「ここではないどこか」はどこにあるのか
シロイのメンバーシップ「離脱して生きる: 少数者のための幸福と自己表現のレシピ」の第6回です。今回は「居場所作り」について考えてみます。
メンバーシップ概要の記事でも説明したとおり、私はメンタルヘルスと創作表現という一見すると離れた2つのトピックを「自分らしく、幸せに生きる」という大目標のもとに一緒に取り扱おうとしています。誰も孤立した状態で心の健康を維持することはできませんが、創作活動にはあなたと他の人間を結びつける力があります。
本来、これは収益化の話などとは無関係に、1円の金銭的利益にならなくともやる価値のあるものです。そうした活動によって自分の居場所を築けたなら、それは逆にこちらからお金を積んだとしても手に入らないものが手に入ったということだからです。
当メンバーシップにて、居場所というキーワードを扱うのは今回が最初になります。よって、今回はややざっくりした概論として、問題の背景の確認と、解決への道のりの大まかな方向性を示すことにします。
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既にご覧いただいたとおり、私が当メンバーシップのタイトルに掲げたのは「離脱して生きる」というコンセプトです。周りを見渡してみれば、この世の中で「息苦しい」「ここから抜け出したい」と感じていない人を見つけるほうが難しいのではないかと思うくらいでしょう。
これは現代社会に特有の……というわけでは全然なくて、そもそも人の世というのは苦しいものなんですよね。西暦の数字を見てもわかるように、キリスト教に2000年くらいの歴史があるということはご存知だと思いますが、東洋でもっと一般的である仏教の歴史はさらに古いものです。釈迦がそうした苦しみの世界から離れるための生き方を説いたのは、今からざっと2500年ほど前のことでした。
とはいえ、私の基本的なスタンスは「事実以外は何も信じるな」「誰にも従うな」「他人の答えはあなたの答えではない」というものなので、あれを信じなさいとかこれを信じなさいということは何も言おうとしていません。空想はあなたを救わないし、権威や偶像もあなたを救いません。
改めて宣言しておくと、「離脱して生きる」というコンセプトは、あくまで現実世界の中で、あなた自身の主体的な判断と行動によって実現される必要があります。(歴史的に見るなら、これは実は釈迦自身の当初のスタンスでもあったのですが、哲学オタクの話は長すぎるので割愛します)
一応、心の世界というものも我々自身の現実の一部であって、伝統的な宗教はそこに一定の意味のある見方や考え方を提供するものでもあります。つまり、これは「客観的な現実への対処」を行うための心の装備品として、まったく無意味なものではないということです。この点はよく誤解されがちなので、少し補足が必要かもしれません。
創作とコアメッセージについて取り上げた第1回記事でも考えたように、小説はフィクションですが、それは現実の世界に対して意味のあるメッセージ、それも「客観的な事実を語るだけでは決して伝えられないような強さのメッセージ」を伝えることができます。この「科学的・合理的な見地に反しない範囲での宗教の価値」については、私が去年出した書籍「人生の意味のつくり方」でも論じていて、その抜粋は「試し読み版 3」で読めるようにしています。
話を元に戻しましょう。今ここでお伝えしたかったのは、人間の社会において「息苦しい」「ここから抜け出したい」という感覚と欲求はかなり普遍的なものであって、それは時代や文化を問わずこれまでも存在していたし、これからも存在していくと考えられるということです。
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ここで、苦しみが普遍的なものだとしても、その形式というのは時代と文化によって異なります。
たとえば、現代の日本国内にて、言葉の元々の意味での「村八分」ということが発生する地域というのは昭和初期ほど多くないものと想像しますが、「コミュニティから爪弾きにされる」という恐怖はいつの時代でも存在しているでしょう。この点はインターネットやSNSのような空間であっても何も変わりません。
苦しみの形式は変化します。生きている限り、あなたや私は必ず苦しみますが、具体的にどういう事件や人物や境遇がそれを運んでくるのかという点はそれぞれに異なっています。それは時代によっても変わるし、あなたと同年代の誰かを比較した場合でも、生まれ育った環境やキャリア選択等の人生の分かれ道によって、細かな違いはいくらでも出てきます。
そして、仮に「そこから離脱するための方法」が存在しているとしたら、その方法もやはり時代と環境によって異なっているはずだということになるんです。
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