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四十二歳の童貞

 一

 二〇一六年──
 金山正夫は、新宿の出会いカフェに行って、入会してきた。
 入会金2100円と入場料2100円で、支払いは合計4200円だった。一万円渡して、5800円のお釣りをもらった。
 その店は十時から二十四時で営業していた。
 彼は早く着きすぎてしまったので、少し歌舞伎町をぶらついて、十時をまわってから店に行った。
 受付の店員は五十歳くらいの男性だった。とてもにこやかな、感じの良い人だった。
 彼の風貌から、出会いカフェに来るタイプの人間ではないと思ったのか、
「ここは女性と知り合ってデートしたりするような店なんですけど、大丈夫ですか?」
 と店員は尋ねた。
 いかにも真面目そうな風貌の彼は、間違えて店に入ってきたと思われたようだ。
 入会時に必要な手続きは非常に簡単だった。
 まずは4200円を払う。そして入会の紙に、名前と電話番号だけを書く。
「電話番号だけを確認させていただくことになってます。大丈夫ですか?」
 と聞かれたので、
「大丈夫です」
 と答えた。
 電話番号の確認方法は、携帯電話のメニュー画面で「0」キーを押して、画面に電話番号を表示させ、紙に記入された電話番号とそれが同じであることを店員が確認するだけというものだった。
 名前に関しては、
「偽名でもけっこうですので」
 と言われた。
 だから彼は名前の欄に、
「山田太郎」
 と書いた。
「山田太郎でいいですか?」
 と店員に尋ねると、
「ええ、そんな感じのほうがいいですよ。ははは……」
 と店員は感じ良く笑った。
 カードは二枚もらった。一枚は会員カードと、もう一枚は有効限定が今日一日だけの入室カードである。一日の入室料が2100円で、その入室カードを受付に見せれば、出会いカフェの全店舗に入ることができる。
 まずは店員から一通りのシステムの説明をしてもらった。
 まず、男性と女性の部屋がある。
 女性は並んで座っていて、女性のほうからは男性の部屋は見えない。
 女性が座っている席には番号がついている。
 そして男性の部屋の壁には、女性のプロフィールカードが小さな透明ポケットに入れられていて、そこには席の番号もついている。
 男性の部屋には、
「名前」「年齢」「職業」「女性への要望」「女性へのメッセージ」
 を書くような紙が置かれている。
 女性への要望は、
「お茶希望」「カラオケ希望」「友だち募集」「真剣交際」「メル友募集」「相手にお任せ」
 などの項目にチェックする形になっていた。
 女性と話がしたい場合は、その紙に記入して、それを女性のプロフィールカードと一緒に店員に渡せばいい。そうすれば、その女性と別室で「十分間」話をすることができる。
 店内には、まだ女性が一人もいなかった。
 それで、すぐ近くにある支店のほうに行くようにと勧められた。
 彼はそちらに行った。
 そちらの受付は若い男性店員だった。
 まだ時間は午前十時をちょっと過ぎたくらいだったので、そちらも女性は一人だけしかいなかった。
 男性は二人いた。若い男性と、五十過ぎくらいの年配の男性だった。
 その二人は、一人だけいる女性には興味を示さなかった。
 でも、けっこう可愛い女性だと彼は思った。
 ちょっと派手なタイプの女性である。
 午前十時の時間帯は女性の数が少ないようだ。
 店員に聞いてみると、十六時以降くらいになると、部屋に女性が入りきれないくらいに女性の数が増えるらしい。
 女性の席は、十五席くらいだった。女性は最大で十五人くらいしか入れないようだ。
 ガラス窓にそって、横に女性の席がずらりと並んでいた。そのすべての机の上には、ノートパソコンが置かれていた。
 一人だけいた女性は一番端の席でずっとパソコンの画面と睨めっこしていた。女性のプロフィールカードを見ると、その年齢は二十四歳らしかった。けっこう可愛い子だったので、その子とデートをお願いしてみようと思って、店員にトークのセッティングをしてもらった。
 トークする部屋は二人でぴったり並んで座れるだけの、カーテンで仕切られた小さな個室だった。
 しばらく待っていると女性がやってきた。
 女性は部屋に入ってすぐ、彼が書いた紙とその女性のプロフィールカードを、彼に差し出してきた。
 彼はそれを受け取った。
 女性は手にタイマーを持っていた。
 そのタイマーは十分間のカウントダウンだ。その数字が0になったらトークは終了という形のようだ。
 女性は一目みるなり、彼が気に入らなかったようだった。会話にまったく積極的じゃないし、ほとんど彼のほうを見なかった。
 個室の壁には注意事項のかかれた張り紙があった。
 そこには、
「売春、買春の交渉は禁止」
 と書かれていた。
 女性は部屋にやってきて、しばし沈黙が続いた。
 それから彼は女性に声をかけた。
「あ、どうもはじめまして」
「どうも」
 そしてまたしばらく沈黙。
「で、どうですか? カラオケでも、いかがですか?」
 彼は紙に、
「一緒にカラオケでもいきませんか?」
 と書いたのだ。
「カラオケ苦手なんで」
「じゃあボウリングはどうですか?」
「わたし、爪がこんななんで、ボウリングはちょっと」
 女性の爪にはネイルアートが施されていた。
「じゃあ、どこだったら大丈夫ですかね?」
「ごはんだったら」
「ごはんはまだですか?」
「朝は食べてきました」
「じゃあ、まだおなか減ってないですよね? うーん……」
 彼は悩む。カラオケだめ。ボウリングだめ。ごはんったって、別に腹は減ってない。
 喫茶店で話をする?
 でも女性は全然会話に積極的ではないので、喫茶店に行っても話すことがない。
 一時間だけ連れ出しても、一時間も間がもたない。
「じゃあ一日デートとかはいかがですか?」
「えー、どこ行くんですか?」
「そうですねー」
 と彼はまた悩む。
「ちなみにあのー、もし一時間くらい喫茶店でお茶してもらうとした場合、いくらくらい払えばいいですか?」
 と彼は聞いてみる。
「えー、それをあたしに訊くんですか?」
「あ、こっちが提案しないとだめですかね……」
 彼は再び尋ねてみる。
「ちなみにメル友なんてどうなんでしょ? 難しいですか?」
「えー、メル友ですか?」
 と女性は困っているようだ。
「あ、ラインとかどうですか? ダメですか?」
 女性は少し考えてから、
「ちょっと、すみません……」
 と言った。
 ダメだった。
 そのとき彼は初めて女性の持っているタイマーに気付いた。
「あ、まだ七分も残ってますね。まだたっぷり話せますね?」
「あのー」
 と、女性は言う。
「はい?」
「ほかの人を探されたほうがいいと思います」
「そうですか。わかりました……」
 で、会話は終わった。
 女性は去っていった。
 完全に拒絶されてしまったので、彼の顔色は真っ白になってしまっていた。
 彼は、かなりショックを受けていた。
 そのがっかり顔で、彼は個室を出た。
 店員に返す必要のないものも返そうとして、
「いえ、それはお持ちになったままで大丈夫です」
 と言われた。
 若い店員は、がっかりして部屋から出てきた彼に対して、気の毒そうな顔をしていた。
 二十四歳の派手めの女性の、付き合いにくさを痛感した。
 とりつくしまがない。
 絶対に不可能。完全なる拒絶。
 あきれかえって、うんざりしているようなその表情。
 彼は、五千円くらい出せば一日デートの相手をしてくれるのではないかと軽く考えていたが、その考えは、完全に甘かった。
 そして拒絶されるというのは、かなり精神的にきついものだと、彼は知った。
 戻ってみると、店内にもう一人女性がいたが、あまり容姿が気にいらなかった。
 だから店を出た。
 その日は絶望して家に帰った。

 二

 それから金山正夫は、なんども出会いカフェに通った。
 しかし女性からは、いつも拒絶されていた。
 今回は、財布に十万円を入れていた。そしてまた、出会いカフェに向かっていた。
 そのときの気分は、味わい深いものであった。
 そこに、出会いカフェがある。そして財布には十万円がある。
 つまり、金山はもしかしたら本日中に、勇気を出せば、童貞を卒業できる可能性があった。なぜなら、条件はすべて揃っているからだ。
 自分の肉体で、金を稼ごうとしている女性がいる。その相場は、イチゴとか諭吉二人とか、言われている。そして金山の財布の中には、諭吉が十人もいる。
 そのように、条件はすべて揃っていた。
 あとは、金山の魅力の問題だ。金山があまりにも魅力がないため、百万円もらっても嫌と思われるかもしれない。
 そんなことがないように、もちろん金山はお洒落をしていた。清潔感も心がけていた。まるで見合いの場に行くような心構えで、全力で女性に好かれる努力をするつもりだ。
 しかし金山にはどうしても自分が女性に受け入れて貰えるとは思えなかった。自分はなにをどうしても絶対に女性には受け入れて貰えないタイプの男のように思えた。
 普通の男ならイチゴで良くても、金山は百万円払ってもダメと言われそうな気がした。だから、十万円を持っていても、全然安心できなかった。
 そもそも勇気がない。
 しかしそれでも、行ってしまえば、なにかミラクルが起こるかもしれない。数打ちゃ当たるかもしれない。金山のことを受け入れてくれる女神のような女性と出会えるかもしれない。
 金山は十万円を持ち、出会いカフェに行った。
 何件も店を巡った。一度入場料を払えば、その一日は全店舗で出入り可能であった。
 そして金山は池袋の店で、衝撃的な光景を目撃した。
 店内は、マジックミラーになっていた。女性たちが座っていた。その姿を男たちはマジックミラーごしに見ることができた。
 女性からは男性を見ることは出来なかった。しかし、シルエットくらいは見ることができるようだった。自分が座っている前に、誰か男性が立って、自分の姿をじっと見ているとき、それが女性には分かるようだった。
 そして金山は、とある、座っている女性の前で、信じられない顔をして立ち尽くしていた。
 その女性は若くなかった。四十代半ばくらいに見えた。しかしそのスカートは、信じられないくらいに短かった。その女性は、脚を組んで座っていた。そして、金山がその前に立つと、まるでアピールしているように、淫らに脚を何度も組みかえた。そのため、下着がちらちら見えていた。
 金山は驚いた。こんなに露骨に淫らなことをする女性を、金山は初めて見た。その目的は、はっきりしているように思えた。
 完全にその女性は、自分の肉体で、稼ぎに来ている。そのために、そのお客さん候補に、自分の下着を見せびらかして、アピールしている。
 その意図が、ありありとしていた。それはもう、疑いようがなかった。
 金山は呆然と立ち尽くしていた。
 その女性は、完全にプロの女性のように見えた。四十代半ばくらいの、経験豊富な、プロの女性のように見えた。
 しかし、女性経験のない金山にとっては、あまりにもプロすぎるように思えた。
 その女性の容姿は悪くなかった。しかし、失礼な話だが、性病とかも心配してしまった。
 その女性は、誰よりも奔放な女性のように見えた。誰よりもたくさんの男性と関係を持ってきた女性のように見えた。
 そのため、金山には上級者すぎるように思えた。
 しかし、その女性なら、金山でも受け入れてくれそうに思えた。

