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理解されないことを恐れないように

このままならない世界の中では、おそらくみなさんも何らかの不自由さ、窮屈さといった感覚を抱えているものと思います。周りからあまり大切にされていないとか、本当に言いたいことが何も言えない、仮面をかぶって生きているような気がするとか、そんな感じですね。

そこで、一応は民主的でテクノロジーも進歩したこの社会では、何か言いたいことがあれば、それをそのまま「ネットに書く」という自由が存在しています。物理的なできるできないで言えば、それはできるんです。ところが、「自分の感じたことをそのままに書く」ということができる人はそこまで多くありません。

ここには「思ったことを思ったとおりに言語化するのはけっこう難しい」というスキル的な視点もあるとは思いますが、もっと根本的な問題として、人から否定されることや批判されることへの恐れ、理解されないことへの恐れといったものが存在していることが多いようです。

シロイは普段、人の心や生き方についての書籍や記事を書いており、この「どうしてみんながそれぞれに自分らしく生きられないのか」というのもたびたび取り上げる疑問の一つです。

そして、恐れというのは私たちの日々の不幸の根本要因の一つでもあります。仕事上の自己実現、創作による自己表現といった話に限らず、これはもっと深く理解されるべき問題でしょう。

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私は今回のタイトルに「理解されないことを恐れないように」と書きました。あなたがスマホやパソコンに向かって何か文章を書くなら、そのような感覚には取り合わないようにしておかなければなりません。

人は社会的な動物なので、仲間からの評判を気にするというのも生存上の本能の一部であり、それ自体は自然なことです。それでも、「脂と塩分こそが正義だ」という本能があまりよい未来を運んでこないように、あなた自身の幸せのためには、これはいくらか理性によって軌道修正しておかなければならない本能だと言えます。

否定や批判への恐れについて、私からお伝えできる視点は次のとおりです。箇条書きにしてはちょっと長くなりますが、3点あります。

  1. 好き嫌いの問題。どんなに素晴らしい料理でも、口に合わない人は必ずいる。それもけっこうな割合でいる。あなたが何を述べたとしても、それを嫌い、反発してくる人は間違いなく存在するので、反対意見の存在はせいぜい「カレーは辛すぎる」という苦情くらいの意味しか持たない

  2. 複雑さの問題。高校の数学について語りたいなら、読み手にはどうしても中学の数学を理解しておいてもらう必要がある。「わからない」という声に応じて「みんなにわかるようにしないと」と決めるなら、あなたは自分の話を算数のレベルまで落とす羽目になり、大人にとって有意義な内容を何一つとして伝えることができなくなる

  3. 事実の問題。事実は「賛成/反対」や「同意/不同意」の問題ではない。ここには客観的な事実の他に、主観的な事実という視点がある。あなたが「こう感じた」と書くとき、それが世間的に正しいとされていることから外れていたり、客観的な誤認や誤謬が入り込んだりしているケースはもちろんあるが、「自分がそのように感じている」という主観的事実はそれ自体として常に正しい

まず、1番の「好き嫌いの問題」ですが、これは長々と説明しなくてもよさそうですね。私がよく引用するのは、古典的なインターネット名言である「唐揚げですら嫌いだという人はいるのだから、全員に好かれようとするのは無理」という言葉です。(こういう短文一発ですべてが伝わる格言ってすごい!)

というわけで、今回は2番の「複雑さの問題」、3番の「事実の問題」について詳しく説明してみることにします。2番はちょっと長めに、3番はもう少し短くまとめます。

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まず、「複雑さの問題」について。要約すると「数学が難しいという苦情に応えると算数の話しかできなくなる」というものになりますが、ここには注意すべき点が2つあるので、誤解のないよう急いで補足しておきます。

1つ目に、何か単純でない、微妙な深みのあるメッセージを伝えたいとき、伝える側に「わかりやすく伝える努力」が求められるのは当然のことなので、それを放棄してよいとは言っていません。

2つ目に、価値観というのは優劣や正誤の問題ではないので、読み手がそのメッセージに同意してくれなかったからといって「わからない奴だな、理解のレベルが低いんだな」などと考えてよいわけではもちろんないです。

