34歳、はじめての流産レポ。
2025年7月3日の午後11時を過ぎたところ。茹だるような熱を帯びた、真夏が迫り来る初夏のその日。
淡いピンク色の椅子に座り、パッカリと開いているわたしの股には恐らく器具のような何かが差し込まれていた。グチっと、鈍くこじ開けられるような痛みが内臓を走り抜けた。次の瞬間、ずるりと何かが滑り落ちた感触がした。しばらくすると腰の裏にじんわりと生暖かいものが流れる感覚がして、それが自分の股から流れ出た血液だとすぐにわかった。
わたしの腹に芽生えた「ソレ」は、あっという間にわたしの中からずり落とされ、そして2度と戻ることはないのだと理解した。
34歳、わたしにとっての初めての流産であった。
30代、2人目の妊活
息子が2歳を過ぎた頃、相方と話し合って2人目の妊活を始めた。約10ヶ月は前のことである。
もともと「子供がいるかどうか」すら悩んでいた私であったが、いざ産んで世話をするうちに「我が子は死ぬほど可愛い」というアホ丸出しかつシンプルな感情と確信が優るようになっていた。
もちろん酷く長い悪阻と産後の股の裂け目の痛みを思い出せば気が滅入り、ものすごいスピードで顔が歪むのは今も変わらない。だからこそ、産後も2人目の妊活に対して易々と乗り気になれる訳ではなかったし、またこんなシンドイ思いをしないといけないのかと気が重かった。
だが時間のおかげなのか、生物として痛みを忘れるようにできているか。その仕組みはさっぱり分からないが、不思議と時が経つごとに2人目に対する欲みたいなものが首元をぐるぐると動き回っているような気がした。
何となく、産めるものなら産めるだけ産んでおきたいなと思った。
とはいえ自分自身が少し妊娠しにくい体質であることもあり、前回に比べると妊活は長丁場となった。取り組みから8ヶ月ほど経った頃、いよいよ不妊治療行きかなと思っていたわたしはある日の朝、ふいに妊娠検査薬の「陽性」を手にする事となった。
待望の、2度目の妊娠である。
つかの間の喜び
これがお恥ずかしながら、結構うれしかった。
34歳という、妊娠するには少し年嵩と言われてもおかしくない自分自身に「妊娠する能力がまだある」という事実そのものが本能的に嬉しかったのかもしれない。また新しい家族に対し、その頃には3歳になるであろう息子が一体どんな反応をするのか想像するだけで顔が綻んだ。
他の誰にもシェアできないその胸の内の喜びを、パートナーとこっそり分かち合った。
1人目のときにも妊婦検診を受けていた近所の産婦人科に足を運ぶと、胎嚢(赤ちゃんの入る部屋)が確認できた。推定で6週目手前とのことだったが、まだ心拍が確認できないため、はやる気持ちを必死に抑えた。
週が明けても、悪阻らしき症状はでなかった。
1人目の妊娠時はつわりが相当に重く、ほぼ寝たきりの時間が3ヶ月ほど続いた。今でも思い出したくないほどの悪夢であるが、今回は6週、7週を時間が経過してもその兆候が一切見られなかった。第1子の時のつわり日記を見返すと妊娠5週の時点ですでに大半のものが食べられなくなっていたようなので、今回はもしかしたらつわりなしの妊娠になるのでは?と半ば浮かれていた。
初回の検診ではかくにんできなかった心拍も、2週間後に再検査すると7mmほどのソレと、確かな心拍を確認することができた。第1子以来に聞く、機械で増幅された独特のその音は、懐かしくすら感じた。
妊娠12週までに起こる早期流産のうち、80%以上が9週未満の超初期に起こる。その中でも心拍確認がされない期間が流産の大半を占めているため、一般的には「心拍確認が済んだら、一気に流産の確率は下がる」と言われている。
無事に心拍確認を終えたわたしは、ひとり診察室で胸を撫で下ろした。
あとは当面の同僚との飲み会をのらりくらり回避し、母子手帳をもらい、穏やかに安定期を待てばいいと過信していた。しばらくお酒が飲めないことを、ちょっと寂しく思っていた。
たぶん気の早いわたしは、もう、腹の中にいるソレの母になる気でいたのだと思う。
突然の兆候