 三

 志田蘭子は現在、友達の家で居候していた。
 彼女はパチンコが好きである。昔はアニメの声優を目指していた。
 蘭子は風俗の経験が豊富であった。今はフリーランスの風俗嬢みたいなことをしていた。
 いつもTバックショーツとマイクロミニのスカートを穿いていた。陰毛は剃っていた。パンストを穿かない生足には、虫に食われた跡が少し目立っていた。
 蘭子は飄々と出会いカフェに出勤した。
 ここはお菓子食べ放題、ドリンク飲み放題、漫画見放題、ネットし放題である。
 脚を組んで椅子に座る。
 ミラーごしに、蠢いている人影が見える。
 短いスカートを穿いているだけで、説明は不要であった。彼女が、どういう意図でここに座っているのか、誰が見ても明らかだ。
 ズボンを穿いてやってくる女の子は、食事だけしか許さない子かも知れない。しかしそんな子でも、こういう所に来るくらいの肝っ玉なのだから、交渉次第では、それ以上のことにも応じるかも知れない。
 椅子には女たちが座っていた。
 毎日やってくる蘭子には顔馴染みも多かった。しかし余計なトラブルを避けるため、女の子同士の会話は滅多になかった。
 みんな癖の強い女の子たちである。風俗嬢も多かった。
 しかし人気があるのは新人──ここがどういう場所なのかよく分かっていない来ている、火遊び目的のウブな新人である。
 蘭子はあまりにもベテラン過ぎていた。
 その分、感じの良さを心がけていた。
 しかしなかなかトーク希望は来ない。
 プロフィールカードには、三十八歳と書いていた。七歳サバを読んでいた。
 蘭子は昔はモテていた。しかし今は全然だめだ。最近は、ずっと一円も稼げていない。居候をさせて貰っている友達には、ずっと金を渡せていない。このままでは、家を追い出されてしまうかもしれない。
 出会いカフェで飲食は無料でさせて貰える。しかしまるっきりお客さんからの需要が無いのであれば、出入り禁止になってしまうかもしれない。
 そうなってしまったらもう仕事を選ぶことはできない。なんでもやれる仕事をするしかない。
 いまさら恋人を作って結婚をする気にはなれない。
 蘭子には、まだ美しさが残っていた。人気とは言えないが、時々は蘭子を指名する物好きはいた。
 ぼんやり座っていた彼女の前に、大きなシルエットが映っていた。
 誰かがマジックミラーの向こう側で、座っている彼女の姿を見ているようだ。彼女に興味を持つ物好きが現れたらしい。
 マイクロミニのスカートで座っている彼女は何度も脚を組み直して、わざとらしく下着を見せた。男性の好むパンチラである。赤い下着を穿いていた。
 シルエットは長い間彼女の前にへばりついていた。
 見るだけ──
 そんな客も多かった。
 動物園の動物を見るような感覚でこの店にやってくる客もいる。客は入場料を払えば、その日はすべての店舗に出入り自由になる。
 やがて人影は離れていった。やはり見るだけの客だったらしい。
 下着を見せて損したと、蘭子はがっかりした。やっぱり今日も坊主かもしれない。
 やっぱり、コンビニとか飲食店とか、他の仕事を探したほうが良いのかもしれない。
 風俗で月に百万円以上稼げているときもあった。まだ若かったときの話である。その栄光の日々があるから、なかなか安い仕事をする気にはなれない。
「蘭子さん、トークのご希望です。五番にお願いします」
 スタッフがそう言って、プロフィールカードとタイマーを差し出した。蘭子とトーク希望の客だ。
 待たせると悪印象なので、カードを見ながら急いで移動した。
 名前は、「山田」。
 来店目的は、「一緒に楽しい時間を過ごしたい」。
 カーテンを開けた。
「こんにちはー」
 満面の笑顔で挨拶した。
「どうも……」
 そこには四十歳くらいの気が弱そうな男性がいた。
「お名前は〝山田〟さんで、一緒に楽しい時間を過ごしたい……ふーん……」
 笑顔でそう言いながら、カーテンを閉めて、男の隣に座った。
「いや、俺、本当の名前は金山といいます……」
「そうなんだ……じゃあタイマー、動かしちゃうね?」
 ボタンを押した。これから十分間のトークである。
「どうして私とトークしたいと思ってくれたの?」
「いや、脚がとても素敵だなあと思って……」
「そうなんだー、ありがとう」
 どうやらパンチラを見てくれたらしい。
 精一杯、愛嬌を振りまく。
「なんか……すごく話しやすくて、びっくりしてます」
「ほんと? ありがとう。ここにはよく来るの?」
「はい、よく来ています。でもなんか全然仲良くなってもらえなくて……」
「ほんと? じゃあ、私と仲良くなりましょうよ」
「うわっ、そんなこと言ってもらえたの、初めてです」
「そうなんだ、うふふ……」
 いかにも女にモテなそうな男である。精一杯背伸びして、一生懸命トークしているのだろう。
 見た感じ、あまり金は持ってなさそうだ。
 一応、お洒落をしてきているつもりらしいが、服装のセンスはださい。引き攣った笑顔を浮かべ、明るく元気に振る舞おうとしているが、きっと普段は根暗だろう。
「じゃあ、金山さんって呼べばいい?」
「はい、金山くんでも金山でも、なんでも好きなように呼んでください」
「下のお名前は秘密?」
「いえ、秘密ではありません。正夫といいます」
「じゃあ、マサくんでいい?」
「はい、それでいいです。僕のほうは、なんてお呼びすれば良いですか?」
「なんでもいいよ。蘭子って本名なの。蘭ちゃんでも蘭子でも……」
「じゃあ、蘭子さんと呼ばせていただきます。蘭子さん、すごく話しやすいです」
「ありがとう。他の子たちはそんなに話しにくかった?」
「はい、なんか無愛想というかなんというか……、まあ、僕が話すの下手だからなんですけど……」
「そんなことないよ、うまく話せてるよ?」
(やれやれ、どうやらトークだけが目的か……)
 蘭子は内心で、がっかりし始めていた。
 しかしそれでも、自分とトークしたいと思ってくれただけで、少しは嬉しい。それに、出会いカフェに慣れていない感じも良い。
 まあ、十分間、せいぜい楽しくトークに付き合ってあげて、それでさよならの流れだろう。
 一円の得にもならない。
 だから他の女たちが無愛想になるのも頷ける。誰だって本音では、一円の得にもならない客を、相手にしたくない。
 そんな風に考えて、少し沈黙ができてしまった。そのため、金山は居心地が悪そうにしている。いけないいけないと思い、蘭子は、金山の肩を軽く叩いた。
「もう、硬いなあ。もっとリラックスしたら? 私、そんなに怖いかな? 別に、とって食ったりしないよ?」
 そう言って、豪快に笑った。
 もはや蘭子は、完全なボランティア精神のみでトークしていた。
「すみません、なんか緊張しちゃって……」
「緊張なんかすることないのに、バカだなあ」
 渾身のニコニコ顔を見せ続ける。
「すみません、あのー」
「ん、なに?」
「もし良かったら、これからご飯とか、ご一緒していただけませんか?」
(きた!)
 思わず蘭子は身構える。
「別にいいけど……、私、ごはんだったら、一時間五千円だよ?……」
 さすがに無料でご飯に行くほどのボランティアはできない。
「はい、わかりました。それでぜひお願いしたいです」
「いいの?」
「はい、もちろん払います」
「そっか、ありがと。じゃあ、出よっか?」
 かくして外出が決まった。
 客は店外に女性を連れ出すときは、店に追加で二千円を支払わなければいけない。
 蘭子はカードとタイマーをスタッフに返し、男と一緒に外に出た。
「なに食べたいですか?」
「そうだなあ、なんか、ずっと気になってたパスタ屋さんがあるんだけど、そこに行きたいかなあ」
「でも、今の時間、混んでるんじゃないですか?」
「そうだね、混んでるかも」
「俺、ゆっくり話がしたいです。モスバーガーとかではダメですか?」
「全然いいよ。モスバーガー、食べたーい」
 というわけで、二人はモスバーガーに移動した。
「なに頼みます?」
 と聞かれ、蘭子は一応遠慮して、一番安いハンバーガーとコーラを注文した。
 その料金も金山が払った。
 そして席に移動して座った。
「じゃあとりあえず、先にお渡ししておきますね?」
 金山はこっそりと五千円を払った。
「ありがとう」
 蘭子はそれを受け取った。
 これでとりあえず坊主だけは免れることができた。しかしパチンコの軍資金としては少なすぎる。
「さっきも言いましたけど、俺の名前は、金山正夫といいます。職場は、在宅勤務でプログラマしてます」
「へえ、そうなんだ」
「出身は、宮崎です。今は福生市で一人暮らししてます」
「へえ」
 なんか、堅苦しい。まるで見合いみたいな話し方である。
「もしかして、婚活目的なの?」
 聞いてみる。
「いや、別にそういうわけではないのですが、でも、恋人はすごく欲しいです」
「そうなんだ、てっきり私と結婚するつもりかと思っちゃった。うふふ……」
「え? じゃあ、もし僕が結婚したいって言えば、結婚してくれますか?」
「そう言われれば、検討くらいはしてあげるよ? うふふ……」
 それから金山は、執拗な自分語りを始めた。
 蘭子には、あまり質問をしてこなかった。
 蘭子が話し出すと、金山は黙った。そして、熱心にその話を聞いた。
 一時間ほど話をして、
「ライン交換お願いできませんか?」
 と、金山が言った。
 蘭子は、それに応じた。
 そして、和気藹々とした雰囲気のまま、二人は店の前で別れた。
 蘭子はすぐに、また出会いカフェに戻った。

 四

 池袋の出合いカフェの店内──
 それは、四十代半ばくらいに見える、おばさんだった。彼女一人だけ、年齢が高そうだった。
 他の女性はみんな、二十代に見えた。
 その格好は、卑猥であった。信じられないくらいに短いスカートを穿いて、脚を組み替えたりして、わざとらしく下着を見せていた。
 着ている服は、あまり上等ではなかった。
 厚化粧だった。
 かろうじて美人には見えたが、いかにもなにか性病でも持ってそうだ。
 誰よりも性に奔放に見えた。誰よりも経験人数が多そうに見えた。
 さすがに、童貞の彼には、上級者すぎる女性だった。
 鼻から論外だった。トークなんてしたいとは思わなかった。
 しかし、他の女性から相手にされる自信がまったくない彼は、怖いものみたさという感じもあり、あれはどんな感じの人なのか、思い切って、軽く喋ってみようかと思った。
 それはまさに、溺れる者は藁をも摑むという感じだった。
 いかにもヤバそうなおばさんだが、まあ、人生経験として、たった十分間くらいは我慢してトークしてみようと思った。そして、やっぱりダメそうなのを確認してから、今後も出会いカフェ通いを続けるかどうか、一旦、検討し直してみようと思った。
 素直にソープランドに行くことも検討しようと思った。どうしても童貞を卒業したいというのであれば、もうそれしか無さそうに思えた。
 そして彼は、その、いかにもヤバそうなおばさんと、店内の個室で、十分間、トークした。
(あれ?)
 と思った。
 喋ってみたら、意外と普通の人なのである。
 そして、信じられないくらいにフレンドリーである。まるで欧米人か、幼いときの近所のおばさんのような馴れ馴れしさである。
 しかし、悪くない。意外に彼は、そのおばさんとのトークが心地よいと感じた。
 そして話していると、彼の股間は確かに反応した。
 段々と、どこにも問題は無さそうに思えてきた。
 このおばさんは、ちゃんと膣を持っているだろう。そして顔だって、そんなにブスじゃない。かろうじて美人と言っても良いくらいだ。
 話してみると、別に宇宙人ではない。普通に日本語で会話ができる。
 では、どこがダメなのか?
 改めて考えてみると、特にダメなところは思いつかない。
 確かに、性病は持ってるかもしれない。しかし意外と持っていないかもしれない。
 性病の検査なんかは、きっとしていないだろう。
 でも、コンドームをすれば、性病は防げるのではないか? たとえ性病をうつされても、それで童貞を卒業できれば、とりあえずオッケーではないか?
 色々と考える。
 そして段々と、
(この人で良いのではないか?)
 という気になってきた。
 この人で勃起することは、問題なくできそうだ。
 ただし、仲良くなれたらの話である。
 そして、この人なら、一応、最低レベルくらいまでには、なんとか仲良くなってもらえる可能性があった。
 お互いがお互いのことをきちんと知り合って、いや、そこまで贅沢は言わないまでも、お互いに、人間同士として、とりあえず仲良し同士として、最低限の愛情を持った上で、セックスする。
 それが、この人となら可能ではないか?
 彼は、そのおばさんとトークして、そう思った。
 とにかく、びっくりするくらいに感じが良かったのである。
 それで、
「一緒に食事をしてくれないか」
 とお願いした。
 それには、一時間五千円で応じて貰えた。
 そして二人で店外に出た。
 彼の初めての店外連れ出しだった。彼は連れ出し料の二千円を出会いカフェに払った。
 そして連れ出した。
 何を食べたいかとおばさんに聞くと、「パスタ屋さん」と言ってきたが、ゆっくり話をしたいと思った彼は、「モスバーガーでも良いか」と尋ねた。
「それでも良い」と言われた。
 二人はモスバーガーに移動した。
 店内の席に座って、彼はすぐに五千円を払った。
 それから長々と、自分語りを始めた。自分がどんな人間か、まずは、しっかりとおばさんに知ってほしかった。
 おばさんは、それを嫌がらずに聞いてくれた。
 自分の話も、少しはしてくれた。パチンコが好きとか、昔はアニメの声優を目指していたとか、教えてくれた。
 けっこうお喋り好きなおばさんだった。性格は、明るいと感じた。
 口の利き方は最初からずっとタメ口だったが、それは彼の神経には触らなかった。
 彼のことをずっと「マサくん」と呼んでいたが、彼自身が、そう呼ぶことを許可したのである。それに、そう呼ばれることも、まったく不快ではない。むしろ、そんな風に馴れ馴れしく話してもらえることが心地良く感じられた。
 そんな中にも、礼儀正しさのようなものも感じられた。なんか、キャバクラなどの、お喋りの水商売の経験があるおばさんなのかもしれない。
 おばさんは、モスバーガーの店員などにもタメ口だった。
 おそらく、誰に対してもタメ口なのだろう。
 しかしその喋り方は、別に不快ではない。むしろ彼にとっては心地良く感じられた。
 彼は、人間関係が苦手だった。
 昔はずっと工場勤務ばかりをしていた。誰とも話さなくて良い、黙々とできる仕事を好んだ。
 彼は、小説家志望だった。
 しかし、三十歳くらいからは、簿記やプログラミングの勉強を始めた。
 手に職をつけたいと思ったのだ。
 工場の仕事が終わって、ずっと勉強していた。休日なんかも、ずっと勉強していた。
 最初、税理士を目指したが、挫折した。
 次はプログラマを目指した。職安で紹介された訓練スクールにも通った。
 しかし、なかなかプログラマになれなかった。
 働かず、プログラミングの勉強ばかりしていたので、借金もできた。
 しかし、なんとか、とある会社で拾ってもらった。
 それで彼は、三十八歳でプログラマになれた。
 しかし、長続きはしなかった。やはり人間関係がうまくいかず、すぐにその仕事を辞めることになりそうだった。
 しかし社長が理解のある人で、彼に在宅勤務を許してくれた。
 それから四年間、ずっと在宅勤務である。
 そしてなんとか、借金はなくなった。
 逆に百万円くらいの貯金ができた。
 それでこのたび、四十二歳にして、童貞を卒業したいと思って、出会いカフェ通いを始めたのである。
 そんな、今までの生活を、彼は、初めてあったおばさんに、機関銃のような勢いで喋っていた。
 童貞を卒業する目的で出会いカフェ通いを始めたことだけは、まだ、おばさんに話さなかった。
 そこだけ、変えていた。
 ただ、
「女性と仲良くなりたいので、出会いカフェ通いを始めた」
 と言った。
 しかし、
「誰も仲良くなってくれないので、困っていた」
 と言った。
 自分には恋愛経験がないということは、ギャグっぽい口調で、おばさんに伝えた。
 だから、おばさんは、彼が童貞であることに、薄々気づいているだろうと思われた。
 彼は、モスバーガーのこの場では、
「童貞を卒業させてほしい」
 ということを、まだ言うつもりはなかった。それを面と向かってお願いするのは、厳しかった。
 だから、ラインを交換してもらって、後で、ラインでお願いしてみようと思った。
 そのために、彼は、面と向かって喋れることは、全部喋っておこうと思った。
 自分の性格も、知っておいて貰いたかった。
 工場で働いていたときは、友達とまではいかないまでも、少しは話したりするような他者が、まったくいないわけではなかった。しかし、在宅プログラマになってからは、もう、誰も話し相手はいない。
 誰とも話さない。そんな生活を四年間送った。
 彼は、宮崎から、東京に出てきた。
 しかし東京に出てきてから、良いことなんて一つもなかった。いつも辛いことや苦しいことばかりだった。友達といえるような人間は、一人も出来なかった。
 そもそも人間嫌いな彼は、自ら孤独を求めたようなものであった。
 そんな彼に、お喋り好きの馴れ馴れしいおばさんは、心地良く感じられた。
 モスバーガーで話しているうちに、ますます、
(この人で良いのではないか、この人で充分ではないか)
 と思えた。
 贅沢をいえば、キリがない。
 このままでは一生童貞だ。
 このおばさんとなら、とりあえず、人間と人間として、お互いの気心を最低限知った上で、そういうことができるのではないか?
 彼はそう思った。