こういう比較や序列という思考の枠組みは、工学やビジネスの世界では必要かつ適切な客観的視点になっていることも多いのですが、人の心や価値観に適用すると大抵が誤りになります。不思議なことに、怪しげな新興宗教やスピリチュアルみたいな分野でも、なぜか魂のレベルとかなんとかいう序列の概念が存在することになっていて、自称「すべてを知っている側」のマスターなんとか師が「知らない側」の迷える子羊を正しく導けるということになっていたりします。私はそういうナンセンスな話をしているわけではありません。

では、「話を算数のレベルに落としてはならない」というのはどういうときなのでしょうか。シロイの過去noteから実例を挙げてみると、ちょっと前に書いた記事「なぜ私は政治の話をしないのか」(2026.5.2)と「悪者がいないと安心できない人々 - 陰謀論、自己責任論、オートマトン」(2026.5.30)がそれに当たると思います。

これらの記事では、「政治が悪くないと言っているわけではないよ」と断りつつ、「政治だけを悪者にしても意味ないよ」と言っています。「悪い人が現実にいないとは言ってないよ」とさらに断った上で、「周りの人間はあなたの敵ではないよ」ということを伝えています。

私はこの記事内で、論理や社会についての理解力の不足によって誤って空想されてしまう、「純粋悪」としての魔王の存在を否定しました。特定の誰かをやり玉に上げた「政治的な」批判しているのではなく、現実の世界に対する私たち自身の理解度や解像度の話をしているわけです。

ここで、「現に対処すべき社会問題がある」という事実と「敵か味方かという思考の枠組みは現実の問題を適切に扱えない」という指摘は普通に両立する話なのですが、なぜだかこれを「矛盾」とか「現実に問題がないと主張している」と解釈してしまう人がいます。こういう人々は「○○は正しい(味方だ)」または「正しくない(敵だ)」という白黒二分の意見しか受け入れてくれないので、話の水準をそこまで落とすなら、無意味なプロパガンダしか書けなくなります。

数学と比べて、算数は簡単でありながらも数学と同じ程度に有用ですが、今ここで出てきたのは「簡単でありながら何の役にも立たない」という代物でしょう。賛同者がどれだけ増えようとも、それが現実の改善の役に立たないという点は変わりません。

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私たちの日々の生活に目を向けるなら、仕事と人間関係、子育てや家族間の問題など、その悩みや苦しみのフィールドはさまざまです。

そこについて何か意味のあることを言いたいとき、こちらが完全に正当であちらが完全に不当であるといったことはまずありません。事実は常に複雑で難しいものです。魔王の存在を否定したように、私たちは完全な正義になることもできません。

自分自身が勤め先で、あるいは自分の子どもが学校で、何かいいかげんな扱いを受けていると感じたとき、おそらく相手側にも何か事情があるということは想像しなければなりませんが、だからといって自分が黙っていなければならないということにはなりませんね。上司や先生は忙しいので、きっと嫌な顔をされることでしょう。迷惑かもしれません。それでもあなたはそれを伝えます。

パートナーと喧嘩になった場合はどうでしょうか。あなたが正しいのでしょうか。そうかもしれませんね。では相手が間違っているのでしょうか。それはおそらく違います。相手には相手の言い分があり、軽々しく受け流してほしくない何かがあり、その点はあなた自身とまったく同じです。しかし、それらの事実を了解し合うためには、相手も自分もどちらも不愉快な衝突なんて望んでいなくても、ときには何らかの形でぶつかることが必要になってきます。

つまり、私たちは「自分だけが全面的に正しい」とは思っていない状態で、自分でも完全な正解だとは思っていないことを言う必要があります。人を傷つけるのはよくないということを当たり前に知った上で、誰かを傷つけるかもしれないその言葉を世に伝える必要があります。

「算数の話ばかり書いていてはダメだ」というのは、このような現実世界の難しさを避けてはならないということです。足し算のように単純な社会、単純な人間、単純な心などどこにも存在しません。あなたが言いたいこと、書きたいことというのは、あなたがこの複雑な社会や人間関係に向き合う中で、同じように複雑であるあなた自身の心に生じたものだったはずです。明らかに、それは「正しい/正しくない」という二元的な枠組みでは扱えない複雑さを内包しています。

「日本語は普通にすらすら喋れるのに、特定のテーマで長い文章をまとめるのは難しい」というのは、部分的には、そこで言葉にされようとしている事実そのものが難しいからです。割り切れない現実が目の前にあるとき、単純な結論が出せないということは正常であり、ここに単純な結論が出てくるのは現実以外の話をしているときだけです。

