【巫病】自我のプログラムエラー【二分心】
自我の逃亡劇
背表紙のみで能率的に分類し、命名し、マニュアル化する。無思考、無思想の封印の書。
死者との共存、神々への従属・・・古代文明の精神は科学によって『信仰』という烙印を押され消滅していく。
20世紀後半、精神病理学。疾患の分類化、コード化によって『機能障害』とされ、すべての心身異常が解明されたかのような錯覚が与えられた。
ところが・・・神懸かりと呼ばれる心身の異常状態、『巫病』。
巫女やシャーマンの特質は、精神病理学上では『てんかん病』と分類される障害に酷似する。
彼らは自力で神懸かり状態に入る力を持ち、神と繋がる存在として共同体の中で地位を確立している。そこには、てんかんを自己統御することができる未知の力が存在するように思われる。
しかし精神病理学では、てんかんの改善はできても自己統御する力を説明することはできない。
これらは現代の精神病理学とは異なった次元で起きていると言わざるを得ないようだ。
動物性と反動物性
臨床医の渡辺哲夫氏曰く、人間は精神的直下に動物性を抱え込んでいると云う。
我々の精神は動物性に郷愁の念を抱く。
この関係は『自我』と『エス』の相似形であり、精神性とは、利害損得のみに関心を持つ、計算された企てに堕落した『自我』を指すと思われる。故に動物性は『エス』と言い換えても差し支えないと思われる。
フロイトはエスについて、もともとはすべてがエスだったのであり、自我はエスから発展してきたものだと云った。
自我の発生起源は、所謂、エスからの『家出』だった。
故に精神性(自我)にとって『回帰』とは、動物性(エス)から分裂した際に捨て去ったものである。
郷愁の念を抱きながらも、故郷とは決別を図ったが故に決して帰ることはできない『反動物』的存在なのだ。
自我がエスから独立していく頃、若く力のない自我はエスから贈与された一部を拒絶し、人間の核となる部分(動物性)を引き継ぐことができなかった。
その部分を、自我自身が見限った『不要なもの』だとして正当化している。故に動物性はいびつに『抑圧されたもの』へと転化し、自我の内部でくすぶり続けている。
それは神懸かり、てんかん病の発作として『瞬間の狂気』とともに現れる。
両者には二つの興味深い共通点がある。
一つは、『無為』と呼ばれる受け身状態に陥ること。もう一つは、『直線的時間観念』の消失だ。
彼らは過去、現在、未来という時間の『連続性』を喪失する・・・これは『農耕文明』以降に獲得した、直線上にある歴史が『寸断』され、自我(反動物性)が動物性に飲み込まれている。
この現象に対して、耐えられなくなった自我の安全装置が働き遮断(拒絶)が起こることで主体が消え、無為状態(受け身)に陥る。
動物性とは、農耕文明が生んだ生産労働の歴史によって抑圧された、狩猟採集時代に機能していた心だと言い換えられる。
これは自我が拒絶した(と思い込んでいる)存在である『エス』に内包されているため、自我の視点からすれば私から逃げ去るものとして認識される。
しかし実は、動物性から逃げているのは自我だという事実を歪曲しているに過ぎない。
ベールが剥がれた動物性が支配する世界では、生者も死者も過去も未来も関係なく共存している。
我々はこの事態から逃げ出し、自我は『瞬間の狂気』(動物性)から遠く離れた安全な場所に仮想現実を作り『籠城』することにしたのだ。
巫病の存在理由
渡辺氏は、巫病の存在理由についてこのように述べる。
休戦への告発であり、企てによって企ての領域から脱出すること。
『休戦』とは、生産労働の歴史というもう一つの狂気に服し続けること、つまり故郷(エス)から遠く離れた仮想現実に居座り続けることである。
このあいだに動物性は、自我の積み上げてきた『歴史』を足元から崩壊させる『敵性存在』へと変貌してしまっている。
現在の人間が置かれている状況については、
自閉状態である個別性を生きることが意味深いとされ、自我の有用性が肯定され真の交流が不可能となり、内奥性は隠蔽圧殺されている。
瞬間の狂気は、『自我、意識、言葉』を媒介し、生産労働の歴史を有する『俗世化された狂気』へと改変させられる。
つまり自ら生んだ狂気を、再び狂気で塗り替えようとしているのだ。
我々は、瞬間の狂気(動物性)を我々自身(自我)が封印した、その理由を知らぬまま歴史を歩み続けている。
この時代に、その名残を引き継いだ『巫病』は機能障害として診断、分類され精神病理学という名の『投薬』によって反動物性へと矯正されていくのだ。
巫病は、過去我々が突き当たった問題、そしてそのとき下した決断が、現在まで影響を及ぼしていることを伝えている。
この過程で人類は、『他界』を作り出した・・・
カーと文明の起源
