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「個別的な物語のメタファー」

人には誰しも、人生における
最初の記憶があって、僕の場合、
それは公園で男の子にいじめられて、
泣きながら母親の膝にすがりついている
自分の姿だった。

自分のことなのに、どこか俯瞰して
その光景を見ていたような、まるで
幽体離脱でもしていたんじゃないかと
思えるような、曖昧な記憶である。

僕をいじめた男の子は公園のすべりだいの上から、
高笑いして僕を見下ろしている。

ゾウを模した子供向きの幼稚な形のすべりだいと、
ボックス型の、数人で乗ることのできるブランコ、
他にも何か遊具があったような気がする。

近所の人たちはその公園を
「ゾウさん公園」と呼んでいた。

今ではブランコや他の遊具は安全面への配慮から
撤去され、公園のシンボルでもあるゾウの
形をしたすべりだいだけがぽつんと残されている。

とても狭い公園に取り残されたように佇む
すべりだいは、ピンク色の塗装が剥げ落ちて
くすみ、長年たくさんの子供達の尻によって
摩擦された湾曲もすべらかさを失くしている。

そのすべりだいの前に置かれた木製のベンチに
座っている母は、息子をいじめた子を責める
わけでもなく、苦笑いしながら、
僕の背中をさすっていた。

母は自分の膝を噛むように顔をこすりつける息子を
宥めすかして、多分、こう言ったはずだ。

「男の子なんだから
泣いていないで向かっていかんね!」

男の子だから。

その言葉は、いつも少しだけ奇妙に聞こえたものだ。

当時、キムタクが髪をロン毛にしていた時期で、
僕の母親もそれに倣って僕の髪を長くすることで
間接的に若者の流行を追っていた。

首筋まで伸びたそれを小学校に上がる直前まで
保っていた僕は、とても男の子には見えなかっただろう。

実際に何度も女の子に間違われた。

当時はそれを自分でどう思っていたのか、
思い出せない。

ただひとつ言えるのは、僕は、僕をいじめた
男の子のように勇ましくもなれなければ、
母のように、男女における性差を内面化して
それを是とするような考え方にも馴染めなかった
ということだ。

