復活派の信仰において「最も大切な教え」とは何か――第一コリント書15章に関する一考察
※この記事は、特定の教派・信仰の立場を断定することを目的とするものではありません。信教・思想・良心の自由を尊重した上で、一つの神学的考察として提示するものです。
1. はじめに
この記事では、「復活派」「復活主義神学」と名付けている信仰の在り方において、最も重要であるとも見なされ得る新約聖書の言葉について考察してみたいと思います。
復活派、復活主義神学とは、キリスト教信仰の中心をイエス・キリストの贖罪の死と復活に置き、とりわけ「復活信仰」を意識し、基盤とする信仰姿勢を指すような試みです。
では、そのような立場において、新約聖書の中で「最も大切な教え」と呼び得る箇所はどこにあるのでしょうか。その問いに対し、取り上げたいのが、第一コリント書15章であると考えます。
2. 「最も大切なこと」として伝えられた福音
以下は、第一コリント書15章1–11節の内容です。
さて、兄弟たち、私はあなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。
それは、あなたがたが受け入れ、またその中に立っているものです。この福音によって、あなたがたは、すでに神の救いの中へ迎え入れられています。その救いは、私が伝えた言葉と結ばれている限り、現実のものとして保たれます。そうでなければ、それは意味のない信仰になってしまいます。
私が受けたものの中で、最も大切なこととして、あなたがたに伝えたのは次のことです。キリストは、聖書に従って、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に、聖書に従ってよみがえられました。そして、ケファ(ペトロ)に現れ、次に十二人に、さらに五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その多くは今も生きています。その後、ヤコブに、そしてすべての使徒たちに現れ、最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れました。私は教会を迫害した者であり、使徒と呼ばれるに値しない者ですが、神の恵みによって今の私があります。そして、その恵みは無駄にはなりませんでした。 私であれ、彼らであれ、このように宣べ伝え、このように、あなたがたは信じたのです。
3. コリント教会という「不安定な共同体」
この手紙は、パウロという人物により、西暦53〜55年頃、コリントという都市にあったキリスト信仰者の集まりに宛てて書かれたものとされています。
コリントは、商業都市であり、多文化・多宗教が交錯し、倫理的にも価値観が混在する環境にありました。
そのため、現代にまで残るコリント書を読む限りにおいても、コリント教会は、党派争い、道徳的な混乱、信仰の中での誇示、教理理解の不一致といったような問題を多く抱えていた教会であったと理解されています。
そのような不安定で揺らぎやすい教会に向けて、パウロが「最も大切なこと」として改めて強調していたのが、キリストの死と復活の福音であった、ということは興味深いところではないかと思わされます。
4. 新約聖書における「最も大切な教え」
パウロはここで、「私が受けたものの中で、最も大切なこととして伝えた」と、はっきり書いています。
新約聖書の中で、キリストの死(と復活)の後に書かれた文書において、このように明確に「最も大切なこと」と位置づけられている箇所は、実際、この部分をおいて他に多くはないものと考えられます。
新約聖書は、キリスト教における正典であり、特にプロテスタントの信仰においては、最も規範的であり、基準とされる文書群です。
その新約聖書の中で、この死と復活の福音が「最も大切な教え」として位置づけられている以上、論理的に考えても、ここが信仰の中心に据えられることは自然であるように思われます。
これはプロテスタントに限らず、カトリックや無教会主義などを含めた他のキリスト教諸派においても、無視できない観点であると言って差し支えないでしょう。
5. 復活派の考え方との関係
以上の点を踏まえると、復活派、復活主義神学と名付けた信仰の姿勢は、新約聖書の中心に立ち返り、「最も大切なこと」とされた教えを基盤に据え、キリストの死と復活を信仰の核とするという点において、十分に成立し得る考え方ではないかとも思われます。
これは新しい教義を付け加えるというわけでもなく、むしろ聖書内部の重心を、改めて明確にする試みと言えるのかもしれません。
6. あえて自由な考え方をしてみる
ここで少し、あえて自由な思考実験をしてみたいと思います。
パウロは次のように語っています。
「この福音によって、あなたがたは救いの中に迎え入れられている。それが保たれないなら、その信仰は意味のないものになってしまう。」
この言葉を、どのように理解することができるでしょうか。
【1】この言葉が真理であると考える場合
もしこの言葉が、使徒パウロによって語られ、現代においても有効な真理であると考えるならば、それは一般に言われる「キリスト教信仰」そのもののようにも言えることでしょう。キリストの死と復活を信じ、その信仰の中にとどまることが、救いに結びつく。これは、復活派が強調しようとする「復活を憶える信仰」とも重なるものと考えます。
【2】この教えが虚偽であると考える場合
一方で、この教えそのものが誤りであると考える立場に立つとするならば、ここで描かれているのは、本当は存在しない救いを信じている状態だとも言えるように思われます。その場合、この信仰の姿は、ある意味で憐れなものに見えるのかもしれません。
【3】時代限定で有効だったと考える場合(新たな仮説)
ここで、あえて通常はあまり取られない第三の可能性を考えてみます。
この言葉は、確かにパウロの言葉だが、当時のコリント信徒に対してのみ、特別に有効だったというような理解の仕方です。
つまり、この教えが広まり、キリストの自己犠牲の愛が世界に伝えられること自体が、神の意志だったと考えるような立場です。
理論的には可能な理解であると考えられますが、一方で、パウロの言葉や新約聖書の言葉に「有効期限を設けることになる」という点で、道徳的・宗教的に非常に難しい問題を含んでいるようにも思われます。
7. 二分され得る福音の重さ
以上を整理すると、【3】の時限的な理解を除けば、結局のところ【1】か【2】か、つまり、
キリストの贖罪と復活を認めるか
認めないか
というような、二分的な構造が浮かび上がってくるようにも考えられます。
パウロは、きわめて重い伝え方をしているように考えられます。しかしそれは、コリント教会の不安定さを前にして、信仰の中心を明確に示そうとした結果だったとも理解できるように思われます。
8. おわりに
第一コリント書15章に記されたこの言葉は、復活派、復活主義神学と名付けた信仰の在り方において、極めて重要な位置を占めるものだと考えています。
それは新しい主張というよりも、キリスト教の中心に何があるのかを、改めて問い直す試みであるように思われます。
この考察が、信仰を持つ人にとっても、持たない人にとっても、何かを考えるきっかけになれば幸いです。