瞬間の狂気、エスは古代エジプトで『カー』と呼ばれていた。
カーは当初、反動物性に堕落してゆく道を選択した自我に、エネルギーを贈与する存在として『訓戒』と表記され信仰されている。
しかし、時代が下るにつれて自我の主体性の確立とともに、カーの訓戒は自我を惑わす忌まわしいものとして弾圧されていく。
異常なかたちで抑圧されたものは幻覚や妄想として必ず回帰し露出してくる。つまり抑圧されたエスから生み出てきた概念がカーだったのだ。
石棺に『安置』されいていたカーを、今度は『幽閉』せざるを得なくなったのだ。
カーの訓戒の『始原』はエスにあり、発生初期は振動を伴う音から始まった。音は自我によって音声から言葉へと『翻訳』される。
その言葉は個人の内観で『幻聴』として響きわたるものだった。
文明形成が始まると、その個人同士が繋がり合い、集団を作り、共同体が形成される。
この過程で幻聴は『共有』されるものとなり、外に出されることになる。
それが巫女やシャーマンが口走る『神託』だ。
神託は書物に『記録』され文字となり、律法が生まれた。
『文字』の誕生によって文明はより強固に、拡大していく『エネルギー』を得るに至る。
文字へと転換していく訓戒の原型は、口承で伝えられてきた先祖の経験則だ。
経験則は、生者の行動を操り、死やタブーを回避するために働く。
つまり死者の声は、現世と不可分の関係にある『身体的電気信号』そのものと言い換えることができる。
その身体的電気信号が『音』に変換され、『言葉』に翻訳されたことで、『命令幻聴』として経験される。
これら歴史を、まさに『巫病』が体現しているのだ。
文明は我々の力で発生、発展してきた訳ではない。
先祖(死者)からの『言葉の贈与』がなければ我々(文明)は存在し得ない。
他界の発生
ところが異常なかたちで形成された自我は、先祖(動物性)をもこの現世から『追放』することになる。
それが『他界観』の発生だ。
生産労働の歴史は、この次元とは別の次元に先祖(動物性)を追放し、人間を自我の所有物に変えてしまったのだ。
それは先祖から贈与された言葉を、自我が収奪して利用し始めた、と云ってもいいかもしれない。
これによって、人間の内奥に宿っていた先祖(動物性)は『死者』と名付けられ、この次元から完全に消え去った存在として認定されることになる。
他界観の喪失と精神分裂病
我々にとっての『故人』とは、彼岸(他界)に沈潜し、沈黙によって現世を支える存在である。
いっぽう精神分裂病者にとっての故人は、今も声として響き渡り、幻覚的、実体的に『現前』する。彼らにとって故人は肉体を持った魂であり、あの世のありさまをまざまざと『告げてくる』のだ。
『死』と『死者』
死者は生者(我々)の心の産物ではない。
しかし死は決して経験することができない。死の観念は生者の記憶、時間感覚に由来しているように思われる。
誰しも生前を知る故人が必ず思い起こされるはずだ。その故人はこれまでの無量無数の先祖の集合体と一塊を形成して、『あの世』から私たちに影響を与える。
ところが精神分裂者にとっての故人は、同じ現世におり、死を迎えていない。
故人の記憶が『目印』となり、そこに他界を見出すことができるならば、この場合、精神分裂者は他界観を喪失している状態を意味する。
生者の心身に、他界抜き、死者抜きの『空洞化』がおこり、生産労働の歴史から孤立した世界に『浮遊』している。
これによって生者は生の方向を喪失し、主体性と言葉を失うのだ。
精神分裂者のなかには、主語(私は・・・)に続く言葉が出てこないケースが見られると云う。
これは、他界の喪失によって自身を説明する言葉の贈与が『停止』していることを意味する。
生産労働の歴史のなかを生きる精神分裂者は、他界を失い、死者の助力を受けることができない事態に陥っているのだと思われる。
そもそも死者の声は個人の内観で経験されるものであり、他者に伝達する必要もなければ、発話するためのものでもない。
故に統合失調症、神懸かり時の『独語』は、自動発音装置の如く、ことばが主体不在の閉鎖回路の中を巡り続け『支離滅裂』となる。
祝詞や吟遊詩人が口走る言葉も同様だ。神託の言葉は、死者の言葉の反復にほかならない。
つまり他界からの言葉の贈与こそが、生産労働の歴史、この現世を構造化する力なのだ。
二分心と巫病
事実、古代文明は例外なく、『死者の言葉』によって維持発展してきた。
アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズは、幻聴幻覚によって文明が形成されていく時代の精神構造を『二分心』と呼んだ。
『二分心』はまさに『巫病』だ。
両者それぞれ死者(神々)の言葉によって突き動かされる。
