教養、芸術について考えてみた
教養や芸術は生きるためには必須のものではないでしょう。しかし、これらは人生に深みや豊かさを与えてくれるものだと思っています。
そこで、教養と芸術について雑多に書いてみました。
教養
教養とは、AIに聞いたところ下記になります。
社会・世界を読み解く力(政治、経済、地政学、歴史)
人間の本質を知る学問(哲学、文学、宗教、心理学)
科学的な思考力(自然科学、テクノロジー)
感性を磨くもの(芸術、音楽など)
小生は教養を身につけたいと思い、政治、経済、地政学、歴史を書籍やYouTubeの解説動画などで学んでいます。
教養を身につけたいと思った理由は二つあります。
一つ目は、大人として最低限の知識を持っていなかったり、自分の考えを語れなかったりすることが恥ずかしいと思ったからです。教養の中でも特に政治や経済、歴史については仕事をする上で必要と考えています。仕事は社会という舞台でするものなので、社会の構成要素である政治や経済を知っておく必要があります。そして、社会の成り立ちを知るためにも歴史を学ぶ必要はあると考えます。歴史はあまり得意ではなかったですが、日本の近代史は大人の教養(常識?)として必須だと考え学び直す必要性を感じていました。昨年は戦後80年という節目ということもあり、太平洋戦争あたりについてを書籍やYouTube動画で学びました。「賢者は歴史から学ぶ」という言葉があるように、先人の膨大な成功や失敗を学ぶことで、今を生き抜くためのヒントが得られる気がします。
二つ目はシンプルに知りたいと思ったからです。教養とは世界のことをより知り得るための知識体系と言えると思います。歳を重ねるにつれ(直接役に立たないことでも)世の中の仕組みを知りたいという欲求が強くなりました。知ることで知的好奇心が満たされ、さらに知りたいと思うようになります。この知るという過程はある種の快感だと思います。だからあまり苦になりません(難解な本を読む時など苦を感じることもありますが)。
学生時代にこういった意識を持てていたら自発的に勉強に取り組めていたと思います。
知識を知肉にする
教養を身につけるには、ただ本を読んで知識を取り入れるだけではなく、思考してその知識を自分の血肉にする必要があると思います。知識を血肉にするとは、知識を自分の体験と結び付けたり他のことに応用することが直観的に(自然に)にできる状態と言えそうです。解説動画を観たり本を読むと「分かった気」になってスッキリします。しかし、しばらく時を経てその内容を自分の言葉で説明できるかと問われるとできないことが多いです。これでは血肉となっているとは言えません。「ファスト教養」というやつでしょうか。
学生の頃の勉強は教養の土台作り?
血肉にするには時間が必要です。だから学生の頃に長い時間をかけて学習をしているのだと思います。しかし、学生の頃の学習は「勉強」と言われるように「強いてやらされる」義務的な側面が強いと思います。
小生は学生の頃、熱心に勉強をしていませんでした。当時は世の中の仕組みが分かっておらず、歴史などの知識がどう役に立つのかを想像することができなかったことが大きいです。ただ、これは人生経験が乏しいので当然のことだと思っています。当時の勉強は、試験や受験のため「やらされるもの」であり、そのため学んだことの大半は忘れてしまいました。まさに知識がまったく自分の血肉となっていなかったと言えます。
そう考えると、世の中をまだ知らない学生のうちに、あまり詰め込んで勉強する不要はない気がします。国語や算数など最低限必要な科目は別として、古い時代の歴史や古文などは不要の気がしています。大人になって本当に必要性を感じたり興味を持った時に学習すればよいと思っています。
しかし一方で、時間的に余裕のある学生時代に知識を蓄えておくことも理に適っているとも思います。大人になると時間の確保が難しく、一から新しい知識を取り入れるのは難しいからです。
そう捉え直すと、学生の頃に知識を取り入れること(≒勉強)は無意味ではないと言えそうです。だからこそ、学生が自発的に興味を持てるような教育カリキュラムや教え方が重要だと考えます。しかし一方で、子どもの頃はスポーツなど若いうちにしかできないことに注力し、大人になってから興味に応じて学ぶという生き方の方が人生を豊かにしてくれる気もしています。
自分の言葉で語れるようにする
