見出し画像

掌編小説|似合ってる




鏡の中の私は、いつもより少しだけ他人の顔をしている。 チップを唇に滑らせるたび、粘り気のある透明な膜が、言葉を封じ込めるように厚くなっていく。

「そんな色持ってた?」

背後で、クローゼットを漁る彼の手が止まった。鏡越しに視線が混ざる。

「これ、あんたがくれたやつやけど」

私は一度だけ、唇を重ねて馴染ませた。ぱちっ、と、上下の唇が離れるとき、小さな音がした。

「知らん、忘れた」

彼は興味を失ったように、またハンガーを鳴らす。

「……ほんまに?」
「あげた覚えないねんけど」
「ああ、その程度なんやな」

私はティッシュを一枚取り出し、半分に折ってから、唇の端を軽く押さえた。 真っ白な紙に、不自然なほど鮮やかな嘘の色が移る。

「……嘘やん、それ」

彼が、私の隣に立った。 洗いたてのシャツの匂いが、人工的な果実の香りに混ざる。

「……何が?」

私は鏡の中の彼から、視線を外さない。

「そのグロス、俺が選ぶわけない」
「なんで」
「俺、そのブランドの匂い、嫌いやねん。知ってるやろ」

彼は私の肩に指をかけ、その指先で、私が拭き残した唇の端をなぞった。 指先に、ねっとりとした色が残る。

「ほんま。……じゃあ、誰にもらったんやろうね」

私は笑ってみた。 頬の筋肉がうまく動かなくて、引き攣ったような形になったけれど、グロスの光沢がそれを「微笑み」に塗り替えてくれる。

「……まあ、ええわ。似合ってるし」

彼は自分の指についた色を、私のカーディガンで拭った。白地に、小さな赤い染みが滲む。

「行こか」

彼が先に部屋を出る。私はもう一度だけ鏡を見た。塗り直す時間はない。


いいなと思ったら応援しよう!