いじめっ子だった彼は、小学校の半ばくらいから
不登校になり、中学にあがってからはほとんど
学校に来なくなった。

僕はすっかり髪も短くなり、普通の男子のように
学生生活を送っていた。

中学校にあがってから仲良くなった友達数人と
互いの家に泊まりに行ったりして、
それなりに楽しい日々を送っていたように思う。

ある日、その友達のひとりから、
突然キスされた。

もちろん、男友達にである。

ことの発端は、ファーストキスの話になった時に、
僕はまだそういう経験がなかったので、
普通に「ない」と言ったら、彼がこう言ったのだ。

「この前みんなで○○ん家に泊まり行った時、
お前が寝てるあいだに俺、お前にキスしたよ」

突然の告白に僕の頭は混乱した。

こいつは何を言い出すんだろう。

絶対に僕をからかっているんだ。
そうにちがいない。

そう問い詰めると、彼は真顔のまま、

「本当だって」

と言ってのけた。

それから、嘘だ本当だの押し問答となり、
彼の表情が変わらないのを見た僕は、
それが本当のことだとやっと悟ったのだ。

彼がそういう顔をするとき、
冗談ではなく本気で言っているのだと
僕は知っていた。

人をからかったり、何か冗談を言うとき、
彼はいつもこらえきれずに
笑い出すことを知っていたから。

「ふざけんなよ!何でそんなこと…
俺のファーストキスだったのに!」

今思い返すと、なかなかに馬鹿馬鹿しい台詞だ。

ただ14歳の僕にとっては、ファーストキスは
一大イベントであり、なにか重要な意味を持つ
大人への儀式のようなものだと思っていたのだ。

夏場で、蒸し暑かった。

彼は僕の部屋にいて、なぜか上半身裸だったのを
おぼえている。

ソフトボール部に所属する彼は、
細いながらもしっかりと筋肉のついた身体に
うっすら汗をかいていた。

そんなわけのわからないシチュエーションで、
ふいに彼の身体が動いて僕に近づいてきた。

近づきながら、彼は一言、こう言った。

「あきらめろ」

気がついた時には、僕は彼に
本当にキスされていた。

彼が動いたことで空気も流れを
取り戻したように動き出し、
夏の淀んだ空気にさざなみが起きる。

彼の汗のにおいが微かに漂っていることに
そのとき初めて気がついた。

それが僕の(ちゃんと意識のあるときの)
ファーストキスである。

思い返すと、僕にとって
人生は常に儘ならないものだった。

このキスがきっかけだったのかわからないけれど、
僕のその後の人生を暗示する出来事になったのは
間違いなくあのキスだったように思う。

なんてことないキスだった。

愛でもなければ恋でもない。

とても個人的な、いまとなっては
思い出という、時間の流れから切り離された
場所でただ埃をかぶってもなおあり続ける
オブジェにすぎないもの。

あの公園にいまもなおあり続ける
すべりだいのように、
忘れられた誰かの過去でしかないのだ。

そういったことを、ネットフリックスで
『ボーイフレンド』という恋愛リアリティショーを
観ていて思い出した。

ゲイの恋愛リアリティショーとして
大変な話題になった本作だが、
参加者の一人である
タイ出身のフーウェイが

「愛ってなに?」

というトピックを出された時に
答えた回答が、とても印象に残った。

「愛って何って考えた時に、
個別的な物語のメタファーだなって思っちゃう」

フーウェイがこう答えた時、他の出演者の頭に
「?」が浮かんでいるのが目に見えるようで、
思わず笑ってしまった。

本編では詳しく触れられていないけれど、
フーウェイは大学院の博士課程で
ジェンダー論を学んでいる学生でもあるらしい。

そこから合点が入ったのは、
彼が本編のなかで読書をしているシーンで一瞬映る
本の装丁から、その読んでいる本に影響を受けて
発した言葉だということが理解できた。

彼が読んでいた本は、
竹村和子の『愛について』
という本である。

副題として以下のタイトルが冠されている。

『アイデンティティと欲望の政治学』

この時点で、難しそうな本だなと
わかってしまうだろう。

なぜ僕がフーウェイの言葉からそれを
推察できたかというと、
僕もこの本を読んだことがあるからなのだ。

いまも家の本棚の一角に場を占めている
その本は、いわゆるフェミニズム系の哲学書で、
おそらくジェンダー論に関心のある人なら
手に取ったことがあるかもしれない。

これとは別に、ジュディス・バトラーという
アメリカの学者が書いた
『ジェンダートラブル』という
ジェンダー・フェミニズムを論じた本があって、
その翻訳を担当しているのが竹村和子である。

おそらく竹村和子は、バトラーの思想を
敷衍してこの『愛について』を書いたのだろう。


この本で書かれていることは、大まかに言うと

「人は物語/比喩を媒介にすることでしか
自分の感情や欲望を理解できないし、
そういった物語化された感情や欲望が
まるで事実であるかのように世の中に
流通してしまっている」

という問題意識を孕んだ内容になっている。

つまり、

「世の中に流通していない物語、
物語られることのなかった物語、
例えば同性同士の愛
(もっと言うと、女性同士の愛)は
それを理解できない人たちから
「それは本当に愛なのか?」と
批判的・懐疑的に捉えられてしまう」