 五

 金山正夫は四十二歳。童貞を卒業したいと思い、出会いカフェ通いを始めていた。しかし、そこにいる女性は、みんな彼に冷たかった。
 その中で唯一、彼に優しく接してくれたのが、四十五歳の熟女──志田蘭子であった。
 金山は出会いカフェの個室で蘭子と十分間トークして、その後に彼女を外に連れ出した。そして、モスバーガーで一時間お喋りして、金山と蘭子はラインを交換した。
 そしてその翌日、金山は以下のようなラインを、蘭子に送った。
『蘭子さん、昨日はモスバーガーで色々と話をして頂きありがとうございました。お陰様でとても楽しい時間を過ごすことができました。
 今回は蘭子さんにご相談したいことがありまして、ラインで連絡させて頂きました。面と向かっては相談しにくい内容なので、ラインで相談させていただいております。
 私が出会いカフェを利用する目的ですが、モスバーガーでは、
「女性と仲良くなりたいから」
 とお伝えしました。
 しかし、面と向かっては言いにくい本当の目的があります。
 モスバーガーでもお伝えしましたが、私は四十二歳ですが、恋愛の経験がありません。
 そして実は、女性の経験もありません。
 それで、こんなこと相談すると、蘭子さんに不快な思いをさせてしまうのではないかと思い、大変恐縮しています。それでも、駄目で元々というつもりで、思い切って相談だけはしてみようと思いました。
 それは、肉体です。蘭子さんに、肉体をお願いできないかと思い、相談させて頂いております。
 もちろん、お礼はさせて頂きます。
 お礼をさせて頂くことで、こういったお願いは可能なものでしょうか?
 もし可能な場合、どのくらいのお礼をすることで、お願いできるものでしょうか?
 それを教えて頂けると大変助かります。
 すごく失礼なことを言ってしまっているとしたら、大変申し訳ありません。
 では、大変申し訳ありませんが、ご検討いただけると幸いです。
 どうぞ宜しくお願い致します。』
 それに対して、蘭子から、以下の一行メッセージが届いた。
『これはネタですか?』
 それに対して、金山は、以下のメッセージを返した。
『いえ、ネタという、不真面目な話ではありません。駄目で元々という気持ちで、真剣に相談させて頂いております。
 やはり、難しいでしょうか?
 十万円くらいお礼をさせて頂く形でも、やっぱり難しいでしょうか?
 モスバーガーで話してみて、蘭子さんがとても魅力的で、とても優しそうな方だったので、思い切って、こんな図々しいお願いをさせて頂きました。
 大変恐縮ですが、ご検討して頂けると幸いです。
 どうぞ宜しくお願い致します。』
 このメッセージに対する蘭子からの返事は無い。既読スルーである。
 金山正夫は、悩みに悩み抜いた果てに、思い切って、そういう、童貞の卒業をお願いするメッセージを送っていた。そしてまるで裁判官からの死刑の判決を待つ被告人のようにビクビクした気持ちで、蘭子からの返事を待っていた。
 仕事は何も手につかない。落ち着かない。夜も全然眠れなかった。
 なにか、とんでもなく失礼な事をしてしまったような恐怖にも襲われていた。あんなに感じよく良心的に接してくれた素晴らしい女性に対して、そのお返しにまるで糞を投げつけたような、とんでもなく失礼なことをしているような気がした。
 しかしもう、メッセージを送ってしまったものは仕方がない。お願いしてみるだけお願いしてみたという自分の選択に、間違いがあるとも思えない。
 それで駄目だと言われたら、それはそれで仕方がない。所詮、自分はセックスが出来ない星のもとに生まれているのだと、諦めるしかない。
 ソープランドに行くことは、やはりまだ難しく思えていた。やはり、見ず知らずの女性の前で裸になって、自らの欲望を晒け出すことが、どうしても恥ずかしいのである。気心の知れた、人間と人間として、少しは仲良くなっている女性でないと、自分のそういう恥ずかしい部分を晒け出すのは、やはりどうしても難しく思われていた。
 そして結局、蘭子からの返事は来ない。
 それはまあ、仕方が無いのだろう。そういう運命なのだろう。もし、ソープランドに行こうとしたとしても、結局、運命からの何かしらの邪魔が入るのだろう。そして結局、自分は一生、セックスを許してはもらえないのだろう。
 金山は、いつまでも蘭子からの返事が来ないこの現実に直面して、そう諦めざるを得なかった。
 思えば蘭子とは、たった一回会っただけである。
 性に奔放で、経験豊富な女性に見えた。そして、とても感じ良く話してくれた。
 だから調子に乗ってしまった。
(この人なら、こんな自分に対して、肉体を許してくれるのではないか?)
 そんな夢を見た。
 しかし流石に、それは難しそうだ。
 仕方がない。当たって砕けたということだ。
 自分の感覚なんて、なにもアテにならないと、金山は思った。どんなに親しげに思えたとしても、結局、すべての女性は、自分を拒絶する。自分はそういう星のもとに生まれているのだ。
 絶望感な気分の中、金山は泣いた。
 悔しいのか、哀しいのか、その理由はよく分からないが、なぜか泣いた。
 彼はよく泣く男であった。自分でも、なぜ泣くのかよく分からないようなタイミングで、なぜか泣いてしまう。
 きっと誰よりも心が弱いのだろう。情けない、臆病者の、誰よりも弱い人間なのだろう。
 そんな数日が過ぎた。
 金山はもうすっかり諦め切っていた。もういいやと思った。
 セックスがすべてじゃない。人生には、それ以外の楽しみが、たくさんある。
 そういう楽しみを見つけていけばいい。所詮、女性とは縁のない人生だ。それに文句を言っても仕方がない。
 女性と仲良くなろうと思えば思うほど、心が傷ついていく。嫌な思い、苦しい思いをしてしまう。そして、苦労して稼いだ金も、みるみる失われる。劣等感は、ますます深くなる。
 つまり女なんて、ろくでもないという事だ。女なんかに関わっている間は、絶対幸せになることは出来ない。
 金山は金山の、自分の手が届く幸福だけを見つけていけば良いのだ。絶対に不可能なことに関われば関わるほど、嫌な思いをするだけだ。
 そんな風に、金山は、気持ちを切り替えようとしていた。そしてようやく彼の心は落ち着きを取り戻そうとしていた。
 そんな時に、スマホが鳴った。
 蘭子からのメッセージが届いていた。
『ごめーん。送ったつもりになってた。別に五万くらいでいいよ? そんなに貰うの悪いから。』

 六

 そしてその日がやってきた。
 金山正夫は半信半疑な顔をして、電車で池袋まで移動した。そして、蘭子に教えて貰ったラブホテルの受付を済ませ、一旦、室に入ってみた。
 生まれて初めて入った、ラブホテルの室内だった。奮発して、一番高い室を選んだ。
 室内は清潔で、広々としていた。
 童貞卒業とは、このような密室で、女性と二人きりになることだ。
 金山は、そう思っていた。
 それを女性は絶対に彼に許さないのである。
 ラブホテルの室内で二人っきりになることができたら、もう強姦しても罪にはならない。もし裁判になった場合、それはもう、同意があったと見なせる。
 そんなことを考える彼は、すでに勃起していた。
 彼には、自分が超早漏であるように思われていた。あまりにもすぐに勃起してしまうのである。そして自慰をすれば、いつも一分以内に射精する。
 アダルトビデオの男優のように、あんなに長々と射精を我慢することは絶対に出来そうにない。
 そんなに早く射精してしまうのに、果たしてセックスなんて出来るのか?
 普通のマッサージ店や整体や整骨院にも絶対にいけない。相手が男性であったとしても、他者から体を触られると必ず勃起してしまう。
 非常に勃起しやすい体質だった。そして、間違いなく超早漏だろう。それは間違いなく、セックスに差し支えが生じるレベルだろうと思われていた。
 そして、極度の恥ずかしがり屋だ。そしてあまりにもプライドが高すぎた。
 童貞なんだから、セックスをするなら、色々女性に教えてもらいながら、それをするしかないのに、プライドが高すぎるため、それが嫌であった。
 だから彼には、強姦の方がやりやすかった。しかし臆病者の彼には、犯罪を犯す勇気は無い。
 彼が四十二年間童貞であったのは、それなりの理由がある。
 彼は、人に弱みを見せることのできない人間だ。素直になれない人間だ。そして、いつも自分が優位に立ちたがった。
 だから風俗は難しいのだ。そのような、自分が優位に立てない場所には行きたくなかった。
 彼の性格は、あまりにも難しいのである。
 そして、いつも高望みばかりしていた。初体験の相手は、グラビアアイドルレベルの美人が良いと、いつも思っていた。すべての女性からまるで相手にされていないくせに、いつもそんな夢みたいなことばかりを願っていた。
 そして彼は、妥協ができない男だった。変に頑固だった。
 そんな人間が、セックスなんて、絶対にできる訳がなかった。恋愛なんて、絶対に無理であった。彼は間違いなく絶対にセックスができない星の元に生まれてきているように思われていた。
 しかし今、志田蘭子という女性が現れた。
 彼に体を許してくれるとしたら、この呪われた運命から救い出してくれるのは、こういう女性しかいないだろうという、どんぴしゃの女性が現れた。
 しかし彼は、まだ半信半疑であった。これから運命の妨害が入り、彼のすべての希望は、完全に打ち砕かれるのではないかと疑っていた。
 それが、今までの彼の人生のパターンだった。
 最後には必ずがっかりして終わる。良いことなんか、一つも起こらない。
 それが、いつものパターンである。
 それに備えた心構えもできていた。
 どうせ最後はがっかりして終わる。彼の人生にハッピーエンドは絶対にない。
 ハッピーエンドは、彼には似合わない。それは、彼らしくない。
 しかしそれは、彼が、自分で自分にかけている呪いのようなものかも知れなかった。それはまるで、自らバットエンドを求めに行っているような考えであった。
 考え方が、あまりにもネガティブすぎるのだろう。他者の好意も素直に受け入れられないような人間なのだ。
 そもそも、本当に不幸な人間なら、四十二年間も生きてはいられなかったはずである。そんなに健康でもなかったはずである。
 それに結局彼は、プログラマにもなれているのである。在宅勤務で金を稼げているのである。
 彼が不幸であるとは、まるでいえない。
 一人ぼっちであることだって、彼は自ら、それを求めたのである。
 要するに彼は、人から尊敬されたいのだ。尊敬されない付き合いは、したくないのだ。
 それは、駄々っ子のような発想だ。彼はおそらく、誰よりもワガママなのだ。
 そのような生き方をしていたら、セックスも、恋愛も、結婚も、絶対にできる訳がない。
 要するに彼は、他者から貰いたいばかりなのだ。他者に何かを与えよう、サービスしようという発想が、まるでない。
 典型的なダメ人間なように思えた。
 在宅勤務以外の仕事は、すべて長続きしなかった。
 プログラマになる前は、工場勤務ばかりをしていたが、すべて短期間で辞めていた。
 最長が、十一ヶ月だった。それ以上一つの職場で働いたことがない。
 だから、貧乏になるのは当然だ。
 そして、挙げ句の果てに、在宅勤務に収まっているのである。
 会社の人間と顔を合わせる機会はない。彼がそれを嫌がるからだ。仕事のやり取りは、すべてメールだけである。
 よくそんな人間を雇っているものだと、その会社の社長のことを思うが、給料はとても安かった。時給は二千円だった。それ以上は上がらなかった。プログラマの時給としては、相場よりも、かなり安かった。
 それでも彼は、その職場で必要とされてはいた。その職場に、プログラマは彼一人しかいなかったからだ。
 その会社の社長は、彼のワガママを聞く代わりに、安い給料で彼を使っていた。その社長は、彼よりも一つ年下だった。その社長は、プログラマの実務経験のない三十八歳だった彼を雇ってくれた、彼にとっては大恩人であった。実務経験のない三十八歳のプログラマ希望者を雇ってくれる会社なんて、他にある訳がない。
 考えてみたら、その社長との出会いは、彼にとっては、まさに奇跡的な出会いのようにも思えた。それで借金もすべて片付けることができたのである。逆に百万円の貯金を作ることができ、彼は呑気にもこのたびのような、童貞卒業のための出会いカフェ通いなどが出来るようになったのだ。
 それだけを考えてみても、彼は、まるで守護霊かなにかから導かれ、見守られているようであった。
 そんな風なことを思いながら、金山正夫は一旦ラブホテルを後にした。
 待ち合わせ場所は、この近くのファミレスであった。
 彼は前もって、蘭子から教えて貰ったラブホテルに入室しておいたのだ。そうしないと、いざ行ったときに、「満室でした」では、どうしようもない。
 運命は、必ず彼のセックスを阻止するように動く筈であった。必ず最後には、がっかりさせる結末を食らわせる筈であった。
 それと彼は戦わなければいけなない。
 運命は、彼に、「満室」を食らわすつもりだったのかもしれない。
 それに備え、彼は待ち合わせ時間の二時間以上前に池袋に到着して、まずはしっかりラブホテルへの入室を果たした。
 それは一つの勝利であった。
 もしそこが満室であったら、他のラブホテルを探せば良かった。池袋にはラブホテルがたくさんある。そのすべてのラブホテルを満室にすることは、さすがの意地悪な運命にも、できる訳がない。
 そして彼は緊張で胸を高鳴らせながら待ち合わせ場所のファミレスに到着して、入口がよく見える場所に座った。そこなら、蘭子が来たときに、見逃すはずは無かった。
 彼は飲料を注文した。しかし、トイレに行きたくなることを恐れ、その飲料には一切口をつけない。
 そして、じりじりしながら蘭子の到着を待った。
 彼女が来たときには、最高の笑顔で迎えなければいけなかった。
 そして待ち合わせの時間になった。
 蘭子は来ない。
「ははは……」
 力なく笑った。
(なるほど、そうきたか……)
 そう思った。
 十分が過ぎた。
 二十分が過ぎた。
 蘭子は来ない。
 しかしそれでも遅刻してくるのかもしれない。来たときに、怒ってしまっては最悪だ。
 彼は運命から、試されているのかも知れない。
 お前みたいに怒りっぽい奴には、セックスはさせん。
 運命から、そう言われているのかも知れない。
 三十分が過ぎた。
 四十分が過ぎた。
 五十分が過ぎた。
 さすがにこれはドタキャンだろう。
「どうしました?」
 と、ラインを打つ気にもなれない。
 想定内だ。
 どうせ、こうなるだろう。いつもの通りである。
 はい、凄く期待しました、でも最後にはがっかりして終わりました。
 ちゃんちゃん……
 いつものパターンである。そのレパートリーが一つ増えただけだ。
「いやあ、さすがに、そんなに甘くねえか……」
 そう呟いた。
 さすがにそうだろう。そうなるだろう。いかにも腹落ちした。なるべくして、こうなった。
 やっぱり蘭子も、いざ行くとなった時、やっぱり嫌になったのだろう。あんな奴とは絶対にセックスしたくないという、自分の本当の気持ちに、土壇場になって気づいたのだろう。
 だから来ないことに決めた。
 きっともうラインもブロックされているだろう。
 しかしそうなると、出会いカフェには、もう行かない方が良さそうだ。蘭子はそこの常連だと言っていたので、顔を合わすと気まずい。
 それに、蘭子の姿を見るのもつらい。
 やっぱり、セックスは諦めた方がいい。
 とりあえずは、次は、ソープランドで考えた方が良い。そこなら、風俗嬢は、彼から逃げられない。必ず彼の相手をしなければいけない。
 しかしこのダメージは、案外でかい。
 もう数年は、童貞のままでいよう。そしてまた、気持ちが静まったタイミングで、また、この件について考えればいい。
 もう、出会いカフェは選択肢から外した方が良い。そこで、蘭子以上の適任者に、また会えるとは思えない。
 蘭子は悪くない。すべて自分が悪い。彼女だって、最初から自分を騙すつもりなんて無かった筈だ。本気で彼に体を許そうと思ってくれたタイミングも、一瞬くらいはあった筈だ。
 それで充分ではないか。よくやった方だ。
 自分も、よく頑張った。ここまでセックスに肉薄できたのである。大したもんだ。行動力のない臆病で気の弱い自分が、ここまでやっただけでも、大したもんだ。
 自分で自分を褒めてあげたい。お疲れ様、と。
 蘭子を憎んではいけない。彼女は、天使のような女性だった。無理をさせてしまったのだ。申し訳ないことをした。
 薄汚い中年童貞が、ファミレスの中で、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
 頭を抱えて、俯いていた。
 その姿は完全に、気色の悪い不審者であった。
 ファミレスの店員は、早く警察に通報しなければいけなかった。そして彼を、刑務所にぶち込んでしまわなければいけなかった。彼みたいな人間は、存在しているだけで罪なのである。息をしているだけで犯罪だ。他者に嫌な思いをさせることだけを目的として、自分はこの世界に存在している──金山には、そう思われていた。
 そんな時、彼のスマホが着信音を鳴らした。
 それは、蘭子からのメッセージだった。
『ごめん、寝坊した! タクシーですぐ向かうから待ってて!』

