おわりに
無誤性と無謬性の違いを語ることは大切だと思います。そのことを通して、互いの信仰の姿勢を知ることができるように思われます。
けれども、大切なのは、「どちらも同じ神を信じている」ということであるようにも思われます。
教会は、理想と現実の間にある場所であるとも言えるでしょう。
そこには神の真理があり、人の弱さもあるでしょう。
信仰において、神の真理は、人の理解よりも広く、高く、深い。
だからこそ教会は、違いを越えられるようにも思います。
信じ方が違っても、キリストを通して祈る神は同じ。その単純な事実が、どんな議論よりも深い真理を語っているようにも思われるでしょう。