「ファスト教養」ではなく、本当の教養を身につけるには、物事を「自分の言葉で語れること」が必要と考えます。具体的には、政治や経済などの複雑な社会課題に対して、自分の言葉で論理的な見解を述べられる力を指します。
そのためというわけではないですが、このブログで様々なことの言語化を試みています。しかし、まだまだ自分の知識レベルやそれを言語化する力が足りないと思っています。そう思うのは、他の人のnoteの記事などを読みとよく考えられている、上手く言語化できている、と感心させられることが多いからです。
だから自分の言葉で語れるようにするためには、良書を読んで、自分でよく考えて、自分の言葉で言語化することを繰り返すことが必要です。それをこのブログを通じてやっていきたいと思っています。
芸術
芸術は教養に内包されるものと思います。
しかし、政治や経済、歴史などとは違い、芸術は仕事や実生活への応用や関連付けが難しいです(アート系の仕事など別でしょうが)。芸術は楽しむものであり、役に立つものではないと思います。ただ芸術に触れることで感動したり心が洗われます。芸術は人生の豊かさにしてくれるものであり、そう捉えると役に立つものと言えそうです。
そこでここから芸術について考えてみたいと思います。
芸術の定義は難しいです。エンタメも広義の芸術に含まれるかもしれませんが、エンタメを芸術に含めるのは違和感があります。そこで生成AIに聞いてみたところ、下記の定義を出してくれました。しっくりくる内容なので、ここでは下記を芸術の定義として考えていきたいと思います。
エンタメ(娯楽)の目的:「受け手」を楽しませる、満足させる、心地よくさせることが最優先(商業的な成功や大衆の共感を狙う)。
芸術(アート)の目的:「送り手」の衝動や、社会への「問いかけ」が最優先(時に観客を不快にさせたり、考え込ませたりする)。
※芸術の範囲は広いのでここからは絵画を念頭に言及していきます。
芸術にはこれまであまり触れずに生きてきました。正直に言うとあまり興味がなかったです。自分から美術館に行くという発想を持ったこと自体ほとんどありませんでした。ただ、連れ合いに誘われて行くことは何度かありました。その時に持った感想は「なんかすごい気がする」と言った小学生の感想のようなものでした。
難しく考えずに、ただ鑑賞して楽しむだけで良いと思います。有名な絵画を観たという事実だけで満足できる(或いは自慢できる)のでそれだけで価値はあると言えるかもしれません。ただ、それだけだともったいないと思うようになりました。観るだけではなく、技巧の素晴らしさを理解する、その作品の背景を理解する、といったことでより楽しめると思いました。
西洋美術館でチュルリョーニス展を観てきた
2ヶ月ほど前ですが、西洋美術館で下記の企画展がやっていたので観てきました(6.14に終了しました)。ちなみにこの記事を書こうと思ったのは、この展示を見たことがきっかけです。
チュルリョーニス展 内なる星図
北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより
実は「大ゴッホ展」を観に行きたいと思っていましたが、チケット完売でした。当日予約で行けると思っていましたが、ゴッホ人気あるんですね。というか美術展ってこんなに集客力あるんですね。芸術を舐めてました。ゴッホを舐めてました。自分の無知が恥ずかしいです。
ゴッホは、「三体」という小説で「星降る夜」という絵の描写があり、それが印象的で気になっていました。「NHKラジオ深夜便 絶望名言」という本でゴッホの生き様を紹介されていて、ゴッホに興味を持った経緯もあります。
「大ゴッホ展」の代わりに西洋美術館のこの企画展に行くことにしました。「チュルリョーニス」という画家は知りませんでした。リトアニアの画家で音楽家でもあるとのことです。ホームページで紹介された絵がなんとなく気に入りました。北斎はもちろん知っています。二つ観れるのでお得かと思いました。
人入りはそこそこでしたが、ゆっくり見れました(ゴッホ展は激混みでゆっくり見られなかったのではないかと想像します)。芸術のことは分かっていないのですが、さも分かった風の体で腕を組んで凝視していました。チュルリョーニスの絵は少しファンタジーっぽさもある風景画といった趣で「良いな」と思いました。この「良いな」をもっと詳細に言語化したいところですが、言語化が難しいです。