 七

 志田蘭子は昨日、酒を飲みすぎてしまった。そして、セットしていた目覚ましが、なぜか鳴らなかった。そのため、予定の時間に起床することができなかった。
(困ったな……)
 この日は、金山正夫と約束をしていた。
 童貞の彼と、ワリキリをする予定があった。
 そして、その後にも予定が入っていた。
 とあるソープランド店で、急遽、面接してもらえることになったのである。そこでもし勤務することができれば、今のような貧乏生活から、余裕で抜け出せる。それは、極めて大事な面接である。
 さすがの楽天家の彼女でも、四十五歳のこの歳で、ずっと友達の家での居候暮らしでは、さすがにヤバいだろうと思った。
 だからとりあえず、ちゃんとした店で働いて、金を貯めたい。
(そしていつか、隠れ家的な、素敵なお店を開いてもいいなあ……)
 彼女はぼんやりと、そんなことを思う。
 彼女は、パチンコのほかに、居心地とセンスの良い店を見つけて通うという趣味も持っていた。良さそうな店があると知れば、地方にまで足を伸ばすこともある。
 しかし最近は貧乏暮らしのため、その趣味のほうは、ずっとできていない。
 そんな訳だから、今回は申し訳ないが、金山との約束は、リスケして貰いたい。
 今から行っても、どうせもう、大遅刻である。
 それに、もし行ったとしても、今日はもう、あまりゆっくりしてはいられない。
 大事な面接には、絶対に遅刻するわけにはいかないのである。
 優先順位としては、面接の方が高いに決まっている。
 童貞卒業のお手伝いなんか、いつでもできる。
 しかしその面接の機会は、今日しかない。
 その店は、かなり給料が良い。もし、老婆になるまでずっとそこで働くことが可能なら、そうしても良い。とにかく、この貧乏生活から抜け出せる、大チャンスが訪れていた。
 とりあえず、大急ぎでシャワーを浴びた。
 それからまた、どうしようかと考えた。
 しかしやっぱり、とりあえず、金山のもとに行ったほうが良さそうだ。
 リスケするにしても、とりあえず、金山と面と向かって相談してから決めたほうが良いだろう。ラインでの文字だけのやり取りだと、おそらく、断るための口実だと思われるだろう。
 相談してみた結果、どうしても今日が良いというのであれば、あまり長々と付き合うことはできない。おそらく、二時間くらいしか付き合えない。
 それでも今日がいいのか?
 あるいは、もっとゆっくりできる日に、リスケした方が良いのか?
 それを金山に決めさせると良いだろう。
 とりあえず、あれこれ考えている暇はない。
『ごめん、寝坊した! タクシーですぐ向かうから待ってて!』
 それだけ急いでラインして、超特急で、外出の支度を済ませた。
 スマホが鳴った。
『わかりました。お待ちしております。』
 と返ってきた。
 ぼやぼやと服を選んでいるヒマは無かったので、悪いなと思いながらも、普通のジーパンと黒いセーターを着た。
 下着は安物のベージュのタンガショーツと、ブラジャーにした。
 鏡をみると、そこには嫌になるくらいにおばさん顔の中年女が映っていた。
 とりあえず、急いで外に出て、タクシーを捕まえた。
 そして乗り込んだ。
『今タクシーに乗ったから。あと十五分くらいで着くと思う』
 そうラインを送った。
 そして車内でせっせと化粧した。
 スマホが鳴った。
『わかりました。お気をつけてお越しください。』
 と返ってきた。
 なんとか、かなり雑に、化粧を終わらせた。
(さてさて……)
 と蘭子は思う。
 正直、今日はあまり乗り気ではない。気が重い。
 今日の相手は、遊び慣れた男ではなく、いかにも面倒くさそうな、童貞である。
 しかし果たして、それは本当か?
 まず、それが疑わしい。
 彼は、蘭子をからかって、遊んでいるのかもしれない。童貞のふりをしているだけの可能性がある。
 客には、いろんな奴がいるのである。一見真面目そうで、実は、めちゃくちゃ変な奴の可能性もある。
 とにかく実際に、この目でじっくり顔を見て、確かめたい。
 一体どういうつもりで、ああいった気色の悪い長文メッセージを送りつけてきたのか?
 それも、絵文字ひとつない堅苦しい文章で。
 それを見たとき、正直ぞっとした。
(あ、こいつ全然常識ないんだ……)
 と思った。
 正直、やばい奴だと思ってしまった。
 関わらない方が良さそうに思えた。
 普通の女だったら、絶対に関わらないだろう。なんか、地雷の匂いが、ぷんぷんする。
 しかしそれでも、今の蘭子は、客を選んでいられる身分ではない。とりあえず、どんな痛客でも、来る者こばまずで、なんとかこなしていかなければいけない。
「あ、このあたりでいいよ。止めて……」
 そう運転手に声をかけた。
 タクシーは、待ち合わせのファミレスの近くまで来ていた。
 タクシーが止まった。
 金を払い、タクシーを降りた。
 そして大急ぎでファミレスに向かった。
 彼女は、柄にもなく、テンパっていた。なにか、妙に緊張していた。
 ファミレスの中に入った。
 店内を見まわした。
 すぐに金山の姿が目に入った。
 彼は立ち上がって、ぺこりとお辞儀してきた。
 その顔は引き攣っていた。
 一時間以上遅刻してしまったため、内心怒っているのかもしれない。
「わーん、遅刻しちゃったぁ。ごめんねぇ、目覚まし鳴んなくてさぁ……」
 蘭子はそう言って、彼の前の席に座った。

 八

 ファミリーレストランのボックス席に、志田蘭子は滑り込むようにして腰掛けた。
 大遅刻だった。約束の時間から一時間以上が経過していた。
「ほんとごめんね?」
 蘭子は、再び謝った。
「いえ……来て頂けただけで、最高に嬉しいです」
 金山は、卑屈な笑顔を浮かべて、そう言った。
 童貞の、そんな態度が、蘭子には気持ち悪い。こっちは大遅刻してきたのだから、感情をむき出しにして怒られる方が、まだマシである。
「でもさあ、本当にごめんなんだけど」
 蘭子はセーターの胸元を少し気にしながら、切り出した。
「なんですか?」
「今日さあ、あんまりゆっくりできないんだよね」
「そうですか」
「遅刻してきてこんなこと言うの、本当に申し訳ないんだけど……」
 蘭子がふと見ると、金山の顔からは、完全に血の気が引いていた。彼は、奇妙な薄笑いを浮かべていた。
「じゃあ……今日は中止ですか?」
(やっぱりな)
 と内心、金山は思った。
 想定内である。
 すべての期待は、必ず最後には、がっかりして終わる。それは、確実に踏み躙られる。それがいつものパターンである。
 運命はいつだって、彼がセックスするのを、絶対に許さない。
 しかし、蘭子の意図は、まったく違う。
 彼女は、できれば今日は、稼ぎたい。わざわざここまで来たのだから、それを無駄足にはしたくない。この後の、ソープランドの面接に行くまでの短い時間で、手早く稼ぐことができたら、それがベストである。
「いや、中止っていうかさ、この後、どうしても行かなきゃいけないところがあんだよね。だから……リスケする?」
「もし可能なら……」
 金山は、力なく言った。
「……今日、お願いしたいです……」
 彼は、奇妙な薄笑いを浮かべたまま、力なく、そう言った。
 金山の表情は暗い。
 彼は、そのリスケの提案を、断る口実だと思っていた。
「そう。わかった……じゃあ、すぐホテルいこっか?」
「え⁉︎」
「時間もないしね」
「い、いいんですか⁉︎」
「うん」
 驚愕の金山は、弾かれたように立ち上がろうとした。
「あ! ちょっと待って」
 蘭子は、それを手で制した。
 彼女は、気になっていた疑問を、ぶつけてみる。
「っていうかさあ、マサくん」
「なんですか?」
「経験ないって……それ、本当なの?」
 蘭子は、疑り深い目つきで、じろりと金山の顔を見た。
 ただの痛客が、ウブなフリをして自分をからかっているのではないか。風俗の世界には、そうやって女を騙して楽しむ歪んだ客が一定数存在する。
 金山は、真剣な表情で、頷いた。
「はい、本当です」
「ほんと? ネタじゃないの?」
「はい、ネタではありません」
「ふーん」
「俺みたいな中年童貞、けっこう多いんですよ?」
「へえ」
「『ルポ中年童貞』って本によると、長野県の人口と同じくらい、いるらしいです」
「そうなんだ」
 そうムキになって説明する金山の様子に、蘭子は、思わず苦笑してしまった。
「そっかあ、長野県ねぇ……じゃあ、とにかく行こっか?」
「はい!」
 二人はファミレスを後にした。
 池袋の道を、二人は並んで歩く。
 昼下がりの街は人通りが多く、すれ違う人々が自分たちを、どういう関係として見ているのか、金山は気になって仕方がない。お洒落をしてきたつもりだが、四十代半ばの自由奔放そうな女性と、ださい服を着た冴えない中年男の組み合わせは、どう見ても不釣り合いだ。
 金山正夫は、ひやひやと怯えていた。
(さあ、ここから、どうやってひっくり返る?
 運命は、今日は、どんな妨害を見せてくれるんだ?)
「でも、ホテル、満室かもね。そん時はごめんだけど、本当にリスケだね」
 蘭子が歩きながら、予防線を張るように、そう言った。
 蘭子が喋るたびに、金山は、びくりと身を震わせた。
 しかし、その件に関しては、問題ない。
 金山はフッと、得意げな笑みを漏らした。
「いえ、ホテルはもう部屋を取ってます」
「え、そうなの? アイネ?」
「はい、ご指定通り、アイネです。先にチェックインを済ませておきました」
 蘭子は一瞬、言葉を失った。その、入念な準備に、少しだけ背筋が寒くなる。
 歩みを勧めるごとに、アイネの派手な看板が近づいてくる。
 金山の脳内では、独自の考えが渦巻いていた。
(童貞卒業とは、ホテルの部屋で、女性と二人っきりになることである)
 それを世の女性たちは、絶対に、彼には許さない。
 しかし今、その絶対的な法則が、崩れようとしている。
(まさか……このまま行くのか?)
 二人はアイネの敷地内に入り、薄暗いエントランスへと足を踏み入れた。
 自動ドアをくぐり、ロビーを通り抜ける。
 すべてが金山にとって、鳥肌が立つほどに感動的だ。ありえない奇跡が、今、自分の身に起こっていた。女性とラブホテルに入っているという事実だけで、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。彼は、世界中の人間に、この事実を自慢したいような気分になっていた。
(さて、ここから、どうひっくり返る?)
 口は災いのもと。
 金山は、一切、無駄口を叩かない。軽率な発言のひとつで、蘭子を激怒させ、すべてがぶち壊しになってしまう。
 とにかく、誠実あるのみ。大敬語。蘭子に嘘は、一切つかない。ベストを尽くす。ただそれだけだ。
 一方の蘭子は、金山の極度の緊張を感じながら、それを解すように、ずっと賑やかなお喋りを続けていた。
「マサくん、プログラマなんだよね? かっこいいね」
「いえ、給料は安いですから」
「確か、宮崎出身だったよね。たまには実家に帰ったりすんの?」
「いえ、もう何年も帰ってません」
 蘭子の根掘り葉掘りな質問に対して、金山は馬鹿正直に、一切の嘘を交えずに、誠実に答えていく。
 そのあまりの素直さに、蘭子は次第に別の感情を抱き始めていた。
(これって本当に、ガチのやつじゃん……)
 蘭子の心に、じわじわと不安が広がっていく。
 四十二年間、すべての女に見捨てられた、魅力が乏しい男の、溜まりに溜まった、ドス黒い性欲。その禍々しい情念を、自分が、受け止めきれるのだろうか。四十二歳の童貞を、「優しくリードしてあげる」なんて芸当、フリーランスの風俗嬢として適当に生きてきた自分には、到底できるとは思えない。
 そんな蘭子の戸惑いを置き去りにして、エレベーターは静かに上の階へと移動していく。
 チン、という軽い電子音とともに扉が開き、二人は静まり返った廊下へ出た。
 金山が前もって確保していた部屋の前に立ち、鍵を開ける。
 ドアを押し開け、金山は先に部屋の中に入った。
(油断するな……まだ……ここからでも……ひっくり返るから……)
 そして、ドアを手で押さえて、
「さあ、どうぞ……」
 震える声で、蘭子を招き入れる。
 彼女は、ごくりと唾を飲み込み、恐る恐る、部屋の中に入った。
 カチャリ、と背後でドアが閉まり、ロックされる音が響く。
 その瞬間、金山の目から、ぶわっと涙が溢れた。
(とうとう、ホテルの部屋の中で、女性と二人っきりに……)
 圧倒的な感動の波が、彼に、押し寄せていた。
 まだ肌を合わせてもいないというのに、彼はこの事実をもってして、すでに、
〝童貞卒業〟
 と感じていた。
「ぷっふっふっふっふ……」
 金山は、弾けるように泣き出していた。

 九

「どうしたの?」
 泣いてる童貞に問いかける。
「なんでもない……なんでもないんです……」
(なぜ泣く?)
 蘭子は戸惑う。
 それも、いきなりである。
 意味不明である。
 それは、酷くみっともない泣き方であるように、蘭子には感じられた。
 正直言うと、そんな、訳のわからない涙の訳など、知りたくもない。
 関わりたくない。
 蘭子の中で、生理的嫌悪感が、みるみる膨らんでいく。
(やっぱ地雷だ……)
 そんな風に思ってしまう。
 とにかく、童貞を、部屋の中に座らせた。
 それは、大きな革張りのソファである。
「本当にありがとうございます……ぷっふっふっふ……」
 金山は、カバンの中から封筒を取り出し、それを蘭子に手渡した。
 蘭子がその中を確認すると、そこには一万円札が五枚入っていた。
 金山は泣きながら、頭を下げ続けていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
 莫迦のように、そう言い続けていた。
 蘭子は、そんな童貞を、薄気味悪そうに見ていた。
(宇宙人……)
 思わず、そう思ってしまう。
 今すぐ金を返して、ここから逃げ出したい。
 そして、こんな訳のわからない気持ちの悪い男と、セックスなんて、絶対にしたくない。
 そんな気持ちが沸いてくる。
 その拒絶感は、理屈ではない。本能的なものである。それは、女々しい雄の種は、絶対に孕みたくないという、優秀な遺伝子を求める雌の本能かもしれない。
 しかしとにかく、蘭子は、すでに金を受け取っている。
 通常は、報酬金は、セックスが終わってから、支払われる。
 前払いする客は、それだけで、良心的な客だと言える。
 悪質な男だと、サービスが悪いだなんだと文句をつけて、払わない者もいる。
 払わないと開き直られてしまうと、もう、どうしようもない。出会いカフェに苦情を入れても、店は基本、男側の味方である。だから、もう二度とその男の相手をしないようにするしか、対応手段がない。
 女同士は、お互いに、うわべだけの付き合いで、深くは関わらないようにしている。だから基本、情報共有は行われない。みんな殺伐とした個人主義者である。悪質客と外出する女がいても、誰も、何も言わない。助けない。
 そして、もし下手に客と諍いを起こしてしまうと、どんな目に遭うか、わからない。
 過去には、女子大生と男の口論の果てに、女が首を絞められて殺された事件も発生していた。
 笑えない冗談で、
「ほい、約束の二万……」
 と言って、韓国の紙幣である、二万ウォンを手渡す者も、過去にはいた。
 頭のおかしな人間というものは、いくらでもいるものだ。
 蘭子は、じっと受け取った五枚の紙幣を眺めた。
(返しちゃおうかな……)
 彼女は、そう迷う。
 しかし、せっかく手に入った五万円を、返してしまうのは惜しい。
 だから、いくら生理的に嫌悪する相手であったとしても、なんとか、うまくこなしたほうが、良いに決まっている。
 蘭子は頭を切り替えた。
 プロとしての、営業モードである。