さらにその2週間後、8週目に差し掛かったところで出産予定日を決めるために3度目の検診に行った。いつも通り状態について受け答えをし、股を開いてエコー検査を受けた。
ソレは前回と変わらず、心拍を打ち鳴らしていた。
ただ最後の生理から逆算した週数に対し、少しまだサイズが小さいとのことで、さらに2週間後に再度検診を行い正確な出産予定日を決めましょうとの診断を受けた。わたしの体質上、生理周期の長さが影響して普通の人より受精日が遅れやすい(31〜33日ある)これは第1子のときも同様だったので、特に何も気には留めていなかった。
しかし翌日の夜、仕事上がりの下腹部に妙な鈍痛が走った。
いつも通り息子を迎えに行き、帰宅して夕食を済ませたぐらいから、腹部に妙な鈍痛があることに気がついた。お風呂を済ませて夜になると、若干の茶色い織物のような粘液がショーツについていた。
妊娠初期に些細な出血があることは珍しくない。胎盤の生成過程で多少の血が出ることもあるからだ。それは知ってはいたのだが、徐々に粘液がピンクがかっていき、鮮血とまではいかないが明らかに出るものの量が増しているのがわかった。それと同時に、ズンとくる腹痛もじわじわと増していった。
考えたくもないが、とてつもなく嫌なことが脳裏をよぎった。
念の為と言いつつ、翌朝にすぐ産婦人科を再診した。主治医からも「心拍は引き続き聞こえているね」という言葉に胸を撫で下ろした。とはいえ出血はしているので止血剤と、子宮の収縮を抑える薬をそれぞれ処方された。
あとは安静にするしかないことだったので、仕事を休んで床に伏せった。
布団の中で予定していた様々なミーティングをキャンセルし、必要最低限の連絡と引き継ぎを終えたところで力尽きた。腹痛はどんどん増していき、ついでに頭痛も激しくなっていき、その日の夜にはもうとても通常の生活ができる状態ではなかった。
頭の中で歯を食いしばり、考えることをできる限り放棄した。真夏だというのに羽毛布団に全身くるまり、身を隠すように一晩を過ごした。
足の指一本でもはみ出していたら、何かよく分からないものに足を掴まれて、そこで全部を持って行かれてしまうような気がした。
鈍痛とトイレ
翌日、相変わらず体調は最悪だった。
血の出る量はわかりやすくは増えてはいなかったが、とても減ったとは言えない内容だった。何より自分の淫部をトイレットペーパーで拭くたびに血が滲むので、その度に腹の奥底を切れ味の悪い刃物で抉られるような、酷い気分だった。
止めておけば良いのに、似たような状況の妊婦達の経験談やツイートを見て漁り、半分の楽観と、もう半分の最悪を頭の中で反芻した。布団の中でもインターネットにつながる時代を少しだけ恨んだ。
そうして不安に絡め取られそうな永遠とも思える時間に沈み込んだ午後3時過ぎ。腹が痛くなって、わたしは不安を抱えながらトイレで少しばかり力んだ。力を入れると、何かぎ出てしまうのではないか。そういう根拠のない恐怖感と苦痛が、狭いトイレの中でギシギシとせめぎ合っていた。
しかし尿意に対し、背に腹は変えられないと僅かに腹筋に力を入れた。
その時、ずるりと何か生暖かい塊が股をすり抜け、ぼちゃんとトイレに落ちる音がした。瞬間、「あっ」と間抜けな声を出して、わたしはその場に固まった。怖くて、しばらくトイレから立ち上がれなかった。
直感的に、何か大切なものが出てしまったと思った。
恐る恐るトイレに手を突っ込んでみると、直径2センチほどの滑った塊が手に残った。半分はレバーのように赤い血塊で、もう半分はタコの刺身のような白い塊であった。数秒間ソレを見つめたあと、水滴を払って台所まで歩き、ジップロックに塊を入れて冷蔵庫にしまった。そしてその場に、しなしなとくたびれた野菜のように静かにへたり込んだ。
瞬間、世界の音がぴたりと止んだ。
おそらくこの白い物が、わたしの腹の中にいた「ソレ」なのではないかという恐ろしい推察が、ものすごい速さで脳裏をよぎっていた。
止まない頭痛
とりあえず事の顛末をパートナーにSlackで一報すると、即座に「今から帰るわ」と返事が返ってきた。こちらから頼んだわけでもないのに、何かが確定したわけでもないのに、すぐに仕事を放り出してきてくれた彼の対応に感謝と愛おしさがあふれた。
