日本における伝道の出発点──まず「復活」を知らせることから
※この記事は、信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、一つの信仰的思索としてお読みください。特定の立場や教派を代表するものではありません。
日本人と「復活」知識の現状
日本でキリスト教が広がりにくい、と聞いたことがあるかもしれません。その背景のひとつには「知識の不足」があるものと考えられます。
多くの日本人は「イエスが十字架にかけられた」ということまでは知っているものと思われますが、その後の「復活」がキリスト教の核心であるということを知らない人が多いかもしれません。仮に推定をしてみるとすれば、復活という教えがあるということ自体を知らない、あるいは憶えていないという人は人口の50〜80%にのぼり、さらに「キリスト教徒が真剣に復活を信じている」と理解している人は5〜10%以下程度にとどまるもののようにも思われます。
つまり、「復活」という言葉自体を知らない、あるいは象徴的な物語だと思っている人が社会の大部分を占めていると考えられるのです。
欧米との違い
欧米社会においては、信じない人の中には「復活という教えを知っているが信じない」という人が多いように考えられるのに対し、日本においては、「復活をそもそも知らない」という段階から始まるように思われます。
この違いは大きく、欧米におけるキリスト信仰の伝道は「受け入れるかどうか」が課題になると思われますが、日本の伝道は「まず知ってもらうこと」が課題だと考えられます。信じる、信じないの以前に、前提となる知識そのものが共有されていないと言えるからです。
数字から見える可能性
現状においては、一つの試論として、キリストの教えの核心に復活の事実性があると「知っている人が5〜10%」の中で、日本において復活を「信じている人は1%程度」と推定することも可能であるように考えられます。
そして、そうであるとするならば、もし復活を「知っている人」が100%に広がったとき、もし同じ比率が保たれると仮定をするならば、10〜20%の日本人が復活信仰に至る可能性があると考えられます。
これは単純な仮定ですが、非常に示唆的ではないでしょうか。キリストに関する知識の普及が進めば、信仰の受容も比例して増えていく可能性があると考えられるのです。そして、信じる人が増えれば、新しく復活を信じた人たちの経験や共同体の力によって、復活信仰の「現実」がさらに強化され、信仰の連鎖が広がっていくと考えられるでしょう。
信教の自由とインターネット伝道
もちろん、信仰の宣伝は、批判にさらされることなどもあります。日本社会において「信仰を語ること」は抵抗を受けやすい行為であるとも考えられます。
しかし忘れてはならないのは、信教の自由は憲法で保障されている権利だということです。表立って信仰を語ることが難しい状況もありますが、法的には全く許されている行為と言えるでしょう。
特に現代においては、インターネットがあります。匿名であっても、誰でもキリストの「復活」というメッセージを伝えることができます。ブログやSNS、動画配信など、表現の場は多様に開かれており、そこでは「信仰を語る自由」も保障されています。
復活を伝える役割
もしもキリストの復活が事実であり、そこに救いがあるのだとすれば、その知らせを伝えずに沈黙するのはむしろ望ましくないことです。伝えることは、強制ではなく、希望をシェアすることと考えることが出来るでしょう。
キリスト信仰者は、ただ「自分が信じて満足する」のではなく、復活が救いの根拠であるということを知らせる役目を負っていると考えることも出来るでしょう。これは教会の大きな課題であると同時に、個々の信仰者にとっても重要な課題であると考えられます。
おわりに
日本における伝道の難しさは「無関心」「無知」から始まるもののようにも思われます。だからこそ、第一歩は「復活を知らせること」にあると考えられるのではないでしょうか。
信じるかどうかはその後の話ですが、まず知識を共有することこそが、信仰の可能性を開くものと考えられるのではないでしょうか。そして、信教の自由のもとに、特にインターネットの場で、誰もがその知らせを伝えることが出来るようにも思われます。
日本における伝道は、「復活を知らせる」という小さな第一歩から始まるとも言えるのではないでしょうか。