 一〇

 志田蘭子は、金山正夫から受け取った五万円を財布に収めながら、少し視線を泳がせた。
「とにかく私、さっきも言った通り、すぐに行かなきゃいけないんだよね……」
 蘭子はこの後、ソープランドの面接がある。
「いいですよ」
「ん?」
「もう、帰ってもいいですよ」
「は?」
「もう俺、満足です」
「……」
 童貞卒業の報酬金として、五万円を受け取ると、蘭子は認識している。しかし金山は、まだ何もしていないのに、そんなことを言ってきた。
 まったく意味が分からない。
「それって……キャンセルってこと?」
「いえ、そうではありません」
「じゃあ、お金は返さなくてもいいの?」
「はい、返さなくて良いです。今日はありがとうございました」
 金山はそう言って、めそめそ泣いている。
(なにそれ?)
 蘭子は、そんなこと言われて、「はいそうですか」と帰れるわけがない。彼女は別に乞食じゃない。正当な報酬なら、堂々と受け取ることができる。しかし、訳の分からない金を受け取るのは、気持ち悪い。
 それに、これからソープランドの面接があるのである。
 こんな、訳の分からない金を受け取って、そのまま平気で済ましていたら、間違いなく、その面接は落ちそうな気がする。プロのサービスを提供する者として、何もサービスしていないのに、報酬金だけを貰うようでは、もうプロ失格だ。
「とにかく、じゃあ、お金は返すよ……」
 渋々と、財布から五万円を取り出す。
「いえ、受け取ってください」
「受け取れないって」
「いえ、どうぞお受け取りください」
「あのね……それって私に失礼すぎるよ? 返すって!」
「いえ、今日はもう充分ですので……」
 そんなやりとりが続く。
「じゃあ……一万円だけ貰っとくよ。そして時間いっぱいまで、お話しよ?」
「……」
「それも嫌? 早く帰ってほしい?」
 しかし蘭子としては、さすがに手ぶらでは帰りたくない。
 わざわざここまで来ているのだ。タクシー代だってかかっている。
 一緒に食事をする場合は、一時間五千円を貰っている。だから今回は、二時間程度の拘束時間と考え、一万円くらい貰うのが妥当であり、それなら正当な報酬といえるだろう。
「うう……ううううう……」
 また金山が、激しく泣き出した。
「でもやっぱり、申し訳ないけど、俺、どうしてもセックスしたいです……もう気が狂いそうなくらい、セックスしたいです……」
「はあ?」
(どっちなの?)
「じゃあ、するの?」
「でも、よくよく考えてみたら、自分のことを好きでもない女性と、相手は嫌がってるのに、相手はセックスしたくないのに、自分だけがセックスしたくて、相手は金のためだけに嫌々それに付き合ってくれるような、そんなセックスなんて、する意味あるのかなって……」
「じゃあ、しないの?」
「でも、切ないです……やっぱり、もう、どうでもいいから、とにかく、お願いしたいです……俺、やっぱり、セックスしたいです……」
「わかった……じゃあ、するでいいのね?」
「はい……お願いしたいです……」
(はあ、まったく……だる……)
 蘭子は、うんざりしてしまう。
「蘭子さん、あとどのくらい、ここにいられるんですか?」
 めそめそと泣きながら、金山が尋ねる。
「そうだなあ。三時くらいには、ここを出なきゃだから……」
 蘭子が腕時計に目を落としながら言う。
 金山も、現在の時刻を確認した。
「じゃあ、あと一時間五十分もいられるんですか?」
「うん、まあ、それくらいは大丈夫だけど……」
 一時間五十分。
 金山にとって、それは充分に長い時間のように思えた。この密室で、女性とセックスするために与えられた一時間五十分は、充分すぎる、たっぷりな時間のように思えた。
(一時間五十分もあれば……)
 本当の〝童貞卒業〟だって、できそうに思えた。

 一一

 金山正夫は、女性とホテルの部屋で二人っきりになれたことで、もう童貞を卒業したような気になっていた。
 そして、ひどく感動していた。
 そのため、蘭子に対して、思わず、
「もう、帰ってもいいですよ」
 などという、格好をつけたことを言ってしまった。
 蘭子が、無理して自分の相手をしようとしているのは間違いない。誰だって、好き好んで、自分の相手なんかしたいわけがない。それはさぞかし苦痛だろう。
 だから金山は、申し訳なくなってきた。
 ホテルの中にまで一緒に付いてきてくれたような優しい女性に対して、もうこれ以上、迷惑をかけたくない。ここまで付いて来てくれただけで、もう五万円を払う価値は、充分にある。
 だからもう、蘭子を解放してあげるべきだ。これ以上、無理をさせるのは気の毒だ。
 そんな思いが、心中で、みるみると膨らんだ。
 しかし、そんな自分を叱責する声もある。
(そんなだから、お前は、いつまでたっても童貞なんだ!)
 そう怒鳴る声もある。
 いざというときには、つい、格好をつけてしまう。
 そんな〝罠〟も、間違いなく運命の働きかけだろう。運命は執拗に、彼からセックスを遠ざけている。絶対に彼にセックスをさせないようにしている。
 もう、「一生童貞」の運命が決定しているようにさえ思えていた。
 そんな運命を、金山は変えたい。
 だから、この期に及んで、格好をつけるような真似は、絶対にしてはいけない。
「もう、帰ってもいいですよ」
 なんてことは、本当は、口が裂けても言ってはいけない。
 相手が逃げるなら仕方がない。しかし、自分から逃がすような真似は、絶対にしてはいけない。
 蘭子には気の毒だが、時間の許す限り、付き合って貰いたい。
 それはさぞかし苦痛だろう。
 しかし、我慢して貰いたい。申し訳ないが、そうしてほしい。
 彼は、この機会を、絶対に逃したくない。
 これを逃すと、もう二度とこんな機会は無いだろう。もう一生童貞だろう。
 でも、よくよく考えてみたら、自分のことを好きでもない女性と、相手が嫌がってるのに、相手はセックスしたくないのに、自分だけがセックスしたくて、相手は、金のためだけに嫌々それに付き合ってくれるような、そんなセックスなんて、する意味あるのか?
 それでもやっぱり、どうしても、もう気が狂いそうなくらい、セックスしたい。
 もう、すぐ手の届くところにセックスがあるのだと思うと、もう彼の股間は、猛烈に熱くなる。
 胸が苦しくて堪らない。切ない。やっぱり、もう、どうでもいいから、とにかくセックスをお願いしたい。
 金山の気持ちは決定した。
 やっぱり、どうしてもセックスしたい。
 女性と部屋の中で二人っきりになるだけでは、童貞卒業とは認められない。やはりこの機会に、何がなんでも、セックスしておかなければならない。
 そうと決まれば、金山の下半身から、禍々しいほどの欲望が沸き出てきた。
「なにか……冷たいものでも飲みますか?」
 金山は、内心の欲望を懸命に抑え、そう尋ねた。
 その涙は、止まっていた。
 その目つきは、ガラリと変わっていた。
 彼に〝魔〟が取り憑いていた。
 彼の中に、弱気な彼と、〝魔〟の取り憑いた彼が、同時に存在していた。
 そんな彼の変化を、間近で、蘭子は察知した。経験豊富な彼女は、男が突然〝狼〟に豹変する生き物であることを知っている。だから彼女は、怯えたような表情を見せた。
「あ、うん、大丈夫、ありがとう……でもさ、マサくん」
 蘭子は、気まずそうに、もじもじした。
「なんですか?」
「私、別に、セックスは、上手じゃないんだけど……」
 蘭子の表情には、隠しきれない不安が色濃く滲んでいた。
 金山が、ふいに発散してきた、禍々しい、雄の熱量。
 それが尋常ではなく感じられた。
 それはまさに、四十二歳の童貞の、溜まりに溜まった、圧倒的な熱量である。どんな女でも逃げ出したくなるような、怖いくらいの熱量である。
 金山は、陰惨に目を細め、引き攣った笑みを浮かべている。呼吸を荒くしている。
 そのズボンの前は、隆々と膨らんでいた。

 一二

(重すぎる……)
 金山の膨らんだズボンの前を恐々とチラ見した蘭子は、背筋に冷たいものが走るような恐怖を覚えていた。これまで何百人という男を相手にしてきた蘭子だったが、これほどまでに純粋で、かつ歪んだ執念を孕んだ熱量を突きつけられたことはない。
 こんな男の童貞を、果たして無事に卒業させることができるのか?
 荷が重く感じられる。いっそ、五万円を叩き返して、今すぐこの部屋から逃げ出してしまいたい。そうすれば、どれほど楽だろう。
「とにかく……先にシャワー浴びちゃうね?」
 蘭子はこれ以上、部屋の重苦しい空気に耐えかねたように立ち上がり、逃げるようにしてバスルームへと消えていった。
 一人残された金山は、ソファに悠々と深く腰かけ、大きく息を吐き出した。
 至福──このひとときをそう言わずして、なんと言おう。今、あの扉の向こうで、生身の女が自分とセックスするために、その裸体を湯あみして清めている。自分の人生では絶対に起こるはずのない奇跡が、今、確実に進行している。
(運命は、ここからどうやってセックスを取り上げるつもりだ?
 俺はその前に、心臓発作で死ぬのか?)
 もう邪魔が入る余地はない。これは夢でも妄想でもない。手の届く場所にある現実だ。
 シャワーを終えた蘭子は、洗面所の鏡の前で、必死に呼吸を整えていた。備え付けのドライヤーを握り、入念に身だしなみを整え始めていた。髪の毛の一本一本に至るまで、時間をかけてチェックしていく。生足の虫食い跡は、コンシーラーで丁寧に隠した。
 昨日のうちに、陰毛は綺麗に剃っていた。
(やるからには……完璧にやらないと)
 蘭子は鏡の中の、嫌になるほどおばさん化した自分の顔を睨みつけた。その表情は、真剣そのものだ。
 出会いカフェでの割り切りの相場は、二万円。しかし金山は五万円という大金を、惜しげもなく自分に支払った。
 そして何より、この後には自分の人生を左右するソープランドの重要な面接が控えている。もしその店で働くことになれば、金山のような、不器用で、孤独で、心に深い傷や屈折を抱えた男たちが、客として何十人も、何百人もやってくるに違いない。
 これまでの蘭子は、風俗を、どこか腰かけバイトのような感覚で、適当にこなしてきた。しかし、四十五歳になった今、もう後がない。友達の家で居候し、パチンコばかりしている惨めな生活から抜け出すためには、今後は本物のプロとして、死に物狂いでこの世界にしがみつくしかない。
(これは、私のデビュー戦なんだ……)
 蘭子は強く拳を握りしめた。
 この四十二歳の重たい童貞を、自らの技術と包容力で満足させ、救うことができたなら。その揺るぎない実績と自信さえ摑めば、この後のソープランドの面接官の前でも、本物のプロとしての覚悟とやる気を、堂々とアピールできるはずだ。逆に、ここで怯えて失敗してしまえば、面接も、これからの人生も、すべてが駄目になってしまいそうな気がする。
 洗面所の前で、中年女・志田蘭子は、一人の男を全力でもてなすための、静かな、しかし退路を断った覚悟を決めていた。
(しかし、どうすれば……?)
 セックスがそんなにうまくない自分が、どのようにして、あの拗らせ切った中年の童貞を、うまく卒業させることができるのか?
 失敗すると、彼の一生のトラウマになるかもしれない。
 蘭子の頭には、それを回避するための方法は、一つしか思い浮かばなかった。

 一三

 バスルームへ向かった蘭子は、長々と戻ってこなかった。
 彼女は、一時間五十分の時間を短くするために、そこで長々と時間を潰しているのかもしれないなと、金山は思う。しかし一時間五十分は長い。いくら時間を潰そうとしても、それにも限度があるだろう。どうせいつかは、彼の前に戻ってこなければいけない。
 金山は、じりじりしながら、蘭子が戻ってくるのを待っていた。脚を組んで、ソファーに座っていた。
 彼は、激しく昂っていた。
 しかしとにかく、ここまで来たら、すべて運命に身を委ねようと思う。
 待たせるだけ待たせればいい。バスルームで、一時間五十分ずっと籠るなら、そうすればいい。そして結局、セックスできなかったとしても、それもまた運命だ。
 彼は、運命を呪いながらも、同時にまた、運命を信じたい。すべては、なるようになると思いたい。過去の過ち、後悔、現在の生き方、それらすべてが、運命によって決まっているものだと考えると、彼は、気が楽になる。自分は何も悪くないのだと思うことができる。
 彼にはいつも、自分が間違った生き方をしているように思えていた。それが彼を悩ませ、苦しませていた。
 しかし、すべてが運命なら、すべてが、なるようになっているだけなら、彼には何も落ち度はないということになる。もしそうなら、彼は、気が楽になる。自分はなにも悪くないのだと思える。彼は、そう思いたい。すべてを運命のせいにしたい。
 彼は、エゴイストで、ワガママで、自己中心的で、駄々っ子である。今まで出会って、知り合ったすべての他者たちに、迷惑だけをかけてきたような気がしている。ただの一度の良いこともしたことがないように思えている。いつも悪いことばかりをしているように思えている。すぐ怒る。気が短い。心が狭い。プライドが高い。変に頑固。
 極度に昂った興奮の中、険しい目をして、じりじりと蘭子を待ちながら、金山は、そんなようなことを、ぼんやりと思っていた。
 そして、とうとう蘭子が戻ってきた。
 彼女は、白いバスローブを身につけていた。
「お待たせ」
 その声は、かすんでいた。下を向いたその笑顔は、引き攣っているように見えた。その様子からは、普段の明るいタメ口おばさんの余裕が失われていた。
「じゃあ、俺もシャワー浴びてきます」
 金山は立ち上がり、そう言った。
「うん、待ってるね」
 蘭子は目を合わせない。ソファーに腰かけ、視線を床に落としていた。その横顔には、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
 金山はバスルームへと歩みを進めた。
 ズボンの前は、すでに猛烈に膨らんでいた。彼はもう、蘭子の前で、それを隠そうとはしていない。そんなことは初めてだ。これまでの人生において、他者の前で、勃起した姿を見せるなんてことは、一度もなかったし、それは絶対に避けていた。しかし今は、それを堂々と見せて良い。なぜなら、これからセックスをするからだ。それを隠さなくても良いのだという圧倒的な解放感が、金山を恍惚とさせていた。
 彼は、シャワーを浴びて、シャンプーとボディーソープで、入念に髪と体を洗った。それから、濡れた髪を、タオルでごしごしと擦った。体を拭いた。洗面台の前で、丹念に歯を磨いた。口臭の原因になりそうなものは、昨日から何も食べていない。ヘアースタイルを整えた。バスローブを着た。
(いよいよだ……)
 部屋に戻れば、夢にまで見た、セックスである。
 情けないことに、極度の興奮と緊張のあまり、脚がガクガクと震えていた。胸がドキドキと高鳴っていた。頭を搔きむしりたくなるような、猛り立った欲望を、彼は懸命に抑えていた。
 コンドームは、あらかじめ薬局で買っておいたものを、カバンの中に入れていた。わざわざ買わなくても、ラブホテルにそれが用意されていることを、彼は知らなかった。
 コンドームの箱を開け、とりあえず、その二つを手に取った。それを枕元などの手の届くところに、こっそりと置いておく必要がある。
 いざというときに、あたふたしてしまうことを、彼は恐れていた。何度も深呼吸して、なんとか気持ちを落ち着かせようとした。
 そして、なるべく余裕そうに振る舞いながら、部屋に戻った。
 ‼︎
 彼は、小さく息を呑んだ。
 いつの間にか、部屋の照明が落とされていた。部屋は、ぼんやりとした薄明かりに包まれていた。
 そして蘭子は、すでにベッドの布団の中に入っていた。掛け布団が、女の形に盛り上がっていた。彼女は、金山に背を向けるようにして、横たわっていた。頭の半分まで掛け布団を被るようにして、じっと無言で、彼を待っていた。その後頭部の半分だけが見えていた。
 それは、金山にとって、頭を殴りつけられたような、衝撃的な光景だった。
 言葉による説明も、うわべだけの世間話も、すべて排除された空間。ここから先は、有無を言わさぬ、問答無用のセックスの始まりなのだという現実。
 それが蘭子の手により、作り出されていた。
 その、掛け布団をかぶった熟女の後ろ姿は、まるで、飢えた狼の前に差し出された、血のしたたる贄のようだ。