それと同時に、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。わたしは声を押し殺して、ひとり泣いた。
しばらくするとパートナーが帰ってきて、念の為にすぐ受診をしようという話になった。何よりもまず母体に何かあってはいけないと、彼の配慮でもあった。
生憎、いつも通っている病院が定休日だったため近くの別の病院に電話をかけ、経緯を話し、痛む腹を押さえてパートナーと共に病院へ向かった。歩くたびに、股から血の塊が流れ出るのがわかった。これほどまでに、歩くのが怖いと思ったことは未だかつてなかった。
少しくたびれた印象の病院ではあったが、電話した者ですと伝えると受付の看護師さんたちは優しく対応してくれた。平日の日中だったため私たちの他に来院客はほとんどおらず、先にいた若夫婦が去ると私たちだけとなった。
尿を取り、診察室に入るとあらためて症状を伝えた。念の為持ってきていた「股から出てきた塊」をジップロックに入れて見せたが、主治医は一瞥しただけで特にコメントはなく、エコーで見てみましょうと速やかに診察台へ案内した。
いつもより暗く、重い天井だった。
椅子に座って股を開き、機械がねじ込まれた。いつもの機械より若干痛い気がしたが、それが機械の種類の問題なのか、わたしの内部の状態の問題なのかは不明だった。いつもの病院だとエコーの画面を見ながら診察されるのだが、この病院では機械自体がカーテンの向こう側に位置しており、わたしはただただ薄暗いカーテンを見つめることしかできなかった。
たった数十秒であろうその間は、わたしにとっては永遠とも思える長い長い時間であった。
しばらくして「旦那さんも見られますか?」という看護師の声掛けに頷くと、スライドドアを押して入ったパートナーが椅子の横に立った。そしてカーテンが半分開き、モニター画面がわたし達の前に出された。そして、そこには昨日見たものと全く変わらないソレの姿があった。
わたしの股から出てきた何かは、少なくともソレではなかったとわかり、胸を撫で下ろした。しかし、そんなわたしの安堵を遮るように、主治医の淡々とした言葉が一気に鼓膜を通り抜けた。
「ただ、心音は確認できなそうです。」
グヌグヌと何度も確かめるように陰部の中が機械で掻き回され、見せられたエコーの画像。そこには、確かにこれまで何度も目にしていた、小さな台風のようにも見える心臓の動きを示す塊が見当たらなかった。
その瞬間、ああ、とか。ううんとか、声にも言葉にもならない感情が込み上げた。次いで、そうですか。と小さい声で返事をした。機械が股から抜け出ると、機械的な音を立てて椅子が降りて、わたしは黙って下着に手をかけた。
涙が出なかった。
淡々と今後のすべき対応を聞き、会計を済ませ、痛む下腹部を押さえながら帰路についた。空が、今にも落ちてくるような重さをまとっていた。
空気は鉛のように重くて、足を拭きずるように歩いた。家に帰って布団に傾れ込むと、その後は割れんばかりの強烈な頭痛に襲われてどうにかなりそうだった。
生きている人間の身体の中に、小さな死が滞在していた。その異質な事実を、わたしは頭の中ですら上手く触れられずにいたのだと思う。
さよなら7ミリメートル
次の日、いつも通っている産婦人科に足を運んだ。夜通し腹痛は続き、体調的にも何もできない状態が続いていた。今思うと、尻の穴を鈍器で叩きつけられるような、限りなく陣痛に近い痛みであったようにも思う。
診察室に入り、主治医に経緯を話すと速やかに診察台に案内された。降ろした下着の上のナプキンは、溢れんばかりの血で染まっていた。明らかな鮮血であった。
エコーの画像を見せられた瞬間、昨夜と全く様相が異なっていることが見てとれた。中央にどうどうと巣を構えていたちいさな「ソレ」は、右下に追いやられるようにひっそりと位置を変えていた。
「ああ、もう剥がれて、自然流産が始まってますね。」
主治医が静かな声で言った。わたしは、言われなくても見りゃわかるよと思って、はいと乾いた返事をした。これであとは自然に流れ出るのを待つだけか、嫌だな、とポツリポツリ頭の中の言葉を拾っていると、急に陰部に痛みが走った。