それを可能にした要因が、反動物的な主体性や意思の『薄弱性』だ。
当時、死者と生者は地続きで繋がっていた。彼らには贈与元である『他界』という場所が、そもそもない。
イリアスの英雄のように、そばに居る神々(死者)の命令が彼らの行動を決定づける。
共同体の大半が統合失調症者であり、現代のような周囲との摩擦要因がないため、そこに反発や抵抗は、なかった。
我々は、他界を象徴する故人によって、固有性(アイデンティティ、出自、ルーツ)を与えられる。我々は自ら主体になるのではなく、他界、死者によって主体にさせられている。
言語で成り立つこの世界の始原、つまり文字の起源は、音声であり、それはかつて古代人に命令を下した神々や死者の言葉に依拠している、という巨大な岩層に突き当たる。
いまからわずか3,000年前まで、現在は『狂気』と分類されるはずの幻聴幻覚によって文明形成が為されてきたのだ。
現在、自我はその事実を堅固に隠蔽し圧殺している。
自我のプログラムエラー
自我は先祖を他界へと追放した代償に発展してきたという事実。
この起因は、『狩猟』から『農耕』への移行とともに『人口の増加』、人々の密接な交流が拡大していったことによる。
狩猟採集時代では機能していた先祖の声(言葉、命令)を正しく受け取ることができなくなっていく。
人口増加とともに先祖の数も増大し、頭の中に響く声に耐えられなくなる事態に陥る。つまり、瞬間の狂気、という現代と同じ問題が立ちはだかる時代があった。
この解決策として、先祖の数を減らすために『他界』を作り出し、死者と命名して現世から切り離した。
次第に死者の声は、生産労働の歴史の中で忘れ去られていき、やがて聴こえなくなっていく。しかし、その声は自我の都合によって『省略』されているだけで人間の内部で共存し続けている。
自我は『過去』と『現在』という時間的距離を、空間的距離だと『錯覚』しているに過ぎない。実は他界と現世は全く同じ場所に重なりあうかたちで存在している。
自我に喪失が起こったとき、その事実が『浸潤』してくるとともに幻聴幻覚として意識上に立ち上る。悪いことに、この事実から目を背けている自我の『プログラムエラー』によって、幻聴幻覚は『狂気』体験として経験されるのだ。
我々は、死者の声による命令システムから決して逃れることはできない。
哲学者伊藤益氏によれば、古(いにしえ)はいまと連続性を持つ過去であり、昔(むかし)はいまと『断絶』した過去であると指摘する。
つまり我々は、『他界』をいまと断絶した『昔』だと認識している。
渡辺氏もこのように云う。。
祖先崇拝と死者の存在がまず信じられ、そのあとに『むかし』と言い換えられた。
分かりやすく少し付け加えるなら、僕はこう言い換えたい。
我々と先祖は『共存』して生活を送っていた。そのあとに先祖は『死者』と名付けられ、他界へと追放された。
縄文時代、墓は集落の中央に置かれていた。しかし、時代とともに村落の近傍へ、そして村境いの向こう側へと疎外されていく。
自我は、先祖を過去に『釘付け』にした上、未来へと『逃亡』を図ったのだ。
しかし、それは精神病理学を生み出した、生産労働の歴史という閉鎖空間でしか通用しない『幻想』だ。
自我の弱い共同体では、死者⇔生者、正気⇔狂気も差別なく許容される。
日常に怪奇が浸透する遠野に残る民間伝承は、『心身異常』とは生産労働の歴史との摩擦に過ぎないのではないかと考えさせられる。
西洋3,000年の歴史は、原初の自己から逃亡し続ける自我の歴史を刻み続けているのだ。
自我の過ち
自我の世界はいびつな発展を繰り返してきたようだ。
問題に突き当たる度、解決ではなく蓋をし見て見ぬふりを選び続けてきたツケ。これによって動物性と反動物性、自我と先祖、神々、他界の関係はこじれにこじれてしまった。
我々は過去から未来へと理路整然とした道を歩んでいる。しかしこの世界線では、間違った道を進んでいても引き返し修正することができないのだ。
その為の羅針盤が『先祖の訓戒』だったはずだ。
数千年前我々は、これまで共に歩み続けていた先祖を他界へと封印せねばならなくなった。
その時下した決断は果たして正しかったのだろうか?
先天性心身異常、それは我々に訓戒者の存在を伝えようとしているのかもしれない。
巫病は、生産労働の歴史によって忘却されてきた本当の歴史が記された『生きたカルテ』である。
精神病理学が巫病を『普遍的な機能障害』だと封印してしまえば、我々は本当の意味で他界を喪失する。
他界を失った自我は、どうやって生きていくつもりなのだろうか。
3,000年前、自我は致命的な過ちを犯してしまったのかもしれない。。
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