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あなたがたが知らずに敬っている神──パウロの語りと、日本に生きる神を畏れる人々へ

※この記事は、聖書に基いて考察を進めたものです。内容は、ご自由にご判断お願いいたします。

はじめに

第一コリント信徒への手紙15章──そこには、キリスト教神学において核心的だと思われる箇所があります。

すなわち、キリストの復活について語られています。

そして17節には、使徒パウロの非常に大胆で決定的な主張があります。

もしキリストが復活しなかったとしたら、あなたがたの信仰は虚しく、あなたがたは今もなお罪の中にあるのです。

第一コリント信徒への手紙15章17節

この一節は、キリスト教における「キリストの復活」の決定的な重要性をはっきりと語っています。復活がなければ、キリストへの信仰そのものが虚しいものである、というのです。「虚しい」という言葉には、意味がない、効果がない、などの意味合いがあります。つまり、「復活がなければ、キリストを信じても、実際の意味は何もありません。」ということです。

けれども、ここには続きがあります。「あなたがたは今もなお罪の中にある」──この言葉に私は改めて注目しました。

もしキリストが復活していなかったなら?

私は、このような問いを立ててみました。

「もしもキリストが復活していなかったとしたならば、キリストを信じる者は何者になるのだろうか?」

第一コリント信徒への手紙の中のパウロの言葉を真剣に受け取るなら、キリストの復活が偽だった場合、キリストを信じる者には宗教的な意味において罪が残るということになります。そしてこの「罪が残る」というのは、前提として「罪が存在する」という立場に立っています。

これは何を意味するのでしょうか?

それは、パウロがユダヤ教の神観・律法観を前提として議論しているということです。つまり、キリストの復活がなかった場合、キリストを信じる者は依然として「律法の下にある」状態、つまりユダヤ教的世界観の中にある、ということになります。

私たちは神を畏れる異邦人か?

ところがキリスト教徒は、割礼も受けていなければ、ユダヤ人の家系でもありません。狭義のユダヤ教徒とは言えません。しかし、神の存在を信じ、畏れ敬う心を持っているなら、新約聖書の使徒言行録に登場してくる「神を畏れる異邦人」のような存在として理解できるのではないでしょうか。

補足しておきます。「異邦人」とは、ユダヤ人ではなく、律法や神の契約に属していないとされる民族を指します。ユダヤ教の視点では、神の民でない“外の民”という意味合いを持っているとされます。

なお、ここでいう「ユダヤ人」とは、単に民族的な意味だけでなく、ユダヤ教の信仰を持つ人々という宗教的な意味合いも含んでいます。現代でも、ユダヤ人とユダヤ教徒はほとんど重なるものと言われており、ユダヤ教徒は自分たちこそが神に選ばれた民(選民)であるという責任感を持ち続けているとされます。

この「異邦人」という考え方は、旧約聖書の時代──少なくとも2500年以上昔から存在していたものであり、驚くべきことに、現代においてもこの言葉は生きていて、使われています。ユダヤ教の視点からすると、今現在においても、私たち日本人も「異邦人」として見られています。

新約聖書の使徒言行録には、ユダヤ教に改宗してはいないものの、ユダヤ人が信じる神を敬い、ユダヤ教の宗教施設にも出入りしていた「神を畏れる異邦人」たちがたびたび登場します。

これは、驚くべき示唆に思えないでしょうか

もしも、復活が偽であるならば、あるいは、キリストの復活を信じず、唯一の神を信じるとするならば、キリスト教徒という存在は、神を畏れる異邦人のような存在になるように思えます。
そして、ここで考えてみます。逆に言えば、今もなお、日本人の中にも、知られていない神を敬い、善く生きようとする方々がいるのではないでしょうか。そのような人々こそ、使徒言行録に描かれた“神を畏れる異邦人”の現代的な姿なのかもしれません。

使徒パウロならば、そのような人々を神を畏れる異邦人と呼ぶのではないか──そう考えられるようにも思えたのです。

日本における「神を畏れる異邦人」の可能性

私たちの身近にも、こう語る人はいないでしょうか。

「宗教には詳しくないが、神のような、何か大いなる存在がある気がする」
「天国とか地獄とかは分からないが、死後も意識し、善く生きていきたい」
「先祖や家族を大切に思うし、“目に見えない何か”が働いている気がする」
「自然の中に、世界を超えた唯一の神の存在を感じている」

これらは、聖書やキリストが関わっていないという意味においても、キリスト教ではないでしょう。けれども、そこには「創造主の存在」や「畏れ」に似たものがあるように感じられます。まさにそれは、「神を畏れる異邦人」の姿にも重なる部分がありそうです。

このような人々に対しては、おそらく使徒パウロならば、このように呼びかけるのではないでしょうか。

あなたがたが知らずに敬っている神について、私パウロがお知らせ致しましょう。

使徒言行録17章23節(意訳)

キリストによる招き

キリストを信じる者も、こう言うことができるかもしれません。

「知られざる神を敬うあなたに、私も神を信じる一人として申し上げます。神は、御子イエスを通して、ご自身を現されました。キリストの贖罪の死と復活は、神が人を愛し、和解を求められているしるしです。どうかこの福音を受け入れてください。ともに、キリストを受け入れ、神の子として生きましょう。」

このような呼びかけは、信仰における親族関係の認証とも言えるものかもしれません。

結びに代えて

もしもキリストの復活が真実であるならば、それは単なる思想や物語ではありません。神の計画の中で、救いがすでに差し出されている──そうした現実の知らせとなることでしょう。

そして、その前段階としてすでに神を敬う人々──つまり、日本における「神を畏れる異邦人」たちにこそ、福音はいま静かに語られるべきだとも考えられないでしょうか。

それは、これまでの宗教観に対する否定というよりも、それらを踏まえたうえで、敬意をこめて差し出されるキリストによる招きと理解されるべきではないでしょうか。

さらに、キリスト教の視点からは、キリストを信じる者は、もはや「異邦人」ではなく、キリストによって新しくされた『真のユダヤ人』であると見なされています(ローマ書2:28–29、第二コリント書5:17参照)。
これは、ユダヤ民族に属するかどうかではなく、信仰によって神の民に加えられるという、新約聖書における恵みの中心的な考え方です。

もし、そうであるとするならば──
神を畏れ、キリストの復活を信じようとする私たちにも、まさに神の民としての希望が開かれているのではないでしょうか。
聖書によるならば、神は、キリストを通して、死を超えた永遠のいのちへの道を開かれた、とされています。

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