ということを批判的に体系化したのが、
この『愛について』の梗概だろうか。

雑な内容説明で申し訳ないが、
気になる方は是非一度読んでみてください。


この世界に流通している物語は、
今より少し前まで、基本的に
マジョリティのためのものが主流だった。

男が女を愛す。
女が男を愛す。

そこに疑問を差しはさむ余地はなかったし、
あったとしても黙殺されていた。

男が、あるいは女が互いを愛すのは、
ごく自然なことであるかのような物語が
この世界には溢れていた。

それ以外は少し風変わりな「性癖」として
片付けられ、そうでなければ、
テレビでお笑い芸人のネタとして
消費されるだけの「笑いのネタ」だった。

わずか四半世紀前まで、
この世界はそういう世界だった。

いまも一部の世界は、
そういった過去に取り残されている。

フーウェイが母親へのカミングアウトを
話すシーンを見ても、それは如実に感じられた。

人が「物語」を認識する時、
自分の人生に重ね合わせてそれを理解する。

自分の人生にない物語は、
まるでフィクションの中の出来事のように
どこかそらぞらしく、
現実感を欠いた紛い物のように思えてしまう。

「ゲイって治せないの?」

母の口から発せられた言葉を、
フーウェイの感情はしずかな悲しみとして、
あるいは現実の厳しさを示す象徴として
受け止めていることが感じられた。

人生は常に儘ならない代物である。

生きたいように生きられない。

母の思う「男」にもなれなければ、
その「男」が享受すべき幸せも、
選ぶことができない。

だって僕たちは、フィクションのなかの
存在なのだ。

最近BLを原作にした深夜ドラマが
増えてきているが、あれを観て、
ただ「美しい」や「尊い」と言っている
人たちには、僕たちは実態のない
理想の産物でしかないわけだ。

別にそれはそれで構わない。

世の中にはいまだ男女間の愛を
スタンダードとする物語の方が多く溢れ、
そこから逸脱した者たちの人生は、
物語を飾るフィクショナルな味付けとして
機能している。

僕たちも、知らず知らずのうちに
そういった物語に慣れすぎてしまった。

自分の人生なのに、まるで他人の人生を
生きているような居心地の悪さを感じる。

他人の思う幸せに結びつかない人生に、
後ろめたさを感じてしまう。

どうして自分の人生なのに、
他人の願う幸せに捉われるのか。

僕たちは一体、
誰の物語を生きているのだろう。

フーウェイがカミングアウトのことを、
ボミという、彼と恋仲になりつつある青年に
話すシーンで、彼はこう続ける。

「誰かを好きになって、その気持ちを
治せってことは、もうなくなるってことでしょ。
そうなると、今まで生きてきた自分が
もう存在しなくていいって言われてる
ような感じがしちゃって。

治せないっていうか、
治したくないみたいな感じかな」

僕たちは自分の人生を生きるべきだし、
それは他人に踏み込まれるべきでない。

「ひとりで抱えてたの?」
と問うボミに、フーウェイは涙で答える。

彼の感情を受け取ったボミが、
同じく涙で受け止める。

感情の分有。

感情の交換。

彼の物語を理解したから、ボミは
涙が出たわけではないんじゃないかと思う。

フーウェイの孤独な物語を、
そこでひとりで生きてきた彼を、
ひとりにしてごめんね、という思いが、
ボミの感情のタガを外したのだ。

僕たちは自分の人生を
生きているはずなのに、
時々それを俯瞰して見ることに
慣れすぎている。

まるで幽体離脱したみたいに、
自分や他人を眺めている。

だからふいに他人の物語に
入り込んだとき、
それが自分のことのように
辛くなったり、逆に幸せに
感じたりもするのだ。

フーウェイのいう
「個別的な物語のメタファー」を
僕たちは常に感じながら生きている。

物語がすべてを表徴するわけではない。

何かひとつの感情を見出し、
そこに自分の人生が重なるとき、
はじめて僕たちは彼の言う
「メタファー」を理解するのかもしれない。

中二のとき、
僕のファーストキスを奪った彼は、
今では結婚して子供もいる。

彼とはもう何年ものあいだ会っていない。

それは、僕がずっと後になって、
大人になってからカミングアウトしたとき、
彼が言った言葉に理由があるのかもしれない。

「女の子のことを好きなお前に戻ってほしい」

彼は多分、何の気なしに言った言葉だった。

僕にそうと気づかせた
彼が言う言葉にしては、
いささか無神経に過ぎる。

その場で怒ってもよかったのに
笑ってごまかしたのは、
彼と僕との物語は決して交わらないし、
違う物語を生きていることが
はっきりしたからだと思う。

「あきらめろ」と、あの時
僕のファーストキスを奪った男は言った。

人生がどんなに儘ならなくても、
僕たちは今も、過去もずっと、
個別的な物語を生き続けるのだ。

人生であきらめたことがあったとしても、
人生をあきらめたわけじゃない。

それぞれがそれぞれの人生に、
それぞれの物語を見出して
生きているのだ。

そういうのを先人たちは、
プライドと呼んだのかもしれない。

『ボーイフレンド』を観て、
そんなことを思ったりした最近である。


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