 一四

 蘭子が選択した唯一の方法は、マグロになることだ。
 下手にリードしないほうが良い。それができるとも思えない。どこであの童貞の地雷を踏むか、わかったものではない。また泣き出すか、あるいは、いきなり切れられても困る。一見、気が弱そうに見える男が、当然ブチギレて凶暴化するケースを、彼女は何度も見てきた。
 そんな中で、プロとして、しっかりともらった五万円分のサービスを提供しなければいけない。
 だったらいっそ最初から、なにもかも童貞の手に委ね、ただ、物言わぬ物質と化して、自分の体を、好きなようにさせれば良い。それが一番安全だ。それより良い方法があるとは思えない。
 しかし、童貞が恐る恐るベッドに近づいてきた時、蘭子のそんな目論見は、音を立てて崩れ去った。
 そこには、異常なほどの緊張感が張り詰めていた。
 背を向けた蘭子の鼻腔に、シャワーを浴びたばかりの童貞の、熱を帯びた皮膚の匂いが飛び込んでくる。四十二年間、恋愛とは無縁な男の、溜まりに溜まったドス黒い欲望。そして、その狂おしい熱量。嵐のように荒々しい息遣い。
 その尋常ではない気配が、密室の重苦しい空気を通じて、蘭子の肌に直接突き刺さってきた。
(こ、怖い……)
 蘭子は自分の脈動が、耳の奥で爆音を立てているのを聞いていた。
 これまで何百人という男を相手にしてきた。酸いも甘いも噛み分けた風俗嬢として、男の扱いなど知り尽くしているつもりだ。
 だが、迫りくる童貞の放つ熱量は、遊び慣れた男たちのそれとは根本的に違う。それは、あまりにも重い、命懸けのような、むき出しの情念。
 それに直面したとき、蘭子は本能的な恐怖と、それ以上に、今まで感じたことのない奇妙な興奮に体の芯を貫かれていた。喉はカラカラに渇き、布団を握る指先が震える。
 童貞を相手にするのが初めてだった蘭子は、その圧倒的な熱量に、自分のほうが、完全に気を呑み込まれてしまっていた。
 お互いの異なる、しかし同じように激しく暴れる心臓の鼓動が、薄暗い部屋の静寂の中に重なり合っていく。
 童貞はゆっくりと布団をめくり、彼女の後ろに身を滑り込ませた。
 沈黙の中で、お互いの荒い呼吸音だけが重苦しく響く。
 童貞は生唾を呑み込み、震える手を蘭子の肩へと伸ばしかけ、その寸前で踏みとどまった。そして、人生の大一番のような真剣な声で、彼は尋ねた。
「さ、触ってもいいですか?」
 その問いかけに対して、蘭子が、ようやく唇の隙間から絞り出したのは、およそ経験豊富な水商売の女性のものとは思えない声だ。
「うん……」
 うわずった、まるで今にも泣き出しそうな声だ。
 極度の興奮と本気の緊張に翻弄され、完全に大人の理性を奪われてとり乱しているかのような、切なげな響き。それはまるで、純潔な処女が、婚礼の夜に決死の覚悟で夫に身を差し出すときの、あの初々しい怯えの声のようだ。
 蘭子の、その「うん」という言い方を、童貞は生涯忘れない。忘れるわけがない。それは、この先どれほど時が流れようとも、未来永劫、決して忘れることができないであろう、この上なく可愛らしくキュートな雌鳴きのように、彼には思われた。

 一五

 薄明かりのホテルの部屋の布団の中。
 蘭子から「体を触ってもいい」と許可してもらえた童貞──金山正夫がまず始めたのは、痴漢の動きである。
 まず恐る恐るバスローブの上から蘭子の肩に手を触れた。そのままじっと手を止める。ハァハァとその息遣いは暴風だ。それを蘭子の首筋に容赦なく浴びせかけた。
 その股間はすでに破裂しそうなほどに勃起していた。
 女性の肩にバスローブ越しに手を触れているというだけで、彼にとっては大事件だ。その胸は感動に打ち震えていた。すべてが初体験の連続だ。
 ブルブルと震える手で、肩の次は背中、腰と、一つずつ確かめるように触れていった。そしてその手は豊かな臀部へと辿り着いた。
 金山は手のひら全体でお尻の肉を包み込むようにして、何度も貪るように撫で廻した。
「ううう……」
 童貞は喉の奥で言葉にならない声を漏らしていた。頭がクラクラしていた。興奮のあまり視界がチカチカと明滅していた。
 金山は痴漢を題材にしたアダルトビデオが好きだ。満員電車の中での凌辱を描いた淫らな官能小説が好きだ。
 彼にとって女性とは、同意の上で愛し合う対象ではなく、圧倒的な背徳感のなかで、一方的にその肉体を侵略する行為の対象のように思われていた。そして目の前で白いバスローブ姿の熟女が無言で横たわっているという状況は、その歪んだ性癖を満たすための絶好のシチュエーションになっていた。
 お尻を揉みしだきながら金山の手はさらに下へと伸び、バスローブの裾から中に潜り込ませ、太腿も撫で始めた。生温かい紛れもない女の皮膚の感触が、彼の脳髄を狂わせていた。
 一方ベッドの上でカタカタと震えながら決死の覚悟でマグロに徹しようとしていた蘭子は、背後からの異様な手つきの感触に、徐々に違和感を覚え始めていた。
(なにしてんのこいつ?)
 蘭子は布団のなかで目を丸くしていた。
 最初は四十二年分のドス黒い性欲が包丁のように突き刺さってくるのかと思って、怯えていた。しかし実際には、ただぎこちなくお尻や太腿を撫で廻すばかりである。
 その手つきには、女の身体を愛撫してその性感を高めてあげようという大人の男としての配慮や技術が一ミリも含まれていない。ただ自分の手のひらで女の肉を触りたい撫でたいという、不器用で自己中心的で、あまりにも幼稚な童貞の欲望が丸出しの手つきだ。
(これってまさか……痴漢?)
 蘭子は絶句する。
 彼女のなかで張り詰めていた恐怖の糸が、プツンと音を立てて切れた。かわりに、バカバカしさが沸き起こる。
(このタイミングで痴漢って……)
 その手つきはぎこちなくて不器用だ。そしてなんか必死すぎて笑えてくる。犯罪的な恐怖を放っていたはずの四十二歳の童貞は、蓋を開けてみれば、自分のみっともない性癖を晒しているだけの愚かしい中年男にすぎない。金山のその性癖は、蘭子の前で完全に丸分かりになっていた。
 金山はブルブルと手を震わせながら、夢中になってお尻を撫で廻している。
 蘭子はその圧倒的な熱量を感じながら、
(まあ、本人がこれで興奮してるなら、好きにすればいいけど……)
 と布団のなかで、静かに呆れ返っていた。

 一六

(やっぱり、少しはリードしてあげないとダメかなあ……)
 蘭子は、そんな風に思い始めていた。
 なんといっても、相手は四十二歳の童貞である。このまま放っておいたら、ただひたすらお尻や太腿を撫で廻すばかりで、残りの時間をすべて使い果たしてしまうかもしれない。
 この後に面接の予定がある蘭子は、行為の途中で、この童貞を冷酷に見捨てなければいけないかもしれない。五万円も貰っている手前、それだと後味が悪くなってしまいそうだ。
 そして、薄明かりの部屋のベッドのなかで、終わりのない痴漢行為に身を委ねているのは、とても気持ち悪く、同時に滑稽でもある。しかし、暗黙の了解のもとで進行するその一方的な侵略行為に対して、どこでどう声をかけていいのか、蘭子には分からない。何より、その狂気じみた熱意のこもった痴漢行為の邪魔をすることが、どこか恐ろしいような気もしていた。下手に声をかけると、彼のなかで眠っているかもしれない地雷が、なにかしらの形で爆発してしまうかもしれない。
 だが、いつまでもじっとこうしているわけにもいかない。
 蘭子は、かすかなプロ意識を奮い立たせ、自ら変化のアクションを起こすことにした。彼女はシーツの擦れる音を微かに響かせながら、それまで金山に頑なに背を向けていた体を、ベッドのなかで、くるりと反転した。
 無防備に差し出された贄のようだった熟女が、突如として堂々と自分の方に向き直った瞬間、金山は雷に打たれたかのようにギョッとした。
 その動きが、ぴたりと止まる。
 金山は、その狂おしい妄想の世界から、冷たい現実の空間へと無理やり引き戻されたような顔をしていた。急速に我に返った彼の顔から、それまでの狂気的な気配が嘘のように消え、元の気弱そうな表情に戻った。
「ご……ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声を出す。
「ん?」
「すみません、なんか俺……勝手なことばかりしちゃって……」
 おどおどした態度で、金山はシーツを胸元まで引き上げようとする蘭子の様子を、ビクビクと伺う。調子にのって痴漢行為をしていたなかで、か弱い被害者であるはずの女から突然平然とした視線を向けられたことで、彼はびびりまくっていた。
「別にいいんだけど、でも、マサくん」
 蘭子は、笑いそうになる唇をなんとか抑えて、普段の明るいタメ口おばさんの調子に戻った。
「ずっとお尻触ってるだけで、いいの?」
「え?」
「何かほかに、やりたいことはないの?」
 促すような蘭子の問いかけに、金山はごくりと喉を鳴らした。彼の目の奥で、再び激しい炎が燃えあがる。
「あ、あります」
「なに?」
「できれば……」
 金山は、小心そうに顫えながらも、しかし明確な意思を込めて言った。
「キス……したいです」
 蘭子は一瞬、四十五歳の自分の顔が、至近距離で相手にどう映るかを懸念したが、すぐにそんな雑念を振り払った。彼女は、この不器用な迷子を次の段階に導くためのガイドをすることに決めていた。
「いいよ、んー」
 蘭子は、わずかに目を細め、少女の真似事をするように、その紅い唇を少しだけ尖らせて見せた。

 一七

 蘭子が差し出した唇を見つめながら、金山は数秒の間、完全に硬直していた。世界のすべてが停止したかのような感覚のなかで、彼は生唾をごくりと呑み込み、ようやく意を決したように、おずおずと顔を近づけた。そして、その唇の柔らかさに触れた途端、彼の脳内で何かが弾けた。
 金山は蘭子の唇に、ちゅーっと音が鳴るほど、思いきり吸いついた。
 蘭子は驚いて唇を離そうとしたが、金山は逃がさない。執拗に追いかけ、ちゅーっと吸い続けた。
 加減を知らない四十二歳の吸引力が、蘭子の呼吸を奪った。彼女は窒息しそうな恐怖さえ覚えた。
 金山は、そんなキスを長々と貪り、ようやく一旦、唇を離した。
「んー……」
 蘭子は、困ったような声を出した。
 それは、そのキスの仕方について、なにかアドバイスしてあげたほうが良いのではないかと考えているような声であった。しかし金山があまりにも幸福そうな顔をしていたので、何も言えなかった。
(なるほど……こうなるのか……)
 と彼女は思った。
 そして再び唇が押しつけられた。今度は、口の中に、舌が差し込まれた。
 蘭子は心中で小さくため息をつきながら、その侵入者を優しく迎え入れた。拒むことなく、自分の舌を、彼のそれにそっと絡ませた。
 その童貞の舌は、蘭子の口内で、高速で動いた。
 その動きのスピードに、蘭子の舌も、懸命に合わせた。
 れろれろれろれろと、お互いの舌と舌が、ただ盲目的に絡み合った。
 金山のキスには、大人の男が女性を心地よくとろけさせるための緩急や、吐息を混ぜるような繊細な技術は一ミリも存在しない。ただひたすらに、己の口腔を満たす女の味と感触に狂喜乱舞し、単調な運動を繰り返すばかりの、あまりにも稚拙で独善的なキスである。
 もちろん、当の童貞は感激の極みに達していた。うっとりと目を血走らせながら、恍惚とした表情で、この世で最高のキスを味わっていた。
 何度離れても、またすぐに蛸のように吸いついて、ワンパターンなキスを繰り返す。
 蘭子は、ただ静かにその熱量に付き合っていた。
 そのキスには、何の発展性も、変化もない。ロマンチックなムードが高まるわけでもなく、ただベッドの上で中年男女が、れろれろと単調に舌を絡ませ合っているだけの、客観的に見れば奇妙で滑稽な時間が過ぎていく。
 しかしそれは金山にとっては至福の時間である。そんな熱烈なキスを続ければ続けるほど、すべての女性から見捨てられていた劣等感が、みるみる消えていくような感覚を覚えた。
 そんな、あまりにも長すぎる単調なキスの時間が、ようやく終わった。
 金山は蘭子の唇からゆっくりと顔を離すと、まるで極上の酒に酔いしれたかのように、とろんとした恍惚の眼差しで彼女を見つめた。
 それはまるで、永遠の恋人を見るような目つきである。
 その唇は濡れそぼり、呼吸はいまだに激しく乱れている。大人の女性の口内という未知の領域を存分に堪能し尽くした彼は、嬉しそうに目を輝かせていた。
(これは酷い……経験がないって、こういうことか……)
 蘭子は薄笑いを浮かべながら、そう思っていた。
 かつてこれほど下手くそなキスを経験したことがない。
 さらに、遊び慣れている男たちと比べると、触り方も、撫で方も、揉み方も、壊滅的に下手すぎる。
 それは、経験値が圧倒的に違うからだろう。遊んでいない男はつくづくダメだと、蘭子は思った。

 一八

「次は……」
 金山は、気持ちの昂りをなんとか抑えるようにして、かすれた声を絞り出した。
「スキンシップ……スキンシップがしたいです。いいですか?」
 猪のような必死の形相。
 蘭子は心中で、思わず苦笑した。
(ほうほう、今度はスキンシップですか……)
 なんか、面白い生き物だなと思ってしまう。そして、そんな彼の必死さと、どこか滑稽なまでの怯えを含んだ眼差しが、妙に憎めないようにも感じられた。
 蘭子は、穏やかな包容力を感じさせる表情を見せていた。
「うん、いいよ」
 その快諾の言葉を聞いた瞬間、童貞の表情にぱあっと、子供のような無邪気な喜びが広がった。
 彼は嬉々として、自分のバスローブの帯を乱暴にほどいた。もはや恥じらいなどどこかへ吹き飛んでしまったらしく、小太りで、いくぶん弛んだ中年男の裸体を、薄暗い部屋のなかで躊躇なく晒す。
 バスローブは投げ捨てられた。
「蘭子さんのも……俺が脱がしていいですか?」
「うん、いいよ」
 金山は興奮で鼻息を荒くしながら、ベッドに横たわる蘭子のバスローブへと手を伸ばした。
 だが、ここでもやはり、四十二歳の童貞という壁が、彼の前に立ちはだかった。
 脱がせない。
 その手は激しく震えており、バスローブを固定している帯の結び目に指をかけるものの、焦れば焦るほど手先が狂って、一向に解くことができない。
「あれ……おかしいな……これ、どうなってんだ……」
 思い通りにならない焦燥感から、金山の額には、じっとりと脂汗が浮かび始める。
 ここでまた、もたもたしてしまう自分が情けない。
 そんな風では、蘭子をイライラさせて、怒らせてしまう。せっかく順調に進んでいるというのに、すべてが台無しになってしまう。
 そんな卑屈な恐怖心が、彼を襲っていた。
 蘭子は、そんな彼の様子を、静かに見ていた。
 童貞のその不器用な手つきは、見ていて微笑ましくもあり、同時になんか、可哀想にもなってくる。
 本当に、なにもスマートにはできないらしい。
 童貞は、焦れば焦るほど、ますます手が震え、指先は定まらず、今にもパニックを起こしそうな、張り詰めた顔つきになっていく。そして最後には、助けを求めるような泣きべそ顔を、蘭子に向けた。
「あ、じゃあ、自分で脱いじゃうね?」
「はい、すみません……」
 蘭子はくすりと笑うと、自ら脱衣をはじめた。
 その指先は滑らかに動き、するりと帯を解き、肩をすくめるようにして身をよじり、バスローブを脱いだ。そしてそれを軽く畳み、ベッドの下に、そっと投げた。
 ついに二人は全裸になった。

 一九

 蘭子はぺちゃぱいであった。
「なんか、ごめんね……」
 それを気にして、彼女はそう言った。
「いえ、全然大丈夫です」
 本来は巨乳好きであるはずの金山は、そう言った。
 彼の総身は瘧のように顫えていた。乳房の大小とか、もはやそういう次元の話ではない。童貞は、呼吸を忘れて、手の届くところにある全裸の女体に見入っていた。
 彼の顔は醜く歪んでいた。笑っているのか泣いているのかよく分からないような、般若のような顔つきをしていた。
「ふぁっふぁっふぁっふぁっ……」
 その口からは、興奮を抑えきれずに出しているような、不気味な呻き声が漏れていた。
 そして、金山正夫による、ど迫力のスキンシップが開始された。
 それは、四十二歳の童貞の、溜まりに溜まった情念が、ここで一気に決壊したかのような、凄まじい熱量を孕んだスキンシップである。彼が何万回と夢見てきたことが、今ここに実現した。
 彼は、蘭子の成熟した温かい肌を、狂おしく抱きしめた。肌と肌をぴったりと合わせて、熱烈にこすりつけた。
 彼は、女性の生々しい体臭を感じた。絶対に手の届かない場所にあった女体は、すべすべして、温かい生命力に満ちていた。彼はその感触を、思う存分に味わっていた。
 このスキンシップのひとときこそが、彼の人生最大のピークである。それ以前も、それ以後も、彼はこれ以上のものを知らない。
 思いがけず訪れた僥倖。〝感動〟という言葉では足りない、激しく心揺さぶられる圧倒的な事件。
 これまでの彼の人生において、女性の肉体に触れること、その温もりを味わうことは、何があっても許されない、絶対に不可能なことであった。
 エスカレーターに乗った時、目の前に立っているミニスカートの女子高生がいる。その露わになった、瑞々しい太腿の裏側。白く、滑らかで、健康的なその肌に、触りたくて触りたくて、脳髄が焼け焦げるほどの堪らない衝動に駆られながらも、絶対に触ってはいけない。
 もしそれに指先を伸ばせば、その瞬間に性犯罪者となり、警察に捕まり、刑務所のなかにぶち込まれる。
 女体に触る権利は、普通に恋愛ができる、まともな男たちだけ与えられている特権だ。自分の人生において、あのような温もりに触れることは、天が定めた運命によって決して許されることはない──そんな風にずっと思って生きてきた。
 その彼が、今まさに誰にも邪魔されることのない薄暗いラブホテルのベッドの上で、本物の女体と、生々しいスキンシップを交わしている。肌と肌が直接に合わさり、お互いの汗と体温が渾然一体となって溶け合っていく。
 それは金山にとってはあまりにも信じがたい、奇跡のような出来事である。
「はむー……スキンシップ……」
 金山は、恍惚とした濁った目を泳がせながら、言葉を覚えはじめたばかりの幼児のようなバカ丸出しの声で、そう呟いた。

 二〇

 金山正夫は陶然とした表情を浮かべたまま、
「はむー……スキンシップ……」
 と何度も、壊れたテープレコーダーのように、掠れた声で呟き続けた。
 己の皮膚と女性の滑らかな皮膚が直接触れ合っているという事実だけで、彼の脳みそは麻痺していた。ぴったりと己の体を全裸の蘭子に密着させ、夢中になって肌と肌を擦りつけた。生身の女体の感触を全身で貪り続けた。
 そして、蘭子の体の上に覆い被さった。
 狂気的な快楽に我を忘れていた彼は、自分の八十五キロほどもある全体重を、仰向けに横たわっている蘭子の華奢な体の上に、何の躊躇も手加減もなく、すべて乗せた。
「くっ……くるしい……」
 蘭子の口から、そんな声が漏れた。
 金山はそれによって、冷水を浴びせられたかのようにハッと我に返った。
「ご、ごめんなさいっ……」
 彼は慌てふためき、すぐに体を横にずらした。
 そして今度は、蘭子の体に体重がかからないよう細心の注意を払いながら、再び体をぴったりと密着させた。そして、また己の肌を彼女の肌に執拗に擦りつけた。
 さらに、蘭子の後ろにまわり込むと、またしても痴漢のように、お尻を撫で廻し始めた。柔らかく豊かな肉の弾力を掌でこねくり回しながら、彼は再び桃色の世界に没入しようとした。
 だがその時、金山はふと、後ろを振り向いている蘭子の顔を見た。
(あれ……?)
 彼の手は、ぴたりと止まった。
 蘭子は、冷え切った、不思議そうな顔をしていた。
 その表情に気づいた金山の脳裏に、違和感が走った。
 蘭子の反応は、彼の想像していたものとは、あまりにも違う。
 普段彼が貪るように観賞しているAVの世界では、お尻を触られた女というものは、熱っぽい吐息を漏らし、頬を赤らめ、恥ずかしそうな、あるいは感じているような表情を浮かべるものである。男の愛撫に翻弄され、女としての快楽に抗えないような顔をするはずだ。
 しかし、後ろを見ている蘭子の顔は、まるっきり冷めていた。恥じらいも興奮も、嫌悪感すらもない。ただ、不思議な生き物の行動を観察している学者のような冷静沈着な目で、彼のすることを見ていた。

 二一

 蘭子から、奇妙な動物を観察する学者のような冷静な目で見られ、金山の脳内に咲き乱れていた桃色の幻想は、一瞬にして露と消えた。急激に冷えていく自意識のなかで、彼はたまらなく恥ずかしくなり、お尻を触っていた手を引っ込めた。
「ふう……」
 と吐息を漏らす。
 彼はいったん体を離し、なんとなく、ベッドの上部──ヘッドボードに背中をもたせかけた。広々としたベッドの上で、全裸の中年童貞が、ぼんやりと空間の一点を見つめる。
 わずかの間、彼は思考停止していた。
 その時だった。
 ぼんやりと虚空を眺めていた金山の股間に、ふと、温かく柔らかな感触が触れた。いつの間にか、彼の横に寄ってきた蘭子の手が伸び、その熱を帯びた硬いペニスを、物珍しそうに、おずおずと握ってきたのだ。
 蘭子は別に、彼を挑発しようとか、激しく攻め立てようといった意図を持っていたわけではない。ただ、急に大人しくなってヘッドボードにもたれかかった金山の様子を見て、なんの気なしに、ゆるゆると、その握った肉茎をゆっくりとしごき始めた。
 それは、あまりにも自然で無造作な動作だった。
 繊細で柔らかな手の動き。それが生み出す破壊的な快楽。
(ああ……気持ちいい……)
 金山は、ヘッドボードに上体を預けたまま、うっとりとそれに身を委ねた。
 そして、金山の股間の奥深くで、制御不能な熱いマグマが爆発的な勢いで膨れ上がった。
「あっ、やばいやばいっ⁉︎」
 彼は突然、悲鳴をあげた。
 慌てて、蘭子の手をどかそうとする。
「え?」
 蘭子は不思議そうに首をかしげ、何が起きたのかと金山のほうへ顔を向けた。
 その直後だった。
 ビクン、と金山の腰が跳ね上がり、童貞のペニスが暴発した。それは、白い樹液を噴火させた。
「あー……」
 金山の口から、情けない声が漏れ出た。
 蘭子は、顔を引き攣らせた。
「ご、ごめん……」
 彼女は申し訳なさそうに、謝罪の言葉を口にした。

 二二

「あーあ……」
 射精したペニスは力なく萎んでいた。
 金山はガックリと肩を落として、ベッドの上で縮こまっていた。
(やっちまった……)
 その顔には、絶望的な苦笑いが浮かんでいた。
 蘭子もまた、激しくミスを悔やんでいた。
 まさか、何の気なしに数回ゆるゆるとしごいてみただけで暴発してしまうなんて、夢にも思っていなかった。しごいたとも言えないくらいに、ごく軽く、手を上下動させてみただけである。ただ軽く、その感触を確かめてみた程度である。
 しかし、童貞──しかも超早漏らしき男を相手にしたプロとしては、明らかな大失敗であると、蘭子は認識していた。そのためその表情には、悔恨と動揺の念が色濃く滲んでいた。
「ご、ごめんね……」
 蘭子は、恐縮しきった様子で、もう一度頭を下げて謝った。
「いえいえ……」
 金山は力なく、消え入りそうな声で答えるのが精一杯だ。
 彼はただ、己のみっともなさに打ちのめされていた。
 部屋の中に、重苦しい沈黙が漂う。ただ、エアコンの微かな送風音だけが響いていた。
「すごい精子の匂いがするね」
 気まずい空気を変えるため、蘭子は明るく、そう言った。
 金山が撒き散らした樹液が、栗の花のような生臭い匂いを放っていた。
「そうですね……」
 金山は照れくささと情けなさで顔を覆いたくなりながら、短く答えた。
 すると蘭子は、じっと金山の股間のあたりを覗き込むようにしながら、淡々とした調子で言った。
「ねえ、もう勃たないのかな?」
「さあ、どうですかね……」
「精子が残ってたら、また勃つと思うよ?」
 蘭子は、まるで明日の天気でも予想するかのような、ごく自然な会話の調子で、そう言った。
 そんな蘭子の明るく元気なセリフを聞いた金山は、妙な可笑しみを覚えていた。そして、変な感動にも包まれていた。
 目の前にいる生身の女性の口から、「精子」とか「勃つ」とか、そんな生々しい言葉が、何の躊躇もなく発せられている。そんな言葉が、自分との会話で使われている。
 それがまた嬉しくて仕方がない。
 これまでの人生において、そんな会話をしてくれる女性は、ただの一人も存在しなかった。女性とは、遠くから眺めるだけの存在であり、自分とは決して交わることのない別世界の住人だった。
 それがいま、薄暗いベッドの上で全裸で並び、自分のペニスや精液のことについて、平然と語り合っている。
 それもまた、童貞・金山正夫にとって、胸が締めつけられるほど嬉しい、強烈な感動ポイントの一つである。彼は、じわじわと込み上げてくる奇妙な多幸感に、静かに浸っていた。

 二三

「ねえ、また手でしてあげよっか?」
 蘭子が、悪戯っぽくそう言った。
「え?」
 金山は、不意を突かれたように蘭子の顔を見返した。
「また勃つかもよ?」
「は、はい……じゃあ、お願いします」
 金山は喜んでそう言った。
 その破壊力抜群の手戯を、ぜひまた味わいたい。
 蘭子はふっと穏やかに微笑むと、再びその温かな手を伸ばし、萎んだ男根に、そっと触れた。そして、その手をゆるゆると動かし始めた。
 その愛撫は、AVでは一度も観たことのないようなものだ。それはセクシー女優たちが見せるような、シャカシャカとした速い動きの手戯ではない。それとはまったく別物の、極めてゆっくりとした、繊細で、丁寧な手つきだ。
 まるで、生まれたばかりの赤ん坊のほっぺたを撫でる母親のような愛撫。ペニスをしごくというよりも、可愛がる手つきである。
 その手は絶妙な力加減で、ゆっくり、丁寧に、繊細に、動いていた。
 それは、ありえないほど気持ち好い。
 風俗嬢のテクニックというよりも、それは蘭子の性格による、彼女オリジナルの手つきだ。
 その手戯はきっと、さっさと抜いて終わらせるプロの女性のテクニックとしては、失格だろう。
 蘭子は、まったく急いでいない。永久の時間の中で、自分の腹を痛めて産んだ、赤ん坊の体をくすぐる母親のような、そんな慈愛に満ちた手つきで、男根を可愛がっている。
 そんな愛撫は金山にとって、この上なく心地好いものであった。
 それはまさに、魔法の手のように思えた。
「あっ……」
 金山は、恍惚と全身の力を抜いて、その手の感触に身を委ねていた。
「ふふ……勃ってきたね」
 蘭子が、嬉しそうに囁いた。
 その慈愛の手戯によって、萎んでいた男根は、再び力強い漲りを取り戻そうとしていた。

 二四

 再び熱と硬さを取り戻すと共に、猛然と欲望が甦ってくる。
 勃っている。間違いなく、勃っている。
 ならば、とうとう悲願である、童貞卒業を果たすことができる。
「じゃあ……い、挿れていいですか?」
 金山は上ずった声で、そう尋ねた。
「え? あ、うん、いいよ……」
 蘭子は一瞬顔を引き攣らせたが、すぐに優しい笑みを浮かべ、頷いた。
 ついに、その時がやってきた。四十二歳の童貞を卒業する、神聖なる儀式の扉が今、開こうとしている。
 金山は生唾を呑み込むと、枕元に置いてあった小袋の一つを手に取った。
 そして、わざとらしく、
「じゃあ、ゴムつけますね」
 と蘭子を安心させるつもりで、はっきりと言った。
 彼は彼女の視線を感じながら、緊張に震える指先でぎこちなくコンドームを装着した。
 蘭子はベッドの上で仰向けになり、ゆっくりと両脚を開いた。
 薄暗い照明の下で、熟れた女性器が晒された。
 その光景に思わず息を呑んだ金山は、吸い寄せられるように彼女の股間へと割り込み、挿入の体勢をとった。
 だが、いざ本番となると、未経験という現実が重くのしかかる。具体的に、どこにどうやって入れれば良いのか、よく分からない。
 金山はもたもたと、己の先端を彼女の秘部周辺で彷徨わせた。
「こ、このあたりですか?」
「ううん、もう少し下……あ、ちょっと上……そう、そこ……」
 蘭子は嫌な顔ひとつせず、落ち着いた声で、正しい位置を教えてくれた。
 そして──
 ぬちり、という湿った感触とともに、金山のそれは吸い込まれるように蘭子の体内へと潜り込んだ。
(はいった……挿入ったぞ‼︎)
 そして金山は、膣内の感触をまったく味わうこともせずに、必死になって腰を振り始めた。
 しかし、その動きはあまりにも拙ない。ろくに腰を引くこともせず、浅い位置でちょこちょこと前後に揺らしているだけだ。本来あるべき大きなピストン運動にはほど遠い、わずかな往復を繰り返す。
 そんなぎこちない抽送が、ほんの数回行われた。
 そして蘭子が、怪訝そうな声を上げた。
「あれ?……たぶんもう、萎んじゃってるよ?」
「え?」
 金山は拍子抜けした声を出し、動きを止めた。
 自分の性器を抜いてみると、彼女の言った通りだった。
 コンドームの先端は虚しくたるみ、それに包まれた彼の陰茎は、すでにふにゃふにゃに萎んでいた。

 二五

「うーん……」
 金山は、萎びた己の一物を見つめていた。
 蘭子は、そんな彼の様子を、気の毒そうに見ていた。
「じゃあ……もう一回、手でしてみよっか?」
 蘭子は、静かにそう言った。
 しかし、
(これはちょっと……)
 と金山は思う。
 たとえもう一度手でしごいてもらい、また勃ったとしても、挿入するとまた萎んでしまう──その繰り返しになりそうな気がした。
 そうなると、思い通りにならない自分はムキになり、最後には蘭子と険悪な感じになるかもしれない。
 そんな展開は避けたい。
 ここはもう、すぱっとスマートに済ませたほうが良いのではないか?
 そもそも、よく考えてみたら、どうだろう? ほんの数秒間だったか、あるいは、ほんの一瞬だったかもしれないが、しかし確かに間違いなく、彼は蘭子と一つになった。
 ただ、ゴムをつけていたせいか、その感触はよく分からなかった。莫迦みたいに必死に腰を振って、膣の中の感触を味わう心の余裕はなかった。
 でも、確かに入ったはずだ。そしてへこへこと、三回か四回くらい腰を振っている最中に萎んだ。
 とはいえ、挿入は間違いなくしたはずだ。それをしたという感触だけは残っている。
 もしそれができていなかったら、絶対にまたトライするだろう。
 確かに挿入した。だからつまり、これはもう、童貞卒業といって良いのではないか?
 そうだ、間違いない。
 理想的なセックスをする必要はない。ただ、惨めな〝童貞〟という状態から抜け出したかった。
 それに蘭子だって、呑気そうな顔をしているが、内心ではもうやりたくないのではないか。「もう一回手で」とは言ってくれたが、その提案は、少し義務的な調子に感じられた。
 蘭子だって、彼の考えと同様に、何回やっても同じ結果になりそうだと、薄々思っているはずだ。このまま泥沼化する可能性も感じているはずだ。
 それらもろもろを考えた彼は、長らく苦悩の表情を浮かべたすえに、ようやく、男らしくさっぱりと、蘭子が喜ぶようなことを言おうと思った。
 そして、彼の曇った表情は、どこか吹っ切れたような、晴れやかなものへと変化した。
「よし、もうオッケーです!」
「え?」
「これでもう、童貞卒業といって良いと思います!」
「いいの?」
「はい!」
 蘭子は、ニュートラルな顔つきである。ホッとしたようにも、不満そうにも見えない。
「だって、少しは入ってましたよね?」
「うん、まあ……入ったは入ったと思うけど……」
「じゃあもう、とりあえずこれでオッケーです!」
 金山は、きっぱりとそう言った。
 確かに挿入はした。その感触は残っている。それでもう、彼は納得した。
 そんな金山のどこかすっきりしたような様子を見て、蘭子はふっと表情を緩めた。

 二六

 童貞卒業の宣言を終えたとき、金山の中でメラメラと燃え盛っていたはずの激しい性欲は、すでに失われていた。
 彼は今まで自分のことを、世界一エロくて、誰よりも性欲が強い変態だと思っていた。だが、何のことはない。たった一回射精しただけで、もう終わり。彼は性欲モンスターでも精力絶倫でもない。ただの普通の中年男にすぎなかった。
 しかしそれでもこの機会に、ひとつでも多くのことを経験したい。
「あの……蘭子さん」
「ん? なあに?」
 金山は静かに息を整えると、賢者の顔で、
「マンコ舐めさせてもらっていいですか?」
 と言った。
 その言葉を聞いた瞬間、蘭子の動きが、ぴたりと止まった。
(なんで?)
 と彼女は思ったのかもしれない。
 金山の淫欲が消えているのは、その顔を見ればわかる。
 なのになぜ、そんなことを言うのか?
 そういう疑問が、彼女の脳裏に浮かんだのかもしれない。
 しかしそれは一瞬だけのことである。
 すぐに、
「うん……いいよ」
 と快く言った。
 それは、なにかよく分からないが、やりたいようにやらせてあげようという大らかな気持ちからか、あるいは、彼のその動機をなんとなく察したのかもしれない。
 すでに性欲を失っている金山は、それを舐めたくてそうお願いしたわけではない。ただ二度とないかもしれないこの機会に、ひとつでも多くのことを経験したい。女性器を舐めたという実績を、自分の人生に加えたい。
 そんな動機で、彼は再び横たわった蘭子の股間に、真面目くさった顔を近づけた。

 二七

 目の前に広がる蘭子のVゾーンは、つるつるになっていた。彼女はこの前日に自分でそこを剃ったばかりだ。薄暗い灯りの下では、Iゾーンにも毛が生えていないように見えた。
 金山は至近距離から、その楚々とした秘処をじっと見つめた。
(なんだか、精液っぽい匂いがするな……)
 と彼は薄っすらと思った。
 彼の観察は淡々としていた。
 彼女の秘部はテカテカに光っていた。
 金山は、その粘膜へ、おずおずと口をつけた。そして犬のようにぺろぺろと舐め始めた。
 彼は、AV男優のように、蘭子をオーガズムに導きたいと思った。彼女が身悶えながら快楽の頂点へと昇りつめる姿を見たい。
 その小太りの体から滝汗を流しながら、それを目指して頑張っていた。
 だが、女体はなかなか思い通りの反応を見せてくれない。
 どれほど汗だくになって奉仕しても、蘭子は微動だにしない。呼吸一つ乱すことなく、ただ静かに天井を見ている。
 彼女がオーガズムに達するような気配は、一ミリも無い。

 二八

「あの……これって、どうやったら逝くもんなんですか?」
「逝ってほしい?」
 蘭子は、視線を天井に向けたまま、そう聞き返した。
「はい、逝ってほしいです」
 金山がそう答えると、蘭子は集中するように目を閉じた。
 そして、
「じゃあ、頑張ってみるね」
 と言った。
 そして、自分を快楽へと導くための正しい愛撫のやり方を、金山に細かく指示し始めた。
「ゆっくり出し入れして……」
 それに従い、金山は膣の中に指を挿入して、言われた通りに動かす。
 舐め方についても執拗なダメ出しが入る。彼は言われるがままに修正し、極めて遅い速度で、彼女の小陰唇に舌を這わせた。
 蘭子が求める愛撫のやり方は、金山がAVから得た知識とは、まるで違っていた。激しく指を動かしたり、舌を速く動かすことは、一切禁じられた。
 その指示はとにかく、〝ゆっくり〟である。
「もっと上……そう、そこ……もっとゆっくり……」
 金山は、その指示通りに、余計なことは考えず、ロボットのように忠実に動き続けた。蘭子の求める速さと強さで、懸命に舐め、指を動かした。
 舐め方も、指の動かし方も、恐ろしくゆっくりとした、丁寧なやり方を求められた。
 それはなかなかの重労働──
 金山にとって、もはやそれは快楽ではない。女王のそれに奉仕する奴隷の、過酷な肉体労働である。彼は汗びっしょりになりながら、蘭子の指示に忠実に従い、懸命にその作業を続けた。
 しかし、どれほど汗を流して頑張っても、蘭子の体に絶頂の波が訪れる気配はない。
(ああ、ダメだ……)
 もう疲れた。その根気は、尽きそうになっていた。
 自分の未熟な技術では、女性を昇天させることは不可能なのだと彼は悟った。圧倒的に経験の足りない彼は、舐め方も指の動かし方も、壊滅的に下手くそすぎた。
 仕方がないので、もう諦めて、舐めるのをやめた。そして膣から指を引き抜こうとした。
 まさにその瞬間に、
(⁉︎)
 蘭子の膣内が、キュッと収縮したような気がした。

 二九

「いやあ、難しいです……もう諦めます……」
 金山は汗びっしょりの顔を上げ、肩を落としながらそう呟いた。
 確かに膣内がキュッと収縮したように感じたが、その現象がどういう意味なのか、彼には分からない。ただ結局、自分は彼女を逝かせることはできなかったと認識していた。
 しかし、蘭子はまだ目を閉じたまま、
「逝ったよ?」
 と言った。
「え?」
 金山は目を見張り、
「逝ったんですか⁉︎」
 驚愕の声を張り上げた。
「うん、逝ったよ」
 蘭子は、ホントか嘘か、よく分からないような顔をしていた。
 目は合わなかった。
(じゃあ……あの、膣の中がキュッと収縮したような感じ……あれが逝ったということなのか……?)
 金山は、半信半疑である。
 AVのような大袈裟な悲鳴も、激しい身悶えもない。それは、膣内がキュッと収縮した気がした、くらいの微妙な感覚である。
 その収縮こそが、女性が絶頂に達したときの体の反応なのかもしれない。
(なんとかギリギリ……逝かすことができたということか……)
 それからの数分間、二人はベッドの上で、言葉もなく、ただぼーっとしていた。
 金山は、体の芯が甘く痺れるような、心地好い感覚の中にいた。
 そして蘭子もまた、彼と同じように、甘く痺れているように見えた。
 薄暗い部屋の中が、静寂に包まれていた。
 その時だった。
 蘭子が突然、
「私、赤ちゃんが欲しい」
 と言った。
 そんな、おかしなことを言った。
 それは、ふざけた口調ではない。真剣な表情で、そう言った。
 以前彼女は、「金山との結婚を検討してくれる」というような発言もした。そしてこのように、「赤ちゃんが欲しい」という謎発言をした。
 そのために後日、金山は、変な期待を持ったものである。
 彼は、彼女との結婚生活を、本気で夢見た。
 それは信じられないくらいに幸福な生活になりそうに思えた。
 しかし、それは幻であった。
 後日、ラインで蘭子とメッセージのやり取りをしていた時のことだ。
 金山は、
『蘭子さんホテルで子供欲しいって言ってたから、とりあえず事実婚という形で、俺、それに協力したいという気持ちを持ってます』
 などという、先走ったメッセージを送った。
 すると蘭子から、心底びっくりしたようなメッセージが返ってきた。
『なにそれ? 意味わかんない。
 子供が欲しいとか、
 私がマサくんにそんな話するわけないじゃん(笑)』
 蘭子は、なぜかホテルの一室で放った自分の言葉を、完全に忘れていた。忘れたふりをしているのではなく、本当に驚いているようだった。
 あの日、あの薄暗い密室で、お互いに甘く痺れている感覚の中で、彼女はなぜそんなことを言ったのか?
 それは金山にとって、永遠に解き明かされることのない謎である。

 三〇

 その後、蘭子はなにか大切な用事があるのだという。先ほどまでの静寂から一転して、彼女はバタバタと浴室へ向かい、シャワーを浴びた。
 金山は、まだそのままホテルの部屋の中で、一人でのんびりと余韻に浸るつもりでいた。
 やがてシャワーを浴び終え、洗面所から出てきた蘭子は、すっかり外出の服装に戻っていた。
 しかし、彼女はどこか抜けていて、ずっと、ぼーっとしていた。
 金山もまた同じように、ぼーっとしていた。
 二人を包む空気は、どこまでも緩やかでのんびりとしていた。
 蘭子が出る時間まで、まだ少しだけ余裕があった。二人はベッドの上に座って、にぎやかなおしゃべりを始めた。
 シャワーを浴びてスッキリしたせいか、蘭子は先ほどまでとはうって変わって随分と饒舌になっていた。彼女はスマホを取り出すと、金山にラインのメッセージ内容についてのアドバイスを始めた。
「マサくんはいつも長文メッセージばっかだからさ、スタンプとかも使ったほうがいいと思うよ?」
「そういうの、あまりよく分からなくて」
「覚えなよ。それで色々な感情とか表現できるんだよ?」
 そう言って、彼のスマホにあれこれとスタンプを送ってみせる。
 そんな他愛もない話を、二人は色々とした。好きな映画やドラマ、芸能人──
 金銭を介在した割り切った関係とは思えない、まるで昔からの友達同士のように、二人は楽しく会話した。
 なんか、今度一緒に映画を観に行こう、と言っているようにも聞こえる発言も、蘭子はした。
 しかし彼女は、食事なら一時間五千円の、無料では彼の相手をしてくれない女性である。だから金山は戸惑っていた。一緒に映画を観てもらう場合も、やはり一時間あたり五千円なんだろうなと、貧乏人の彼は思っていた。
 彼女の真意は、まるで分からない。謎だらけの女性である。
 しかし話しててとても楽しい女性なので、キャバクラとかクラブとか、そんな水商売の経験もありそうに思えた。本来は、自分には手の届かない、別世界の女性のように思えた。
 やがて、蘭子が出なければいけない時間になった。
「じゃあ、続きはラインで話そ?」
 彼女はそう言って、可愛らしく笑った。それは、彼に好意を持っているような態度に見えた。
 彼女は、上機嫌で、明るくて、元気で、お喋り好きである。
 しかし、どこか闇の世界の住人のような、不穏なものも感じさせた。やはり一般の女性とは、なんとなく雰囲気が違っていた。色々と、暗い過去や厳しい現実を抱えているのかもしれない。今まで、彼の十倍も苦労してきたのかもしれない。
 しかし彼女は前向きで、大雑把で、楽観的で、くよくよしない。彼には、うじうじした自分の醜くて暗い心を明るく照らし、輝く世界に引っ張り上げてくれそうな──そんな女性に思えた。
 金山は、彼女と一緒に玄関まで行った。
 靴を履く蘭子は、やはり、ぼーっとしていた。
 金山も、ずっと、ぼーっとしたままだ。
(この後の大切な用事って……そんなにぼーっとしてて、大丈夫なのだろうか?)
 金山は心中でそんな心配をしたが、言葉には出さなかった。
 ドアの開いた玄関で、二人は顔を見合わせた。
「じゃあね、マサくん」
「はい、ありがとうございました」
「ラインするね」
 彼女はそう言って、手に持ったスマホを、ぴょこんと上げてみせる。
 カチャリとドアが閉まり、静まり返った部屋の中に、金山は一人取り残された。

 三一

 部屋に戻った金山は、ぼんやりとしたままソファに深く腰かけた。
 ふと、ポケットの中の携帯電話が気になった。
 蘭子はひどく上機嫌な顔で、続きはラインで話そうと言ってくれた。二人はその後も頻繁にメッセージを交わし合いそうなハイテンションで別れた。
 だが彼は、その電源ボタンを長押しし、外部との連絡を断ち切った。
 ついさっきまで交わされていた、にぎやかで楽しい会話。それを続けていくことが、彼には億劫に感じられた。彼はただ一人で、誰にも邪魔されずに、この甘美な余韻に浸っていたかった。
(もしあの時、携帯電話の電源を切らずに、ずっとラインのやり取りを続けていたら……)
 彼は後日、そう思う。
 もしかしたら二人の関係は、良い方向に進んでいたかもしれない。
 いや……やはりそんな風にはならなかっただろう。彼はずっと陽キャのノリに付いていけるような性格ではない。
 どれだけメッセージを送っても、一向に既読にならない画面を見て、彼女はどう思っただろう?
 怒っただろうか。傷ついただろうか。それとも、やっぱり変な奴だと呆れただろうか。
 おそらく彼女は、なんとも思っていないだろう。
 やはり二人の間には、どうにもならない絶望的な距離があった。
 彼女は恋人のような演技をした。所詮はフェイク──それは、リアルな人間関係ではなく、金銭を介在した単なる割り切りの関係にすぎない。彼女はプロとして、彼を満足させる良い仕事をした。
 ただそれだけのことだ。
 彼は薄暗い部屋の中で、美しい恋愛ごっこの余韻に浸っていた。
(ありがとう)
 素直にそう思う。
 彼女がいなければ、一生童貞の運命が変わることはなかった。
 やがてシャワーを浴びて服を着て、ホテルをあとにした。
 喧騒の渦巻く池袋の街へ出てすぐに、大戸屋に入った。
 そこで注文したのは『鶏と野菜の黒酢あん定食』、ごはんは大盛りにした。
 窓際のカウンター席に座った。ずっとぼんやりしていた。体は甘く痺れていた。
 そんな状態で口に運ぶ料理は、とても味わい深いものであった。
 まだ夢は続いていた。彼はふわふわと別次元を漂うような感覚に包まれながら、極上の余韻を愉しんでいた。

(完)

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