だとしたら、それを「みんなにわかってもらうために」算数のレベルに落としてしまってはダメです。それはあなたが本当に感じたことではないので、あなたがそれを書く意味はないです。簡単に共感されるようなことを書いているなら、たぶんあなたは本当のことを書いていません。

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続いて、箇条書きの3番目だった「事実の問題」についてです。こちらの指摘は短い内容で済みます。

ここまでにお伝えした「複雑さの問題」では、「自分だけが正しいとは思っていなくても」それを言うべきだということをお伝えしました。「相手も正しいかもしれないぞ」というのがその理由です。

文章を書くという行為に限れば、実はこの点は「自分の言うことが正しいとは自分でも思っていなかったとしても」に拡張しておく必要があります。こちらは「相手が正しく、自分が間違っているように思われることでも、感じたことは感じたように書け」という意味になります。

人間関係の場面で、相手が実際に何をしたのか、何を言ったのかというのは客観的な事実に属する話で、これは都合よくねじ曲げてはならないものです。一方で、相手から言われた言葉に自分が傷ついたとき、その「自分が傷ついた」というのは主観的な事実に属します。

客観的に見れば、相手にはまったく悪意がなかったかもしれないし、自分の側に何か誤解があったのかもしれません。実生活のコミュニケーションの場面では、ここで客観的な事実をきちんと確認するという習慣はとても大切です。思い込みによって被害妄想を膨らませる人のやっかいさというのは、みなさんもよくご存知のことでしょう。

しかし、今さっき示した「客観的な事実と主観的な事実」という観点から言えば、この「自分が傷ついた」という主観的な事実はどうやっても否定できないものであり、また否定してはならないものに当たります。

「怒ってもあまりいいことはない」というのは常識的に見てそれなりに妥当だし、「怒ったからといって他人に危害を加えてはならない」というのも社会のルールとして正しいです。その上で、これらの事実は本人の内面にある「怒っている」という事実を打ち消すものではありません。

なので、あなたが実際に傷ついたのなら、世間的な「正しさ」や道徳的な「正しさ」とは関係なく、それはそのように書くべきです。それを否定するのは嘘というものです。ここで事実以外へと流れるなら、あなたの書くものはやはり意味を失ってしまいます。

もう一度言いますが、これは他人を攻撃してよいという意味ではないです。そういう「自分が客観的に正しく、相手が間違っているのだ」という正当化に向かうのではなく、そのような感情が自分の中に「ある」という事実、それが自分にとって「軽視されてはならない」と感じられるという主観的な事実をそのままに書くということです。

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聞き手の全員に同意や賛成を求めるなら、あなたは意味のあることをほんの一文でも言うことができなくなります。

仕事や日常生活のあれこれで毎日忙しいのに、わざわざ意味のないことを書いてどうするのでしょうか。それだったら休日くらいスマホやパソコンなんて放っておいて、普通にお布団に入って寝ていたほうがいろいろとお得だと思います。寝ていたほうがいいです。

「本当に思っていることを言わない」という習慣が致命的なのは、どれだけ他人に合わせるように頑張ったとしても、そこで得られた共感や賛同のすべてが「本来のあなた」に対するものではなくなるという点にあります。構造的な話として、最初から絶対に報われない努力になることが約束されているわけです。

反対に、あなたが本当に思っていることを言ったなら、そこに関心を持ってくれる人はすごく多いわけではないとしても、少なくともそこで返ってきた共感は「本来のあなた」に対するものです。心ない言葉を送ってくる人もいるにはいますが、唐揚げですら毛嫌いしている人間はいるという話は既にしました。

複雑で説明のつかない、一見するとわけのわからないような人間でいてください。人から簡単に「わかられて」しまうような単純な存在でいてはなりません。

あなたは他人の期待に応えるために生きているわけではないし、意思のない泥人形でもないので、自分の言葉はちゃんと自分の言葉として語りましょう。

関連書籍

去年に出した「人生の意味のつくり方」でも、「この世界の避けがたい複雑さ」を最初に認識しないことには幸せにはなれないよ、ということを書いています。noteで試し読み版も公開中なので、お時間のある方はぜひどうぞ〜。

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