主治医が何か言った気がしたが、私は痛みに気を取られて数秒動転した。そして「ごめんね、痛いね。」と子供をあやす様な声掛けがあったと思ったら、瞬間、ずるりと何かが股から抜け落ちた感覚があった。背中には、鈍い温もりを感じた。私の血液だった。
「引っかかってたの、出ましたよ。たぶん全部出たと思います。」
主治医はカラッとした話し方で、言葉を空に放り投げた。わたしは不意を突かれて、一瞬、何が起きたかわからなかった。
なんの覚悟もなしに、「ソレ」はトレーの上に引き摺り出されて運ばれていった。思わず「ソレ」をひと目見たいと口が滑りそうになったが、いま見てしまったら、よく分からない自分の中の何かが耐えられなくなる様な気がして、何とか必死に口をつぐんだ。多分、それを今でも、ひとかけらほど後悔している。
34歳、初めての流産であった。
空っぽの身体と日常
そこから、3日は床に伏せった。
あまりにも腹痛と頭痛が酷くて、ロキソニンをガバガバ飲んだ。ロキソニンを飲んで良い身体になったという事実そのものが、地味に堪えた。しかし、そんな感傷に浸っている余裕もないほどの圧倒的な体調不良であった。
結局、流産の前後合わせて仕事を1週間近く休むことになった。何も考えたくなくて、ひたすらにYouTubeで都市伝説の動画を漁るように見た。何を見たのか、聞いたのか、今となっては全く思い出せないが。今のない考え事を止めるには効果はバツグンだった。
今回は5Gが使える令和のおかげで、どうにか今のメンタルが命拾いしたと本気で思った。しかし興味のある動画がひと通り見終わると、すぐに現実に戻される。言葉が溜まるとパートナーにつらつらと話しかけて、少しばかり癒してもらうと、勝手に自己完結してまた布団に潜った。
流石に我慢したが、もうとにかく酒が飲みたかった。
あまりにどうしようもないので、思わず布団の中でエディタを開いた。この感覚を、感情をできる限りそのままに書き残しておこうと思った。時系列に沿って文章を書き起こしていくと、自分でもびっくりするぐらいボロボロと涙が溢れた。それはもう、ビチャビチャと音が鳴らんばかりの大粒の雨のようだった。
わたしは水滴を垂らしながら、一心不乱でキーボードを叩いた。言葉にするたびに自制という何かが頭の中で外れて、押さえ込んでいた感情が身体中から脂汗のように一気に溢れ出した。悲しいとか、そういうわかりやすい感じではなかった。
全身が、ただただ震えるように叫んでいた。今のわたしにできる、最大の抵抗運動であった。
日々は巡る、跡が残ろうとも。
それから数日が経ち、仕事に戻った。
流石に「流産です」とは気軽に言える気分ではなかったので、腰を盛大に痛めたと嘘をついた。実際、数日はろくに歩けないほどに腰も痛かったのでまあ大きい括りで嘘ではなかった。
いつもより少し早めに仕事を終えて、保育園に向かう。
荷物をまとめ、息子と手を繋ぎながら少し歩きにくい上り坂を登り、帰り道の惣菜屋で夕飯を買う。とても自炊する気力はないので、息子と2人分の揚げ物を買い込んだ。
ふとこの時間、同じように送り迎えをする多くの保護者が目に留まる。誰かは笑っていたり、また誰かは泣いている子供をいなしている。そしてその中に、たまにお腹の大きい女性が居たり、新生児を大事そうに抱えている人が横を通り過ぎる。
とても、自分とは思えない何かが腹の底で蠢いていた。
重くグチャグチャに絡み合った毛玉がドブの中を転げ回り、果てに身動きが取れなくて身悶えていた。しばらく、この感情をどうすればいいのか、全く分からなかった。
家に帰ると、息子がテレビを見ながらノリノリでダンスを踊る。普段なら見過ごしてしまいそうなその謎の動きを、わたしはじいっと見つめた。彼は「俺は生きているぞ」と言わんばかりに、全身で生を主張していた。
ふと膝をついて両手を広げると、彼は眩いばかりの笑顔で突進してきた。14キロの衝撃をしかと受け止めると、思わず、わたしはそのままキツくキツく彼を抱きしめた。
「ありがとう」
