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牧仕という言葉と全信徒祭司の考え方──牧師について考える

※この記事は、「牧師」に対する理解と、近年、見聞きする「牧仕」という言葉について考察するものです。特定の立場を代表するものではなく、信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、一つの試論としてご覧ください。


牧師という存在に関する多様な理解

牧師とは、どのような存在なのでしょうか──。この問いに対する答えは一つではないように思われます。教派や神学の伝統によっても異なり、文化的背景や歴史的状況によっても多様な姿を取ってきました。また、信徒一人ひとりの視点によっても、その理解は微妙に異なります。ある人にとって牧師は霊的導き手であり、また別の人にとっては説教者、あるいは制度を運営するリーダーかもしれません。

この多様性は、単に混乱を意味するのではなく、教会が豊かである証しとも言えるでしょう。以下に挙げるのは、その中のいくつかの代表的な理解のかたちです。

導き手・養成者

牧師は信徒を導き、霊的に養う存在と考えることが出来るでしょう。エフェソ4:11には「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧者、ある人を教師としてくださった」と記されています。ここからも分かるように、牧師は共同体の中で特に「養成者」として位置づけられています。羊飼いが羊を世話するように、牧師は一人ひとりの信徒の歩みに寄り添い、慰め、励まし、時には戒める働きを担うものと考えます。その存在は共同体の成長に欠かせない養育者であり、単なる役職ではなく、信仰生活を具体的に形づくる導き手と考えられるのです。

説教のプロフェッショナル

使徒パウロは「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)と述べました。特にプロテスタントの教会において、聖書の言葉を聞く中心的な機会は説教にあると言えます。牧師は聖書の言葉を適切に説き明かし、聞く者を励ます「言葉の務め人」として働かされています。説教の務めは単に知識を伝えることではなく、心を揺さぶり、信仰へと導くことにあるとも考えます。説教の技量は、信仰を育てる力そのものと見なされることさえあるといいます。したがって牧師は、聖書を深く学び、言葉を通して人々の信仰を生かすプロフェッショナルとして期待されると言えるでしょう。

ただの人間としての模範

牧師は特別な超人的存在ではなく、教会共同体の中で与えられた役割を担う一人の信仰者にすぎない、という見方もあります。第一ペトロの手紙5:3-4には、牧者について「むしろ、群れの模範となるべきである。大牧者(=キリスト)が現れる時、あなたがたは、不滅の栄光の冠を受け取るであろう」と語られています。この言葉によっても、最終的な牧者はキリストご自身であると理解されます。したがって牧師は、群れを従わせる権威者というよりも、同じ信仰の道を歩む者として、模範を示す存在にとどまるとも考えられます。

制度の担い手

牧師はまた、教会制度の秩序を守るために必要な役割にすぎない、と捉える立場もあります。組織としての教会には礼拝や洗礼、聖餐などの秩序があり、それを整えるためには一定の役割分担が不可欠です。その意味で牧師は、特定の人物に信仰のすべてを託すのではなく、共同体全体の信仰を保つために立てられた「制度の担い手」でもあります。牧師の存在は個人の力に依存させるためではなく、むしろ共同体全体を健全に支えるために備えられた仕組みであるとも考えられるのです。

このように牧師に対する捉え方は多様であり、その意義をどう理解するかは、いつの時代にあっても常に議論の余地があると思われるのです。


「牧仕」という呼び方

近年、「牧仕(ぼくし)」という新しい表現を目にすることがあります。これは、漢字の「師」ではなく「仕」を使うもので、この言葉を用いる方々によれば、その背景には新約聖書の言葉があるといいます。

  • 「あなたがたは先生と呼ばれてはいけない。先生はただ一人、キリストだからである」(マタイ23:8)

  • 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、仕える者になりなさい」(マタイ20:26)

「牧仕」という言葉は、牧師を「先生」として権威化するのではなく、仕える姿勢を前面に押し出そうとするものと言えそうです。牧師を特別視するのではなく、仕える信仰者の一人として共に歩む存在として理解しようとする試みというようにも理解できそうです。


全信徒祭司との関連

この呼び方は、プロテスタント神学の根幹にある「万人祭司(全信徒祭司)」と響き合うように思われます。宗教改革者ルターは、すべての信徒が祭司であり、直接神に近づく権利と責任を持つと強調したといいます。

第一ペトロの手紙はこう語ります。

「あなたがたは選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを暗闇からその驚くべき光へと招き入れてくださった方の力ある業を宣べ伝えるためなのです。」

第一ペトロ2:9

ここでは、信仰者が「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神のものとされた民」とされています。


カトリックにおける信徒の祭司性

この点は、実はカトリックにおいても否定されていません。もちろん、カトリックには聖職者としての司祭があり、秘跡を司る「祭司職」は信徒とは明確に区別されます。しかし同時に、信徒も「霊的いけにえをささげる祭司的務め」を持つと教えられています。

つまり、カトリックの理解においても、「司祭」と「信徒」は本質的に異なる役割を担いつつも、信徒が祭司的に神に仕える存在であること自体は認められているのです。


異論と肯定的意義

もちろん、「牧仕」という言葉については議論が尽きないことと思われます。

  • 懸念
    牧師の神学的訓練を軽視する危険性がある。
    既存の教会の秩序が崩れる恐れがある。
    権威を弱めすぎると、逆に混乱を招くかもしれない。

  • 肯定的意義
    「先生」と仰ぐことによる、暗黙に生じかねない支配関係を避けられる。
    信徒が「自分も祭司である」と自覚し、主体性を持つきっかけとなる。
    牧者の長は、キリストただ一人であることを強調できる。

「牧仕」という言葉は、危うさと可能性の両方をはらんでいるのです。


聖書に見る仕える姿勢

聖書全体を見ても、「仕える」という姿勢は繰り返し語られています。

  • イエス自身が「人の子も、仕えられるためにではなく、仕えるために来た」(マルコ10:45)と言いました。

  • パウロも「私たちは、イエスのために、あなたがたに仕える僕」(第二コリント4:5)と語りました。

牧師であれ信徒であれ、根本にあるのは仕える姿勢であると考えられます。牧師を特権化するのではなく、仕える者として互いに生きることは、聖書を軸として考えたとしても、自然な方向性だといえます。


おわりに

牧師と牧仕。呼び方の違いは、教会における権威や役割の理解に直結する大きな問題であると思われます。

牧仕という表現は、牧師を「仕える者」として再定義しようとする試みであり、万人祭司の理念とも通じているようにも思われます。カトリックにおいても、信徒の祭司性は司祭とは区別されつつも認められており、信徒も神に仕える存在として理解されています。

最終的な大牧者はただ一人、キリストと考えられます。そのことを見失わず、牧師も信徒も共に仕える姿勢を持つこと──これが、教会にとって大切な視点であると言えるのでしょう。

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