北斎の冨嶽三十六景は富士山を場所、季節、天候を変えて多様な角度から描いた浮世絵です。これを観て少し問題になった富士山とローソンの写真を想起しました。「富士山と〇〇を一緒に撮りたい」というニーズが昔からあったのかなと思いました。冨嶽三十六景の絵は上手いとは思いましたが、個人的にはチュルリョーニスの絵の方が魅力を感じました。これは好みの問題だと思います。街並みや衣服なども和的なものよりも西洋的なものに魅力を感じます。これは、(多くの日本人がそうだと思いますが)幼少のころから欧米的なものがカッコいいという価値観が摺りこまれていたからではないかと思っています。
絵画についての雑感
ついでに常設展も見てきました。そこで絵画についての雑感を書いてみます。
絵画の知識は乏しいですが、美術館で展示されるような作品は純粋に上手いと思います。「美術館に置かれる作品=高尚」という認知バイアスもあるのかもしれません。「有名な名作」は魅力を感じさせます。これは「自分の眼力」ゆえなのか「権威付けされた安心感」によるものかは不明です。
西洋の絵画は宗教画が多く、その背景がわからないとその絵画の伝えたいことは理解するのが難しいです。だから解説を読んだりしてなるべく理解を心掛けます。宗教画が多いのは文字の読み書きができないから物語を伝える手段として絵画が使われていたのだと想像します。写真がない時代に、実物そっくりのリアルな絵画が持つ迫力は、人々に強い説得力を与え、信仰を深める大きな力になったと考えられます。
静物画のリアルさは本当に写真のようで、その技巧には素直にすごいと感動させられました。
好きなのは風景画です。写真でも風景写真が好きです。自然の景色が好きなんです。特に森や木の絵が好きです。こういった絵に惹かれるのは、森や木などの「自然」に対して本能的に癒しを感じるからでしょうか。
リアルさを求める絵画の技巧は19世紀半ばにほぼ完成の域に達してその後は印象派など別の見せ方を模索していったのだと思います。印象派の絵は言語化が難しいですが魅力を感じます。絵として美しいと思います。
現代アートは難解という印象を持っています。無料で見れる無名のクリエイターの現代アートの個展を見たことがありますが、さっぱりわかりませんでした。おそらく芸術の技巧的なレベルは既に最高点に到達して、芸術の役割は見せ方の工夫にシフトしていったのだと思います。見せ方だけじゃなく作者の考えや哲学を体現することが芸術(アート)になっている気がします。現代アートでもバンクシーの絵は意図も理解出来て魅力を感じます。多くの人に認められている名作というのは見せ方が上手いと言えそうです。
小生のバイブルと言える小説「クラウディ」の表紙で使われたロバート・ロンゴの「Men in the Cities」の絵も魅力を感じます。
これは「好きな小説の表紙で使われた」という自分にとっての接点があったから魅力に感じたと言えそうです。今風の言い方をすると「エモいポイント」があったから魅力を感じたと言えそうです。
芸術を言語化すること
芸術を言語化することは難しいです。ここまで雑多に書いてきましたが、「上手い」や「美しい」のような感想しか書けていません。知識がないので技巧的に優れたところなどを言及することも出来ません。
ただ逆説的に言語化できないことを伝えるための手段が芸術と言える気もします。だから絵を観て感動するだけで良いとも思います。
名画だけじゃなく漫画の絵でも感動することはあります。個人的にバカボンドと言う漫画の絵に強く感動させられたことがあります。どのシーンだったかはうろ覚えですがたしか風景の絵で感動させられたことははっきり覚えています。アートの領域と言っても良いと思いました(余談ですが、この漫画は10年以上も休載しており完結することはないのかと思います)。
芸術は「考えるな感じろ」の領域なのかもしれません。芸術を楽しむためには、理性で考えるよりも感性を磨くことが必要なのでしょう。感性を磨くには良作を多く観る必要があると考えます。だから、定期的に美術館などで芸術に触れていきたいと思っています。
感性だけじゃなく理性でも芸術の良さを理解をしたい欲求はあります。だから、芸術の教養的な知識も取り入れたいと思っています。
おわりに
教養と芸術という高尚なことを書いてきましたが、それにそぐわないまとまりのない内容となりました。ズレたことを書いている気もします。
お読みいただきありがとうございました。