腹の底から重く、ヘドロの中を掻き分けて登ってきたその言葉とは裏腹に、酷くか細い声が出た。心からの言葉だった。
なり損ないの悲しみを抱えて
終わってみると流産とは案外不思議なもので、妙な悲しみを纏っている。
現象としては「死」そのものであるはずなのだが、葬儀があるわけでも、ソレに名があるわけでもない。周囲にすら伝えることもなく、統計にカウントされることもなく、ひっそりと私たち夫婦と主治医との間だけで交わされる密約の中でしだいに風化していく。人によっては、永遠になかったことのように周りに隠し切っで生涯を終える人もいるのだろう。
しかし、どうしたってわたしの腹の奥底には、もう消えない跡のようなものが残っている。肉体的にも精神的にも、無かったことには到底できない、そんな妙な感覚だけがあった。それは実の父を看取った時に近い感覚で、今ここにいる自分が、つい先日までの自分と、すっかり全く異なっているように思えた。
自分という器だけが、家の中をゆらゆらと徘徊していた。
それまでのわたしはどこか空に浮いていて、器の付近を静かに漂っていた。わたしのここまでは、もうその器にはもう戻れないのだと悟った。器の中は内側から染み出した新しい何かで、足先から頭頂までヒシヒシと液に満たされていた。
こうして、たまにひとは人が変わったかのように、ある日からまた生きだすのだろう。それまでとこれからを決定的に何かが隔てて、全く違うものとしてしまう。その手前にはもう戻れないし、戻りたいとも思わない。
わたしはこの、何だかよく分からない感情を一生抱えて生きていけるのだろうか。できることなら、なるべく長く、忘れずに抱えていたいと今はただただ願うばかりだ。
あとがき
この文章はおよそ9ヶ月、流産直後の自分が書いた文章だ。
排出後の痛みで仕事ができるような体調でもなく、布団の中で歯を食いしばるように書いた記憶だけが残っている。特に物語のような展開やオチがあるわけでもなく、とにかく全てを忘れまいと、当時の事象を時系列で必死に書きつけた、という表現が正しいだろう。
そして過去に書いてきたいろんな書き物の中でも、とりわけ自分のために書いた文章でもある。
誰かの役に立ったらとか、先達として、みたいな気持ちは微塵もなく、ただただ、わたしがこれにまつわる出来事や、感情を、できる限り生っぽい形で残しておきたかった。
現在は、自分が流産をしたなんてちょっと信じられないほどにすこぶる元気だ。昨年秋からは本格的に不妊治療に取り組み始めて、人工授精から体外受精にステップアップもした。
おまけに、自身のポッドキャストで体外受精の体験記を(強がりではなく、心の底から)ゲラゲラと笑いながら話せるまでになった。読者としては脳がバグるかも知れないが、どちらも本心なのでぜひ聞いてほしい(笑)
実はこの文面を書き上げるのは数日もかからなかった。
しかし、公開する気になるのに9ヶ月を要した。
この文章は何度読み返しても、家だろうが電車だろうが遠慮なしにボロボロと涙が出てくる。今日もいよいよ公開しようと誤字の確認も兼ねて読み直していたら、うっかり朝の満員電車でまた泣いてしまった。読む場所を選ぶべきだったと恥ずかしさが込み上げたが、この様子からして、わたしが無くしたくないと必死に願った「何だかよく分からないこの感情」はちゃんとわたしの腹の底に、太い釘でしっかり打ち付けられているようだ。
今のわたしには、この感情とずっとこれから生きていけるだろうという静かな確信がある。と同時に、そこは胸いっぱいの嬉しさがある。
春の陽気に、街中の緑が芽吹き出す通勤路で。わたしはひとり目を潤ませながら、堂々と前を向いて、日の差す横断歩道へと足を進めるのだった。
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令和DINKs、迷いながら親になる。
都内在住、IT業界でハードに働き続けた筆者(30歳)が20代後半から苦悩した「子供が欲しいのか分からない、というか考えたくない。」というひ…
読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃
