杣江市綺録【第057篇】水色の日
俺は、舟入で酒屋をやっている。
店の前には、いつも黄色いP箱を積んでいる。
一升瓶やビール瓶を入れる、
プラスチックでできたあの箱だ。
運搬にも配達にも使う。
古いものも新しいものもあるが、
うちの店先に出ているのは、だいたい黄色である。
もちろん、他の色の箱が混じることもある。
客が空き瓶を入れて持ってきたり、
問屋の戻しに紛れていたり、
倉庫の奥から昔の箱が出てきたりする。
酒屋をやっていれば、そういうことは珍しくない。
ただ、水色だけは少し違う。
この舟入では、店先に水色のP箱が一つ出ている日を「水色の日」と呼ぶ。

朝、シャッターを上げていると、小学生が
二、三人、ランドセルを揺らして通っていく。
そのうちの一人が、店先を見て言う。
「おっちゃん、今日、水色の日?」
そう聞かれたら、俺はだいたいこう返す。
「水色の日だなあ。今日は会館の角から回りな」
それだけだ。
子どもらも慣れたもので、「はーい」と返事をして、少し先の角で曲がっていく。
面倒くさそうにする子もいるが、
文句はあまり言わない。
遠回りといっても、たいした距離ではない。
走ればすぐだ。
こっちも怖がらせるつもりはない。
「危ないから行くな」なんて言うと、
子どもは逆に見たがる。
だから、うちでは昔から、
水色の日は水色の日で済ませている。
***
朝一番の仕事は、自販機の釣り銭を見ることだ。
次に店の前を掃く。
それから黄色いP箱を数える。
酒屋は、箱の数を間違えない。
うちで普段回している黄色いP箱は三十六個ある。
清酒用、空瓶用、配達用で、古いものも新しいものも混ざっているが、数は三十六だ。
普段はそれで合う。
ただ、水色の日は、そこに水色のP箱が一つ混じる。
水色のP箱について、
親父は一度だけ名前を出したことがある。
「浜野さんとこの箱だ」
浜野商店は、舟入会館の近くにあった小さな店だ。
酒のほかに、米も、洗剤も、線香も、缶詰も、
乾電池も置いているような商店だったらしい。
うちとは、酒を卸すというより、
空き瓶とP箱の行き来があった。
浜野さんのところで出た空き瓶を、
うちの回収に混ぜる。
うちで余った箱を、浜野さんが持っていく。
配達のついでに、
足の悪い家へ届ける物を少し預かる。
そういう、昔の町内の融通だったと聞いている。
だから、浜野さんが生きていて、
店を開けていた頃は、
水色のP箱がうちに来ても別におかしくなかった。
箱が行って、戻って、どこかで一つ混じる。
そういうことはあったのだと思う。
おかしくなったのは、そのあとだ。
***
浜野商店は、もうない。
浜野さんも、かなり昔に亡くなっている。
店が閉まって、しばらく経ってから、
水色のP箱がぽつぽつ出るようになった。
朝、店を開けると、
黄色い箱の端に一つだけ混じっている。
それも、いつも同じ箱だ。
角が割れていて、
横の白い文字はほとんど消えている。
底のあたりに黒い擦れがあって、
持ち上げると少しだけ軽い。
誰が出しているのかは知らない。
俺が出した覚えはない。
ただ、親父が生きていた頃にも、
同じように水色のが出る日があった。
親父は理由を教えなかった。
ただ、水色のが出ていたら、
学校に一本電話しろと言った。
「何て言えばいいんだ」
昔、そう聞いたことがある。
親父は帳面から顔も上げずに言った。
「いつもの道を、一本ずらしてください。それで通じる」
実際、それで通じた。
今でも通じる。
店を開けて少しすると、
見守り当番の宮田さんがやって来た。
黄色い旗を片手に持って、
店先の箱をちらっと見る。
「今日は水色かあ」
「水色ですね」
「じゃあ、会館の角に立つわ」
「お願いします」
それで終わりだ。
宮田さんは、ついでに料理酒を一本買っていった。
水色の日だからといって、
町が静まり返るわけではない。
郵便のバイクはいつもの時間に来る。
生協の車も通る。
工務店の若い衆は、
昼前に缶コーヒーを買っていく。
ただ、みんな少しだけ、道を見ている。
それだけで、だいぶ違う。
午前中のうちに、学校へ電話を入れた。
「高城酒店です。今日は水色が出ています」
電話口の先生は、少し間を置いてから言った。
「分かりました。下校は会館側へ回します」
それ以上の説明はない。
こちらもしない。
それで済むことは、済ませたほうがいい。
***
昼を過ぎてから、配達に出た。
舟入会館にビールを二ケース。
町内の集まり用の焼酎を一本。
それから、足の悪い常連の家に料理酒とみりん。
昔は配達も多かった。
今はだいぶ減ったが、
それでも顔を見て届ける仕事は残っている。
玄関先で少し話す。
足が痛むとか、孫が高校に入ったとか、今期の回覧は字が小さいとか、そういう話だ。
舟入は、そういう町だと思う。
道が細くて、家と店が近い。
誰がどの時間に通るか、なんとなく分かる。
だから、少し違うだけで気づく。
知らない車が長く止まっている。
いつも吠えない犬が吠える。
角の掲示板に、見慣れない紙が増えている。
道の奥が、やけに暗い。
そういう時に、水色のP箱が出ていることがある。
いや、逆かもしれない。
水色のP箱が出ているから、
みんな少し違うことに気づくのかもしれない。
どっちでもいい。
***
夕方、子どもらが帰ってきた。
「おっちゃん、会館のほう回ったよ」
「おう、そうか。偉いな」
「遠かったよ。疲れた」
「十円まけてやるから、ラムネ買ってけ」
「十円だけ?」
「酒屋がつぶれるだろ」
そう言うと、子どもらは笑った。
一人が、店先の水色のP箱を見て、
少しだけ真面目な顔をした。
「これ、いつもどうするの?」
「ん? ああ、これは、そのうちいなくなるんだ」
「勝手に?」
「そう、道がいつもの調子に戻ったら、な」
「道に調子あるの?」
「あるだろ。毎日見てりゃ分かる」
子どもは、分かったような、分からないような顔をして、ラムネを持って帰っていった。
閉店前に、もう一度箱を数えた。
黄色いP箱は三十六。
水色のP箱が一つ。
いつもの水色の日だった。
俺は、道路側に出ていた水色のP箱を見た。
日が落ちてから、店の灯りをつけたまま、
しばらく外に出ていた。
通りの向こうで、
宮田さんの黄色い旗が揺れていた。

宅配の軽バンが一台、いつもより手前で止まって、運転手が店の自販機で缶コーヒーを買った。
何も起きなかった。
水色の日は、何も起きないのが一番いい。
夜七時すぎ、店先の空気が少し軽くなった。
言い方は変だが、
道が普通の道に戻ったように見えた。
俺は、水色のP箱をもう一度見た。
さっきまで黄色い箱の端にあったはずなのに、
もうなかった。
念のため、もう一度数える。
黄色いP箱は三十六。
水色のP箱は、なかった。
まあ、そういうものだ。
シャッターを下ろす前、黄色いP箱の上に
缶コーヒーが一本置いてあるのに気づいた。
誰かが礼のつもりで置いていったのだろう。
俺はそれを店の冷蔵庫に入れた。
明日の朝、見守りの誰かが来たら渡せばいい。
水色の日は、そうやって終わる。
怖い話にしたい人は、好きにすればいい。
でも、こっちは商売でやっている。
朝になればシャッターを開ける。
自販機の釣り銭を見る。
店の前を掃く。
子どもが通れば挨拶する。
水色のP箱が出ていたら、道を一本変えてもらう。
それだけの話だ。
ただ、浜野商店が閉まってからのうちの回収控に、水色のP箱は一つも載っていない。
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